不連続的差異論入門:その16

官から民へということについて:郵政民営化問題

NHKの番組で、武部幹事長が、官から民へということを、今度の選挙に関して、強調していた。これは、正にイデオロギーであるが、何がおかしいかを愚直に検証しよう。郵政民営化とは、官から民へというポスト近代主義を、本義的には、意味している。だから、この点では問題ない。近代主義国家主義から、脱近代主義・ポスト近代主義の民営主義へのシフトである。
 私は先に、言語論を展開した。言語とは、差異の分節・弁別化であると述べた。だから、原点は、差異である。これを絶対に忘れてはならない大前提である。つまり、言語は差異の反映・表現として本来あるということである。だから、ある言明・言説・声明・主張等に関しては、常に差異的検証・実証・説明等が要せられるのである。しかし、古泉氏や武部氏は、「官から民へ」ということを言うばかりで、この証明を怠っているのである。これは、非論理的、反論理的なあり方であり、懐疑的にならざるを得ないというのが、正しい反応である。つまり、言葉はあれど、基本・基礎・根本の差異が欠落しているのである。これは、没合理主義、没理性主義、没民主主義、等のあり方である。アカウンタビリティが欠如しているのである。だから、今度の選挙では、必然的に、古泉氏の主張を批判・否定するのが、必当然的である。

p.s. 言い忘れたが、言葉は、自我においては、心にもない事でありうるのである。即ち、自我においては、言葉は、自我中心主義のための言葉であり、自我主義のための観念(イデオロギー)であり、言葉の差異を無視することができるのである。「官から民へ」という言葉は、差異としての説明・検証・証明が必要である。これまで、古泉氏等は、それを怠っているのである。これでは、怪しいと考えるのが、正解である。





フッサール現象学と不連続的差異論:超越論的差異論と志向性

メディア界の差異の連結の感覚・意識と「志向性」について:超越論的感覚・意識論、超越論的感覚論、超越論的身体感覚論、超越論的身体論、超越論的身心論、超越論的感覚識論etc

フッサールの超越論的現象学とは、超越論的身体論ないし超越論的感覚識論、等と呼ぶことができるだろう。そして、直観では、これは、直接、ドゥルーズの差異の哲学と結びつく。フッサール現象学とは、換言すれば、差異論なのである。(ハイデガーは、これを、いわば、神秘主義存在論にしたが、ポイントは、フッサールにおいて即自的差異的主観論を客観論に転化させたことにあるだろう。サルトルも、差異を神秘主義化した側面があるが、しかし、ハイデガーと異なり、即自的差異的主観性の全体指向を強調して、マルクス主義共産主義全体論と結びついたと考えられる。結局、構造主義マルクス主義である。メルロ=ポンティは、推測では、フッサール現象学を、内容的に深化・探求したのであり、理論的進展はなかったと思う。)ドゥルーズは差異を理念(イデア)的に捉えている。つまり、超越論的に見ているということになる。だから、ドゥルーズ哲学は、超越論的差異論と呼ぶのが的確なのである。そして、ここにおいて、ハイデガーの存在的差異論との関係が生じてくるだろう。ハイデガーの存在とは、フッサールの意識の志向性をいわば客体化、客観化したものである。すなわち、フッサール現象学は、即自的主観的であったが、ハイデガー哲学は、超越論的即自的主観性を超越論的即自的客観性に進展させたと思う。この客観論をドゥルーズ哲学は、引き継いでいると考えられる。そして、この超越論的即自的客観論あるいは超越論的存在論とは、換言すれば、構造主義である。そして、これは、全体論であり、社会・政治的には、全体主義に通じるのである。なぜならば、超越論的領域とは、不連続的差異論におけるメディア界であり、連続・同一性(=自我・利己主義)の指向による全体主義性があるからである。
 とまれ、ドゥルーズ哲学は、フッサールの超越論的主観的差異論とハイデガーの超越論的客観的差異(存在)論を引き継いでいることになる。問題は、フッサールにあった志向性という内在的不連続性を、ハイデガードゥルーズは喪失していることである。言い換えると、ハイデガードゥルーズの哲学は、流出論になっており、連続論である。そして、ドゥルーズの場合、ベルクソンの連続的差異の思想をハイデガーに重ねているのである。もっとも、ドゥルーズの場合は、ニーチェによる特異性の不連続論を内包しているのである。ドゥルーズ哲学は、背理である。混同・混乱・混濁・分裂的背理である。
 以上のように考えると、不連続的差異論は、フッサールの言わば、超越論的不連続的差異主観論を、客観論に進展させたと言えるだろう。だから、超越論的不連続的差異客観論、超越論的不連続的差異普遍論である。こう見ると、ハイデガー哲学は、連続論の誤謬があるものの、即自的差異を存在論において客観化したことの意味は巨大である。そして、キルケゴールニーチェであるが、特異性=単独性の哲学を西洋哲学において打ち立てた功績は巨大である。ドゥルーズは、この側面を内包していたが、上述したように折衷的に留まった。結局、フッサールの超越論的不連続的差異主観論、ハイデガーの客観的連続的差異論、キルケゴールニーチェの特異性=単独性の理論を、整合・統一化したのが不連続的差異論と言えるだろう。しかしながら、フッサールの志向性理論とは、デカルトのコギト論の展開でもある。だから、そこには、特異性=単独性の理論も内包されていると見るべきである。つまり、フッサールは、デカルト哲学を創造的に発展させることで、そのまま、キルケゴールニーチェの特異性=単独性の理論を内包したものとなったと言えるだろう。ただし、フッサールは、特異性=単独性のもつ不連続性を強調してはいないのである。だから、フッサール現象学は、キルケゴールニーチェ哲学と並立させることで、その十全な意義が発揮されると考えられる。つまり、フッサール現象学はそれ自体、実存学(実存主義)である。ハイデガードゥルーズは客観論の方向へと巨大に進展したが、連続論に囚われたままであった。
 ここで、デリダレヴィナスの哲学を見ると、デリダ脱構築論とは、キルケゴールニーチェフッサールのもっていた不連続性を、差異論として展開したと言えよう。しかし、差異性を連続性の解体に集中させて、脱構築・解体後の積極的な新構築ができなかったと言えよう。破壊屋に留まったのである。さて、レヴィナスであるが、ここでは全くの推測・予測であるが、「存在とは別の仕方で」というのは、思うに、ハイデガーの連続論を乗り越える意味があると思う。それは、フッサールの志向性を倫理として強調した哲学のように思える。差異の志向性は倫理性をもつのである。しかし、この倫理とは、差異共立の倫理であり、いわゆる道徳とは関係ない。個の倫理である。だから、レヴィナスは、ハイデガー哲学の連続論の倫理的乗り越えであるが、しかし、差異を倫理に限定してしまった極論性があると思う。だから、超越論的不連続的倫理主義になっていると思う。倫理が出たので、スピノザ哲学に言及すると、それは、フッサール現象学の先駆であり、また、不連続的差異論の先駆でもあると言えよう。しかし、ただ、スピノザ哲学は、不連続性が、明瞭ではないことである。神即自然が多元的内包をもつものの、その多元性の元が不連続なのか連続なのかが、不明瞭である。確かに、存在の一義性はあるだろう。しかし、それが、一元論なのか多元論なのか不確定であると考えられるのである。ドゥルーズガタリの『千のプラトー(高原)』は、明瞭に一元論(一神教)を否定して、絶対的多元論を提示している。そう、ドゥルーズガタリとのコラボレーションによって、自身の連続論を突破したとは言えるのであるが、しかしながら、それは、イメージ的、文学的進展であって、理論的には、連続論と不連続論が混在していたのであって、いまだ混濁して、理論的な整合・統一を達成することができなかったのである。
 不連続的差異論の仮説は、西洋哲学、西洋近代/現代哲学、現代自然科学、現代芸術、東洋思想等が探求していた自然の理・ロゴスの理論を完成させたと言えるだろう。





自我とは何か:メディア界と反動

ここで、メディア界を隠蔽する自我について、少し考えたい。私の直観では、捩じるようにして、メディア界の差異を押しやる反動的な自我があるのである。このメカニズムはどのようなものだろうか。もっとも、これについては、以前に何度も触れているが、再確認してみたい。
d1⇔d2⇔・・・⇔dn
この⇔は、±を意味するので、d1ーd2ー・・・ーdnという連続化への指向がある。しかし、これは指向であり、結合ではない。連続化指向である。この力があるが、同時に、ゆりもどす力もある。すなわち、連続化指向に対して、不連続化指向である。つまり、個体は、本来、メディア界と現象界の間をゆらぐのである。しかし、不連続化指向をねじ曲げるように押しやって、連続化指向に固着する自我、自我中心主義が存する。これは、悪、暴力、狂気、権力を帯びる。近代自我とはこのようなものである。このメカニズムは何か。メディア界、差異を押しやるこの反動的自我とは何か。
 メディア界とは感覚・意識の身心領域であり、受動感性の領域でもある。すると、外界の力を直接受ける領域である。つまり、感受性の領域である。ここで、外界の影響に対して、メディア界の受容力が弱い場合、それは、反感、反動性を強く帯びるだろう。その反感、反動の力は、メディア界を排斥するように作用すると考えられる。この反動力が、連続化指向を固着させ、自我を形成すると言えるだろう。つまり、感受性の領域であるメディア界を隠して、反動的に自我という構えを構築するのだろう。だから、メディア界の排斥・隠蔽という自我のスタイルが形成されるのである。これは、反動である自我である。メディア界的なものを、内的であれ、外的であれ、反動的に排斥するのである。自己疎外であり、暴力であり、イジメである。
 ここで、メディア界の感受性が本来豊かな人間の場合、自我のスタイルに染まると、マインド・コントロールで、そのメディア界を排斥・隠蔽する。しかし、そうしても潜在的に活動しているのである。ここで、はっきりと分裂が生じている。精神分裂症(統合失調症)である。メディア界と現象界(自我)との分裂である。この分裂は、つねに、自我へと固着する反復強迫が生じる。反動的自我への衝動があるのである。これは、狂気の一種である。メディア界へ攻撃するのである。(イジメとはこのことであろう。)それは、マインド・コントロールから来ているのである。
 ということで、真正な感受性をもつメディア界を排斥・隠蔽・追放する反動的自我の分析ができた。精神分析では、去勢コンプレックスを、自我形成の契機に見るが、それをここで批判したことになるだろう。そうではなくて、メディア界の頼りなさが、反動的自我を形成するのである。
 これを敷延して言うと、現代の日本人はこの自我様式に染まっているのである。「魂」であるメディア界を排斥・隠蔽・追放しているのである。暴力の社会である。ここでは、音楽、美術、文学等々、芸術の死がある。

p.s.  メディア界を外界の影響を受ける受動的感性の領域と上述したが、実は、メディア界に内在する諸力があるのである。差異の差異への指向(フッサールの志向性)があるのである。これは、また、倫理、他者への倫理性を帯びるのである。だから、メディア界は単に、受動的な感性というのは、一面的であり、そこには、差異共存の積極的な力(倫理、創造性等)があると言わなくてはならない。





日本の選択

森田実氏のすばらしい、力強い、洞察力のある言葉に刺激されて、少し、日本の未来について考えたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003366536.html
 はっきり言って、敵は悪霊と見たほうがいい。この点で容赦してはならない。人間は悪魔族と天使族がいるのだ。確かに、すべての人に仏性はあるだろうが、現実は、悪魔的な我欲が中心であるから、油断禁物である。人生は、戦いである。もっとも、暴力は認めない。平和、平和、平和。
 結局、日本の問題は、アメリカに集約される。アメリカは、実は、第三世界である。一部の人間が潤っているのである。だから、アメリカの庶民と日本の庶民は、共闘できるのである。国家とピープルを混同してはいけない。国家は、ナショナリズムを利用して、国民を支配するのである。また、庶民レベルにおいて、人間はさほど変わらないというのが私の実感である。だから、世界の庶民と共闘できるのである。(私は、スポーツが民族主義となっているのが問題だと思っている。オリンピックとは何ぞや。民族主義的金儲けだろう。国際とは名ばかりだ。) 
 つまり、ナショナリズム、国民/国家主義を利用した政治は否定すべきだということである。古泉政治は、そのようなものである。日本国民がしっかりしないと、おそらく立ち直れなくなる。世界の動きは俊敏である。不連続的差異論は、差異の共立・共存・共生を説く。それは、すべての領域に適用されるべきことである。これが、真正な理念である。これは、地域活性化であり、また、他国民との和解的共創である。差異的共創である。日本丸タイタニックか?





言語とは何か:差異弁別性としての言語と連続・同一性としての虚偽言語

これまで、近代西欧の言語観を検討したが、言語とは何か分析していないので、ここで、検討したい。
 一見、言語は、連続・同一性の形式に見える。カントの超越論的形式に似ているように見える。しかし、実際は異なる。因みに、デリダの誤謬は、言語をロゴスと見て、それを連続・同一性=自我主義とを混同したことである。では、言語とは何だろう。端的に言えば、本来、言語とは、メディア界の感覚・意識を表現する知覚手段である。あるいは、感覚・知覚の観念・概念を表現する記号手段である。すなわち、差異を表現するものである。それは、記号signで、分節化するのである。意味するもの(シニフィアン)で区別するのである。即ち、差異を他の差異から分節的に表現するために、記号signを用いるのである。つまり、言語とは、差異の分節的表現の手段である。差異は他の差異への志向性をもつために、連結・連続性をもち、いわばファジーである。量子論的相補性、両義性をもつのである。しかし、差異を差異としての分節化するが言語である。それにより、差異の知覚・認識化が生起するのである。しかし、注意すべきは、差異を分節化することで、差異のもつ志向性が脱落することである。これを、言語の脱志向性化と呼んでもいいだろう。つまり、同一性化が生じるのである。これを差異・同一性化と呼ぼう。(これは、連続・同一性化と混同されてはならない。)これが意味するものは、明晰化である。これを知性と呼んでいいだろう。すなわち、言語知性が生じるのである。あるいは、差異知性である。結局、言語は記号を用いて、差異を分節化すること、差異を弁別することにある。たとえば、太陽という差異を分節・弁別するとき、「日」という文字を使用する。これは、感覚・意識、即ち、メディア界の感覚・意識(主に視覚・意識)における太陽を分節・弁別するものである。視覚差異分節・弁別化である。これを先に差異同一性化と呼んだが、それは、西田哲学を援用して、差異相互限定と考えていいだろう。この相互限定が差異同一性化、差異個別化である。すると、言語とは、差異の働きの一部と言えるのである。即ち、差異の相互限定的分立性の外在的発現として言語ないし言語記号があるということになる。すなわち、メディア界の差異の相互限定的分立性から言語が発生するということになり、連続・同一性ではなくて、差異の派生物である。ここで、ソシュールの相対的差異としての言語観と比較してみると、ソシュールにおいては、差異は全く相対的なものであり、独立性をもっていない。しかし、不連続的差異論における差異とは独立性と他者への指向性が基本である。だから、絶対的差異性があるのである。ここで、根本的にソシュールの言語観とは異なることがわかる。ソシュールは、いわば、結果から説明しているのである。差異の結果である言語記号の関係から相対的差異を説いているのと考えられるのである。元々は、差異的区別があるのであり、それは絶対的区別である。しかし、その結果の言語記号は、正に恣意的でありうるから、相対的な区別となるしかないのである。
 以上から、言語とは、差異の記号表現であることが判明した。だから、言語を学び、習熟することは、個であること、自由であるために、必須であると言える。しかし、問題は、近代西欧の言語一元主義である。これは、差異を否定した連続・同一性の言語であり、言語本来から見ると不純であり、一種本末転倒である。つまり、差異としての言語が、連続・同一性=自我へと、ねじ曲げられているのである。すなわち、言語の疎外、自己喪失、歪曲があるのである。偽物、シミュラークルとしての言語である。不誠実な、いかがわしい、欺瞞的、詐欺・ペテン的言語である。






ロゴスの受肉と近代西欧的知性

ロゴスは、宇宙の理であり、これが、イエス・キリストとして受肉したと、キリスト教の教父たちは解釈した。そして、西方キリスト教は、フィリオクェ(子とともに)によって、「父」が「子」ともに聖霊を発出すると考えて、父と子の位格を近づけた。そして、近代西欧は、ロゴスを言葉と訳した。ロゴス=理性=子=言葉という近代西欧の図式がある。言葉は、連続・同一性であり、自我形成につながる。すなわち、ロゴス=理性=子=言葉=連続・同一性=自我という図式となる。ここで、ポイントは、ロゴス=理性=言葉である。単なる言葉は、連続・同一性=自我とは結びつかない。しかし、ロゴス=理性=言葉という理念があるとき、言葉は、連続・同一性=自我と結びつく。それは、その場合、言葉が支配的になり、言葉以外の感覚・意識等を劣位に置いたり、排除・排斥したりするからである。何故、そうなるのだろうか。言語による秩序が優先されるから、言語がそれ以外の感覚・意識等を吸収同化する言語一元主義が起こるからである。それでは、言語一元主義と自我とはどう結びつくのだろうか。言語は人間の主体性、能動性、意志に基づくものである。この主体的な能動力と言語は結びつき、さらには、観念・概念力に結びつく。この観念・概念力とは、メディア界の差異の志向性(フッサール)によると考えられる。この志向性が観念・概念力の基礎であろう。すなわち、ノエシス(志向性)→ノエマ(志向されたもの)において、ノエマとして観念・概念力が形成されると言えるだろう。だから、観念・概念は、差異が基礎としてある。つまり、観念・概念は差異、特異性として存するのである。そして、言語とは、観念・概念を連続・同一性化するものと言えるだろう。というか、連続・同一性化しようとするのである。そして、この連続・同一性化行為は、すべて差異をすくい上げることはできない。すなわち、差異と連続・同一性が二重性が存在するのである。そして、先に述べた主体的能動力とは、差異を否定する連続・同一性化行為である。この連続・同一性化行為が自我となるのである。
 まとめると、言語一元主義とは、連続・同一性化行為による自我形成と、観念・概念の連続・同一性化行為をもたらし、両者、差異を否定し、排出・隠蔽すると言えよう。つまり、ここには、不誠実、欺瞞、虚偽があるのである。なぜならば、メディア界に存する差異を否定するからである。自己欺瞞である。自己に内在する差異に盲目に、連続・同一性の自我を形成するからである。もし、差異を感覚・意識するならば、自我は抑制されて、自我中心の横暴、専横、専断、独断、暴力等々を起こさない。なぜならば、差異とは、特異性であり、かつ、差異の共立・共存・共生を志向するからである。つまり、差異とは理性なのである。(これまで、理性は、言語的知性、連続・同一性の知性と混同されてきた。) 
 ということで、近代西欧の言語一元主義が、連続・同一性の自我を形成し、近代自我・合理主義という暴力・支配的知性を生んだことが理解されるのである。そして、ポスト近代西欧主義とは、言語一元主義を解体するものであり、差異を復権させるのである。差異、不連続的差異によって、言語一元主義、連続・同一性の自我主義による近代的構築を脱構築して、差異共立の世界を新創造・新構築するのである。これにより、諸科学はパラダイムの転換となる。差異、不連続的差異に基づく諸科学となる。それは、不連続的差異論的科学となるのである。(ODA ウォッチャーズ氏による不連続的差異論的自然科学の解明を参照されたい。『不連続的差異論ノート』http: //blog.melma.com/00138706/)
また、政治・経済・文化・生活も、パラダイム変換である。新しい地球文明の誕生である。不連続的差異の共立・共存・共生の新地球文明である。西洋文明は終焉したのである。





ロゴスの受肉と西欧的知性

キリスト教の教父たちは、ギリシア哲学をもって、キリスト教を把捉しようとして、ロゴスの受肉という概念を形成した。つまり、イエス・キリストは、ロゴスが人間となったものと考えたのである。ロゴスとは、宇宙の根元の理(ことわり)である。それが、イエスになったということである。思うに、仏陀も、そのような発想がなされているだろう。とまれ、ロゴスは理性とされた。そして、近代西欧において、ロゴスは言葉と翻訳された。すなわち、言葉が中心となったのである。言葉と理性とがいわば一致したのである。言葉とは、何かという問題がある。ここで簡単に言えば、言葉とは、観念、概念的存在であり、それは、抽象形式性をもつ。つまり、カントの超越論的形式に当たると考えられる。これは、連続・同一性を形成する原型・構造であるから、当然、言語は、連続・同一性を形成する。すなわち、自我を形成するのである。しかし、これは、擬制である。差異の代理として、本来、言語は存しているのである。とまれ、ロゴス=言葉の近代西欧とは、自我中心的になる。本来のロゴス=理性を喪失するのである。つまり、近代西欧は、連続・同一性の知識を形成したが、差異の知識、すなわち、真正のロゴスを喪失してしまったと考えられる。
 結局、近代西欧とは、自我合理主義、自我的科学を生み出したのである。これはこれで、意味がある。しかし、これは、自己中心的であり、破壊的である。結局、自我合理主義を脱構築しなくてはならないのである。それは、言語ロゴスではなくて、メディア・ロゴスの復権である。喪失された本来のロゴスの復権である。そして、これは、メディア・ロゴス科学の可能性をもっているのである。メディア・ロゴスとは、メディア界の論理、知である。差異の連結の論理、知である。そして、それは、感覚、身体を内包しているのである。スピノザ哲学が先駆である。

p.s. 自我合理主義、自我的科学に対して、哲学、文学、芸術からは、異議申し立てが、西欧内においてなされてきた。キルケゴールニーチェが顕著であり、また、現象学から始まるポスト・モダンの哲学もそうである。

p.p.s.  ロゴス→言語=連続・同一性=自我→近代主義唯物論的近代科学という図式がある。簡単に言えば、言語=自我=近代知性である。これは、近代科学・技術や近代資本主義の基礎であった。だから、近代西欧とは、近代科学・技術、近代資本主義を形成した意味があるのである。これが、西洋文明の帰結的成果である。しかし、同時に、終末である。脱近代主義、ポスト近代主義が、発動しているのである。西欧ロゴスでなく、メディア・ロゴスが基調となっている。

3p.s. 後で、整理したい。





誰が戦争を起こすのか

今は、簡単に触れますが、戦争を起こすのは、ある程度「知性」のある人間だと思います。庶民は、メディア界の感覚意識がそれなりに生きているために、バランスがあり、共存しようとします。しかるに、ある程度「知的」教育を受けてきた人間は、自我が発達しますので、自己中心的になります。そう、「知性」とは、自我を発達させる傾向があります。そして、そのような人間が、政官財等の上層部につきます。彼らは、利己的な金儲け中心ですから、庶民のことは眼中になく、戦争を起こします。
 知性教育と同時に「理性」教育が必要なのですが、これが、なされていません。理性とはメディア・ロゴスないしメディア界的合理性です。今日、後者が忘失されています。科学・技術教育と同時に、メディア界理性教育を行わなくてはなりませ