不連続的差異論入門:その17

狂信者と自我:メディア界の反動と暴力:平和とは何か

狂信者の精神を分析してみよう。普通の人間のもつ常識的な感覚を欠いているのであるが、この健全な感覚(センス)とは、不連続的差異論から見ると、メディア界に根差している。もっとも、誰にも、メディア界はあるのであるが、狂信者の場合は、これが、特異な結びつきをしていると考えられる。
 自我形成を見てみよう。自我は、メディア界を排出・隠蔽するように形成される。しかし、普通人の場合、メディア界を保持している。つまり、メディア界と自我とのバランスがあるものである。もっとも、今日、自我中心主義(自己中心主義)者が多いので、そうとも言えないが。狂信者の場合、メディア界がなにかに融合しているように見えるのである。直観で言おう。メディア界が自我と融合しているように思えるのである。メディア界は他者とのバランスある関係を構築するのに欠かせないものである。倫理を維持する領域である。差異の共存を指向する。しかし、この領域が自我と融合するとはどういうことなのだろうか。自我は、連続・同一性の個体意識であり、それにメディア界が取り込まれるということでもある。そうすると、この事態は、自我におけるメディア界の排出・隠蔽とは異なるということになるように思えるのだが。
 丁寧に、精緻に考えよう。自我は、メディア界をねじ曲げるようにして、形成されると言った。反感から形成される。では、反感とはどこから発生するのか。それは、外界とメディア界内部から発せられる「苦痛」からだろう。苦痛への反動として反感がある。この反動・反感によって、メディア界のもつ差異共存性は閉じられるのである。そう、スピノザが『エチカ』で説いた「悲しみの感情」から発する反動感情が発生し、肯定・能動的な「喜びの感情」が抑えられるのである。だから、自我とは、メディア界の反動と結びついていると言うべきである。すなわち、メディア界の反動と連続・同一性とが結合して、自我が形成されるということになる。
 さて、ここで、狂信者のことにもどると、その者には、メディア界が自我と融合していると私は述べた。ここで、新たな自我論の視点から見ると、狂信者とは自我の極端な場合と考えられるのである。すなわち、反動となったメディア界と連続・同一性の個体意識の結合である自我ではあるが、反動性が極端な場合が狂信者と考えられるのである。
 そうすると、これまで述べてきたメディア界を排出・隠蔽して自我が形成されるという考え方は、間違っていたということになるのだろうか。ここで整理すると、私が考えているメディア界とは差異の連結の領域であり、差異の共存性をもつのであり、同時に、差異の連続化への指向をもつ領域であるということである。そして、私が、メディア界の排出・隠蔽と言ったことであるが、メディア界を差異の共存性の領域と考えて述べたのである。であるから、メディア界の反動という事態は、先に述べたメディア界の排出・隠蔽と一致すると見ることができるのである。言い換えると、メディア界の反動とは、メディア界をねじ曲げることに通じるのであり、それは、同時に本来の、原初の、純粋なメディア界の排出・隠蔽と考えることができるのである。
 というわけで、狂信者の分析の話から始めたが、結局、それは、スピノザ哲学=倫理学と結びついて、自我論となったのである。そして、メディア界の反動=排出・隠蔽という事態が浮かび上がったのである。これが、暴力性の基盤である。これは、メディア界本来の差異共存性を阻害するものであり、自己と他者に対して、害悪となるのである。自己においては、メディア界本来のもつ能動的積極的な力、創造性が欠落し、退行的になるのである。身心に対する阻害であり、病気につながるだろう。また、他者に対して、その反動力の牙を向けるので、害毒となるのである。
 ここで、最後に、暴力とは何かを考えてみよう。メディア界ないしイデア界から見ると、平和とは、差異の共存、共立、共生である。しかし、メディア界が反動となり、その反動性が中心となって自我が形成されると、きわめて暴力的な人格・性格が形成される。では、なぜ、メディア界の反動が暴力となるのか。そう、連続・同一性自体は、単純な現象界の問題なので、暴力はそれほど問題にならない。つまり、暴力の問題の原点は、メディア界の反動にあると考えられるのである。その理由は、メディア界の感情をネガティブなもの、攻撃的なものにするからだろう。つまり、差異共存的な本来のメディア界の感情を破壊するからである。憎しみ、侮蔑、嫌悪等々のネガティブな感情を投げつけて、他者の差異共存的感情を阻害するからである。つまり、メディア界という実在の世界があり、そこにおいて、反動は差異共存の平和を阻害する暴力となるのである。これは、端的に、害悪、害毒、悪、邪悪であると言える。
 ここで平和論を簡単に付け加えると、平和をもたらすには、メディア界における差異共存の感情、喜びの感情の基調が必要であり、そのための智や方策が必要であるということである。単に経済だけでは、物質・モノ的豊かさだけでは、平和がもたらされない。智慧、叡知が必要なのであるし、そうかと言って、精神的なものだけでいいということでもありえない。メディア界は身心の媒介の世界であるから、精神と物質の相補的基盤があって、平和はもたらされると言えるのである。

p.s. どうして、狂信者や自我主義者は、メディア界肯定者に、反感を抱くのだろうかという問題を解明するのを補足としたい。これは、また、イジメの問題につながるのであるが。ここで、メディア界の排出・隠蔽を問題にしないといけない。思うに、差異共存のメディア界肯定の喜びの感情の強度は、狂信者や自我主義者の反動的精神を解体するようにはたらきかけるのだ。だから、差異共存の平和主義者は、狂信者、自我中心主義者から、反感をもたれて、攻撃されるのである。つまり、後者は前者に、反感や憎悪を感じて、衝動的に攻撃するのである。そう、これは、一種犯罪的行為である。ということで、これは、教育のあり方に関係する。スピノザ的教育論が必要である。





今は、日本亡国の大危機である。

新聞の世論調査では、衆院解散を支持するものが多いが、衆院解散とは、他の人も述べているように、憲政の論理から言って、通らないことである。つまり、首相の個人的な執念で、憲政の論理をねじ曲げて、行った暴政であることを銘記しないといけない。このようなことが、国権において、認められると、首相の独断・専断がいわば公認されて、独裁国家になるということを、最高度に重く見ないといけない。そして、首相の妄念から、「郵政民営化」への反対派に対して、対抗派をすべて立てるなどは、独裁的手法と言わざるをえない。最高度に危険な状況である。
 郵政民営化問題は、長期の問題であり、首相のように焦る必要はないのだ。何を焦っているのか。また、首相の説明は表面、抽象的で、具体的内容が不明である。このようなあいまいな法案は通してはいけない。また、総理大臣として、他の重要な諸案件を放り投げているのは、無責任の極みである。
 当然、今度の選挙では、まともな政治家を選出しないといけない。今は、日本亡国の大危機である。国際政治が、大きく変容している時代であり、これに対応できる有能な政治家を選ばないといけない。パラノイアの無能な首相は要らない。





メディア界の視覚と言語:その2

本件の問題は、きわめて興味深いというか、本質的な事なので、ここで、再論してみたい。
 丁寧に論じよう。

d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn (メディア界)

このメディア界において、d1はd2を志向すると言える。d1/d2の差異である。(/を差異の記号とする)そして、/には、強度が生じる。それは波動と見ていい。わかりやすく言えば、d1が視線で、d2を対象とすればいい。そして、光が/又は⇔の強度である。d1は、d2の視覚像をもつ。これを差異像ないし志向像としよう。これが、メディア界のヴィジョン、内的ヴィジョンである。
 さて、d1とd2は、メディア界で連結し、さらに、これが連続化して、現象化する。即ち、d1ーd2という連続・同一性の現象となる。(ーは連続を表す記号である。)たとえば、d1ーd2を朝顔の花としよう。(本当は、五弁の花なので、d1ーd2ーd3ーd4ーd5と、5個差異を連続化させた方がいいが、ここでは、便宜的に、d1ーd2とする。)内的ヴィジョンは、d1⇔d2を見ている。しかし、現象界では、d1ーd2となり、連続化している。d1ーd2を花と呼ぶが、しかし、内的ヴィジョンにおいて、d1⇔d2ないしd1/d2を捉えた上で、花と呼ぶのである。つまり、d1⇔d2における内的ヴィジョン、差異像、志向像が、本来である。真相である。これを、現象界での視覚は、d1ーd2と連続化させているのだ。たとえば、点描を考えるといい。スーラの絵は、連続的な表象であるが、実は、点の集まりに過ぎないのである。
 ということで、メディア界/現象界の二重のヴィジョンがあるのであり、言語は本来これに対応していると言える。すなわち、言語も、d1⇔d2の内的ヴィジョンの分節化に関わるものであった。差異像、志向像としての言語である。そして、言わば、外延的に現象界の花の指示も内包するようになるのである。そう、内包は、本来、内的ヴィジョン、差異像、志向像であり、外延が、外的ヴィジョン、現象像、連続像である。この二重性(参照:フレーゲ)が言語にあるのである。そして、前者の内包が、観念、概念になったと考えられるのである。ここで、イデアとヴィジョンの語源がもともと同一であることを想起するといいだろう。(ideaは、ギリシアideo見るが語源である。)つまり、観念、イデア、概念(concept)とは、メディア界の内的ヴィジョン、差異像、志向像がオリジナル、原像、直観像となり、生起したと言えるだろう。そして、この内的ヴィジョン、「イデア」が、連続化したのが、現象である。この内的ヴィジョン→連続・現象化の事象を、元々は、言語は表現したのだろう。だから、視覚と言語とは、根源的に、連関していると言えるのである。視覚と並立していたと言えるだろう。だから、先にも述べたが、優れた小説を読むと視覚像が喚起されるのは当然であると言える。内的ヴィジョンが喚起されるのである。そして、逆に、優れた絵画を見ると、言語が喚起されるであろう。なぜなら、絵画の内的ヴィジョンが、直観像となり、観念、イデア、概念を喚起すると言えるからである。(思うに、芸術作品と批評とは、相互作用があると言えよう。)とまれ、ここで、視覚と言語との内在、本質的な関係性を確認できたと言えよう。





メディア界の視覚と言語


メディア界の差異の連結において、差異は差異を「知覚」する。強度波動によるので、視覚像を得るとしよう。すなわち、差異の志向性による視覚像が成立する。そして、この視覚像の分節があり、それを表現する多様な手段があると考えられる。絵文字・象形文字、サイン、シンボル、音声、等々である。すなわち、なんらかの記号表現が為されうる。問題は、メディア界の差異分節と現象界の分節の関係である。思うに、基礎は前者であり、その分節表現を後者に適用するのだ。フロイトは、夢における隠喩と換喩を説いた。夢とはメディア界の視覚像と解釈できる。そして、この視覚像は、強度をもっている。この強度と同質の現象界イメージが隠喩となるのであるし、また、差異との隣接する差異が換喩となるのだろう。即ち、言語の特性は、メディア界の差異のあり方に拠るのである。即ち、メディア界的差異連結性が、現象界的表現を規定するのである。
ところで、ここで、自我について考えると、それは、連続・同一性であり、メディア界を排斥しているのである。メディア界のもつ差異の志向性・強度を排出・隠蔽したものであり、差異の表現の結果である言語の排除的関係性(ソシュール)をもつと言える。AはBではない。二項対立である。メディア界を排斥しているので、不連続性、差異の志向性等のゆらぎは否定される。あれかこれかの絶対的二元論である。これは、メディア界的な発想を否定するのである。Aでもなければ、Bでもないというような中間性のものは否定される。
結局、メディア界に基づく言語とメディア界を否定する言語の2種類があるのである。近代自我・合理主義の言語は後者、非近代主義の言語は前者であると言えよう。二項対立の言語と差異の言語である。暴力の言語と差異共存の言語でもある。
以上から、本来、言語は、メディア界的視覚像から、現象界を表現するものである。しかし、反動・反発・反感により、メディア界が否定され、連続・同一性の自我が主導的になるとき、言語は、現象界的分節のみを表現する二項対立的なものとなる。
さて、両者の関係はどうなるのだろうか。つまり、メディア界的言語と現象界的言語の関係である。後者は、前者を排斥しようとする。なぜなら、前者は、連続・同一性からのズレ、差異を肯定するからであり、後者のアイデンティティを否定するからである。後者は前者を「憎む」のである。これは、キリスト教と異教との関係に近いだろう。前者は善と悪の二元論であり、後者は、多神教で、多元論である。この背理的関係であるが、近代においては、当然、前者が後者に勝利した。しかし、メディア界とは、排斥されても、本来、基礎であるから、潜在・内在しているのである。それは、強度をもっているから、現象界的抑圧に対して、逆襲するのである。それは、いわば、狂気、衝動、暴力となって発動するのである。それは、現象界・自我的構築を破壊・解体するのである。すなわち、自我は病理的となるのである。活力が衰退して、生産・創造性が低下する。





古典の喪失とはなんなのか:日本のマインド・コントロール

日本人がメディア界を喪失しているのは、人文系の古典を読まなくなったことがあるのではないだろうか。古典教養が消えてしまったことによるだろう。この原因は何か。日本人から魂を奪ったのは何か。これは、複雑な問題である。
 角度を変えよう。文学の問題を考えよう。かつては、文学が生活において、意味をもっていた。意味とは、生の強度である。メディア界の力である。つまり、メディア界が賦活されていたのである。たとえば、大江健三郎を考えてみよう。かつて、彼の小説をよく読んだ。しかし、80年代以降は読む気がなくなった。観念的になってしまい、かつての感覚的喚起力がなくなったからだ。なにかが、変わったのだ。日本において、メディア界の強度が失せたのだ。これは、どういうことなのか。あらゆる分野において、強度が失せたのだ。その代わり、自我力が増加した。近代主義的になったのである。すなわち、連続・同一性が中心的になったのである。これは、交換価値が主導的になったということでもあるだろう。そう、日本政治経済は、アメリカの権力に捉えられていった。アメリカの闇が日本を支配するようになった。そう、洗脳・マインドコントロールである。これが、正体であろう。オウム真理教化である。自分の感覚・直観を捨てて、他者を模倣すること。この場合は、アメリカを模倣すること。確かに、これが原因だ。日本人の個を捨てて、アメリカ模倣のマインドコントロールである。(この帰結が古泉だ。)そう、操られるようになったのである。マスコミ操作があるのである。真のヴィジョンが死んで、外的なヴィジョンが支配的になったのだ。そう、テレビの支配がある。これは、受動的な視覚像であり、能動的な、内的な視覚は喪失するのだ。つまり、積極的な、主体的な、個・差異的な視覚が消えるのだ。受け身。自己の内から、ヴィジョンが生まれなくなったのだ。そうだ。メディア界のヴィジョンではなく、連続・同一性の現象界のヴィジョンが支配的になったのだ。つまり、どこか指導層、上層部での、亡魂があるのだ。売国奴性があるのだ。それは、利己主義的人間である。卑しい人間である。卑しい人間が、日本の指導層についたのだ。それで、メディア界が喪失したのだ。この卑しさは、どこから来ているのか。近代日本における卑しさの起源はなにか。それは、天皇制ではないのか。あの表面を装うお上品さが、卑しさの原因ではないのか。つまり、内的本質を無視して、ただ表面だけを飾ること、これが卑しさの原因ではないか。
 とまれ、内的本質の喪失である。日本の内的本質の喪失。それは何か。神仏習合文化が、排仏毀釈で破壊された。ということは、日本の神が死んだのだ。折口信夫は、日本人は宗教的情熱が欠けているとして、新しい神道を希求した。しかし、近代以前は、宗教的情熱はあったと思う。そう、日本の神の死が、決定的だと思う。日本人の内的本質の喪失はそれが原因だと思う。神仏習合文化で、仏教を排斥すれば、当然、神も死ぬのである。ニーチェの言った神の死は、近代日本のことでもあった。そこで、日本人のメディア界は喪失されたと言えよう。内的本質が無くなれば、倫理もなくなるから、利己主義がはびこるのである。自己中心主義となるのである。パラノイアとなるのである。その帰結が古泉である。折口はほぼ正しかったと思う。神の復活が必要である。『死者の書』。それは、新しい神仏習合
だろう。新しい自然信仰だろう。神々の復活。

p.s. 日本人のナショナリズムも、結局、神の死によるだろう。内的本質が空虚だから、ナショナリズムで代償しようとするのだ。しかし、ナショナリズムでは、本当の充足はありえない。なぜなら、本当は、自分の排斥されたメディア界が満たされることを欲しているからである。思うに、三島由紀夫は、反動的だったが、宗教的志向は、確かにもっていた。それは、シャーマニズム的でもある。そう、古泉も結局、神々が閉塞していることから、あの狂気が生まれるのだろう。そう、あのパラノイアは宗教的である。日本の神々が窒息しているのだ。個、コギト、特異性・差異にたち返り、内的本質を涵養すべきなのだ。新しい日本の神々を復活させるべきである。ところで、不連続的差異論は、新しい多神教を示唆している。それは、差異共存という多神教である。それは、差異民主主義を志向する理性的な宗教である。





言語とヴィジョン(メディア界的視覚・直観象)

たとえば、小説を読むと、心的に映像(影像)が喚起される。心象と言ってもいい。通常、想像力と呼ばれるものであるが、これは、現象界の映像(影像)というよりは、メディア界によるそれであると思われる。即ち、この心的ヴィジョン=想像力とは、メディア界の視覚であると考えられるのである。だから、小説(もちろん、すぐれたものである)を読むと、メディア界の視覚が涵養されると言えよう。もっとも、それだけでなく、同時に、メディア界的思考も涵養されるだろう。そして、現象界も、メディア界の視覚・思考で観察するようになるだろう。ここには、言語と心的視覚=想像力との連関がある。この場合、言語がメディア界を刺激したことになる。そう、感覚とは、根源的にメディア界に基盤があると見ることができるだろう。つまり、差異、超越論的差異が基盤、対象である。この差異を、小説は表現し、映像化するのである。つまり、差異的映像の世界が、メディア界にはあるということになるだろう。この差異的映像を小説は表現するのである。
 ここで、美術のことを考えると、それは、やはり、差異的映像を表現するものだろう。現象界は、連続・同一性の映像(仮象)の世界であるが、芸術は、それの原基・基体であるメディア界の差異的映像を表現すると言えるだろう。すると、差異の表現ということで、小説と絵画とが、共通することがわかる。また、音楽もそうだろうし、映画等々もそうだろう。また、哲学も差異を論理的に表現するという点で、やはり、共通性があるだろうし、また自然科学は、差異を数学・数理的に記述するという点で共通性があるだろう。
 ここから見ると、学とは、基本は差異、メディア界であることがことがわかるだろう。そうすると、新しい教育理論が生まれることとなるだろう。それは、差異関係的教育論、メディア界的教育論である。つまり、メディア界に基礎をもち、それを多様に涵養し、表現・記述する教育である。多元連関的教育である。
 最初の言語とヴィジョンの話にもどると、言語とヴィジョンの相互作用、相互形成性があるのではないだろうか。言語からヴィジョンの方向性は述べたが、ヴィジョンから言語への方向性はどうだろうか。視覚は他の感覚よりも差異的なものであると言えるだろう。差異を区別・弁別するものである。だから、視覚は言語観念性を培うだろう。これはどういうことだろうか。言語と視覚との相互関係とは、どういうことだろうか。フッサールは志向性、すなわち、意識の志向性の根源性を説く。これは、差異の差異への指向性のことである。これは、いわば、認識行為に近い。原認識行為と言ってもいい。つまり、差異が差異を知覚・認識する行為として志向性があるということになろう。そして、この認識とは、感覚的認識である。それも、強度的認識である。強度とは、いわば波動であり、「光」である。すると、波動認識、「光」認識が志向性にはあるということになる。つまり、ヴィジョン認識、視覚的認識である。そして、これを、たとえば、詩や小説は言語表現するわけである。感覚像とは、概念像であろう。概念とはconceptで、conceiveが動詞で、原義は、心に描くである。つまり、志向性における視覚認識、感覚像認識を、言語は指向すると言えるだろう。換言すると、直観像を言語は指向、指示するのである。signである。あるいは、de-signである。この直観像=差異を言語sign, de-signは、明確・明晰化すると言えるだろう。即ち、ヴィジョンの差異分化として、言語があり、また、言語を介して、ヴィジョンを喚起することができるのである。ヴィジョンと言語の相互形成作用があるのである。
 以上は仮説であるが、美術だけでなく、他の芸術も、言語の教養が必要である。また、言語も、芸術によってヴィジョンを涵養させる必要がある。また、科学も当然、言語、芸術に触れて、根源的ヴィジョンや差異を喚起する必要があるだろう。
 今日、総合学習が削られそうであるが、この点から、展開できるだろう。






古泉独裁について

古泉は首相であり、また、自民党の党首であるからと言って、造反したものを選挙で公認しないと専断する権利があるのだろうか。対話、議論、討論等が、当然必要である。党首とは言え、民主主義が基本であるから、自民党内部で議論すべきである。独断で決定するのは、民主主義を廃棄するものである。郵政民営化が自分の命であっても、それはそれで、他者と対話するのが民主主義である。自分の専断独断が正義ならば、それは独裁である。ファシズムである。この政治論理を無視する古泉の路線を打破しないと、日本は完全にファシズム国家となる。あの異様さ、不気味さ、狂気以外の何ものでもない。パラノイアである。太平洋戦争は軍部のパラノイアで起こったのである。また、直観では、嶽中にも邪気を感じる。
 とまれ、アメリカの日本支配を破砕しなくてはならない。