不連続的差異論入門:その18

メディア界の反動は、どうして自我に固着するのか

メディア界の反動は、どうして自我に固着するのか。今は、簡単に触れると、メディア界が涵養されていれば、差異共存志向が存する。しかし、メディア界が反動化して、否定的になると、それが、連続・同一性の自己へと固着して、自我となるのだろう。このメディア界の反動とは何かを考察する必要がある。メディア界の反動とは、他者の差異に対して、反動化し、差異の共存感覚を閉ざすことである。すなわち、強度を、差異共存ないし差異連結の強度を、否定する、いわば反強度を形成するのではないだろうか。あるいは、差異の差異への志向性を否定する事態が生じることではないだろうか。志向性を否定する事態とは何か。今は、とにかく、反動強度ないし反動志向性が生じることがメディア界の反動と言おう。それは、共存的強度でなく、敵対的強度である。図式化すれば、

d1+ーd2+ーd3+ー・・・+ーdn (共存性)

         ↓

d1++d2ーーd3++・・・ーーdn (反動化)


このようになるのかもしれない。極性が、反発する向きに変化するということである。この++又はーーが、反発する強度であり、これが、他者への暴力となるのだろう。そして、これに、連続・同一性の作用と結びついて、反動的自我が形成されるわけである。これが、近代西欧米的利己主義、エゴイズム(本当は、エゴティズム)、自己中心主義であろう。そして、現代の日本人の多くもこうなっていると考えられるのである。そして、これが、純粋になると狂信者となると言えよう。パラノイア的自我である。首相がこれであろうし、ブッシュもそうだろう。また、テロリストもそうだろう。新興宗教の信徒もそうだろう。






美術と言葉:美術はどういう言葉を喚起するか

よく美術は感性が重要であると言われます。感性とはあいまいな言葉です。音楽にも音の論理があるように、美術にも、視覚表現の論理があると考えられます。先に、小説の例をあげて、よい小説は、心的映像を喚起すると言いました。そして、これは、メディア界の内的ヴィジョンであると言いました。
 では、すぐれた美術作品、たとえば、絵画に触れると、どういう言語が生まれるのでしょうか。絵画も、内的ヴィジョンの表現です。すると、当然、鑑賞者の知覚に、内的ヴィジョンが喚起されます。すなわち、鑑賞者のメディア界が刺激を受けて、メディア界の差異の連結のヴィジョンが喚起されるのです。では、この差異のヴィジョンは、どういう言語を生むのでしょうか。表面的には、無です。鑑賞者は、絵画に見入って、沈黙します。ならば、発話はないではないかと思われるでしょう。しかし、この沈黙の無の内容が問題です。すなわち、鑑賞者のメディア界において、差異の言語が作動していると考えられます。差異の言語とは、いわば、原言語です。この無言の原言語が発せられていると思います。そう、これは、音楽と言ってもいいと思います。差異の音楽です。思うに、これは、絵画だけではなく、美的な風景に接したときも同様のことが起こると思います。美術、文学、音楽は相互に関係しています。かつて、西洋の芸術では、霊感の発生源として、ミューズ(詩神)に言及されましたが、ミューズとは、メディア界の差異の活動のことだと思います。今日の音楽(ミューズィック)は、ミューズを忘却しています。





叡智と近代:ポストモダンの学としての叡智学

先の考察から、狂信者、自我中心主義者には、メディア界の叡智が欠落していることがわかった。そして、叡智教育が必要であることを述べた。前に考察したように、叡智を西欧近代は喪失したのである。そして、それを創造的に復権・復活させる哲学的営為(スピノザ、カント、フッサールドゥルーズ他)があった。そして、私見では、不連続的差異論は、叡智を理論的に創造・復活させたのである。
 さて、問題をわかりやすく提示すれば、いわゆる近代的二元論、精神と身体、思惟と延長の二元論の問題である。そして、自然科学は、後者を物質と捉えて知識を蓄積したのである。そして、世界大戦や原爆や原発や環境破壊等を生んだのである。いわゆる、西欧「理性」の破綻である。(思うに、理性と知性・悟性の混同があったのである。自然科学・技術の知識とは、理性ではない。それは、知性・悟性に過ぎない。)
 この二元論の欠陥は、精神や思惟を知識に限定しているところにあると考える。スピノザの『エチカ』を見てわかるのは、スピノザの精神は、感情や欲望を含んでいるのであり、いわば、身体と接しているのである。心身性である。これは、実は、人間のメディア界の領域である。しかるに、近代的二元論は、精神のこの側面を切り落として、知識に限定してしまったのであるし、また、身体、延長を物質に限定してしまったのである。そして、教育も分裂しているのである。理科系と文科系というように。これは、近代的二元論的分裂の結果に過ぎないし、誤りである。
 とまれ、この西欧近代的二元論の結果、不連続的差異論で言うメディア界が喪失されたのである。実は、ここに叡智の基礎があるのである。(正確に言えば、叡智の基礎であり、真の叡智は、イデア界にあると言うべきである。プラトンイデアとは、両方指していたと考えられる。また、グノーシス主義とは、この図式を把捉していたと考えられる。ソフィア・叡智を介して、叡智界・イデア界へと帰還するのである。)メディア界を喪失した西欧近代社会は、暴力・破壊的にならざるをえない。植民地主義帝国主義、社会・共産主義、世界大戦・ファシズム等々の超巨大破壊を生んだのである。(西欧近代主義は、西方キリスト教が深く関係していることはこれまで述べた。)近代的二元論の知性では、メディア界は排斥されて、不在となっているものである。しかし、メディア界が内在し、潜在しているのである。その探究が諸分野の天才たちによって、いわば、自発的に為されたのである。そして、哲学においては、いわゆるポスト構造主義が、その継承であったが、理論的な不整合性等によって、頓挫してしまった。結局、不連続的差異論が、この探究の結晶となったと考えられるのである。これにより、喪失されたメディア界、叡智が復権復権して、近代的二元論、近代主義を乗り越えることができたのである。脱近代主義、ポスト近代主義、ポスト西欧主義である。
 とまれ、この結果、叡智(ソフィア)が復活して、理系と文系が統一されることになったのである。理文智、理文学の誕生である。諸科学、諸芸術等は、理文智学(叡智学、ソフィオロジー)において、統合されるのである。当然、政治・経済・社会・生活もそうなるのである。人類進化である。