不連続的差異論入門:その19

メディア界の反動とは何か:差異共存力の否定としての暴力的自我:アメリカと日本とは何か

[ 22:38 ] [ 出アメリカ/ニッポン独立宣言2005 ]

メディア界のイデア極が反動化すると、マイナスの強度が弱化して、現象極(連続極と言ってもいいだろう)のプラスの強度が増大する。しかし、この反動の力はどこにあるのだろうか。つまり、イデア極、差異共存力を否定する力は、どういうものなのだろうか。
 整理して言おう。なんらかの原因で、イデア極の力、差異共存の力、マイナスの強度が弱化されたとしよう。すると、それに反比例して、連続化の強度が増加する。つまり、プラス強度が増大するのだ。このプラス強度は、連続・同一性である個体、すなわち、自我形成へと転化する。差異共存力が、弱化しているので、自我は傍若無人に、自己主張するだろう。つまり、この自我的個体には、他者への共感性が欠落しているから、他者を自我の対象としか見ない。自我の対象とは、自我欲望の対象ということである。対象を占有しようとしたり、攻撃する。これが、いわゆるエゴイズム、自己中心主義である。そして、差異共存力が無化された場合は、自我個体は、狂信者、パラノイア、独裁者等になるだろう。(これは、実際、困ったものである。何を言っても馬耳東風、馬の耳に念仏、我が道を行くである。そして、この狂信者のタイプが今日、社会に多くなっているのだ。手がつけられない。)ということで、これで、反動の力の説明ができたであろう。
 すると、結局、反動の力とは、メディア極性強度の絶対値の枠内で生じると考えられる。例えば、ある個体において、メディア極性強度の絶対値が、10ワットならば、マイナス強度が5ワットならば、プラス強度はプラス5ワットであるし、マイナス強度がゼロワットならば、プラス強度は10ワットである。つまり、後者の場合、自我欲望のために、10ワットの強度を使用するということで、他者のためには、ゼロワットを使用するということではあるが、この場合、他者が必要とするエネルギーを提供しないから、他者へは、暴力を働いていることとなる。思うに、極言すれば、これが、アメリカや先進諸国の経済状況であろう。
 また、問題視すべきは、マイナス強度が欠落する場合、単に欠落するだけではなくて、マイナス強度が反動化しているので、否定・攻撃・反感的感情/欲望が支配的であるということになる。この点をどう分析すべきだろうか。差異共存に否定的な感情・欲望が発生するのであるが、そのシステムは何なのであろうか。マイナス強度をもつ差異共存力は存在していて、本来消滅することはない。しかし、これが、なんらか、制約、抑止、抑圧・排除、排出・隠蔽されることが起こると言えよう。簡単に言えば、差異共存力を否定する力が作用しているということだろう。あるいは、差異を否定する力と言ってもいい。それは何か。差異を否定する力とは連続・同一性の力でしかないだろう。現象界の力である。現象界の他者、他物の力が、自己個体を阻害するのである。そう、思うに、差異共存力が、否定されて、差異否定力に変化するのではないだろうか。マイナス強度が、いわば、マイナス・マイナス強度に変換するのである。これをプラス強度としていいのではないだろうか。たとえば、マイナス強度5ワットが反動化して、プラス強度5ワットとなったとすれば、いいのではないか。この5ワットと現象極の5ワットを足して、プラス10ワットである。差異共存力が否定されて、連続強度へと転換するということであり、この連続強度が、暴力なのだろう。ならば、連続強度とは、暴力以外の何ものでもない。現象とは暴力である。(ここで、この差異否定は、自身に暴力的であろう。なぜなら、自身の差異共存力ないし差異共存指向を否定しているからである。自己阻害・攻撃である。スピノザ的にいえば、自己活動力を衰退させているのだ。)
 では、このような暴力的自我存在が、差異共存力を保持した他者に出会ったときはどうなるのだろうか。他者はマイナス強度をいわば発出している。それは、自我存在の差異否定力に反対する力となるだろう。つまり、自我存在を否定する力・強度は発出していることとなる。つまり、自我存在自身の暴力が、攻撃されて、自我解体の力が生起すると言えよう。だから、自我存在にとて、差異共存力をもった存在はうとましい、不快、嫌悪感を感じるものである。だから、差異共存力をもつ者を攻撃する、苛めるのである。本当は、自我存在の暴力性に問題があるのに、それが、他者へと振り向けられるのである。この反動暴力は、差別、苛め、等々に広く見られることである。自我倒錯と言ってもいい。これは、ユング心理学で言うと、影(シャドウ)の投影に当たろう。
 また、差異共存力をもつ他者だけでなく、自我的他者に対しても当然、攻撃するだろう。なぜならば、他者へと連続・同一性化の指向がはたらくので、他者を自我へと取り込もうとして、占有しようとして、干渉するのである。ルネ・ジラールが述べた模倣欲望とは、この連続・同一性の自我強度のことであろう。つまり、他者にライバルという自我の理想を置いて、それを取り込む、横取りするのである。つまり、ライバルとは、連続・同一性の欲望対象のことだろう。世界を独占したい自我欲望の対象として、優れた対象を嫉妬し、横取りしようとするのである。ここで、D.H.ロレンスの『黙示録論』(ちくま学芸文庫)における、ニーチェ的な、キリスト教への弾劾的攻撃を想起する。自身劣ったキリスト教徒は、優れた者を嫉み、憎み、破壊して、自己栄光化(自己栄達化)を図るのだと。ルサンチマンである。連続・同一性の自我欲望をもつキリスト教への鋭敏な批判である。ここで、さらに想起したのであるが、アメリカが日本を支配したいと思うのは、正にこのようなことではないのだろか。自分より優れた存在をクリスチャンのアメリカ人は断じて認めないのだ。日本がアメリカより優れた国になるのは断じて許さないのだ。だから、日本政府を、籠絡して、日本経済を横取りしてきて、さらには、郵政民営化で、がっぽりいただきということではないだろうか。アメリカにとり、日本はライバルである。貶めなくてならないのだ。骨抜きにして、支配しなくてはならないのだ。これが、自我中心主義のアメリカのルサンチマン欲望ではないだろうか。アメリカの破壊的な自我中心主義的欲望に最大最高に警戒しないといけない。
 以上のようなことが、暴力的倒錯的自我の有り様である。






不連続的差異論の図式の変更

先の検討から、これまでの図式を改めなくてはならなくなった。

イデア界(デュナミス、可能態)
d1/d2/・・・/dn


メディア界(エネルゲイア、活動態)
1)d1⇔d2⇔・・・⇔dn (イデア極:差異強度:ー極)
2)d1〜d2〜・・・〜dn (連結領域:メディア極性強度)
3)d1・d2・・・・・dn (現象極:連続強度:+極)

現象界(エンテレケイア、終局態)
d1ーd2ー・・・ーdn


(なお、d1/d2の/は、差異の境界を、d1⇔d2の⇔は、差異共存性を、d1〜d2の〜は、差異の連結性を、d1・d2の・は、差異の連続指向性を、d1ーd2のーは、連続現象化を意味している。)

と変更したい。±は、混同されやすいので使用しない。ここで、少し説明すると、先に、差異共存性と言ったのは、メディア界の1の箇所(d1⇔・・・ ⇔dn)である。そして、イデア極と現象極は一種バランス関係ないし綱引きの関係にあるように思われる。すなわち、イデア界極が強くなると、現象極は牽引される。しかし、イデア極が弱化すると、現象極が前進する。また、イデア極が強すぎると、現象極は弱化し、逆も、同様である。
 ここで、メディア界の暗黒・反動化と言った事態を考えると、それは、イデア極の弱化ないし無化であるので、現象極が増強するのである。即ち、連続・同一性の自我が発達すると言える。これは、反動的自我であり、暴力的である。
 さて、近代西欧とは、このようなメディア界の暗黒・反動化をもって、連続・同一性の自我を発展させたのである。これは、プロテスタンティズムの指向であると言えよう。これは、こういうことだろう。中世の秩序が崩壊して、社会がカオスとなる。つまり、秩序の連続性が解体して、いわば、メディア界が賦活される。差異が活性化する。これが、イタリア・ルネサンスの原動力であろう。しかし、これは、南の地域のことである。北の地域では、自然の生産力が乏しいので、差異共存への悲観性が強いと考えられる。つまり、メディア界の暗黒・反動性が強いのである。そこへ、中世の解体が起こったのである。メディア界が賦活されるが、それは、イタリアのような差異共存性は乏しいのである。すなわち、メディア界の現象極、連続的強度が強い地域で、メディア界が賦活されたのだから、それは、当然、連続・同一性の方向、反動的な自我の方向に発展すると考えられるのである。これが、プロテスタンティズムだろう。ルネッサンスの差異的強度が、北の地域では、反動の方向となって、連続的強度が強化されたと考えられるのである。そう、カウンター・ルネサンスとしての宗教改革だろう。
 とまれ、以上、メディア界の図式と考え方をより整合的にした。





メディア極性強度:差異的強度と連続的強度

ここで、メディア界における力、強度について簡単にまとめよう。
 差異共存性の可能性が誰にでもあり、また、それはメディア界において、発芽する。つまり、誰でも、イデア界の可能態(デュナミス)である差異共存性が、メディア界において、活動態(エネルゲイア)になる。しかし、外在的な否定的要因によって、メディア界は暗黒・反動化する。このメディア界の反動化が基礎となり、それとともに、連続・同一性の現象化が生起して、自我・利己的個体となるのである。だから、メディア界の暗黒化・反動化の度合いやメディア界の涵養が個人差となるだろう。とりわけ、前者が重要である。この度合いが過度であると、完全に、パラノイア的な異常人格となる。つまり、メディア界におけるイデア面の肯定・否定性の存立が重要である。イデア面の光・闇の割合である。光が強ければ、闇があっても、後に、闇を光へと変容できる可能性がある。しかし、闇が過度であると、光が死滅してしまい、光への変容は不可能に近くなる。そこで、このイデア面の光と闇との度合いを表現するために、メディア界のイデア強度という単位を作ろう。メディア界の極性力=強度と関 係するが、区別される。すなわち、こういうことだろう。メディア界は、いわば、エッシャーの絵のように、差異の共存から差異の連続化へのいわばグラデーションを形成している。だから、共存極と連続極がある。これは、イデア極と現象極である。つまり、メディア界の力、強度とは、この両極に分化するのだ。
イデア極をマイナス、陰とすれば、現象極はプラス、陽である。私が呼ぶメディア界の極性力、すなわち、d1±d2の±とは、このメディア界の両極に分化する強度と関係するだろう。しかし、意味は異なる。メディア界のイデア極/現象極の両極的強度とは、イデア界によるのであり、極性力±とは、このメディア界の強度の様相に過ぎないだろう。だから、d1±d2とd1⇔d2とは区別しないといけない。前者は、メディア界の強度の連続的強度であり、後者は、メディア界の強度の差異的強度である。
 ということで、メディア界の暗黒化・反動化とは、差異的強度が、弱小化することであろう。だから、この弱小化した面で、連続的強度が増大すると考えられる。つまり、差異的強度が弱小化すれば、連続的強度が増大して、連続・同一性の自我が強化されることになる。
 さて、そうならば、ここで、差異的強度と連続的強度が極性をなしていると見ることができるだろう。すなわち、メディア界の強度とは、差異/連続の極性強度である。しかるに、これまで、私が述べてきた極性力とは、連続力の極性力であり、これとは異なるのである。だから、混乱を避けるために、明確な用語にしないといけない。これまで使用した極性力は、連続極性力に変え、そして、新たに、メディア極性強度で、差異/連続の極性強度を表わすものとする。そして、差異的強度をメディア・マイナス強度とし、連続的強度をメディア・プラス強度とする。ODA ウォッチャーズ氏が以前述べた順列エネルギーであるが、それは、メディア極性強度に当たろう。そして、プラスのエネルギーとは、連続的強度であり、マイナスのエネルギーとは、差異的強度となろう。とまれ、これで、メディア界の力の様相は、2×2=4となった。これが、現象界の四元性に通じると思う。
 ここで、因みに古事記を考えると、三神があった。天之御中主神、高御産霊神、神産霊神である。思うに、天之御中主神とは、メディア極性強度で、他の二神は、差異的強度と連続的強度に当たるのではないだろうか。また、ここで、ユダヤ神秘学のカバラの三つの柱を想起する。中間の柱が、メディア極性強度であろう。
 ここで、近代主義について述べると、その自我中心主義とは、差異的強度が弱化して、連続的強度が増加して、そうなったと考えられる。現象化が強化されたのである。この原因は何度も述べたので、ここでは言わない。そして、その帰結はグローバリゼーションである。(もっとも、それは、二様であるが。)これは、ユダヤキリスト教の帰結とも言える。しかし、近代的資本主義は、連続性を破壊して、個体を個、特異性へと還元させる。つまり、差異が剥き出しになるのである。ここから、新たな時代が始まると言える。

注:以上の記事は直前の記事の追伸部分を取り出して、独立させたものである。





メディア界の反動と連続・同一性に関する再考:貧困によるメディア界の暗黒化

先に、メディア界の反動が、(反動的)自我の根拠であると考えた。図式を繰り返すと、

d1++d2ーーd3++・・・++dn (メディア界の反動)

となるが、しかし、この考え方は、このままでは、連続・同一性の自我という考え方と矛盾してしまう。なぜならば、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn (連続・同一性の現象界)

というように考えているからだ。つまり、反動の場合は、差異が対立・敵対するが、連続・同一性である現象は、差異が連続化するのであり、ここには、全く相容れない、矛盾の事態が発生していることになる。だから、このままでは、この点に関する論は、成り立たないこととなる。反動という点を考え直す必要がある。
 メディア界について、丁寧に考えて、再検討しよう。メディア界とは、差異の共存指向があり、また、極性力があり、連続化指向があり、それが、現象界へと転化する。図式化しよう。

d1/d2/d3/・・・/dn イデア
_________________
d1±d2±d3±・・・±dn (又は、
d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn) メディア界
_________________
d1ーd2ーd3ー・・・ーdn 現象界

不連続的差異論の三層性であるが、イデア界をメディア界のイデア面、現象界をメディア界の現象面と見ることもできる。つまり、メディア界は、両極・両面・両義的である。境界をもつと言ってもよい。メディア界の差異の共存指向とは、メディア界のイデア面に拠る。すなわち、d1/d2/・・・/dnの構成に拠る。そして、メディア界の反動と言ったのは、d1±d2±・・・±dnにおいて、±が、++、ーーになる時である。どうも、この考え方を否定しないといけないようだ。メディア界の反動とは、d1/d2/d3/・・・/dnという差異共存指向への反動でなくてはいけないから、この側面を否定することである。だから、++、ーーという考え方は、反動を表わすには不適当であろう。なぜなら、++、ーーとは、すぐに、±にもどるからである。差異共存指向を否定する力学を考えなくてはならない。イデア界における1/4回転、90度回転によって、メディア界が生起する。これは、イデア界の力(虚力)による。では、このメディア界において、反動をもたらす力とは何であろうかということになる。
 ここで、作業仮説(仮構)してみよう。イデア界とはデュナミス(可能態)であり、メディア界がエネルゲイア(活動態)である。そして、メディア界には、イデア面があり(つまり、イデア界と接しているということ)、それは、本来、賦活されるのであろう。しかし、なんらかの事態によって、イデア面が賦活されないとしよう。つまり、差異共存の可能性はあるが、それが、賦活されずに、潜在性のままに留まっている。あるいは、死蔵されているとしよう。すると、どういうことになるのかと言うと、イデア面の無感覚な、差異の連結性(d1⇔d2⇔・・・⇔dn)が形成されるということであり、それから、連続・同一性化して、現象界・自我が形成されるということになる。簡単に言えば、他者への共感性の欠落した、冷酷無残・酷薄陰惨な人格となるということである。私がメディア界の反動と言ったのは、実は、このことではないのだろうか。結果としては、反動であるが、実際は、メディア界における不活性化ではないのか。今、そのように理解把捉したい。このような人格は、凶悪凶猛狂暴凶暴等となる。殺人を平気で犯すだろう。私が自我に見るのは、極端にすれば、そのようなものである。たとえば、ブッシュや小泉に見るのはそのようなものである。もともと、他者への共感性が欠如している人格である。ということで、先に述べたメディア界の反動という考え方をここで否定して、メディア界の不活性化という概念を提起したい。
 では、これは、どうして生起するかと言えば、幼児小児の成長過程で、メディア界を活性・賦活化する外界の力を得なかったことに拠るのではと思われる。差異共存の力、共感の力に触れなかったのである。ここで、フィクションであるが、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を想起する。異常犯罪を犯す犯罪者には、成長過程における共感的慈愛力が欠落していると思うのである。異常犯罪者の場合は、極端であるが、結局、この共感的慈愛力の欠乏は、冷酷な人格、エゴイズム、そしてパラノイアを生むだろう。この共感的慈愛力とは、本来は、イデア界の力・虚力によるだろう。そして、これは、即自・内在・自発的なものではないのか。しかし、ここでは、卒たく同時的な内在且つ外在、即自且つ対自的なあり方が必要なのだと思う。だから、他者の共感的慈愛力が必要である。簡単に言えば、他者の喜びの感情から、メディア界が活性化・賦活化されるのだ。
 では、喜びの感情とは元々はどこから来るのか。もし、対自的ならば、その他者はどこからそれを得たのかとなり、もし、即自的ならば、どうして、異常犯罪者となるのかということになる。仮説しよう。元々は、即自的に喜びの感情がある。しかし、何らかの外在的原因で、この即自的歓喜の情が、不活性化されると考えよう。暗化されるのである。差異共存の感情が否定されて、いわば、イデア界性、イデア面が死滅するのである。
 さらに展開すると、では、この否定は元々はどこから来るのか。それは、貧しさから、心が暗くなるのである。暗化である。暗黒化である。メディア界の暗黒化である。これが、否定の根因ではないか。(これを敷延すると、ユダヤキリスト教の発生の起因はここにあるのではないかと思う。)貧困によるメディア界の不活性化・暗黒化が、否定の起因だと思う。
 ということで、議論が、かなり曲折したが、結局、まとめると、メディア界の反動が基礎にあるという考えは誤りで、貧困、貧しさによるメディア界の不活性化・暗黒化が根因で、そこから反動化が生起するのであり、その結果、自我中心主義、パラノイア、異常犯罪等が生まれるということになる。因みに、私は、二つの思考として、北の思考と南の思考に分けて、前者は、自然が厳しく、利己主義的であり、後者は、自然に恵まれて、差異共存的であると言った。本記事の結論は、この二つの思考の説の根拠となるだろう。

p.s. かなり混乱しているので、後で整理したいが、今簡単にまとめると、差異共存性の可能性が誰にでもあり、また、それはメディア界において、発芽する。つまり、誰でも、イデア界の可能態(デュナミス)である差異共存性が、メディア界において、活動態(エネルゲイア)になる。しかし、外在的な否定的要因によって、メディア界は暗黒・反動化する。このメディア界の反動化が基礎となり、それとともに、連続・同一性の現象化が生起して、自我・利己的個体となるのである。だから、メディア界の暗黒化・反動化の度合いやメディア界の涵養が個人差となるだろう。とりわけ、前者が重要である。この度合いが過度であると、完全に、パラノイア的な異常人格となる。つまり、メディア界におけるイデア面の肯定・否定性の存立が重要である。イデア面の光・闇の割合である。光が強ければ、闇があっても、後に、闇を光へと変容できる可能性がある。しかし、闇が過度であると、光が死滅してしまい、光への変容は不可能に近くなる。そこで、このイデア面の光と闇との度合いを表現するために、メディア界のイデア強度という単位を作ろう。メディア界の極性力=強度と関係するが、区別される。すなわち、こういうことだろう。メディア界は、いわば、エッシャーの絵のように、差異の共存から差異の連続化へのいわばグラデーションを形成している。だから、共存極と連続極がある。これは、イデア極と現象極である。つまり、メディア界の力、強度とは、この両極に分化するのだ。
イデア極をマイナス、陰とすれば、現象極はプラス、陽である。私が呼ぶメディア界の極性力、すなわち、d1±d2の±とは、このメディア界の両極に分化する強度と関係するだろう。しかし、意味は異なる。メディア界のイデア極/現象極の両極的強度とは、イデア界によるのであり、極性力 ±とは、このメディア界の強度の様相に過ぎないだろう。だから、d1±d2とd1⇔d2とは区別しないといけない。前者は、メディア界の強度の連続的強度であり、後者は、メディア界の強度の差異的強度である。
 ということで、メディア界の暗黒化・反動化とは、差異的強度が、弱小化することであろう。だから、この弱小化した面で、連続的強度が増大すると考えられる。つまり、差異的強度が弱小化すれば、連続的強度が増大して、連続・同一性の自我が強化されることになる。
 さて、そうならば、ここで、差異的強度と連続的強度が極性をなしていると見ることができるだろう。すなわち、メディア界の強度とは、差異/連続の極性強度である。しかるに、これまで、私が述べてきた極性力とは、連続力の極性力であり、これとは異なるのである。だから、混乱を避けるために、明確な用語にしないといけない。これまで使用した極性力は、連続極性力に変え、そして、新たに、メディア極性強度で、差異/連続の極性強度を表わすものとする。そして、差異的強度をメディア・マイナス強度とし、連続的強度をメディア・プラス強度とする。ODA ウォッチャーズ氏が以前述べた順列エネルギーであるが、それは、メディア極性強度に当たろう。そして、プラスのエネルギーとは、連続的強度であり、マイナスのエネルギーとは、差異的強度となろう。とまれ、これで、メディア界の力の様相は、2×2=4となった。これが、現象界の四元性に通じると思う。
 ここで、因みに古事記を考えると、三神があった。天之御中主神、高御産霊神、神産霊神である。思うに、天之御中主神とは、メディア極性強度で、他の二神は、差異的強度と連続的強度に当たるのではないだろうか。また、ここで、ユダヤ神秘学のカバラの三つの柱を想起する。中間の柱が、メディア極性強度であろう。
 ここで、近代主義について述べると、その自我中心主義とは、差異的強度が弱化して、連続的強度が増加して、そうなったと考えられる。現象化が強化されたのである。この原因は何度も述べたので、ここでは言わない。そして、その帰結はグローバリゼーションである。(もっとも、それは、二様であるが。)これは、ユダヤキリスト教の帰結とも言える。しかし、近代的資本主義は、連続性を破壊して、個体を個、特異性へと還元させる。つまり、差異が剥き出しになるのである。ここから、新たな時代が始まると言える。





プロテスタンティズムー反動的自我ー資本主義

キリスト教は反動的自我と、異教は差異共存的個と結びつくのだろう。では、なぜ、キリスト教はそうなるのか。これは、西方キリスト教で考えるべきである。とりわけ、プロテスタンティズムである。これは、史的に考えるべきだろう。それは、簡単に言えば、中世的枠組からの解放を求める個人主義の信仰だろう。この個人主義は、ラテン的な異教性の個とは異なる。つまり、その個人主義とは、極端に言えば、シュティルナーの唯一者のような個人主義であろう。自己絶対、つまり、自我中心主義である。この個人は、差異とは対立する反動的自我だと考えられる。ということで、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズムが、反動的自我を形成した、ないし、それと結びつくと言えよう。
 そして、このような背景をもっている近代西欧米とは、資本主義を発達させて、悪魔的な文明を生んだと言えるだろう。自我中心的資本主義、これは、民主主義をイデオロギーとして、世界を食い物にすると言えよう。とりわけ、アメリカ国家ーグローバル資本主義である。




参考
プロテスタンティズム Protestantism

16 世紀の宗教改革にはじまり,そこから発展・分化したキリスト教の一群を包括する名称。ローマ・カトリック教会東方正教会とならぶ,キリスト教の三つの大きな流れの一つ。 〈プロテスタント主義〉とも訳される。日本で慣用されている訳語〈新教〉は正しくない。プロテスタントの名称は,1529 年 4 月,ドイツのシュパイヤーで開かれた国会 (シュパイヤー国会 ) で,宗教改革の側に立つ少数派の諸侯と都市が,多数派のカトリック側の皇帝に対してみずからの立場を〈公に表明して抗議〉 (ラテン語のプロテスタティオ protestatio 元来は法律用語) したことに由来し,のちに自称として用いられるようになった。英語では 17 世紀の半ばから用いられはじめ, 19 世紀にシュライエルマハーをはじめとするドイツの神学者たちがプロテスタンティズムの本質について研究し,思想的・神学的概念として確立した。しかしキリスト教の一群を総称する客観的概念として盛んに用いられるようになったのは, 20 世紀に入ってからである。

 現在使われている意味でのプロテスタンティズムは,信仰,教義ないし思想,共同体の性格などの諸点において多様なキリスト教現象を含んでいるため厳密に規定することは難しいが,その起源と基本的性格とは,ドイツのルターによって開始され,スイスのツウィングリ,フランスのカルバンらによって強力に推進された宗教改革運動に発するものである。それゆえこの概念は特にローマ・カトリック教会との対比を強く含意している。この起源におけるプロテスタンティズムの基本的な立場は,人間の善い行為 (功績) によらない,恩恵としての〈信仰のみによる〉救いを説く〈信仰義認〉,教権や伝統でなく〈聖書のみ〉を規範的権威と認める聖書原理,信ずる各人が直接神の前に立つという〈万人祭司主義〉の 3 点を特徴とする。これらの点で〈福音的〉あるいは〈福音主義的〉キリスト教とも呼ばれる。礼拝は説教を中心とし,典礼は極度に簡素化され,サクラメントは洗礼と聖餐の二つに限られる。ローマ・カトリック教会がサクラメンタル (秘跡的) な宗教類型に属するのに対して, プロテスタンティズムは〈神の言 (ことば) 〉としての聖書とその説教を中心とする預言者的な類型に属する。

 ローマ・カトリック教会教皇を頂点とする聖職制度によって民族や国家を超える統一体として機能するのに対して,プロテスタンティズムは,発祥地,指導者などによって個別に分化して発展した宗教改革諸運動を含むので,当初から統一的体制をもたない。 ルター派教会はドイツで政治的支配と結びついた領邦教会として発展し,北欧諸国に広まった。カルバンらの改革派教会はスイスからフランス,スコットランド,オランダに広まった。イギリスでは宗教改革が政治的な事情によって行われたので,そこに成立したアングリカン・チャーチ (英国国教会) は,原則としてプロテスタンティズムに加えられるものの,その自意識は希薄である。それゆえルター派教会と改革派教会とが,ローマ・カトリック教会から分離した分派であるが教会としての形態を有するプロテスタンティズムの正統派ないし主流を形成している。しかしプロテスタンティズムの特徴は独立の分派集団をたえず生み出すことにある。宗教改革時代の神秘主義的,熱狂主義的,心霊主義的諸運動は現代のプロテスタンティズム諸派の多くのものの原流をなしている。 バプティスト会衆派教会 ,メソディスト , クエーカーなどの現代有力な教派は,歴史的起源においても思想的背景においても宗教改革諸運動と近代思想との交渉の中から複合的な要因によって成立した。さらにアメリカ合衆国においては以上の諸派が隆盛になるとともに, プロテスタンティズムの周辺現象も著しい。

 プロテスタンティズムは西洋近代の成立と発展とに歩みを同じくしているので,近代世界と深い関係をもったことは当然である。近代資本主義成立にかかわるプロテスタンティズムとくにカルビニズムないしピューリタニズムの倫理の役割を強調したM.ウェーバーの《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》は有名である。また神の前に立つ良心的人格の確立は,近代の個人主義的傾向に大きな影響を及ぼしている。ドイツ観念論実存主義はその例である。しかし数次にわたる大戦を経験し,ニヒリズムの浸透した現代においてプロテスタンティズムが意義をもちうるためには,みずからのうちにある分裂主義的傾向を克服し,多様の一致 (エキュメニズム) において普遍性を回復するとともに,あらゆる不義と圧制と罪とを排撃する本来の預言者的使命を発揮することが求められている。この意味で 20 世紀の K.バルト,E.ブルンナー, P.ティリヒらの神学者の業績は記憶さるべきである。

水垣 渉

プロテスタンティズムの職業観]

 宗教改革は,ルネサンスと異なって,たんなる学問,思想,文芸上の変革にとどまらず,深く一般民衆の日常生活のありかたにまで影響を及ぼした。それが最もはっきり現れたのは,世俗的な職業についての考え方の変化である。中世のカトリック教会秩序のなかでは,聖職者が一般の俗人信徒とは別個の身分を形成しており,俗世を離れてひたすら信仰生活に専念する修道士にせよ,俗人信徒の救霊の任務をゆだねられた教区の司祭にせよ,聖職者のみが真の意味で神の〈召命〉を受け,神に直接奉仕する人間とみなされていた。しかし,ルターの唱えた〈万人祭司〉の原理は,このような狭い意味での〈召命〉観を根本から変化せしめ,上は君侯から下は手工業者や農民にいたるまで,あらゆる身分の人間が,社会におけるそれぞれの仕事ないし職業労働を通じて,聖職者と同様直接神に奉仕するものと考えられるようになった。どのような賤しい業 (わざ) でも,それがまことの信仰と隣人愛において行われるならば,神の御意 (みこころ) にかなう〈善き業〉であり,その点ですべての業の間に本質的な差別はない,とルターは説いたのである。

 カルビニズムは,この新しい職業・召命観をさらに発展せしめ,信徒はおのおの,自己がそこにおいて神に〈召され〉た職業を通じて,〈神の栄光〉を地上にあらわし,終末のときに完成される神の御業のため積極的に奉仕すべきことを,とりわけ強調するにいたった。このように,現世におけるすべての勤労が神の摂理と直接に結びつけられ,宗教的に意味づけられたことは,職業倫理のかたちで信徒の日常生活を,魂の救いに向けて照準し,道徳的にきびしく律するという結果を生んだ。中世では瞑想的な修道生活とほとんど等置されていた〈禁欲〉が,今や勤労生活の良心的な自己規制そのものへと拡大解釈され, M.ウェーバーが《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》などの著作で指摘するごとく,信仰に基礎づけられた一種の合理主義的エートスを発展させることとなる。 再洗礼派をはじめとするプロテスタントの諸分派の中でも,このような禁欲主義は強調され,世俗労働の成果を通じてまことの信仰を確証しつつ,生活全体の〈聖化〉を目ざす努力がみられた。このように,プロテスタンティズムは,西欧キリスト教会における職業労働の積極的評価をうながし,経済社会の意味における近代的な市民社会の形成に,生活意識の面で,大いに貢献するところがあったのである。 ⇒カトリシズム

成瀬 治」


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 プロテスタンティズムのりんりとしほんしゅぎのせいしん Die protestantische Ethik und der “Geist” des Kapitalismus

M. ウェーバー の,ある意味では彼を代表するほどの有名な論文。 1905 年,彼が W.ゾンバルトとともに編集する雑誌《 Archiv f‰r Sozialwissenschaft und Sozialpolitik 》に公表され,その後直ちにゾンバルト,L.ブレンターノ, F.ラッハファール,E.トレルチなど多くの学者の間に激しい論争が生じた。ウェーバーは 19 年末ころからこの論文の大量加筆に着手し,《宗教社会学論集》第 1 巻 (1920) に掲載された。この論文は彼が 40 歳のときに書いたものであるが,数年の闘病生活の後の最初の画期的な学問的創造の作品となった。提起された問題の画期的な新しさや意義の重要性は,単にウェーバーのその後の全学問的業績の中核的地位を占めている点にみられるばかりでなく,その後の社会科学や広く思想,文化に関連する学問諸領域に深大な影響を及ぼした点においても現れている。日本においてはとくにその影響は,大塚久雄の経済史学の業績をはじめ,丸山真男の思想史学,川島武宜法社会学等々と,その射程の大きさ,深さ,独自性を現している。アメリカではT.パーソンズを介して影響が社会学アメリカ的形態の形成に導かれていったが,その影響の流れと比較するとき,日本におけるウェーバー受容が,ウェーバーのこの論文に示された方法と精神のいっそう深い継承であったことが知られよう。

 この論文の新しい問題提起は,ヨーロッパ近代文化の全体を貫通する基本的特徴,つまり近代の政治,経済,法,倫理,芸術,社会生活,宗教等のあらゆる文化領域を貫通しその特徴となっているものを,世界史上唯一無二の独自性をもつ〈合理主義〉にみて,その検証を,近代資本主義の特殊に合理的な精神構造 (エートス) とプロテスタンティズムの合理的エートスとの歴史的関連の問題として解明した点に現れた。 〈エートス Ethos〉という用語は,1919 年の論文の改訂のときに,ウェーバーが数ヵ所新たに挿入したり,〈倫理〉を〈エートス〉に書き替えたりしたもので,宗教倫理 (プロテスタンティズムの〈倫理〉) に深く由来しつつ近代の資本主義の経営,生産,労働の特殊な精神的傾向 (=エートス) として形成されたもので,きわめて重要な概念である。この論文でウェーバーは,ある意味でマルクスの《資本論》の世界に対応し対抗しうる一つの学問的方法世界を切り開いたといえよう。日本のみならず,すでに国際的にマルクスウェーバーの関連が重要な研究関心の一つとなっているのは当然のことである。

 この論文の英訳はパーソンズによって 30 年に出たが,日本では梶山力によって 38 年に訳された。第 2 次大戦後大塚久雄がこれに加筆して共訳として岩波文庫から出版されたが (上巻 1955,下巻 1962),梶山の名訳によって戦前の日本の学問と思想に計り知れぬ巨大な影響をこの論文は及ぼすことができた。

内田 芳明」


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