不連続的差異論入門:その20

反感・反動の力とは何か:陽の共感性と陰の共感性

先に、メディア界に、共感性/交差点/欲望感情の三層性を考えた。そして、反感は、交差点で生じるとした。しかし、反感は暴力性をもつのであるから、その力がどこから生じるのか見ないといけない。私は欲望感情と反感が結びついて、反感暴力が生じると感じた。例えば、空腹、渇望的空腹感を感じたとしよう。飢えと言ってもいい。そして、他者がおいしいものを食べているが、全く分けてくれないとしょう。このとき、当然、反感、憎悪、侮蔑等々の感情が生じて、さらには、盗もうとしたりするだろうし、強奪しようとするかもしれない。
 ここで、思うに、以上以外に反応の仕方があるだろう。憎しみを感じずに、居ないときを見計らって、盗もうとするかもしれない。一種智慧である。では、反感が生じるのかどうかの違いの原因は何だろう。もし、共感性が暗黒化していた場合は、確かに反感が生じるだろう。この問題はこれでいいだろう。
 ここで、再び、共感性と反感の領域の問題を考えたい。先には、共感性と反感の領域を別々にした。ここで、喜びの感情を陽の共感性とし、悲しみの感情を陰の共感性としよう。共感性が暗黒化した者は、当然、陰の共感性をもつ。陰の共感性とは何だろうか。思うに、それが、冷酷無残、酷薄残忍等の感情ではないのか。そして、これらの陰惨な感情と欲望好悪感情が結びついて、反感的暴力が生じると言えるだろう。そうならば、先の考察は、廃棄しないといけない。とまれ、陰陽の共感性があり、それと通常の欲望感情があるということである。 
 では、欲望感情とは何だろう。これは、連続・同一性の力であるが、それは、メディア界の力の現象化に関係する。ところで、それは、イデア界の力と直接接するのであろうか。ここで、差異と差異との関係をどう見るかによって決まるだろう。メディア界において、差異は差異を志向する。しかし、ここには、差異共存性がある。そして、また、同時に、差異連続化指向がある。つまり、相矛盾した指向がここにはあるのである。(ここで、D.H.ロレンスが男女の関係を「星の均衡」が理想的と言ったのを想起する。そう、これは真正のエロティシズムだ。これは、官能主義ではない。)しかし、連続化指向があるとは言え、それは、連続そのものではなく、基本は差異と差異との共存的志向性である。ドゥルーズガタリの言った離接(分離しつつ、接しているということ)に相当する状態である。ということで、このメディア界の力・強度は、倫理/欲望とでも言う状態ではないだろうか。これは、正に差異共存性に相応しい状態であろう。そして、この強度は、イデア界の力の表現であるが、直接イデア界の力に接してはいないだろう。だから、反動的強度は、イデア界の力の表現であっても、直接的表現ではないことになる。





メディア界的資本主義について:免疫系の視点:自然/社会共存共生組織生命体

ここでは、メディア界的資本主義がどのようなものであるか、免疫系の視点から、簡単に見取り図を提示したい。
 さて、先に、現在のグローバル資本主義が超癌的システムであると考えた。これは、反動的利己主義的資本主義であり、健全な社会を維持するメディア界を破壊するものである。健全な社会とは、差異共存社会であり、それは、社会を生命体するならば、血液である資本/貨幣が、健全に循環する生命体でなくてはならない。しかし、超癌システムとは、この血液である資本を一部の組織に集中させて、他の多くの組織に行き渡らせないのである。これでは、組織体は壊死する。だから、差異共存社会を構築する必要があるのである。そのためには、差異共存資本が必要であると考えられる。そして、差異共存資本を管理する差異共存組織体が必要である。差異共存資本は、差異共存社会の維持、発展のために、多元的でバランスの取れた形で、使用されることとなる。農林水産業は、自然/都市との調和を保持できるように維持発展されなくてはならなく、低利子ないし無利子の融資が必要であるし、また、高度な社会を維持するための理論・技術のための教育への差異共存資本が必要であり、また、年金、福祉等々への配慮が必要である。
 とにかく、差異共存組織体を構築することが必要、必然である。自然/社会共存共生組織生命体として、メディア界的資本主義を形成することになる。

p.s. 後で、さらに説明したい。

p.p.s.  差異共存資本とは、メディア界資本とも言える。これは、理性資本とも言える。差異理性資本でもある。あるいは、フッサールの用語を用いれば、生活世界資本(生活界資本)である。差異理性、メディア界、生活世界とともにある資本である。これは、上述したように、差異共存組織体とともにあると言えよう。差異共存理性によって運営される社会生命体である。さらに正確に言えば、差異共存共創理性による自然社会生命体である。
 ここで、郵貯等について言えば、その資本は、反動的連続的資本主義によるのではなくて、差異共存共創理性による政策によって新構築されて、管理経営されるべきものである。差異理性をもつ政治家を選ぶべきである。それは、絶対にK氏ではない。差異理性によって、日本を再構築する政治家を選出しないといけない。





超癌資本主義システムから差異共存メディア界的資本主義へ

これまでの考察検討から、近代西欧主義とは、メディア界の差異共存性がネガティブであることによる反動性と、連続・同一性の結合した自我主義であると言える。つまり、ここには、利己主義が主導的であり、差異共存主義がないのである。だから、自由主義的な資本主義で、戦争であれ、「民主主義」であれ、何であれ、利用して、金儲けをするシステムをもったとしても不思議ではない。これを、北の思考と私は呼んだが。とまれ、これは、他者、社会、自然を破壊する人類自滅システムと言わざるをえない。利己的自壊主義である。癌的である。 
 さて、このようなシステムの帰結として、グローバル資本主義があるのだが(実は、これは両義的である)、この超癌システムの代替・オルタナティブなプランを考えたい。先に触れたメディア界的資本主義である。超癌システムは、いわば共食いシステムである。これを、共生システムに変える必要があるというか、必然性がある。
 先に、資本の連続性を批判した。反動自我主義は、権力的に同一化・ファシズム化するのである。これを解体しないといけないのである。今ならば、ウォール街/永田町ファシズムである。これは、理性の基盤であるメディア界を排斥しているから、狂気の一種である。結局、メディア界が生きている理性的民衆他と共闘すべきである。そう、メディア界的市民衆がいるのである。彼らは、いわば、差異的連衆であり、共闘的である。個としての生き方をもっているのである。そして、政治家にも、メディア界的人間がいる。だから、メディア界的共闘が可能であり、近代主義ファシズムを乗り越えるべくレジスタンス共闘を行うことができるのである。 
 とまれ、理論的問題にもどると、資本の反動的連続・同一性化を解体しないといけない。たとえば、民主党の新政府プランは、政官財の癒着等を断ち切る意義があり、高く評価できる。故泉/猛中の「郵政民営化」や「構造改革」は、はっきり言って、イデオロギーである。彼らは傀儡に過ぎず、日本を決定的にアメリカのマネー工場にする手先である。金の卵の養鶏場化である。だから、あらゆる領域、分野で、脱連続主義のプランと行為が必要である。これが、結局、私の考えるメディア界的資本主義をもたらすだろう。とりわけて、政財官という中心部での脱連続化は、決定的な意味をもつだろう。もし、総選挙で、コイズミ一派が勝利すると日本は、完全にアメリカの奴隷国家となるだろう。
 結局、メディア界的資本主義とは、資本の差異化である。そして、グローバル資本主義は、二重であり、ファンド資本のような超癌的連続・同一性主義とホリエモンのような差異的メディア界主義がある。後者と連結すべきである。資本の差異メディア界化を目指すべきである。そのためには、個、差異、特異性であることが必要である。ここから、メディア界的資本主義は立ち上がるであろう。





差異共存性への反動のシステムとは何か

先に検討したが、いまだ、不明な点がある。メディア界の差異共存性が否定されて、その反動が、自我を形成するメカニズムである。そう、感情の問題である。感情とは何かである。それは、差異と
差異との関係、差異の指向性に発するものではないか。差異の強度がある。差異と差異の関係の力である。これが、反動化するとはどういうことか。差異共存的感情は、喜びの感情である。それは、
差異1⇔差異2の⇔である。では、悲しみの感情とはどうなるのか。それは、差異1vs差異2である。では、vsとはどういうことだろうか。取り消したが、先に、差異1++差異2という図式を考えた。とりあえず、これを活かして考えよう。では、連続・同一性とは何か。それは、差異1・差異2ないし差異1ー差異2である。(あるいは、差異1=差異2でいいのかもしれない)
 ところで、反感とは共感の反動であろうか。共感の裏返しなのだろうか。違うのではないだろうか。共感性は共感性として存している。それに対して、外部ないし内部から不快な現象が生じて、反感を感じるのだ。それは、共感性とは別個の領域で感じるものだと思う。では、それはどこか。それは、思うに、差異の連続・同一性化における欲望感情領域から発するのではないか。図式化しよう。

差異1⇔差異2 (⇔が共感性)

差異1・差異2 (・が連続欲望・感情)

この・の領域において、反感が生じるのではないか。・の連続性を阻害するものに対して、反感するのだろう。つまり、現象極で生起する。すると、共感性はどうなるのか。連続欲望とは、連続・同一性の欲望である。そして、この欲望感情に反感と快感があるのだろう。そして、この欲望感情である反感と、差異共存感情である共感の関係はどうなるのだろうか。そう、反感は共感を押し遣るのである。反感の力が、共感の力を押し遣るのである。これが、私が述べてきた、排出・隠蔽行為である。だから、感情とは言っても、共感と反感は質・レベルが異なるのである。「愛」と「憎しみ」は、異質なものである。結局、この反感が反動性である。それは、現象極、連続化の力、現象化の力によるのである。
 ここでは、問題が複雑である。共感性の有り様と連続欲望の有り様、つまり、イデア極と現象極の関係の問題がここにある。個人的な差異があるだろう。たとえば、イデア極である差異共存性が賦活されていない場合、先に述べたが、暗黒化されていた場合、連続欲望感情の反感は強大なものとなるだろう。なぜならば、イデア極、差異共存性の力が欠如しているからである。これが、私が呼ぶ反動暴力的自我の発生を意味するだろう。すなわち、メディア界のイデア極である差異共存性が暗黒化されていて、不活性化されている。わかりやすく言えば、無感情、冷酷・酷薄、陰惨・無惨である。そして、これと、メディア界の現象極における連続欲望感情の反感が結びついて、悪魔的な冷酷無残な自我が生じると言えるだろう。これは、優れた他者に怨恨を抱き、暴力的となるのである。ルサンチマン的人間である。
 どうやら、これで、何年も、私を悩ましてきた問題がこれで解決できそうである。結局、メディア界の両極性の力学である。一種、弁証法と思えるかもしれないが、しかし、それは、誤りだ。なぜならば、両極の差異、質的差異があるからだ。弁証法は、両極を同質なものとしているのである。
 とまれ、差異共存性のイデア極と差異連続志向性の現象極の二重性の関係が、反動暴力的自我の形成に関係していたのである。そして、イデア極における「光」と「闇」の二重性と、現象極の連続欲望・感情の二重性との、組み合わせが問題だったのである。

p.s.  以上では、反感を連続欲望感情のレベルにあると考え、また、差異共存性の暗黒化における無感情・冷酷さを述べた。しかし、後者も反感ではないか。ここは、ほんとうに、微妙なところだ。どうも、二つではなくて、三つに分けないといけないのかもしれない。一つは共感領域・レベルであり、一つは反動感情領域・レベルであり、一つは、連続欲望好悪感情領域・レベルではないだろうか。そう、二番目の反動感情領域・レベルは、第一と第三の接点領域だろう。二つが接するところに発生すると思う。だから、上述の内容を少し、訂正しないといけない。共感性の暗黒化と連続欲望好悪感情との接点が、反動感情領域であり、先に述べた反感は、ここに位置させないといけない。
 ここで、少し補足すると、通常、共感性が生きていれば、反感をもっても、共感性の力で、それを制御しうるのである。しかるに、共感性が暗黒化していると、恒常的に接点が反感状態になっているのであるから、連続欲望好悪感情が刺激されると、暴力化すると言えるのではないだろうか。ここで、刺激されるとはどういうことだろうか。つまり、外界から、共感的力が入ってきたときのことだろう。いわば、共感波動があるのである。共感波動を受容すると、反感・反動的自我、反感・反動的連続欲望感情・自我は、自身の反感・反動力に抗する力(共感波動)を受けるので、強い反感、嫌悪、憎悪を覚え、敵対、敵愾心を抱き、攻撃衝動に駆られるのである。
 ということで、メディア界を三層に分けて考えることにしたい。つまり、差異共存ー差異連結ー差異連続化というメディア界の元々の構成に相応するように、共感性ー交差点ー欲望感情という三層性を考えられるということだろう。交差点に、反感が発生するのであるが、共感性が暗黒化している場合、これが、ルサンチマンになると言えよう。





フッサールの生活世界とメディア界と近代西欧主義

フッサールの生活世界(私は、生活界と呼びたいが)とは、不連続的差異論から見たら、メディア界に当たるのではないだろうか。差異共存と差異連結と差異連続化の領域が生活世界ではないだろうか。そして、近代主義は、差異共存性を排出・隠蔽して、反動的連続・同一性である近代自我・合理主義を形成したということであり、それは、生活世界を排除しているということになるだろう。これはどういうことだろうか。生活世界の否定から近代主義が成り立っているということになるだろう。生活世界を自然的社会・経済世界とするならば、近代主義は、人間の基盤を破壊していることになるだろう。そう、これは鬼っ子である。癌である。人間と自然との差異共存性という自然界のあり方を否定しているのである。これは、もともとは、ユダヤキリスト教から発してるのだが。そう、生活世界・メディア界を否定する近代西欧主義は、究極の悪魔主義であり、人類・自然の癌であり、地球を破壊するだろう。





経済のメディア界化とは何か:ユートピア物語

メディア界は、差異共存志向と差異連続志向の両面をもっている。前者を社会とし、後者を個とすると、社会と個とのバランスを志向する領域がメディア界であると言えよう。
 ここで、経済を考えよう。現在のグローバル資本主義は、自我中心主義であるから、メディア界が排出されて、現象界・自我中心主義である。つまり、ここでは、連続志向が過剰になっているのである。それは、反動的暴力をもっている。だから、戦争、犯罪、不正が主導的になる。反メディア界的経済である。これは、反動経済であり、破壊へと向かっている。フロイトが言った死の欲動があてはまる経済である。(死の欲動とは、反動暴力性のことである。)問題は、メディア界を復権させることだと思う。生産ー資本(マネー)ー消費で考えると、資本が連続・同一性化されていることが問題だろう。それは、自我主義的資本である。ここには、メディア界がもつ差異共存志向がないから、反民主主義であり、社会は破壊されるのである。だから、資本をメディア界化すべきなのである。すなわち、現在の反動的連続・同一性・自我中心主義的資本主義から、メディア界的資本主義へと転換すべきではないかと思われる。反動的連続化とは、たとえば、政官財の癒着である。これを断ち切らないといけない。連続的資本からメディア界的資本ないし不連続的資本への転換である。
 では、資本のメディア界化とはなんだろうか。それは、また、金融のメディア界化でもあるだろう。たとえば、銀行のメディア界化である。それは、個志向であり、差異共存志向ということになる。そう、利子の問題に関係するだろう。(以前、地域通貨関係で、この点、いろいろ考えたものだが。)差異共存主義のためには、利子を相手に応じて変動させないといけないということではないか。即差異的利子率論である。個人の差異は優遇されるべく法律化するのである。これは、もはや自由主義経済ではない。大企業への利子率は大きく設定するのである。また、第一次産業に関しては、利子は、マイナスでいいのではないか。農業経営をするため、1000万円借りたら、マイナス利子で、年マイナス1%で、990万となる。また、トヨタのような別格的に、稼いでいる企業には、この即差異金融資金を供給させることを義務づける。即差異金融・資本法である。





ポスト・ユダヤキリスト教的西洋文明、他

1)ポスト一神教ユダヤキリスト教の発生構造について:メディア界の差異共存領域(イデア極・イデア面)の暗黒化・反動化において、連続・同一性の個体性と結びついて発生した超越主義的(超越論的ではないことに、要注意)な自我中心的宗教。イスラム教は、基礎が、差異であるから、全く異なる。ユダヤキリスト教文明の歴史的意義は、近代主義であろう。自然科学・技術と資本主義の形成であり、人類を、差別的ではあるものの、結合したことにあるだろう。しかし、二元論・二項対立的な知であるので、主体と客体との深刻な分裂性をもっていて、現在、人類や自然を絶滅の危機に陥らせている。理念的には、ユダヤキリスト教文明は、終焉している。不連続的差異論は、真の統一的な理念・理論を提示している。それは、ユダヤキリスト教的西洋文明の内在的分裂性を克服したものと考えることができ、新しい世界文明の可能性が開けている。
2) メディア界が、身心界であり、差異共存領域であるイデア極とは、感情領域であり、また、身体領域であろう。そして、差異連続化領域は、知覚・認識(知性)領域だろう。
3) 差異共存経済:自我ではなくて、個吾(個)が主体となる。個吾は、自我ではない。個吾の吾とは、我・自我ではない。差異的な知的主体性である。この個吾主体による差異共存経済が考えられるだろう。





個として生きる:吾思う:自我的連続主義と個吾的脱連続主義

自我的存在は、とりわけて、反動的自我存在は、メディア界(わかりやすく言えば、メディア界は「心」、「魂」、倫理性と言えますが、理論的には誤りです。メディア界は、差異の連結領域で、ずっと複雑で、多元的で、差異共存的です。)を否定・反動・暗黒化させています。ある意味で、傷ついていると言ってもいいかもしれまえせん。ルサンチマン(怨恨)が占めているでしょう。被害者意識が強いのです。自分はこんなに傷ついている。悪は許せないという独断・専断的な志向があります。自分の被害感情が、絶対となっているのです。というか、被害感情から発した怨恨志向が基本にあります。その否定・反動的な感情と、連続・同一性の自我が結合して、反動的自我が生まれるのでしょう。すると、当然、自己中心主義であり、また、独善性をもちます。(参照:靖国支持)そして、メディア界の差異共存性へ敵対します。これは、差異共存的感覚・意識への反動として、怨恨感情・意識としての自我があるのですから、当然です。つまり、人間・社会にとって、光であるべきメディア界(「精神」、「魂」、「心」等)が、闇になっているからです。このいわば、「心の闇」をもった人たち、反動的自我たちは、権力志向です。なぜならば、自身に反動的暴力欲望があるからです。他者を破壊して、他者のものを奪うことを快感にする自我欲望があるからです。権力が生き甲斐です。。そして、このような者たちが、世界の政治を支配しています。D.H.ロレンスは、『黙示録論』でキリスト教のもつ権力渇望を弾劾、批判しましたが、実は、これは、キリスト教だけにあてはまるのではなくて、「心の闇」をもつ自己中心主義者一般にあてはまることです。つまり、キリスト教的原型が普遍的にあるのです。それを、ニーチェは、『道徳の系譜』で鮮烈にえぐり出しています。すなわち、ルサンチマン的道徳的人間です。これが、真の悪です。そして、善とは、差異共存志向のことです。差異を肯定し、差異との共存を志向することです。とまれ、このルサンチマン的道徳的人間は、独断・独善(自己正義)・専断・欺瞞・偽善・虚偽的な存在です。パフォーマンス人間で、詐欺・ペテン的であります。食わせ者であります。本来の善が喪失しているので、理由を造り出して、あるいは、独断衝動的に、暴力を平気で行います。
 では、ニーチェがえぐり出したこのルサンチマン的道徳的人間の基礎とは何でしょうか。どうして、差異共存志向の人間と異なることになったのでしょうか。元々は、人間の資質は共通だと思いますが、どうして、この対照的な相違が生まれたのでしょうか。シェイクスピアの『リア王』で、リア王が、誠実で善良な末娘を勘当し、また、二人の娘の美辞麗句に騙され、王国を譲って、冷たい仕打ちにあった後の場面で、どうして、同じ自然は、これらの娘たちのような対照的な人間を生んだのであろうかというような疑問が発せられる場面を想起します。(シェイクスピアは近代の初期にあり、近代的自我の現象を冷徹に見つめていました。)確かに、この2つタイプは、人間存在の対照性を表わします。
 この理由・原因を考察してみましょう。というか、これは既述しています。すなわち、幼児・小児における差異共存的領域に対して、共感的慈愛力が与えられなかったことが、根源的反動の原因だと考えられます。先に、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を例証しました。両親からの慈愛の欠如が、差異共存性を阻害し、それを暗黒・闇化し、反動・ルサンチマン化するのだと思います。原点には、共通して、普遍的に、差異共存志向の素質があります。しかし、それを発展させるか、破壊するかは、「教養」や智慧を含めた親の力、そして、社会・文化・経済・政治的環境にかかっていると言えるでしょう。そして、慈愛の欠落の起源は、貧困、貧しさにあると私は言いました。現在、古泉ファシズムに悩まされていますが、結局、その元凶は、貧困、貧しさですし、心の闇です。





不連続的差異論について

次の文章は、次の論文の草稿の第一章を抜き出したものです。なお、完成稿は別にありますが、都合上、草稿を掲載しました。なお、注は省略しました。読みにくい点があると思いますが、ご了承ください。

論文:「叡智学とD.H.ロレンス:不連続的差異論とイデア界」

 
第一節:不連続的差異論について

この理論1は、ジル・ドゥルーズの差異の哲学を、その不整合性を除いて発展させたものである。この不整合性に関しては、樫村晴香氏が適確に指摘している。2 それは、簡単に言えば、ニーチェ哲学のもつ不連続的な差異、特異性、単独性と、ハイデガー哲学の連続的な、即自的な差異とを、ドゥルーズは混同しているのであり、そこでドゥルーズ哲学は齟齬を来しているというものである。つまり、不連続的な差異と連続的な差異とをドゥルーズは混同していて、その差異の哲学は不整合的になっているというものであり、これは十分に説得力のある洞察である。この点に関して、本稿では詳論する紙幅はないので割愛するが、それを踏まえて、筆者なりに樫村氏のドゥルーズ哲学批判の批判を提示して、本節を進めたい。以下、坂元氏と筆者の対話から生まれたその批判を提示しよう。

数学の立脚点は、完全な整合性です。所論の『強度』についてですが、数学的には、『ベクトル』のスカラー量として表現できるのでは、と思います。そして、ドルーズなどが考えている「指向性」の概念は、方向性、矢印で表現されます。この矢印が、実際に、空間に存在しているように思うのが、微分の考え方であり、連続の概念です。ところが、それが大いに疑問である。この点を無批判に受容することが出来ない、のではないか、というのが前提です。この矢印は、便宜上の概念である、と考えるのです。また、粒としての『差異』と、『層』としての差異、重層化、を考えると、そこに、見る方角、視点において、『ウェイト』が付いてきます。カラーと言っても良いと思います。現代物理学の『場』の理論ですが、電磁波の説明に良く使われますが、この『方向性と質量(ウェイト)』の面で、非常に曖昧で、これを誤魔化すために、便宜上、『場』という概念を考案しているように思うのです。この点で、整合性に問題が有ります。例えば、エネルギーについて、実体が無い、と言いながら、伝播する、大きさがある、と表現しています。確率論も同じです。アインシュタインは、単に、時空を切り離せない、ということを示しただけで、空間と時間の等価性を示しているようには、思えません。空間が不連続であることの、一つの表現が、方向性・指向であり、もう一つの表現が、『強度』『ウェイト』ではないか、と考えています。3

上記の坂元氏へのコメントに対する筆者の考察を次に提示する。

1) スカラー量・・・強度
2) 指向性・・・方向性・矢印、微分・連続
3) 粒としての差異と、層としての差異
4) 方向性と質量
5) 空間の不連続性・・・方向性・指向と強度・ウェイト

 ここで整理しよう。不連続の点ないし特異点としての空間(原空間と呼ぼう)ないし時空間を考えよう。差異=微分の場合は、原空間が連続体であるということだろう。それに対して、原空間が不連続であるとは、点ないし特異点の集合ということだろう。ここで、差異という言葉を使用してもいいが、それは、差異=点ないし特異点である。この差異のある種偶然の連結によって、異化=現象化が起こると言えよう。つまり、差異の連結によって、方向性・指向と強度・ウェイトが規定されてこよう。つまり、原空間・理念(イデア)的なものから、現象・物質的な存在へと異化=外化していく過程がここにはあるだろう。
坂元氏が、ここで物理学の問題点を指摘していた。理念的な点が実際のエネルギーやウェイト等をもつことの矛盾。しかし、この問題はハイデガードゥルーズの差異・異化で説明できるのではないだろうか。つまり、原空間の差異・点・特異点は、強度・力によって始動して、いわば自ら裏返しになるようにして、表面に現象を形成していき、自らは、見えなくなるのである。つまり、自己隠蔽としての差異・点・強度があると言えよう。そう、このように考えられるならば、プラトンハイデガードゥルーズは、ほぼ同一の事態を対象にしていたことになろう。つまり、現象世界、物質世界の発生・形成である。とまれ、ここで、不連続原空間ないし不連続原時空間における、差異・点の連動・連結による物質の生成・発生・創造が考えられた。
 では、私の樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判への批判にもどるとどうなるだろうか。連続/不連続の観点から見ると、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は、ドゥルーズの差異が連続的であることであり、ニーチェの強度とは、不連続的であるということであり、両者を結合するドゥルーズ哲学は、根本的に間違っているということである。
このような観点からすれば、樫村氏の批判は全く正しい。ドゥルーズの差異=微分の考えに問題があるように思える。正しくは、差異=点・特異点とすべきである。
そして、ニーチェという差異とは、点・特異点がある種剥き出しになっている存在と見ることができようか。通常、差異=点の連結によって、現象化が起こる。このとき、途中で偶然的にある種の微分が形成されて、それが積分されるということも考えられよう。しかし、このいわば中間微分は、元々は存在しなかったものである。これにより、ウェイトとか色とか物質化=積分が生じると考えてみよう。つまり、これは、原点から見ると、偽装・シュミラクラのようなものである。まぁ、ここまでいいとしよう。では、ニーチェの差異=特異性はどうなのだろうか。思うに、この中間微分=偽装をニーチェという存在・思想は、認めないということであろう。つまり、原点の点の集合、不連続な点の集合を表現して、中間微分の偽装を否定してしまうのだろう。これがニーチェ(哲学)の特異点であろう。これが、不連続的強度というものであり、原点、原空間、原時空の不連続的強度を表現しているということだろう。このような特異な強度を、樫村氏はニーチェに見たのであろう。すると、ドゥルーズ哲学は、差異=微分の連続論と差異=特異性の不連続論を混同していることになり、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は正しいこととなる。しかしである。ドゥルーズの記述には、後者の要素が多くあるのである。つまり、ドゥルーズの差異の哲学とは、多元的不連続特異論の側面があり、それを微分=連続論で表現しているところがあるのである。
つまり、たとえば、ドゥルーズの生成変化論とは、不連続的生成変化のことである。しかし、微分=連続的な表現をしているので、混乱しているのである。つまり、こういうことであろう。確かに、現象形成・生成には、中間微分のような擬態が生じて、それが、基体のように取られてしまう。しかし、表現には、別様があるのであり、それが、不連続的表現である。不連続的特異表現である。整理すると、表現・発現・現象化は二通りあるということで、一つは、差異=微分=連続的な擬態・偽装的表現・様態であり、一つは、差異=特異点=不連続的な表現・様態である。ドゥルーズは、これを、樫村氏が指摘するように混同しているのである。しかし、ドゥルーズ哲学の主眼点は、後者にあり、それを適切・適確に表現できずに、前者の表現(プラトンハイデガー)を用いてしまったと言えるだろう。
だから、私としては、ドゥルーズ哲学の主旨を鑑みて、差異=不連続=特異性的多元的表現を取りたいと思う。そして、前者の差異=微分=連続的表現はそれを覆うもの、偽装するものとして見るべきである。そして、実際のところ、『千のプラトー』(ドゥルーズガタリ)には、この区別がなされているのである。
 ということで、暫定的にまとめると、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は、ある意味で正鵠を射ているのであるが、しかし、ドゥルーズ哲学の主旨を十分把握していないと言えるのではないだろうか。確かに、ドゥルーズ哲学の混乱した表現の問題を指摘しているのであり、それは見事であるが、それは一面であり、もう一面のドゥルーズ哲学の主旨を十分くみ取ってはいなく、風呂水とともに赤子を捨ててしまっているということではないだろうか。4

以上、コンテクストを知らないとわかりにくいかもしれないが、要点は、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は一面では適確であり、その問題点を見事に抉り出しているが、他面ではドゥルーズ哲学の主旨つまり不連続的な差異の哲学の構想を看過しているということである。以下、筆者の考察を続ける。

 ドゥルーズ(以下、D)哲学の問題の一つは、不連続的差異と不連続的個の関係にあるように考えている。樫村氏のD哲学批判は、Dがニーチェの強度とハイデガーの差異を混同していることである。つまり、坂元氏の見解に即すと、不連続性と連続性の問題となり、Dはこれを混同していたこととなる。確かに、ニーチェの不連続的差異をも微分=差異の連続性でDは捉えていたであろう。ここで整理すると、
1)ニーチェ的な不連続的差異の存在
2)ハイデガー的連続的差異=微分
の二通りのあり方があり、これをDは混同したということである。
私は、それを認めたが、しかし、Dの主旨は、1)であり、そのように差異哲学を取るべきであること、そして、不連続的差異という本源界と、差異の連結としての連続である現象界という2元論が述べた。これが、最初の私見である。(A)
 しかし、さらに私は、本源界と現象界との交通・交感が、共感性によってなされるだろうと述べた。(B)
また、不連続的差異と対応する現象界の不連続的差異つまり不連続的個のことに言及した。(C)
(A),(B) はそれほど問題がないだろう。(C)が問題である。これは、ある意味で、1)と2)との混合である。(まぁ、これを手品と樫村氏は批判したのであるが。)
私は、これを微分=連続性ではなくて、本源界の不連続的差異の、現象界におけるパラレルと見られないかということを考えている。これは、ハイデガーの差異=存在=微分論の問題ではない。不連続的差異と個の問題である。ドゥルーズは、前者を前個体と呼んでいた。つまり、前個体から個体となるのであるが、それは、差異=微分ではないではないだろうか。つまり、差異=微分とは、一般性の発生形式であろうから。そうではなくて、Dは、個体(個)の発生を問題にしていたのである。つまり、特異性である。特異的個体の問題である。単独性の問題である。(つまり、敷延すれば、ニーチェの問題である。)特異的個体(特異個としよう)ないし単独性の問題である。(特異個=単独性としよう。)つまり、こういうことである。前個体的領域からの、特異個=単独性の発生の問題をDは追究していたと考えられるのである。これは、差異=微分=連続性の問題ではない。現象界における不連続性の問題である。そして、不連続的な特異個=単独性は、本源界において、前個体性をもっているとDは考えたのである。そして、この前個体性とは、実は、本源界における不連続的な差異のことではないだろうかというのが私見である。あるいは、本源界における不連続的な差異とその強度である。そうならば、Dは、まったく、ハイデガー存在論ではなくて、ニーチェ的な不連続的差異の強度等の問題を考えていたと言えよう。つまり、本源界における不連続的差異とは、現象界におけるパラレルとして特異個=単独性をもつということをDは説いているのではないだろうかということである。これは、樫村氏が述べたニーチェ的強度の問題と関係するだろう。つまり、Dの差異論とは、ニーチェ的強度の問題を、本源界/現象界において、展開したものだと言えるのではないだろうか。つまり、もはや、差異=微分は問題にならない。つまり、本源界の不連続的差異の、現象界における発現(パラレル)としての不連続的特異個=単独性をDは説いていたのではないかということである。ある意味で、ハイデガーニーチェを結合したのである。樫村氏はこれが不可能な結合であると批判したのであるが。確かに、差異=微分を説いたことはDの間違いであったが、しかし、主旨は、プラトンハイデガー的な本源界/現象界の存在論的領域に、ニーチェの不連続的強度・単独性の問題を入れて、結合するということではないだろうか。結局、不連続的差異と不連続的特異個=単独性とのパラレルの哲学の創造である。私の両界媒体の共感説を入れると、不連続的差異/不連続的特異個=単独性は、共感性ないし身体的共感性によって、交通・交感するということであり、不連続の連続が形成されるのである。そして、これは、たとえば、ニーチェに発現した事態であろうし、多くの天才的な創造者が表現したことであろう。一種神秘主義的形態である。つまり、マクロコスモス/ミクロコスモスであるからだ。しかし、これは不連続的連続であるから、相違する。今、想起するのは、キリスト教聖霊の問題である。共感性とは、聖霊とパラレルではないだろうか。不連続的差異を「父」と、不連続的特異個=単独性を「子」して、両者をつなぐ共感性を「聖霊」とすると形式は類似するのである。しかし、キリスト教は、ロゴス主義であり、同一性や連続性としてしまったわけであり、プラトンイデアと同一であろう。だから、ニーチェドゥルーズ哲学の進化的意義があるだろう。そして、これは、確かに、スピノザ哲学の一種不連続的連続論と通じるようである。
 上記のことであるが、もっと精緻に検討されなくてはならない。今のままでは、トリックに堕しているのかもしれないからである。ところで、今は、一点だけ、補足しておきたい。坂元氏との対話から、差異=微分という連続論は、不連続的差異論からすれば、成立しないということとなった。そして、差異の連結による現象化を考えるとき、差異の連結によって、いわば疑似的差異=微分が形成されて、そして、それが異化(積分化)=現象化されると考えられた。私見では、この異化は、この個体現象化は、個体=一般性ではないかというものである。つまり、分かりやすく言えば、名詞である。ケーキと言ったとき、それは、個体=一般性としてのケーキであり、このケーキ、あのケーキではない。つまり、疑似的差異=微分からの異化=現象化=物質化とは、一般的形式における物質化のことではないのかということである。だから、この場合の物質化された「ケーキ」は、まだ、特異個体、単独性、特定個体とはなっていない、一般的個体に過ぎないのではないだろうかということである。あるいは、「杉の木」が成育・現象するとしよう。このとき、疑似的差異=微分→異化=現象化を通して、「杉の木」が生成する。しかし、この「杉の木」は、特定の(特異な、単独の)杉の木ではなくて、一般形式の杉の木ではないかということである。つまり、疑似的差異=微分による現象化とは、一般形式的個体現象の記述であり、特定・特異・単独的個体の記述ではないだろうということである。そこで、樫村氏のD哲学批判は、この一般形式的な「差異」とニーチェ的強度の混同の批判ということになるだろう。しかるに、Dの問題にしたのは、一般形式的個体ではなくて、特異個体・単独性の問題である。つまり、現象界における不連続的個体性の問題であり、この特異性の「存在論」を探求したと考えられるのである。つまり、Dは、表現の誤謬を犯してはいるが、主眼点は、不連続的個体、特異個体、単独性の哲学であり、それは、正にニーチェキルケゴール等の問題の展開であったのであり、それを、Dは、不連続的差異という本源界(内在平面、前個体界)と不連続的個体、特異個体、単独性の現象界との平行論、パラレル論、二元論で、理論化したと考えられるのである。樫村氏は、確かに、Dの表現の誤りを的確に指摘したが、しかし、Dの意図する論点を取り逃がしているように思える。Dは、実は、樫村氏が説くニーチェの強度の問題をとりわけ問題にしたのであり、それが、差異哲学であるのである。しかし、Dは差異=微分という誤謬に陥ってしまってはいるので、私としては、整理した形で、不連続的差異論と呼びたい。5

 結局、坂元氏との合作という形で筆者は、ドゥルーズ哲学の不備を解消した不連続的差異論を仮説することとなったのである。すなわち、ドゥルーズ哲学の連続的差異=微分の側面を完全に廃棄して、差異をすべて不連続的差異と捉えて、それを全面的に展開したものである。そして、ドゥルーズ哲学のイデア論的側面(プラトンイデア論)とこの不連続的差異性とを結合して、不連続的差異論となったのである。つまり、これはプラトン哲学の現代的展開となったのである。つまり、イデアは不連続的差異となり、不連続的差異論=イデア論ということになるのである。6 これで、所記の主題を終えたこととして、次節に入ろう。