不連続的差異論入門:その23

差異共存性を憎み、蔑み、貶め、自己を優越化する自我主義とは何か


これまで、さんざん自我の問題は論じてきているが、まだ、究極の答えに達していない。
 なぜ、自我は差異共存志向を忌避し、それを攻撃して、自我優越を保持しようとするのか? これは、おそらく、人間の最高の問題の一つである。ここに悪の問題があり、現代の狂気を乗り越える為には、答えなくてはならない問題である。極論すれば、ここに
究極の問題、一切合切の問題がある。人間とは何かの問題でもある。また、自我とは何か。個とは何かの問題もあるが、これは別に論じたい。
 この問題に関しては、先に、男性の志向性と女性の志向性の違いということで、前者の連続化志向性、後者の差異共存志向性を述べた。これは、メディア界的極性の問題であるが、男性の場合、差異共存志向と連続化志向をもつメディア界について見ると、後者が前者より強大ということになる。即ち、力学的に、両者に大小があるということになる。また、これを、優劣としてもいいのかもしれない。しかし、大事な点は、これを、質的差異にしないことである。ただ、強弱の問題に過ぎない。だから、優劣という方は、不正確ないし誤りである。
 では、この差異を質的区別、差別にしたのは何であろうか。先に、差異共存志向性における冷暗化という概念を提起した。それは、反感を生起させて、反動である自我を形成するものである。だから、メディア界の差異共存志向と連続化志向という両極性を、二項対立、二元論、優劣差別論に変えるものは、冷暗化の反感・反動性であると考えられる。単純に考えて、共感の否定としての反感であるから、共感性に対して、否定的になるのは、当然ということではないだろうか。
 丁寧に考えよう。弱い差異共存志向と強い連続化志向というメディア界を男性はもっているのであるが、ここで、冷暗化が生じると反感が生起する。しかし、問題は、この冷暗化の意味である。これは、差異共存志向の否定であるが、絶対的否定であるだろうか。つまり、差異共存志向という生得的能力において、冷暗化という苦痛が生じたのであるから、基礎の差異共存志向性は存しているのである。だから、男性の場合、1)弱い差異共存志向と2)冷暗化による反感性・苦痛と3)強い連続化志向の三つの要素があることになる。そして、反感的自我を形成するときは、1)をなんらかのかたちで、否定することになるのだろう。精神分析では、原抑圧ということを言う。しかし、それは、母子結合の原抑圧、近親相姦の抑圧ということになる。しかしながら、1)の否定とは、そうではない。とまれ、ここには、「原抑圧」と呼ばれていいような事態があるだろう。私はこれを、以前から、排出・隠蔽と呼んでいる。あるいは、排斥と言ってもいいだろう。これが、自我ないし反感自我の成立の動因である。この排出・隠蔽(略して、排隠か)は、段階が考えられる。否定の段階、これが、一般的であろう。そして、排斥の段階、それは、いわば病理的な、反動暴力的な段階であり、精神病理を発生させるだろう。パラノイア、「分裂症」、多重人格症等である。すなわち、差異共存性を攻撃するような段階である。そして、これは、ユダヤキリスト教に通じると考えられる。(旧約聖書における、ヤハウェの異教への残虐さを見よ。)この異常な反感的攻撃性は、結局、反感の度合いが異常であるということであるが、それは、差異共存志向性における冷暗化の強さを語っているだろう。この冷暗化による反感によって、差異共存志向性を排斥するのである。だから、自我悪の人間とは、過去において、冷暗化のトラウマがあるはずである。これが、ルサンチマンを生んで、他者を攻撃するのである。とりわけて、差異共存志向的人間に対してである。なぜなら、トラウマの根因である差異共存志向性を刺激するからである。「古傷」を刺激するからである。「太陽」のなさ、暗黒冷凍の苦痛・苦悩・悲惨・陰惨さが、その暴力者の急所に潜んでいるのである。ところで、ドストエフスキーは、おそらく、このようなトラウマがある。その自虐性は、暴力・攻撃性の内向化と言えるだろう。
 ということで、先に、差異共存→反感と連続化の二元論で考えたが、ここで、差異共存/反感/連続化の三元論を提起することで、これまで、何年も私を悩ませていた問題への解答に近いものが見つかったように思う。





キリスト教の司牧権とは何か:ユダヤキリスト教の支配への意志とは何か

結局、キリスト教とは何かという問題になる。キリスト教キリスト教会の問題。聖霊の問題。聖霊の喪失。フィオレのヨアキムの聖霊の時代の思想。思うに、聖霊とは、メディア界である。フッサール現象学的還元とは、聖霊であるメディア界の復権を意味をもっているのではないか。西方キリスト教は、フィリオクェ(子とともに)によって、古代キリスト教の三層界性を破壊し、東方教会と分裂した。思うに、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の大審問官とは、西方教会のことではないのか。トルストイユングの思想は、内在的な宗教であり、聖霊宗教に近づいているのではないか。聖霊とは、ソフィアでもあるだろう。聖ソフィア教会。問題は、個、特異性、差異である。キリスト教会の管理支配思想は、これとは全く異なる。イスラム教は前者的である。
 不連続的差異論は、徹底してヒエラルキーを排する理論である。差異平等主義である。というか、差異共存主義である。差異共存的民主主義である。これは、特異性をベースにしている。しかし、現実の問題として、自我主義が支配的であり、それが、差別、上下を生んでいるのである。すなわち、自我とは、差異共存志向性を憎悪し、貶め、自我を高揚化するものである。自我主義は、差異共存志向を憎み、貶め、劣位化して、自己を尊大化、優位化する。このメカニズムは何か。これは、何度も述べているが、ニーチェの問題である。『道徳の系譜』である。真正な民主主義は、差異共存志向性に基盤があると言えよう。差異共存志向性とは、高貴な強度である。もし、貴族性という言葉に積極的な意味があるならば、差異共存志向とは、貴族的である。だから、貴族的な民主主義である。これは誤解されるからもう言わないが、言い換えると、特異性の民主主義である。そう、思うに、フッサール現象学的還元とは、この特異性への還元ではないのか。ならば、ニーチェと一致するのである。また、思うに、特異性の強度とは、メディア界の強度を越えたイデア界の力をもっていると思うのである。だから、原強度である。そう、これがニーチェ哲学の「力の意志」の意味だろう。
 結局、キリスト教は、この特異性の民主主義とは正反対の、自我的ヒエラルキーをもつ似非民主主義であり、現代の民主主義は、このようになっていると言えよう。プロテスタンティズム的自我主義的ヒエラルキー的似非民主主義である。だから、民主主義の変容・変革が必要なのである。似非民主主義から、真正民主主義へ。民主主義の進化が必要なのである。不連続的差異論は、これを提唱する。近代的民主主義からポストモダン的民主主義へ。
 自我主義的民主主義から特異性的民主主義へ。





政治の道具としてのテロ戦争:メディアと不連続的差異論

資料です。

以下の記事は興味深い。結局、米国は、メディア界戦術を巧みに使って、「アルカイダ」を操縦し、自国民を騙して、国家戦略を実行しているということになるだろう。そう、民主主義だから、国民へアピールすることが不可欠である。このとき、メディア戦略・戦術が必須であり、それにアメリカ国家は長けているということである。このメディア界戦略・戦術は、悪魔的天才性をもっていると言わざるをえない。これで、太平洋戦争でも勝利したのである。このメディア界的天才性は、誰が創造しているのだろうか。ここに、アメリカの力の根源がある。今回の郵政民営化アメリカのメディア戦術である。日本政府を洗脳して、郵政公社をのっとろうとするものである。
 いったいどのような経緯で、メディア界の戦略・戦術の最重要性をアメリカは知り、実現したのだろうか。一つは、映画であろう。テレビは、その後である。メディアが人間を支配することができることをアメリカの権力者は十分知っているのだ。西洋はまた、弁論術の伝統をもっている。これは、大雑把に言えば、真理を伝えるのではなくて、いかに聴き手、オーディエンスを説得するかのノウハウである。ハムレットは、「言葉、言葉、言葉」と言ったが、今や、「メディア、メディア、メディア」である。小泉首相を支えるメディア戦術的プロデューサーは、優秀であると認めていい。
 不連続的差異論は、メディア界と現象界との截然と分けている。通常、人は、両者の混淆状態で生きているので、真実とメディア的カモフラージュ・幻影との区別がつきにくくなっている。だから、哲学の必要があるのだが、哲学は、日本では、縁遠いものと思われている。哲学は、真理学である。叡知学である。もっとも、哲学者自身にも、問題がある。晦渋・難解な言葉を、饒舌に述べて、読む意志を挫けさせるからだ。しかし、読み手の方にも問題がある。すぐわかろうとするからだ。認識は、天才でない限り、インスタントには生じない。ヴィンテッジである。実る、醗酵するのである。
 とまれ、不連続的差異論は、きわめて鋭敏なメディア論でもある。そう、メディア論でない哲学は、偽物である。
 さて、今や、ネット・メディアの時代に転換した。国家戦術の洗脳マスメディアに対抗する手段を得たことになる。メディアvsメディアである。権力メディアvs個のメディア。マクロメディアvsミクロメディア。連続・同一性のメディアvs不連続的差異のメディア。そう、私は、オスカー・ワイルドの言葉「自然は芸術を模倣する」に倣って、「人間はメディアを模倣する」と述べた。ならば、ネット・メディアを模倣する人間とは、メディアを創造する人間ということになるだろう。これは、メディアの「コペルニクス的転回」である。受動的メディアから、能動的メディアへの転換である。『1984年』に欠けていたものである。ネット・民主主義である。しかし、問題は、この能動的ミクロメディアの質を高めることである。だから、教育的でなくはいけない。
 とまれ、知のあり方が、ドラスティックに変化するだろう。そう、これまでの、饒舌・雄弁な知は消えていくだろう。それは、古典としてのみ留まるだろう。簡潔で、明快で、正確で、洞察力のある知恵の需要が増えるだろう。そう、これは、学問の危機でもある。アカデミズムの危機でもある。知識中心のアカデミズムの解体の危機である。

p.s. アメリカのメディア戦略・戦術の起源の一つは映画ではないかと述べたが、それよりもっと根源的な起源がある。それは、キリスト教である。フーコーは司牧権と言った。そう、キリスト教、とりわけ、キリスト教会のもつ民衆管理支配意志である。そう、これは、遊牧民の発想だろう。牧畜を牧場に囲い管理する発想である。だから、日本は、アメリカ牧畜管理者の牧畜である。世界は、アメリカ権力の牧畜である。洗脳・マインドコントロール体制は、教会から発しているに違いない。また、共産主義の前衛としての共産党も同様の発想である。これは、ヒエラルキーの発想である。キリスト教キリスト教会的ヒエラルキーの発想である。これは、似非民主主義である。民主主義の起源は、古代ギリシアであり、キリスト教ではありえない。アメリカ独立宣言の「神がわれわれを平等に創った」というのは、似非民主主義である。ここには、神という超越性があり、ヒエラルキーが生じているのであり、ここから、民衆の支配・管理の思想が生まれるのだ。やはり、キリスト教ユダヤキリスト教を、解体しないといけない。これが、諸悪の真正な根源である。 (p.s. 調教、飼育、等々。サイードの言うオリエンタリズムの起源はやはり、西方キリスト教会であろう。劣った東洋の世話をするということである。)

p.p.s.  管理という点で、プラトンが問題にされるかもしれない。しかし、問題は、プラトンが、西欧において、キリスト教化されたことである。真正のプラトンは、西欧においては、去勢されているのだ。つまり、ロゴスと同様に、イデアは、その超越論的次元を近代西欧において失ったのだ。(この点に関しては、以前述べた。)問題は、西方キリスト教となる。東方キリスト教は、まだ、三層界性を維持している。西方キリスト教が、叡智の三層界性(不連続的差異論は、これを現代に創造的に復活させたのである)を破壊したのである。そして、宗教改革が決定打である。これで、世界のキリスト教的牧畜化が始まったのである。ルサンチマン的支配である。思うに、西方キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズムは、自我中心主義的資本主義を生み、世界を絶滅の危機に陥れたと言える。フッサール現象学とは、近代西欧、プロテスタンティズムが喪失した超越論的次元の復権である。それは、内在的根源の復権である。しかし、問題は、この超越論的次元、超越論的現象が、フッサールの場合、一つであったのかどうかである。ハイデガーは、フッサールの展開であるが、連続性をもっている。全体主義的である。この点は後で検討しよう。とまれ、現代は、近代西欧、とりわけ、プロテスタンティズムの二元論(デカルトの二元論もこれと平行である)によって、意識が錯誤的になっているのだ。

「政治の道具としてのテロ戦争

2005年8月23日 田中 宇
 

 この記事は「アルカイダ諜報機関の作りもの」 の続きです。

 前回の記事で「テロ戦争」とはアメリカなどの諜報機関が世界支配の強化のために仕掛けている作戦のようだと書いたが、だとしたら、諜報機関はどうやって自爆テロ志願者を集めているのだろうか。

 その答えとなりそうなのは、最近、米英当局者が言い出した「アルカイダはテロ計画の立案実行には関与せず、単にテロを誘発するイスラム原理主義の理念をばらまいているだけの存在である」という分析である。これはビンラディンは「資本論」のカール・マルクスと同様、革命的な理念を表明しただけで、実際の革命(テロ)活動は、その理念に感化された人々が勝手に行っている、という見方である。(関連記事 )

アルカイダは、ネットワークではなく、ウイルスのようなものだ」という主張も出てきた。世界各地にばらばらに存在するイスラム過激派の地元組織を感化して自発的にテロをやらせているのがアルカイダであるという主張である。(関連記事 )

アルカイダの幹部」たちは、中東や北アフリカ、西欧や北米、東南アジアなどの都会にある貧しいイスラム教徒たちが住む地域の、モスクを中心とするコミュニティの中に入り込み、失業者が多く欲求不満が募り、最近では反米感情も高まっている若者たちに時間をかけて接近し、彼らを「聖戦」に立ち上がる気にさせる。彼らは「アルカイダの幹部」たちは、米英などの諜報機関に通じているから、そのルートで爆弾も入手できる。

(テロが起きると、爆弾の入手先が不明確なままになることが多い。たとえば7月7日のロンドンのテロでは、使われた爆弾が軍用の「C4」だったのか、それとも自家製の「過酸化アセトン」だったのか、当局の発表が揺れ続けた。軍用爆弾だったとなると、テロ組織がそれをどのように入手したのかについて、マスコミや世論は詮索し続けるので、当局にとっては自家製の方が都合がいいが、過酸化アセトンは運搬が非常に難しく、事件の状況と食い違いが出てしまう)(関連記事 )

 1993年に行われた、ニューヨークの世界貿易センタービルの地下駐車場の爆破テロでは、エマド・サレムという名のFBIのエージェントが地元のモスクの過激派組織には入り込み、テロをやろうと扇動したが、モスクの指導者がテロ活動に反対した。そのためサレム自身もテロの実行には乗り気でなかったが、FBIの担当官がエージェントに「おとり捜査用のニセの爆弾だ」と偽って本物の爆弾を手渡し、サレム自身が地下駐車場に仕掛け、実際に爆発が起きてしまった。

 FBIは、イスラム原理主義を悪者に仕立てるため、テロ事件を画策したのだと思われる。サレムはFBIに騙された腹いせに、事件後にこのことをマスコミに暴露し、その後、姿をくらましている。(関連記事 )

 自爆を志願する者がいない場合は、若者たちを騙す手が使われる。たとえば7月7日のロンドンのテロの後に出た分析として「アルカイダの幹部は、麻薬の売人として活動し、若者に麻薬を詰めたリュックサックをかついで地下鉄に乗り、車内で他の売人にリュックを渡してくれ、と頼んだ。実際にはリュックに入っていたのは時限式の爆弾だった」という説がある。(関連記事 )

 イスラム教以外の過激派組織が使われることもある。昨年3月にスペインのマドリードで起きた列車爆破テロでは、スペイン北部のバスク地方の分離独立を掲げてテロやゲリラ活動を行っている過激派ETAの組織内に「アルカイダ」が入り込み、ETAが北部の鉱山から爆弾を調達するルートが使われた。(関連記事 )

 このように「アルカイダ」の名をかたるエージェントたちは、あちこちのイスラム・コミュニティを扇動して回っている。アルカイダ自体はテロを行わず、各地のコミュニティに取りついて、扇動したり爆弾を調達する「ウイルス」のような働きをしている。当局の「ウイルス説」と実際の「アルカイダ」が異なる点は「アルカイダ」が当局の敵ではなく、米英などの諜報機関によって操られた便利な道具であるということである。

▼現職の指導者を有利にするテロ戦争

 ここで指摘しておかねばならないのは、米英の当局の全員が、自作自演のテロ戦争に荷担しているわけではないということである。アルカイダを操っているのは、当局者の中のごく一部で、秘密に行動することが多い諜報機関である。英米などの諜報機関は、政府のトップに直結しており、たとえばCIAは大統領の命令にのみ従う。ブッシュ大統領と、ホワイトハウスの側近は、CIAが「アルカイダ」を操作していることを知りうるが、その他の役人や警察官などは、自分の政府が自作自演のテロをやっているなどとは思っていない。

 そのため911事件の前には、FBIなどの現場の捜査官が、テロに関与しそうな容疑者に対する捜査を申請しても、上部から「必要ない」と却下され、事件後に「何であのとき却下したのか」と問題になった。

 911や、7月7日のロンドンテロの当日には、実際に起きたテロとほとんど同じ想定で訓練が行われており、現場の係官たちが、テロなのか訓練なのか分からずに混乱するような仕掛けが、あらかじめ作られていた。これも、テロを演出する上層部による、何も知らない現場担当者たちが正常に動いてテロの発生が阻止されるのを防ぐための作戦だったと考えることができる。(関連記事 )

 大規模テロの発生は、国民が政府を頼りにする度合いを強め、世論を保守化させるので、現職の指導者にとって有利に影響する。テロ対策と称して、野党や反政府人士を弾圧するのも容易になる。911後、世界の多くの国々の政府は、アメリカが始めた「テロ戦争」に賛同した。各国の指導者は、米英の自作自演ではないかと察しても、それを黙認して「テロ戦争」に参加すれば、自国内の野党や反政府人士を弾圧できるようになるので、賛同している。

 米英以外の各国の諜報機関も、アルカイダを監視することはあっても、潰そうとはしない。その結果、中国は新疆ウイグルイスラム教徒に対し、ロシアはチェチェンなどのイスラム教徒に対し、好きなだけ弾圧を加えられるようになった。日本でも最近、諜報機関の強化が政府の内外で構想されている。諸外国の例と同様、これも政府の独裁力を強めようとする試みであろう。

▼支配層の内部で対立するテロ推進派と反対派

 とはいえ、首相や大統領がテロ対策を口実に自らの権限を拡大することは、政府内や支配層の内部から反発が出る。世界の多くの国は、支配層が一枚岩ではなく、国内のいくつもの勢力間のパワーバランスで権力が成り立っている。「テロ戦争」は、これを独裁化の方向に持っていこうとする意図を含んでおり、現職の指導者の独裁傾向が強化されることを好まない勢力は、テロ戦争は実は政府内の一部勢力による自作自演なのだ、ということを示す情報をマスコミにリークし、状況の転換を図る。

 911は非常に衝撃的な事件として仕上がったので、この手の作戦転覆作業は、アメリカでは今のところあまり成功していないが、ロンドンのテロでは事件後、イギリス当局内部から、ロンドン警視庁などがウソをついているという情報が次々にマスコミにリークされ、英政府は窮地に立たされている。

 またテロ戦争と同様、情報操作によって戦争を実現したイラク侵攻に関しても、侵攻前から米英の政府内から「イラク大量破壊兵器を開発していないのに、米英政府はウソを言って大量破壊兵器が存在していることにして、侵攻しようとしている」といった情報がたびたびマスコミに流された。それは侵攻後、ブッシュ政権を窮地に陥れ、それまで政権内で力を持っていたネオコンタカ派が弱まり、代わりに多極主義の勢力が力を増すことにつながった。

 昨年のスペインの列車テロ事件は、総選挙の3日前に起きたが、左翼の野党への支持率を減らそうと、右翼の与党が「左翼寄りのETAが犯人だ」という主張にこだわったため、実はアルカイダの犯行だとする説が出てきたとき、与党のウソを非難する世論が支配的になり、選挙は野党の勝利となった。テロ戦争は「実は当局がテロ組織を動かしている」という点に関してウソがあるので、そのことがばれた場合は現職の政治家の方が潰されるという諸刃の剣である。(関連記事 )
・・・」
田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/f0823terror.htm





パフォーマンスに気付くか否かとは何か

国民の多数が首相のパフォーマンスに騙されているわけだが、でも、どうしてパフォーマンスであることがわからないのだろうか。ここで、私の直観的認識を言いたい。
 私はテレビに映る小泉首相を見て、これは、パフォーマンスだと感づくのである。なぜ感づくかと言うと、一見まことしやかな雰囲気、もっともらしい雰囲気、いかにもキマッタ感じ、等、これらが、胡散臭く思わせるからである。外見がもっともらしいのは、怪しいと私は直観するのである。そう、声が胡散臭い。一見誠実そうな声が、曲者である。私はこれらから、首相の話はパフォーマンスだと直観するのである。郵政民営化に関しては、理論的に問題があるが、それ以前に、首相の胡散臭さを感じるのである。
 では、どうして、多くの国民は騙されるのだろうか。思うに、何が本当に誠実・実直であるか否かがわからない人が多いのではないかと思う。即ち、いい加減に生きている人が多いということになるだろう。これは、言い換えれば、利己主義的に生きている人が多く、感覚が鈍ってしまっているということだろう。不連続的差異論から言えば、メディア界が埋没している人たちである。メディア界は、いわば、直観、勘、想像力、推理力の領域である。この領域が鈍っていれば、現象界という外見だけの世界に生きることになり、パフォーマンスと本当の姿がわからなくなるだろう。
 以前から、私は、日本人において、メディア界から分離、乖離している言語行為に気付いている。メディア界の喪失である。この事態が、小泉ファシズムを支えていると言えるだろう。メディア界の復権、差異の復活が必要である。メディア界、差異の喪失が、亡国に通じているのである。

p.s. 少し言いそびれていることがある。おそらく、首相の話をするときの外見と声との微妙な「差異」を感じているのではないかと思う。ほんとうは、外見と声が一致していないのだと思う。そう、間があるだろう。そこに胡散臭さを感じるのだ。その間で、演技を造っているのである。そうなのだ。首相の話しをするときの間が、パフォーマンスであると感じさせるのだと思う。

p.p.s. もう少し付け加えよう。間と外見との差異があると思う。間の時の首相の表情に、異質なものがあるのである。つまり、声は間をもち、一見もっともらしく響く。しかし、その時の表情に、一種尊大さ、不遜さが窺えるのである。このズレ、差異が、首相の話がパフォーマンスなのだと感じさせる要因の一つだと思う。尊大さ、傲慢さが、表情に、頭の姿勢に現われているのである。だから、間と表情の両方からの違和感によって、パフォーマンスだと感じさせるのだろう。





なぜ、反感独善自我は、差異共存性を攻撃するのか

この問題は既に考察しているが、もう一度考えよう。
 自我は、共感性がネガティブになっている。冷暗化である。そのような人物が、共感性をもつ人物に対するとどう感じるだろうか。そう、共感的人物は、共感の波動を発出している。それは、メディア界の差異共感強度というべきもの、イデア極ないしイデア界的な強度を発している。それは、太陽、陽光の強度である。しかし、それを、差異共感性が冷暗化された人物が、受け取るとどうなるのか。冷暗化された反感・反動の波動がある。それは、いわば、負の強度である。その反感強度に対して、共感性は、正の強度を送る。そう、反感強度を解除するようにはたらくのだろう。それはどういうことか。差異共存の強度を、調和の振動をもっていると言えるだろうし、反感の強度とは、それを阻害するものである。図示しよう。

d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn 共感

d1↑d2↑d3↑・・・↑dn 反感

反感の↑は、とりあえずの、記号である。通常のメディア界の強度が作用していないことを表わす。
 さて、共感は、反感に共感の強度を発出するから、↑+⇔という事態となる。つまり、⇔は、↑を解消するはたらきをすると思う。つまり、↑を阻害するのである。反感を否定するように作用すると思う。そう、d1やd2等の差異に差異共存の強度、共感の強度を付与するように作用するだろう。つまり、反感を共感に変容するようにはたらくのである。しかし、反感の方は、共感を原初に否定されているので、発出される共感の強度、力を受容できず、異物感、違和感を催し、拒否・拒絶反応を起こすのである。「免疫不全」である。だから、反感自我は、共感的人物に嫌悪感、反発を感じて、攻撃・暴力的な態度を取るのである。心の闇は、光を受け付けないのである。いわば、ブラックホールとなった心の闇である。だから、いったん、差異共存性が冷暗化すると、始末に負えなくなるのである。そう、悪となるのである。ディケンズの『クリスマス・キャロル』の高利貸・守銭奴スクルージが、幽霊や精霊に出会って、心を入れ替えるというようなことは、まれであると言わざるをえないだろう。冷暗化の闇は深いのである。光を、太陽を憎むのである。闇は光を知らないのだ。この場合の「啓蒙」とは何か。蒙を拓けるのか。ほとんど、不可能のように思える。

p.s. 共感強度に対して、反感自我は、拒否反応を起こすということであるが、そうならば、反感自我は共感強度を受信しているのであるが、その受信する領域はどこなのだろうか。それは、まさに、反感性の領域においてだろう。差異共存性が冷暗化した領域が、共感強度を受信して、拒否反応を起こすのだ。そこは、強度を発し、受信する領域であるから、共感強度を受信して、拒否反応を起こすのである。反感強度化した差異に、共感強度が与えられ、その、いわば反感化した差異を揺すぶるのである。この揺すぶりが、反感自我にとり、不快感、嫌悪感、憎悪をもたらすのであり、それをもたらす共感強度の人間、差異共存主義の人間を反動的に攻撃するのである。





差異は神とともにありきとは何か(草稿)

ポスト・ヨハネ福音書によると、不連続的差異は神とともにあったとあるが、この神とは何か。これは、イデア界自体のことだろうか。それは、イデア界の差異の「デザイン」のことではないだろうか。差異の境界、差異の共立の「力」のデザインのことではないだろうか。差異の秩序である。これが、神ではないか。差異のコスモスである。ここで、華厳経調和宇宙を想起する。ライプニッツの予定調和のような浅ましいものではない。根源的調和である。
 そう、思うに、このイデア界には、可能態(デュナミス)であり、結局、万物、万有、森羅万象の根源の「イデア」が存しているのではないだろうか。つまり、不連続的差異の共立状態が、「イデア」である。この共立の「イデア」が、神ということになる。メディア界において、差異は連結する。そこでは、プラスやマイナスの極性強度が発生している。しかし、イデア界には、それらはない。いわば、原強度、前強度、絶対強度がある。私は虚度と呼んだ。そう、メディア界の極性強度を内包・包摂したものとして、イデア界の差異共立調和があるのではないだろうか。絶対空間、絶対界としてのイデア界。そう、イデア界の絶対的無限界において差異の「イデア」がすべて形成されているのだ。結局、メディア界、現象界で生起することの本質は、イデア界に存し、書き込まれているのだ。そう、デリダの言うアルシ・エクリチュールとは、イデア界のこの諸差異の共立の「イデア」のことではないだろうか。つまり、結局、現象はすべてイデア界に原型があるということである。予め決定されているということである。森羅万象の動きが、すべて包摂されているのである。神秘学で、アカシャ年代記アカシック・レコード)という概念がある。それは、過去、現在、未来の事象がすべて書かれている媒体のことである。これは、イデア界のこと、イデア界の神を指しているのではないだろうか。また、SF作家のフィリップ・K・ディックのVALISもそうだろう。すると、これはどういうことだろうか。そう、決定論となる。そう、すべては予め決定されている。必然即自由である。差異は、ここでは、同一性となるのだ。では、なぜ、最初から同一性ではないのか。不連続的同一性ではないのか。しかし、やはり、同一性ではまずいのである。なぜなら、同一性では、変容できないからである。差異ならば、差異と差異との連結が可能になるのである。だから、差異の同一性とは、差異の「イデア」としてである。思うに、ここに、プラトンイデア論の困難があったのではないだろうか。差異でありながら、同一性=「イデア」として機能するのである。差異の共立が同一性=「イデア」=神である。プラトンは、イデア論でこの神を指していたのだろう。だから、同一性になるのである。しかし、同時に、コーラのような差異性を提示しているのである。とまれ、プラトンは、やはり、これまで、最高に、存在の秘所・至聖所に迫った人物であろう。差異と神との即非である。

初めに差異ありき、差異は神とともにありき、差異は神であった。

神とは、諸差異のエクリチュールである。差異のイデアである。そう、以前、差異イデアを越えた、原差異のようなものを考えたことがあった。確かに、そのように考えたくなる。つまり、デザインである。しかし、それは正しくないだろう。なぜならば、差異の共立、差異が境界をもってなす共立というイデアは、差異自体から発しているものであるから。差異の即自が、差異の対自となるのである。後者が差異のイデアである。差異即非神。差異即非イデア