不連続的差異論入門:その29

差延的差異とイデア的差異:デリダドゥルーズ:不連続的差異論の奇蹟


デリダは、超越論的なものは、差異であると、『『幾何学の起源』序説』の末尾で述べている。しかし、デリダの言う差異は、差延である。本源からの常なる遅延のことである。だから、差異=差延を通して、本源への永遠の遡行が為されるということで、ここにデリダ哲学の存立基盤が述べられているのだろう。しかし、これでは、永遠に遡行は不可能である。デリダは、差異=差延を形成する起源を規定しようとしない。ただ、本源的起源のみだ。差異=差延を構成するのは、イデア的な差異であり、その共立・共存性である。これを、デリダはまったく考えようとしていない。確かに、デリダは、自己の理論に一貫的である。ここで、差延的差異と、イデア的差異とを区別しないといけない。ドゥルーズは、後者に関わったのである。ドゥルーズが、デリダに言及することがほとんどなかったは、当然である。なぜなら、デリダ哲学は、一種不可知論であるからだ。超越論的というよりは、超越性的である。
 とまれ、フッサール差延的に読むのは、いかがなものであろうか。フッサールは、絶対的起源を確信している。差延の根源を確信している。それは、志向性、相互主観性であり、差異共存志向性である。そう、デリダは、フッサール差延的様相を与えたとは言えるだろう。だから、フッサールデリダと見ないといけない。フッサールを基盤に見ないといけない。デリダ哲学の積極性とは何であろうか。思うに、理論ではなくて、西欧主義への反逆的意志の過激さにあったのではないだろうか。その意志は、「怨霊・怨念」的と言えないこともない。
 因みに、ハイデガーは、志向性を存在にして、存在論的差異を述べたが、思うに、存在論的差異とは、ほとんど差延である。では、ハイデガー哲学をどう見るべきか。これは、推測しか言えないが、志向性を存在に転換したことで、自然哲学に、つまり、人間を包摂した自然哲学になったと言えるのではないだろうか。志向性が、自然の力となったのである。だから、現象学を人間現象学から、自然現象学に変えたと言えるのではないだろうか。しかし、この進展に大きな問題があるだろう。つまり、志向性のもつ他者への志向性が、喪失されているからだ。存在としたとき、即自的になり、対自性が欠落することになったと言えるだろう。そう、フッサールにあった差異と差異との距離(志向性)が喪失することになったと言えるだろう。つまり、フッサールは、特異性を保持していたのである。つまり、ある不連続性を保持していたのであるが、それが、ハイデガーにおいて喪失しているのである。だから、差異の連続・同一性化と言っていい。これは、ベルクソン哲学と通じる事柄である。そして、何度も述べているが、ドゥルーズがこのベルクソンハイデガー的連続・同一性の差異を無批判に継承してしまったのである。だから、スピノザニーチェの超越論性や特異性をも継承しているドゥルーズ哲学は、自己矛盾を犯しているのである。そして、この矛盾を、樫村晴香氏が天才的に抉り出したのである。問題は、フッサールハイデガーの移行にある。ハイデガーには、デカルトスピノザニーチェフッサールの特異性、単独性が欠落していたのである。この点ならば、サルトルの『自我の超越』の「自我」ではなく「エゴ」の考えの方が、適切であったように思える。(「エゴ」とは、個・個吾とすべきである。思うに、ドゥルーズの言う前個体性とは、サルトルの「エゴ」に起源があるのではないだろうか。)そう、サルトルは、ある意味で、特異性、単独性を捉えていたと思う。サルトルの「実存主義」とは、特異性、単独性ということだと思う。ただ、サルトルの失敗は、連続的全体性に囚われていて、共産主義と結託してしまったことである。サルトルは、だから、ハイデガー以上に、フッサールを継承していたのではないだろうか。ただし、魔が差したと言うのか、マルクス主義を選択してしまった。本来、カミュと共闘できたはずであるが、連続・同一性の全体性の「罠」に嵌まってしまった。これは、メディア界中心主義的に発想するとき、陥りやすい誤謬である。キルケゴールニーチェフッサールの特異性・単独性を明確に継承した現象学者や、ポストモダンの哲学者はこれまで、いなかった(ドゥルーズは混濁していたし、柄谷行人は、80年代までは、単独者問題を扱っていたものの、その後、カント/マルクス近代主義へと退行してしまった。柄谷氏は、結局、唯物論的思考から脱却して、現象学的超越論性を理解することができなかったことが、挫折の原因であると考えられる。)。このように見ると、どれほど、不連続的差異論が奇蹟的な理論であるかが、わかるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の不連続性の概念が、スーパーブレークスルーへの導火線であったのである。
 不連続的差異論は、自然の原理を解明したものであり、ここから、新しい世界が創造されることになる。差異共存共創資本政治経済社会の創造である。

p.s. ハイデガー存在論的差異デリダ差延に関してであるが、上述では、同じようなものとして扱ったが、それは、不正確であるので、ここで訂正したい。 
 ハイデガーの理論は、連続的差異論であり、デリダの理論は、「不連続的差異論」である。この点を明確にしたい。しかし、後者の「不連続的差異論」とは、不連続的差異論とは異なる。デリダは、本源と現象との必然的な遅延を述べているのであり、これが、デリダの「不連続的差異」である。この本源と現象との遅延という「不連続的差異」という点では、デリダハイデガーを乗り越えていることを評価しなくてはならない。だから、デリダの理論的意義は、この遅延による「不連続的差異」性にあると言える。しかし、それは、不連続的差異論の不連続差異性とは別個のものである。
 つまり、デリダの「不連続的差異」とは、本源と現象との遅延的差異を言っているのであるが、不連続的差異論の不連続的差異とは、本源自体が内包するイデア界的な不連続的な差異のことである。簡単に区別を言えば、デリダの不連続的差異とは、理念と現象との「不連続的差異」、即ち、相対的な不連続的差異のことであり、不連続的差異論のそれとは、理念自体の内包する絶対的なイデア的な不連続的な差異である。相対的か絶対的かの根本的な違いがあるのである。




フーガの後れ:差延としてのフーガ

フーガは、思うに、不連続的差異論の音楽的表現のように思える。最初の主題提示とは、イデア界からメディア界への転化による出来事である。これは、差異共立である。

d1⇔d2・・・⇔dn

である。そして、これが、メディア界的に変容されるのである。

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

である。この〜は揺らぎである。問題は、フーガの声部の後れである。なぜ、同時ではないのか。これは、デリダ差延に関係するように思える。これは、イデア界における差異の共立の無限速度とメディア界から現象界への転化における相対速度と関係するように思える。簡単に言えば、現象界、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

が形成されるには、それ以前に、

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

がなくてはならず、この結果として、現象界が発現するのであるから、後れが生じると考えられよう。正に、差延である。この差延をフーガは表現しているように考えられるのである。そう、差延としてのフーガの技法である。〜の揺らぎの応じて、多様なフーガが成立すると考えられる。 
 そして、マイナス強度とプラス強度があるから、前者が主導的だと、より差異共存的フーガとなり、後者が主導的だと、連続・同一性的フーガとなるだろう。そして、それぞれ、対称性をもつので、計四種類となるだろう。差異共存的フーガとは、正に、典型的なフーガということであり、連続・同一性的フーガとは、単純なフーガということではないだろうか。

p.s. 以上の考察で、差延というデリダの概念を用いたが、それは、メディア界から現象界への転化を意味するが、それは、差異と連続・同一性のズレ・後れを意味していると言えるだろう。そして、デリダは、この差延を基礎として、連続・同一性(=「ロゴス・音声中心主義」)を正当に脱構築したのである。そして、差延の起源として、グラマトロジーエクリチュールを考えたと言えるだろう。これも正しいが、しかし、これは、構造のことである。差異の連結である構造のことである。結局、デリダエクリチュール論とは、ドゥルーズの差異論と重なると言えるだろう。ただし、デリダの問題は、ロゴス批判をしたために、差延において論理を見いだすことができなくなってしまったことだろう。エクリチュールで留まってしまったのだろう。この点で、差異を理念と見たドゥルーズの方に有利性があったと言えるだろう。事実、差延の基礎は、差異の連結であり、ロゴス・論理があるのである。そう、差延の論理・ロゴスをデリダは、必然的に、否定してしまったと言えるだろう。デリダが陥っていた束縛は、正に、近代的合理主義である。このために、それを越えた差延の「合理主義」を見いだせなかったと言えよう。





差異共益倫/共創資本政治経済と、らせん回帰的創造サイクル論


1)差異共存共創政治経済において、差異共存益・公益・社会益をどう捉えるのか。これは、実益があるし、また、倫理に適うことである。適倫性である。適益適倫性である。あるいは、公益倫性、益倫性である。あるいは、倫益性である。あるいは、共益倫性である。これは、単に、精神的な問題だけでなく、利益に関係する事柄である。だから、差異共存共創政治経済とは、共益倫/共創相補性経済である。年金、福祉、医療問題は、共益倫性の問題である。

2)イデア界の回転とらせん回帰的創造サイクル論

3)フッサールが言うように、主観性の根源に志向性、つまり、差異共存志向性があるのだから、これが、人間の絶対的基盤であるから、これへの意識の欠落とは、自然的態度の奴隷ということになるだろう。つまり、志向性が、自然的態度を確立するのでああるが、志向性に無意識であるとは、自然的態度に囚われているのである。これが、思うに、人間の「狂気」の原因ではないか。妄想とは、この自然的態度から来ているのだろう。つまり、志向性という絶対的基盤から発生した自然的態度(妄想)であるから、「解脱」できないのだろう。自然的態度とは、通常は、自我である。利己主義である。そして、この自然的態度が固着すると、妄想、狂気となるのだろう。参考:小泉首相。後で、再検討する。





バッハ音楽は、差異共存志向性の音楽である

クラシック音楽で、一曲あげよと言われたら、躊躇なく、バッハの『フーガの技法』それもグスタフ・レオンハルトの演奏をあげる。
 とまれ、先に、バッハ音楽は、メディア界の構成を表現しているのではないかというようなことを述べたが、それは、間違ってはいないように思える。バッハ音楽は、差異の共存志向性の音楽である。差異の独立が、差異の共存志向をもつという一見背理だが、「正理」が、そこには感じ取られるのである。フーガは、あるテーマが差異となり、それに対して、別の差異である声部が、それを差異共存的に「追いかける」のである。そう、正に、差異共存の音楽である。だから、メディア界の音楽なのである。
 後で、詳しく検討したい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061490257/249-1656578-6209160





差異的創造論:進化論? 知的計画論(intelligent design)?

資料です。

進化論と創造論の対立であるが、私は、周期的創造論の立場と言えるかもしれない。不連続的差異論において、イデア界の回転があり、その回転周期によって、創造が異なると考えられるのである。そう、らせん的回帰の創造論である。これは、一見、進化論と見られるかもしれないが、そうではなくて、差異的変容論である。ある創造のサイクルがあり、それが、終末すると、新たな創造のサイクルが始まるということではないだろうか。これは、古代インドやマヤとアステカの民族の神話に近い考えである。そう、D.H.ロレンスも『メキシコの朝』で、これに言及している。

p.s. 思うに、現代は、西洋文化という一つの創造のサイクルが終末期に達して、新しい一つの世界文化のサイクルが創造されつつある時期ということになるのかもしれない。占星術で言う星座エポック・サイクル(例えば、水瓶座宝瓶宮のエポック)は、このようなものかもしれない。

「One side can be wrong

Accepting 'intelligent design' in science classrooms would have disastrous consequences, warn Richard Dawkins and Jerry Coyne

Thursday September 1, 2005


It sounds so reasonable, doesn't it? Such a modest proposal. Why not teach "both sides" and let the children decide for themselves? As President Bush said, "You're asking me whether or not people ought to be exposed to different ideas, the answer is yes." At first hearing, everything about the phrase "both sides" warms the hearts of educators like ourselves.

One of us spent years as an Oxford tutor and it was his habit to choose controversial topics for the students' weekly essays. They were required to go to the library, read about both sides of an argument, give a fair account of both, and then come to a balanced judgment in their essay. The call for balance, by the way, was always tempered by the maxim, "When two opposite points of view are expressed with equal intensity, the truth does not necessarily lie exactly half way between. It is possible for one side simply to be wrong."

As teachers, both of us have found that asking our students to analyse controversies is of enormous value to their education. What is wrong, then, with teaching both sides of the alleged controversy between evolution and creationism or "intelligent design" (ID)? And, by the way, don't be fooled by the disingenuous euphemism. There is nothing new about ID. It is simply creationism camouflaged with a new name to slip (with some success, thanks to loads of tax-free money and slick public-relations professionals) under the radar of the US Constitution's mandate for separation between church and state.

Why, then, would two lifelong educators and passionate advocates of the "both sides" style of teaching join with essentially all biologists in making an exception of the alleged controversy between creation and evolution? What is wrong with the apparently sweet reasonableness of "it is only fair to teach both sides"? The answer is simple. This is not a scientific controversy at all. And it is a time-wasting distraction because evolutionary science, perhaps more than any other major science, is bountifully endowed with genuine controversy.

Among the controversies that students of evolution commonly face, these are genuinely challenging and of great educational value: neutralism versus selectionism in molecular evolution; adaptationism; group selection; punctuated equilibrium; cladism; "evo-devo"; the "Cambrian Explosion"; mass extinctions; interspecies competition; sympatric speciation; sexual selection; the evolution of sex itself; evolutionary psychology; Darwinian medicine and so on. The point is that all these controversies, and many more, provide fodder for fascinating and lively argument, not just in essays but for student discussions late at night.

Intelligent design is not an argument of the same character as these controversies. It is not a scientific argument at all, but a religious one. It might be worth discussing in a class on the history of ideas, in a philosophy class on popular logical fallacies, or in a comparative religion class on origin myths from around the world. But it no more belongs in a biology class than alchemy belongs in a chemistry class, phlogiston in a physics class or the stork theory in a sex education class. In those cases, the demand for equal time for "both theories" would be ludicrous. Similarly, in a class on 20th-century European history, who would demand equal time for the theory that the Holocaust never happened?

So, why are we so sure that intelligent design is not a real scientific theory, worthy of "both sides" treatment? Isn't that just our personal opinion? It is an opinion shared by the vast majority of professional biologists, but of course science does not proceed by majority vote among scientists. Why isn't creationism (or its incarnation as intelligent design) just another scientific controversy, as worthy of scientific debate as the dozen essay topics we listed above? Here's why.

If ID really were a scientific theory, positive evidence for it, gathered through research, would fill peer-reviewed scientific journals. This doesn't happen. It isn't that editors refuse to publish ID research. There simply isn't any ID research to publish. Its advocates bypass normal scientific due process by appealing directly to the non-scientific public and - with great shrewdness - to the government officials they elect.

The argument the ID advocates put, such as it is, is always of the same character. Never do they offer positive evidence in favour of intelligent design. All we ever get is a list of alleged deficiencies in evolution. We are told of "gaps" in the fossil record. Or organs are stated, by fiat and without supporting evidence, to be "irreducibly complex": too complex to have evolved by natural selection.

In all cases there is a hidden (actually they scarcely even bother to hide it) "default" assumption that if Theory A has some difficulty in explaining Phenomenon X, we must automatically prefer Theory B without even asking whether Theory B (creationism in this case) is any better at explaining it. Note how unbalanced this is, and how it gives the lie to the apparent reasonableness of "let's teach both sides". One side is required to produce evidence, every step of the way. The other side is never required to produce one iota of evidence, but is deemed to have won automatically, the moment the first side encounters a difficulty - the sort of difficulty that all sciences encounter every day, and go to work to solve, with relish.

What, after all, is a gap in the fossil record? It is simply the absence of a fossil which would otherwise have documented a particular evolutionary transition. The gap means that we lack a complete cinematic record of every step in the evolutionary process. But how incredibly presumptuous to demand a complete record, given that only a minuscule proportion of deaths result in a fossil anyway.

The equivalent evidential demand of creationism would be a complete cinematic record of God's behaviour on the day that he went to work on, say, the mammalian ear bones or the bacterial flagellum - the small, hair-like organ that propels mobile bacteria. Not even the most ardent advocate of intelligent design claims that any such divine videotape will ever become available.


・・・」

guardian
http://www.guardian.co.uk/life/feature/story/0,13026,1559743,00.html





政党HP:郵政民営化プラン「たち」

資料です。

郵政民営化」という言葉が独り歩きしてしまっている。小泉/自民党公明党郵政民営化民主党郵政民営化国民新党郵政民営化等とあるのである。これは、日本語の問題が少しある。郵政民営化計画「たち」があるのである。首相のものは、一つの郵政民営化計画なのである。ところで、今、ふと思ったのだが、日本的全体主義ないしファシズムとは、日本語の力学による側面があるのではないだろうか。つまり、理念を表わす抽象名詞が、全体化され、絶対化されてしまう傾向があると言えよう。英語ならば、an idea(一つの理念)である。A Privatization of Post Office(一つの郵政民営化). もっとも、首相の二項対立(二元論、あれかこれか)を煽る言い方にも問題がある。危険である。広告・宣伝手法である。あるいは、新興宗教手法である。とまれ、こういう理念・概念の問題は、具体化する必要があるから、少なくとも、小泉/自民党郵政民営化計画は、これこれですと中味を具体的に説明するのが、正道、本筋、本道、真正である。小泉首相の二元論は、邪道であり、独裁主義で、最高度に危険である。

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