不連続的差異論入門:その28

個が他の個と共存することを分析するとどういうことなのか。図式でみよう。

A) 一つの個:d1〜d2〜・・・〜dn

B) 他の個:d1〜d2〜・・・〜dn

A とBがそれぞれ、共存志向するとはどういうことか。思考実験しよう。Aの存立のためには、他者が必要である。一つは、他者のものを横取りする、ないし、他者への配分を少なくして、自分が多く取るという方法がある。これが、新自由主義である。一つは、他者と共存する方法である。これは、互恵、共助、相互扶助的である。これが、差異共存・共創主義である。前者の方法は、自我主義、自己中心主義の方法である。これは、人間の差異共存志向性を否定するもので、人倫に背くもので、邪道である。だから、後者が、正道・本道である。
 さて、これを、細かく分析しよう。Aには、内在的に、差異共存志向がある。即ち、d1⇔d2である。これは、内在的差異共存志向であり、まだ、外在的他者へは向いていない。フッサールの志向性とは、内在的差異志向性ではなくて、外在的差異志向性である。この点をどう整合化するかである。いわば、内向的な差異共存志向性と外向的な差異共存志向性とをどう結びつけるかである。ここで、差異連結界であるメディア界総体を考慮すればいいだろう。すなわち、メディア界自体は、現象化するのである。すなわち、外在化するのである。この外在化が、外在的志向性を意味すると見ていいだろう。すなわち、内在・内向的差異共存志向性とは、現象化・外在化へと志向するのである。つまり、正確に言えば、メディア界の連続・同一性志向によると言える。しかし、ここで、注意すべき点は、この連続・同一性志向とは、元々、差異共存志向性と不可分である。つまり、差異共存志向性と連続・同一性志向性とは、一体である。だから、内在・内向的差異共存志向性とは、必然的に、外在・外向的志向性をもつと言えるのである。この内在・内向的差異共存志向性=外在・外向的志向性であり、フッサールの志向性とはこのことを意味していると考えられる。(ここで、ふと思いついたのは、デリダフッサール批判とは、志向性が、同一性であることの批判であり、志向性をデリダ脱構築して、差延を見たのではないだろうか。そう、志向性が同一性であるという批判は正しい。そして、差延を見たのも正しい。しかし、デリダにおそらく欠落しているのは、即自・内在・内向的差異共存志向性という差異本来のあり方である。デリダは、ポジティブに捉えずに、解体に留まったと思う。差延と差異は異なるのである。差延とは、差異によって生起する、連続・同一性のズレないし揺らぎに過ぎないだろう。)
 さて、では、この志向性は、他者の差異連結体に対してどう振る舞うのかである。もし、これが、反動である自我ならば、攻撃・暴力的となる。しかし、この志向性が、純粋、正動(反動の反対)であるならば、差異共存志向性を保持しているから、他者の差異連結体との共存を志向すると言える。
 これで、差異共存志向性が、単に即自的だけでなく対自的にも成立することが検証されたであろう。ここで、付け加えると、純粋な、正動の志向性とは、自我成立以前である。では、自我が成立している近代においては、どうなるのか。ここで、現象学的還元、判断停止(エポケー)の意義があるのだろう。これによって、自我から脱すると言えるだろう。「解脱」、「身心脱落」である。つまり、反動となっている姿勢を、純粋、正動に還元するということと考えられる。だから、フッサールの志向性を単純に連続・同一性と見ることは誤りである。それは、差異共存志向性を内包した連続・同一性なのである。
 しかし、実際問題、現象学的還元、判断停止をいかに為すのかという問題があるだろう。私見では、ここにスピノザの能動的観念という考え方が、キーポイントの一つになると思う。即ち、反感・反動的な姿勢を積極・能動的に転換するのであるが、これによって、実は、還元、判断停止が為されると思う。だから、スピノザフッサール現象学と見るべきだと思う。これで、脱自我となり、差異共存志向性が個体に発動するのであり、個体は、個、差異、特異性となるのである。





再考:差異共存志向性について:ポスト新自由主義と差異共存・共創的資本政治経済社会へ向けて

先に、差異共存志向性が人間存在の本質として存することを述べて、さらに、それと、男性の純粋能動性との合体した差異共存能動経済を説いたが、どうも二元論なので、再考したい。
 差異共存志向性とは、特異性でもあるから、個の独立・自立・単独性をも意味するのである。個であることが、個と個との共存を志向するのである。だから、個であることと、個の共存志向性とは、不可分一体、一如である。だから、先のように、二元論化するのは、間違いである。ここで、訂正したい。
 もう一度、ジェンダー分析を考えよう。差異共存志向性は、女男平等であることはこれまでと変わらない。ただ、男性の方が、連続・同一性への志向が強いということである。つまり、男性は、プラス強度が、マイナス強度よりも強い傾きをもっているということである。女性は逆である。これもこれまで通りである。では、問題は、強いマイナス強度をもっているならば、それは、強くプラス強度の方向に転化するのではないか。すると、女性の方が、連続・同一性への志向が強くなる。これでは、矛盾である。どうやら、アポリア(難問)に逢着してしまった。
 考え直そう。女性の場合は、メディア界において、マイナス極が強く、プラス極が弱い傾向があり、男性は逆である。あるいは、単純に、女性のメディア界は、マイナス強度をもち、男性のは、プラス強度をもつと言ってもいいのかもしれない。そうすると、差異共存志向性はどうなるだろうか。理論的に言うと、男性には、差異共存志向性は欠落しているということではないだろうか。しかし、それも矛盾である。男性にも、それはあるからだ。少し考えを変えないといけない。女性のメディア界、男性のメディア界があるのであり、前者は、マイナス極の方向に偏差があり、後者は、プラス極の方向に偏差があると考えよう。つまり、女男の差異は、相対的な極性の偏差ということになる。即ち、女性の場合は、天秤で考えれば、マイナス極に重みがかかっていて、男性は、プラス極にである。そして、連続・同一性化である。現象化は、男性の方が得意となるだろう。なぜならば、男性は、連続・同一性の志向性であるプラス極が発達しているからである。これは、記号・言語、セミオ・サンボリック作用である。しかし、同時に、差異への反動性の傾向が強いので、自我を形成しやすい。つまり、差異と分離しやすい自我の傾向を男性はもっているということになるだろう。
 このように考えて、当初の差異共存志向性の問題に返ると、この志向性は、確かに、女男共通に存しているが、ジェンダー的な差異があると言える。女性において、差異共存志向性が強いのであり、男性においては、連続・同一性=現象化や自我の志向が強いのである。だから、万民に共通の基盤である差異共存志向性に復帰するということは、ある意味で女性的価値観に復帰するということでもあろう。男性の反動性が、今日の弱肉強食の新自由主義に帰結しているのである。これは、宗教的には、ユダヤキリスト教的価値観の帰結であるが。
 とまれ、差異共存志向へ、差異への復帰とは、人間存在の根源への回帰である。そう、これは、ポスト「西洋文明」ということになるだろう。もっとも、差異は、「西洋文明」の内部においても、天才たちによって探究されてきたのであり、それが、日本で、不連続的差異論として、集大成したのである。差異とは、東西問わず、叡智として、表象されてきたものであろう。古代ペルシアでも、シュメールでも、クレタでも、古代中国でも、古代インド、アフリカ、アメリカ大陸、オーストラリア、その他でも、差異は、なんらかの叡智として、表現・表象されてきたのである。しかし、ある反動が生じて、差異・叡智が、一神教的に歪曲されたと言えよう。つまり、差異・叡智の反動化が起こったのである。父権制的歪曲と言ってもいいだろう。そして、これが、イデオロギーとなり、「西洋文明」という叡智を喪失した野蛮な文明が生じたのである。この帰結が、新自由主義、グローバリゼーションである。つまり、人類史的に見て、差異叡智の喪失による、世界・地球規模の危機が生じているのである。しかし、人類の内部、人間存在の内部には、永遠の差異共存志向性の聖火が燃えているのである。(これが、ヘラクレイトスの火であろう。あるいは、御水取りの火であろう。)このような超絶的な危機の状況において、人類の生存本能は甦るのである。これが、叡智=差異共存志向性の松明である。 
 差異、不連続的差異という大叡智を人類の理性の王位へと即位させないないといけない。現代の知は、根源を喪失して、利己主義の婢になっている。これが、現代の黙示録である。
 では、経済的には、どうなるのか。ポスト新自由主義であるが、それは何か。これは、既に述べている差異共存志向経済でいいだろう。これには、差異共存志向性政治が必要である。とまれ、具体的には、差異共存志向性経済とは何だろうか。共生経済という考えがあるが、それも一つの方法である。問題の一つは、市場をどうするかである。つまり、棲み分けする必要があるのである。郵政公社のような公益領域は、安易に市場化してはいけないのである。絶対にいけないということではなく、社会益のある領域は、市場化はたいへんリスクが大きので、基本的には公的機関するというのは、理に適うといえよう(適理性と造語しよう)。だから、差異共存志向経済(政治経済:これが正しい考え方だろう)とは、社会益を重視し、且つ、健全な市場的交通を保持する政策をもつものである。では、健全な市場的交通とは何か。それは、公正な取引であるということである。差異創造ないし差異共創的市場経済である。
 ということで、社会益的政策と創造的公正市場経済との相互補完的経済だろう。差異共存志向性政治経済とはそのような両極的志向性をもつと言えよう。ポスト新自由主義。差異共存社会経済と差異創造・共創市場経済との合体である。共存が、共創であり、それが、個的生存性でもある。差異・個・特異性の生存のための共存・共創経済である。差異が必然的に共存・共創へと転化するのである。とまれ、差異共存・共創的資本政治経済である。





メディア界としての資本主義、又は、差異共存共創資本主義


モダン・デザインの創始者、アーツ・アンド・クラフトの主唱者のウィリアム・モリスは、中世的な芸術家の産業社会を夢想した。金のためではなくて、芸術制作を主にする経済、芸術的経済を志向した。『ユートピア便り』には、彼のそのようなヴィジョンが描かれている。
 さて、私は、先に、メディア界的資本主義をあるべき経済として述べたが、これは、考えてみれば、労働者が、芸術家となるような資本主義である。差異共存志向性と差異能動性をもって働く人とは、芸術家である。そう、コラボレーションとしての経済があるだろう。反動的な自我ではなく、差異共存志向性が開花した人間としての働く人である。思うに、働くことが創造となる。創働者である。つまり、メディア界的資本主義とは、創働者の連結する経済である。共存志向性をもち、また創造的能動性をもつ創働者の資本経済である。おそらく、資本の性格が変化するだろう。それは、現象界資本(抽象貨幣価値資本)から、メディア界資本となるだろう。メディア界経済があり、メディア界社会があり、メディア界政治があり、メディア界資本が共差異化する。そう、共差異メディア界資本経済である。差異共存共創経済である。





新自由主義経済の「小さな政府」とは古代奴隷社会への退行原理である


資料です。

差異共存志向性が人間の本質であるとするならば、新自由主義は、大反動であると言える。では、以下の資料にある古代奴隷社会とは、どういう意味をもつのか。思うに、それ以前に、つまり、前古代的母権的農耕/狩猟採集的社会があり、これは、差異共存志向性を体現していたと思う。それを破壊したのが、古代奴隷社会である。これは、私見では、父権制社会の成立を意味する。では、資料の村社会とは、公共的社会であるということだから、差異共存志向性が復活・復権した社会である。しかし、再度、新自由主義的資本主義となり、古代奴隷社会的となる。この一種振り子運動は何だろうか。これは、私の図式から言うと、差異共存志向性と反動的自我主義との「弁証法」である。あるいは、母権制父権制との「弁証法」である。しかしである。やはり、「弁証法」と呼んではまずいだろう。あくまでも、人間存在の本質は、差異共存志向性にあるのである。それへの反動が人類史において、何度も起こったと考える方が、正しいと考えられる。差異共存志向性がなくなれば、家族は寸時も成り立たないし、労働も、社会も成り立たなくなる。
 では、何故、反動が起きるのか。これに関しては、差異共存志向性の冷暗化ということで、既に、私なりに説明したが、今一度検討しよう。これは、男性の本質にやはり関係していると思う。男性は、連続・同一性の志向・傾向・強度が女性よりも強く、差異志向性が女性よりも弱いのである。私は、男性の差異は劣弱で、女性のそれは、高貴であると以前形容した。形容はともあれ、以上のような女男の差異の「差異」がある。しかし、単に違いだけならば、問題はなく、女男の均衡をとればいい話である。思うに、これが差異共存志向性の世界・社会である。しかし、男性の差異が、強く反動化する事態が発生したのである。これが、父権制だと私は思う。そして、これは、一神教へと帰結した。これは、人類の本質である差異共存志向性から見ると、邪道である。なぜ、邪道が発生したのか。私は、差異共存志向性の冷暗化を言ったが、それは、何なのか。私は、自然的生産性の乏しさと言った。しかし、自然的生産性の乏しいところにも、本来は、差異共存志向性の社会があったのである。
 直観で言えば、ある暗さが生じたのである。視線が暗くなったのである。あるいは、英雄的衝動が発生したのである。そう、反動ではなくて、連続・同一性の志向性が圧倒的に増大したときがあったと考えることができる。そうすると、差異共存志向性は、ほとんど無視される状態となる。自我というよりは、個体の意志の強化である。英雄の誕生である。反動ではなくて、正道としての英雄である。そして、この英雄はいわば傍若無人であり、他者を支配すると言えよう。これは、完全に無邪気である。いわば、幼児の暴力性である。そして、これが発展すれば、帝王となるだろう。そう、ニーチェの力の意志に近い。無邪気な、直截な力の意志である。そして、思うに、このような男性の帝王的英雄に対して、社会は、差異共存志向性の叡智を授けて、「国」を治めさせたのであろう。英雄と叡智との結びつきがあったはずである。英雄神話には、これが、女神との聖婚という形で表現されているだろう。
 さて、この男性の純粋な表現である英雄によって、被害を受けるものがたくさんいた。そう、ここで、ルサンチマンが発生したと言えるだろう。私の言う冷暗化である。そして、ユダヤ教キリスト教とは、このルサンチマンの宗教化である。力・権力への怨嗟、怨恨である。ニーチェ/ロレンスはこのことを正に天才的に洞察した。とまれ、ここから、疑問への解答が得られたと考えられる。即ち、男性の純粋な英雄化があり、次に、反動として、怨嗟・怨恨(ルサンチマン)の自我中心主義化である。すなわち、反動的英雄待望化である。純粋英雄主義と反動的英雄主義があることとなる。これが、邪道化の正体である。男性の純粋化、そして、それに対する反動である怨恨による自我中心主義・悪魔主義。そして、この反動的英雄主義・自我中心主義が、新自由主義となっていると考えられる。これは、全体主義ファシズムである。反動英雄待望主義である。小泉首相が「大衆」・群衆受けするのである。
 さて、ここで、人間存在の本質である差異共存志向性を復活させないといけない。世界が、極端に傾いてしまっているのである。超越論的根源・起源・基盤の差異共存志向性へとルネサンスしないといけない。差異共存志向性への回帰、永遠回帰である。原点への回帰・革命である。原点革命である。差異、特異性、個の叡智の噴火である。差異共存志向性社会への人類進化である。

p.s.  補足すると、ここで、差異共存志向性への回帰と言ったが、これを徹底するとやはり、ある種の反動となるだろう。結局は元の木阿弥となる。以上の考察から、純粋な力の発動・発現があるのである。そして、それと均衡すべき差異共存志向性という原点・原動力があるのである。だから、自然のもつ力をねじ曲げてはいけない。純粋な力の能動があり、また、原点の差異共存志向性がある。前者は、純粋な市場的競争を認めるという観点になると思う。しかし、これは、強者の論理である。大資本、巨大資本が有利である。結局、純粋な力の能動と差異共存志向性とのバランスをとる政策・施策ないしシステムが必要であるということではないだろうか。だから、単純な自由主義経済ではだめなのだ。それとバランスをとる差異共存志向性経済が必要なのである。この両極的経済が、理想的というか、「持続可能」な社会を生むだろう。ともかく、小泉一派の路線は、強者の路線であり、邪道である。
 では、このバランスを取る両極的経済とは実際どのようなものだろうか。それは、差異共存的能動創造経済だろう。差異共存志向性と差異連続・同一性とが結合した経済である。母権制父権制との結合経済と言えるかもしれない。母父権経済である。問題は、主導的価値観の問題である。男性における差異共存志向性が、連続・同一性への志向性よりも弱くても、本来、前者が基盤である。
 少し整理しよう。父権制は反動である。だから、純粋な英雄性ではない。純粋な能動性は、差異共存志向性を否定はしてはいない。ただ、作動させていないだけである。つまり、差異共存志向性と純粋な能動性は結合が可能である。これを、目指すべきなのである。だから、母父権経済ではなくて、差異共存志向性・純粋能動経済を目指すべきである。差異共存志向性強度と純粋能動強度を合体・結合する経済システムである。差異共存純粋能動経済システム。それは、差異共存純粋能動資本主義ではないだろうか。共存能動資本主義。共能資本主義。あるいは、差異能動経済。考えたら、これは、差異の十全に展開する経済である。これには、差異能動主義という政治が必要である。そうでないと、資本主義の反動性が社会を破壊してしまう。差異共存能動資本主義を指導する政治が必要である。とまれ、差異共存能動経済理念が必要である。差異共存能動性の理念をもつ政治家が必要であるし、そういう指導者が必要である。国民の差異共存能動性を点火させるような政治指導者である。

p.p.s. 一言で言えば、スピノザ的差異能動経済ということになるだろう。差異共存能動性である。つまり、差異共存志向性を積極化することにより、個体的能動性をさらに発展するのである。即ち、差異共存的能動経済である。差異共存志向性強度と連続・同一性強度の合体・結合である。つまり、差異共存志向の能動的強度と連続・同一性の能動強度が結合する。差異共存・連続同一性能動経済である。差異共存能動連続・同一性経済である。差異共存能動資本経済である。差異共存能動資本主義である。

3p.s. 差異共存志向極と差異連続・同一性極の両極性経済。イデア極と現象極の両極性経済。つまり、メディア界経済だ。メディア界的資本経済、メディア界資本主義、これである。メディア界両極資本主義。

4p.s.  大岡信氏の連詩の概念を差異共存能動資本主義に適用するといいのかもしれない。連詩とは、何人もの詩人が、短い詩に対して、自己の詩を付けて展開するものである。連歌の詩ヴァージョンである。ここで、興味深いのは、連詩にすると、詩人の個性がさらに深化することである。つまり、連化するから、集団性が強化されるのではなくて、個・差異・特異性が純化されるのである。連詩的な差異共存能動資本主義を私は想像する。



新自由主義の「小さな政府」は古代奴隷社会への退行原理である


竹中平蔵の「小さな政府」論を批判した稿の中で、新自由主義者の「小さな政府」への原理主義的志向は、実のところ古代奴隷制への回帰だと論じたことがある。その主張の中身を少しだけ埋めたい。最近は経済学の本や論文を全く読まなくなった。野口悠紀雄田中直毅の頃はそれなりに読んでいた。最後は金子勝セーフティネット論とクルーグマンの「流動性の罠」を表面だけ斜め読みして、そこから先は経済学の話が全く面白くなくなって読まなくなった。世の中を「勝ち組」と「負け組」に分ける経済理論には私は興味と興奮を覚えない。「勝ち組」と「負け組」の存在を社会的に前提した経済理論は読む気がしない。だから森永卓郎も読まない。私が読みたいのは、昔の宮崎義一のような夢のある格調高いマクロ・エコノミーであり、市民社会を構成する中産的な生活者である市民が、日本経済を分析したり構想する上で有意味な思考材料を提供する社会科学である。最近はそういうものが無くなった。日本から経済学が消えたと言ってもいい。理論らしい理論はすべて米学で生産された英語のドキュメントであり、日本人がやるのは翻訳と口パクの無批判受容だけだ。
・・・」
http://critic.exblog.jp/3359140#3359140_1
世に倦む日々