不連続的差異論入門:その27

バッハ音楽とは、差異共存志向性の音楽ではないか

バッハの『フーガの技法』、『ブランデンブルク協奏曲』、そして、受難曲等々、その多元性、対位法、多声音楽は、どうも、差異共存志向性、メディア界の構成を紡ぎ出しているように思える。後で、検討しよう。
 因みに、ビートルズ音楽もそのような面がある。思うに、これらは、ケルト民族の思想ではないだろうか。ケルトの多重な文様を見よ。バッハ音楽は、ケルト的なのではないだろうか。ヨーロッパの基底・基盤にあるメディア界的なもの。EUの発想にもこれがあるだろう。古ヨーロッパの思想。前アーリア民族的発想。ケルト民族は、アーリア民族であるが、それ以前の思想を受け継いだのではないだろうか。





深層心理学批判と不連続的差異論

先に精神分析ユング心理学について触れたが、不十分なので、ここで、明確にしたい。
 フッサールが説くように、心理学は、超越論へと発展すべきだったと考えられる。とまれ、フロイト精神分析を形成したのは、19世紀末から20世紀初期である。オイディプス・コンプレックスの仮説である。しかし、私が既に述べたように、これは、原因と結果を取り違えているのである。マザーコンプレックスは、結果に過ぎない。それは、差異共存志向性が十分に発揮できていない男子の状態に過ぎず、それが、「マザコン」に結果しているのである。これで、精神分析批判の一つである。 
 次に、性的なもの、近親相姦を主導的なものとしている点であるが、性的なものに関しては、これは、近代の精神と身体の二元論への反動と見るべきである。つまり、近代主義の枠組に留まっている。そして、この近代主義は、身体の基盤に性的なもの、動物的なものしか見ていない。だから、「無意識」が性的なものが主導的になるのである。この点は、興味深い。なぜ、劣位に性的なものを置くのか。後で、詳論したい。
 次に、近親相姦を核心にしたのであるが、これにも最初の批判が適用される。原点は、差異共存志向性であるが、これをやはり、十分発揮できない状態、「マザコン」の変異である。
 最後に、精神分析は、差異共存志向性を見損なっているのであるが、それと同時に、近代主義的二元論の反動となって、動物的領域を肯定するものとなっているのである。すなわち、人間存在の核心である差異共存志向性を完全に外した空想である。
 ラカン精神分析については、後で述べる。
 
 次に、ユング心理学であるが、それは、フロイトへの反動であり、差異共存志向性に接近しようとしている。しかし、前提が間違いである。自我と無意識との統合である個性化を目指しているのであるが、思うに、これは、水と油の統合だと思う。というか、近代的自我への反動として、差異共存志向性が衝動・情動化している事態であり、この反動的病理的事態を深層心理や集合・普遍的無意識としていると考えられる。つまり、ユング心理学は、病的精神状態を、一般化しているのである。しかし、それは、特殊な病的な状態に過ぎない。問題は、やはり、精神分析と似ている。近代的二元論(精神/身体)の枠組みで、発想しているのである。つまり、近代的合理主義の反動としての、深層心理である。近代主義の裏面である。しかし、ユング心理学は、精神分析よりは、差異共存志向性に接近しようとはしているだろう。そして、ヴィジョン、心的映像として、深層心理を捉えているが、それは、差異共存志向性のもつヴィジョン性と通じるだろう。しかし、差異共存志向性は、イデアやロゴスの世界でもある。論理の世界である。これをまったくユング心理学は取り逃がしているから、反動なのである。論理が、ヴィジョンを生むことをまったく見落としているのだ。これは、非合理主義にならざるをえない。ユングナチスに近づいたのは、偶然ではない。ナチスの反動的近代主義的暴力とユング心理学は、暴力の情動によって共鳴してしまうからだ。(因みに、石原慎太郎小泉首相は、この反動的近代主義的暴力情動をもっている。三島由紀夫もそうであった。しかし、三島由紀夫の場合は、ユング心理学に近いと思う。)結局、ユング心理学は、折衷的で混濁しているのである。

 さて、最後に、ラカン精神分析であるが、ラカンは、フロイトを超えていると思う。ラカンは、いわば、近代西欧の近代主義の心理を解剖しているのだ。フロイト近代主義の反動であったのに対して。ラカンの言う象徴界とは、自我である。近代的自我であり、個・個吾、差異、特異性ではない。デカルトのコギトの「吾」ではない。そして、ラカンは、差異共存志向性を排出・隠蔽するものとして、「父の名」の仮説を立てたが、これは、実は、反感・反動性であり、原自我である。そして、この「父の名」、原自我が、近代的自我、自我を確立するのである。この点で、ラカンは、フロイトを乗り越えて、近代的自我の発生を解剖しているのだ。そして、現実界想像界象徴界の図式であるが、この三層界論は、不連続的差異論のそれに似ている。しかし、問題は、ラカンが、精神分析の近親相姦や去勢と言った概念を保持して、自己の説を歪めてしまっていることである。その近代主義的反動がラカンの理論に取りついているのだ。それを剥がして見ないといけない。だから、象徴界は、近代的自我界であり、想像界は、反動化されたメディア界である。現実界の解釈は難しい。基本的には、差異共存志向性ないしイデア界に相当すると思うが、非常に不鮮明だと思う。直観を展開しよう。メディア界において、差異は共存志向性と連続・同一性志向の両面をもっている。現実界の発想とは、記号化される以前の差異の世界を意味するだろう。ならば、それは、差異共存志向性であり、さらには、イデア界であるとなる。ただし、問題は、やはり、近代主義への反動であるから、ラカンは論理・ロゴスを取り逃がしていると思う。つまり、非合理主義となっているのだ。差異の論理・ロゴス、つまり、超越論的論理があるのであるが、超越論性はラカンは捉えていたようだが、論理・ロゴスを喪失している。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/niwaii/20041116
http://www.hirokiazuma.com/texts/ecriture.html






差異共存志向性の多次元性

差異共存志向性という人間の特異性の多元性、多次元性、多様性を考えよう。明快にするために、箇条書きにしたい。

1) 差異共存志向性ということで、これは、倫理性、人倫性である。動物との差異性を形成する。
2)原記号・言語作用である。セミオ・サンボリック作用である。つまり、言語形成作用であり、チョムスキーの説く生成文法の根源に当たるだろう。(p.s. 構造主義とは、そのまま、ポスト構造主義になるだろう。なぜなら、構造とは、差異の連結であるからだ。ドゥルーズによる構造主義の説明が正にそうである。また、構造主義現象学である。超越論的現象=構造である。)
3) 脳神経的には、間脳に当たり、連続・同一性化としては、大脳、新皮質を形成するだろう。
4) また、認知論的には、根源的グラフ性=エクリチュールの基盤である。cf.デリダ
5) 宗教性の根源であると考えられる。また、イデオロギーナショナリズムパラノイア、妄想等神経・精神病の根源である。
p.s. 後者に関しては、自我による反動化においてそうであることを確認したい。
6) イデア論やロゴス論の根源である。
7) 現象的には、量子状態である。しかし、量子は、差異共存志向性の現象的表現である。
8)精神分析ユング心理学で言われた深層心理とは、実は、このことである。精神分析において、性的なものが主導的になったのは、差異共存志向性とは、メディア界において、動物的差異性(本能性)と連合しているからである。(p.s. 訂正すると、精神分析の無意識とは、動物的領域を主に指していて、差異共存志向性を指していることはほとんどないように思える。)それに対して、ユング心理学は、動物的差異性を分離して、差異共存志向性のみを対象としているので、空想性が強いのである。D.H.ロレンスは、両者を統合していると考えられる。思うに、ラカンは、現実界という領域で、人間のメディア界全体を指していたのではないだろうか。想像界とは、現象界よりのメディア界、即ち、現象極を意味しているように思う。
9) 差異共存志向性とは、当然、フッサールの志向性である。結局、フッサールドゥルーズの哲学の合体である。
10)シニフィアン(記号作用)とシニフィエ(表象観念)とは、ノエシスノエマにほぼ対応するのではないだろうか。すると、差異共存志向性は、シニフィアンシニフィエの両方を形成するだろう。志向性がシニフィアンであり、志向性による連続・同一性がシニフィエであろう。






トゥイスター仮説(ペンローズ)と不連続的差異論

「 <注>Rojer Penrose:(1931〜 /イギリスの数学者・理論物理学者、 ケンブリッジ大学教授)
・・・ペンローズは宇宙の構造に関して、一般相対性理論量子力学を統一した「Twister仮説」を提唱している。認知心理学人工知能研究等の先端領域では、「Twister仮説」の“脳神経内で形成される抽象的なベクトル空間への応用可能性”が注目されている。このベクトル空間で出現するグラフ的な表象(身体全体の所与条件が一定の重み付けで分配されて生成される多次元関数的な分散表象の軌跡)こそがニューロン(脳神経細胞)内部のエクリチュールと定義できる可能性がある。」 ([暴政]『小泉H.C.ポルノ劇場』が蹂躙するエクリチュール
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003826071.html

上の引用の「このベクトル空間で出現するグラフ的な表象(身体全体の所与条件が一定の重み付けで分配されて生成される多次元関数的な分散表象の軌跡)こそがニューロン(脳神経細胞)内部のエクリチュールと定義できる可能性がある。」がとりわけ、不連続的差異論に関係すると考えられて興味深い。
 先に私は、人間存在の差異構造について検討した。それは、過剰な差異共存志向性が、人間存在の差異性の中核であるということである。そして、差異共存志向性とは、連続・同一性へと向かい、記号・言語(象徴)を形成して、現象化すると述べた。すると、この差異共存志向性とは、引用のベクトル空間のベクトルに相当すると考えることができるだろう。ただし、ベクトルを連続性と捉えてはいけない。このベクトルとは、不連続的差異の連続・同一性志向性と見なくてはならないのではないだろうか。また、ベクトル空間とは、当然、メディア界であり、脳神経で言えば、おそらく、間脳領域ではないだろうか。そして、引用の「このベクトル空間で出現するグラフ的な表象・・・こそがニューロン(脳神経細胞)内部のエクリチュールと定義できる可能性がある」という箇所の「グラフ的表象」であるが、これは、差異共存志向性による差異の連結・連続化における文様・パターン・原型・構造・原造形と考えることができるのではないだろうか。これは、デリダエクリチュール論と重なるだろう。(思うに、アルシ・エクリチュールとは、イデア界・デュナミスの差異の共立構造ではないだろうか。)そう、この場合のニューロンは、間脳ということになるのではないだろうか。(そして、また、チベット仏教の瞑想もここと関係するだろう。)また、プラトンイデアの一つも、このエクリチュールと考えることができるだろう。そう、イデアは、エクリチュールである。観念=ヴィジョン(イデアの語源 ideoは、見ることである。)は、エクリチュールである。(p.s. 漢字、象形文字は、メディア界のエクリチュールの反映であろう。)(p.s. 私は、バッハの音楽を「聴く」が、「観ている」と思う。音楽も、差異の造形である。音楽を観るのである。当然、音もエクリチュールである。後で、感覚知覚空間について考察しよう。)
 このように、ペンローズの理論と不連続的差異論をつなげることが可能であると思うが、しかし、看過されてはならないのは、ベクトルにしろ、ニューロンにしろ、エクリチュールにしろ、それは、連続化された見方であることであり、差異共存志向性、正確に言えば、不連続的差異共存志向性が、本体・本質・実体であるということである。(差異が徐々に連続化されるエッシャーの絵が参考になるだろう。)この点で、不連続的差異論の方が、ペンローズの理論より優れていると考えられる。もっとも、ペンローズの理論は、不連続的差異論の深化のための、役立つだろう。





人間存在の差異とはどういうものか:動物とどう異なるのか:その2

先の考察を整理すると、人間のメディア界は、

動物領域【d1〜d2〜・・・〜dn】と人間領域【d(n+1)〜d(n+2)〜・・・〜d(n+x)】から構成されている。
即ち、

動物領域【d1〜・・・〜dn】〜人間領域【d(n+1)〜・・・〜d(n+x)】

となる。簡潔化すると、

動物領域【d1〜dn】〜人間領域【d(n+1)〜d(n+x)】

となる。 
 さて、先の考察から、動物領域は、自己完結したシステムである。これは、思うに、本能的なシステムを指すだろう。新陳代謝、諸欲望等々を司るシステムである。脳で言えば、視床下部の領域、小脳等の領域であろう。ある意味で、自動的なシステムである。ここには、記号・言語システムはない。
 それに対して、人間領域は、その差異、d(n+1)〜d(n+x)が、マイナス強度をもつが、それに対応したプラス強度をもたないのである。動物領域では、両者の対応・均衡があるため、自己完結するのであるが、人間領域では、その差異に対応すべき、プラス強度が欠落しているのである。だから、マイナス強度は、メディア界を超脱・超過・突破するように、現象化すると考えられる。すなわち、マイナス強度はそれと対応すべく、連続・同一性化へ向かうが、人間のメディア界にはそれへと適応するプラス極がないから、動物領域のプラス極、現象極を超過・貫通するように、乗り越えるように、あるいは、はみ出すように、連続・同一性化するのであり、それが、現象化である。ここでは、記号・言語=エクリチュールを介して、現象化が成されると言えよう。ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)やル・サンボリック(記号象徴作用)を考慮すると興味深い。人間領域の差異共存志向性というマイナス強度は、連続・同一性化→現象化へと展開する。この差異共存志向性・マイナス強度が、同時に、セミオティックであり、サンボリックであろう。(そう、私見では、クリステヴァは、二元論化してしまっている。そうではなくて、両者は同じものである。ただし、自我が介入することで、そのように、二元的に乖離すると考えられる。これは、父権神話と類似的である。)即ち、セミオティック即サンボリックである。原記号作用=記号象徴作用である。そして、自我は、これを二元論化する。差異共存志向性を排出・隠蔽して、連続・同一性の記号・言語中心主義となるのである。(実は、これを、デリダは、ロゴス中心主義として脱構築の対象としたのだろう。)
 さて、以上から、動物と区別される人間の差異とは余剰・過剰な差異共存志向性であることがわかった。これが、記号・言語形成の原動力である。ここで、造語すれば、セミオサンボリック作用と呼んでいいだろう。そして、結果は、連続・同一性であり、基盤の差異共存志向性とは常に、「差異」、ズレ、断層があるのである。(私の知人の鎌野重義氏は、『乖離の現象学』という論文で、これを見事に論証している。)そして、自我は、これを無化しようとしているのであり、それは、暴力・権力・悪へと化するのである。そして、近代西欧は、自我中心主義・資本主義の方向に進んだのであり、その帰結が、グローバリゼーションである。そして、「郵政民営化」である。しかし、今や、反転が始まっているのである。これは、必然である。基盤・根源・原基の差異共存志向性のマイナス強度が、賦活活性化して、脱自我主義、脱近代主義、脱新自由主義を志向しているのである。これは脱西洋主義である。新しい東洋主義である。
 とまれ、根源の差異共存志向性という叡智のマグマが、自我的連続・同一性の世界に地殻変動を起こして、新たな差異共存志向の社会・世界を「造山」するのである。差異共存志向性資本主義である。差異共存志向性政策が必然となる。Post・bushokoizumism.

p.s.  差異共存志向性の領域は、脳で言えば、新皮質や前頭葉ではないだろうか。しかし、私見では、差異共存志向性とは、リトル・ブレインと呼ばれる、身体の神経節や神経叢等に基盤があるようにも思うのである。思うに、脳神経で、この領域があるはずである。間脳がそうだろうか。あるいは、視床だろうか。

参考:間脳
以下は、次のページで、写真や図を確認してほしい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003827649.html

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

間脳(かんのう)は大脳半球 と中脳 の間にある自律神経 の中枢 。
− 脳


− 大脳

+ 大脳半球 (=終脳 )

− 間脳

− (広義の)視床

視床上部

+ (狭義の)視床 (背側視床

+ 腹側視床

視床下部 (→下垂体 を支配)

+ 中脳

+ 小脳


図.1
ヒト脳のfMRI画像 円弧を描く白い帯状の脳梁に囲まれた部分が間脳。カリフラワー状の小脳の左上に位置する
拡大
ヒト脳のfMRI画像 円弧を描く白い帯状の脳梁に囲まれた部分が間脳。カリフラワー状の小脳の左上に位置する

解剖

脳は大脳 、中脳 、小脳 からなり、大脳は大脳半球 (=終脳 )と間脳からなるので、間脳は大脳半球と中脳の間にある。2つの大脳半球に包まれる様にして一つの間脳があり、2つの大脳半球は一つの間脳に繋がってる。間脳は中脳に繋がっている。間脳は(広義の)視床視床下部 からなり、視床視床上部 と狭義の視床 (背側視床 )と腹側視床からなる。(図.1) 単に視床と言う場合は狭義の視床を指す。
[編集 ]

働き

間脳は大脳半球のほぼ全ての入力と出力を下位中枢と中継する信号の交差点となっている。特に視床下部 は本能 的な活動を制御 している。
[編集 ]

入力

視床は嗅覚 を除く全感覚 の中継にあたる。視覚 と関係があると考えられていたのでこの名称がついている。
[編集 ]

出力

中脳が頭頚部の筋肉 を直接制御するのに対し、間脳は自律神経 やホルモン 等を介して内臓 全体を制御する。
[編集 ]

自律神経

間脳は視床下部 にある自律神経核 によって自律神経 である交感神経 と副交感神経 を制御している。交感神経 は獲物を捕らえる闘争反応 や敵から逃れる逃走反応 等を制御し、副交感神経は消化 や睡眠 等のリラクゼーション反応 等を制御する。
[編集 ]

ホルモン

間脳は視床下部によって脳下垂体 (下垂体 )を支配して食欲 、性欲 、睡眠欲 等を制御している。また、免疫 等も制御する。
執筆の途中です この「間脳」は、医学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E8%84%B3 " より作成

カテゴリ : 医学関連のスタブ項目 | 脳 | 脳神経解剖学 | 神経

[暴政]『小泉H.C.ポルノ劇場』が蹂躙するエクリチュール

資料です。

この資料で言及されているエクリチュール理論は、不連続的差異論と関係する。後で、考察したい。


[暴政]『小泉H.C.ポルノ劇場』が蹂躙するエクリチュール
http://www.asyura2.com/0505/senkyo12/msg/694.html
投稿者 鷹眼乃見物 日時 2005 年 8 月 28 日 11:49:42: YqqS.BdzuYk56

『小泉H.C.ポルノ劇場』が蹂躙するエクリチュール

 エクリチュール(ecriture)とは“人間が書くという表現活動、生きた人間が残す生命の軌跡、書かれた文字や記号”というような哲学的・認識論的なフィールドの用語です。我われ一人ひとりの人間、地域社会あるいは国家でも同じことですが、もしエクリチュールの働きと助けがなければ一人の人間の死とともに、そのような人間、地域社会、国家などの存在は時間の経過とともに忽ち人々の記憶から消滅し、あるいはデフォルト(無かったことに)されてしまいます。そして、恐るべきことに数年も経たぬうちに、そのような人間、地域社会、国家あるいは様々な出来事は始めから存在すらしなかったことにされてしまう恐れさえあるのです。

 それどころか、直近の認知心理学等(数学者ロジャー・ペンローズらの新しい理論 /下記・注、参照)の分野の研究では、エクリチュールと「人間の意識」の関係が注目(エクリチュールの働きがなければ“意識”は生まれない?)され始めているのです。余談ですが、このようなことと関連するのが古来から伝わる地方の市町村名や地名の問題です。

 <注>Rojer Penrose:(1931〜 /イギリスの数学者・理論物理学者、 ケンブリッジ大学教授)
・・・ペンローズは宇宙の構造に関して、一般相対性理論量子力学を統一した「Twister仮説」を提唱している。認知心理学人工知能研究等の先端領域では、「Twister仮説」の“脳神経内で形成される抽象的なベクトル空間への応用可能性”が注目されている。このベクトル空間で出現するグラフ的な表象(身体全体の所与条件が一定の重み付けで分配されて生成される多次元関数的な分散表象の軌跡)こそがニューロン(脳神経細胞)内部のエクリチュールと定義できる可能性がある。

 従って、いつの時代でも、自らのガバナンス正統(当)性を誇示する意志と身勝手な政権維持の意図(少しでも長く政権を維持して歴史に名を残すとともに甘い汁を吸い続けたいという、自己中心的な野望と欲望)のために、政治権力者たちは、このエクリチュールの操作(公文書、歴史資料などの廃棄・消去)の可能性に目を凝らしているのです。そこでは、「現実の出来事と事実の消去」だけでなく、政治権力者による積極的な「偽証の創作」(証拠のデッチあげ/イラク戦争を始める口実とされた“大量破壊兵器存在の問題”など、事例の枚挙には困らない)さえ行われます。しかし、このような政治権力者による意図的な「エクリチュールの操作」は、主権在民現代社会に生きる我われ一般国民の人間としての尊厳に対する冒涜であり、最も悪質な犯罪行為だと断言できます。このような訳で、アーカイブの問題(*)は実に致命的ともいえる一般国(市民)への人件侵害に直結する問題でもあるのです。

*<注>「アーカイブ問題」の詳細は、下の記事を参照。

アーカイブの役割とは何か(1)』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306/1110547706

アーカイブの役割とは何か(2)』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050307/1110547635
アーカイブの役割とは何か(3)』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050308/1110547585
アーカイブの役割とは何か(4)』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050309/1110547538
アーカイブの役割とは何か(5)』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050310/1110547371

 また、政治権力者自らが属する国家の管理体制そのものにとっても、絶えず、このような意味で歴史的現実が消去されるままに放置することは、長い目で見た場合は「国家的なリスク管理」の脆弱さという自己矛盾的な問題を抱えていることにもなるのです。なぜなら、リスク管理についての最重要な論点(公理)は「間違いを犯さぬ人間はいない」と「リスク恒常性」の二点だからです。前者についての説明は不要だと思います。

 後者の意味は「先端科学技術など人間の英知をどれだけ引き出し、それを活用・駆使・改善したとしても、これで万全というレベルには永遠に到達できない」という厳然たる現実を直視し、この現実に対し謙虚になるべきだということです。このような国家的リスク管理についての緻密な配慮からアーカイブ(文書局)を整備・充実させたという意味で、先に述べた「カール大帝の慧眼」(詳細は、『アーカイブの役割とは何か(4)』、http: //d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050309/1110547538 を参照)には恐るべきものが感じられます。

 映画『スタ-ウオーズ、エピソ-ド2』の中に「銀河系公文書館」のエピソードがあります。ジエダイの騎士が、ある星の存在についての証拠を求めて「銀河系公文書館」を訪ねますが、そこのアーキビストは次のように返答します。・・・この公文書館に証拠記録(データ)がないということは、その星は最初からこの銀河系には存在しなかったということです・・・ところが、ジエダイの騎士がおおよそ目星をつけた場所へ行ってみると、なんと、その星はシッカリ存在していたのです。ここで描写されているのは、政治権力によって操られる道具と化した「銀河系公文書館」の憐れな姿です。

 このエピソードから連想されるのは、逆説的な意味合いとなりますが、昨年の国会で小泉首相が使った・・・大量破壊兵器が存在しなかったからといって、フセイン大統領が存在しなかったことにはならない・・・という詭弁です。これは無関係な言説どおしを強引に結びつけて一見意味ありげな表現を装ってみせる常套的な詭弁の手法で詐欺師の論法であり、人を欺くための小細工的テクニックです。このような小泉首相の詭弁を弄する言動から臭い立つのは、“自分にとって不都合な証拠は強権的に消去し、もともと存在しなかったことにしてしまいたい”という奢れる権力者の傲慢な意志です。

 このような政治手法がまかり通るようでは、今の日本が先進民主主義国家の一員だとはとても言えません。公文書館の根本が主権在民という民主主義の原則と関連することを理解できるようにするため一般国民の意識改革と「アーキビスト倫理綱領」及び「文書基本法」の整備を急がぬ限り、日本のアーカイブ制度は、いずれ映画『スタ-ウオーズ、エピソ-ド2』の「銀河系公文書館」のような悲惨な役割を担わされる懸念があります。

 また、 2004.5.12付の朝日新聞(記事、海外文化/国際資料研究所代表、小川千代子氏)によると、突然、ブッシュ大統領アメリカ合衆国アーキビストを交代させると発表したため、米国アーキビスト協会(SAA/Society of American Archivists/http://www.archivists.org/ )、図書館、歴史家などの九つの諸団体が懸念を表明して公聴会を要求する騒ぎになりました。

 合衆国アーキビスト(NARA/National Archives and Records Administration /http://www.archives.gov/ )という役職は、国立公文書館を擁する国立公文書館記録管理庁)のトップのことです。NARAの仕事は、合衆国連邦政府の公式な記録を包括的に管理し、その公式の歴史資料を後世のアメリカ国民に伝えるという重要な役割を担っています。従って、そのトップの交代人事は慎重に行われるべきと考えられており、その交代の必要性がある場合には関連団体と事前に十分な打ち合わせを行うことが慣例となっていました。ところが、ブッシュ大統領は、この慣例を一方的に破り、突然の人事交代を通告したのです。その後のこの騒動の決着については詳細な報道がなかったようなので詳しく承知していません。しかし、間接的な情報によると流石のブッシュ大統領も、この問題については引き下がったようです。

 ところで、映画『スタ-ウオーズ、エピソ-ド3』ではダースベーダー(宇宙帝国を仕切る悪の帝王麾下の筆頭子分)誕生の秘密が明らかにされています。つまり、「善」を代表する力を授かった筈のジェダイの騎士アナキン(ミュータント化して蘇生したダースベーダーの前身)が「悪」に魂を売り払ったのは「愛」を守るためであったとされています(詳しくは映画をご覧ください)。実は、映画『スタ-ウオーズ、エピソ-ド3』は、「愛」こそが最も人間の奥深くに刻みこまれた「エクリチュール」だと言いたいらしいのです。人間は、その「愛」を消去されたり、書き換えられたりすることには絶対に耐えられない存在だ、従って自らの心に宿る「愛」を何らかの宿命的な環境・条件(避け得ない運命的な強制力)によって書き換えられそうになれば、人は誰であっても「悪」に心を売り払い、「悪」のパワーに身を委ねるというのです。

 目を転じて見れば、それが帝国主義であれ、絶対王制であれ、民主共和制であれ、いずれにしても政治権力の頂点に立つ者たち(皇帝、国王、大統領、首相など)が、必ずや宿命的に取り憑かれるのが、この「愛」を巡る葛藤です。無論、この「愛」なるものの内容は家族愛や同志愛的なもの(男女の愛、夫婦愛、親子・兄弟愛など)だけに限るものではありません。念のため、すでに他の記事(http: //d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050827 )で書いたことですが、「愛」の概念を広く捉えるという意味でイギリスの日本研究家・ロナルド・ドーア氏(Ronald P. Dore/1925 )が新しい著書『働くということ、グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書)の中で述べている日本社会に伝統的な価値観(恐らく、日本人の愛国心なるものの基層)の四つの要素を再録しておきます。ドーア氏は次のようなことを書いています。

・・・それは「義憤」、「憐れみ」、「慈善」、「本来の意味での自己利益」という四つの価値観である。そして、「義憤」とは“不正義に対する怒り”であり、「憐れみ」とは“他者の苦しみに対する純粋に愛他的な同情心”であり、「慈善」とは“貧困を癒したいという人間本来の欲求”であり、「本来の自己利益」とは“あなたの不安は私の平和を脅かしますという、人間本来の意思(本気で他人を愛すること)についての理解である”。・・・

 恐らく、政治権力の頂点に立つ者は、宿命的にこれらの「愛」の喪失を恐れています。と、いうより、自分が、これらの“人間にかかわる多様な「愛」を理解する、人間としての心と感性を失っていること”を国民一般から見破られることを恐れているのです。なぜなら、このような意味での国民一般からの「愛」を失うことは“頂点に上った自らの全人格を否定すること”に他ならないからです。

 たしかに、殆んどの人間が関心を向ける筈の男女の「愛」を局部的に拡大すればポルノ現象と化します。それをポルノ現象と言って言い過ぎであるなら「芸能化・大衆化」、「テレビ・ワイドショー化」、「週間誌・スポーツ紙化」と言ってもよいでしょう。いずれにせよ、その政治権力者が短慮型であればあるほど、権力維持の手っ取り早い手段として、このような「愛」のごく一部分をクローズアップして利用するという方向へ走るのです。

 とても古い話ですが、暴君ネロの破滅的な暴走政治を引き継いだウェスパシアヌス帝(F. Vespasianus/AD9-79)の「パンとサーカス」政策が、その典型の事例です(小泉政権を支える主席秘書官I.J.氏の強みが週間誌・スポーツ紙など大衆ジャーナリズムとの太いパイプであり、また一方では、それが一般マスコミに対する牽制力となっている(周知の噂によれば、一般マスコミについての様々なスキャンダル情報を手に入れて活用している)ようです。かくの如く、現在の日本政治の中枢が“病み爛れていること”を思うと、まことに嘆かわしいかぎりです。因みに、このウェスパシアヌス帝が、一般大衆の支持によって、最期には「神格化」(神として祀り上げられたこと)されたという歴史的事実も忘れるべきでないでしょう。「ポルノ化」の次は「神格化」へ進むのが歴史的な教訓なのです。

 このような訳で、最高政治権力者が「大衆迎合化」を志向するのは珍しいことではないのです。この「大衆迎合化」(ポピュリズム化)した政治権力の最大の狙いこそが、一般国民(一般大衆)の「エクリチュールの書き換えと改竄」ということです。その最も効果的な手段として考案されたのが「政治のポルノ化」ということです。そして、このような「悪」の理念から生まれてきた「特異なプロパガンダ戦略」こそが、今や周知となりつつある「郵政民営化法案のターゲットをB層に絞る」(アメリ広告業界での常套手段/アファーマティブ・アクションの変異したものと考えることも可能)という、きわめて邪悪な大衆操作の手法です。

 しかし、長い目でみれば、このように“邪悪な大衆操作の手法”は失敗することになるでしょう。それは、人間存在の根本でもある「愛」の守備範囲(内容)は、ポルノ化へ走りがちなものだけではないからです。先に触れたことですが、その「愛」なるものの守備範囲には「義憤」、「憐れみ」、「慈善」、「本来の意味での自己利益」という四つの価値観が入るからです。やがて、「小泉H.C.ポルノ劇場」に騙され、心奪われていたことに気付く人々は、必ずや「義憤」、「憐れみ」、「慈善」、「本来の意味での自己利益」という四つの価値観へ回帰する筈です。なぜなら、これら心身の奥深くに刻みまれた個々の人々のエクリチュールを消去・改竄することは、たとえ暴政の政治権力、巨万の財力、あるいは無敵の軍事力をもってしても不可能だからです。

 「ジェダイの逆襲」ではありませんが、民主主義国日本の主権者としての我われ国民(一般市民)は、このような「ポルノ化した劇場型政治」(娼婦政治/ポルノクラシー(Pornocracy)/9〜10世紀頃のローマ教会では「ローマ教皇庁の政治的立場」の封建領主的な性格が強まり、「娼婦政治」(ポルノクラシー)と呼ばれる堕落をきわめた悪徳政治の舞台となった/詳細はHP『レンブラントの眼、2004.6.2付・日記8/「福音」を曲解した米国プロテスタント保守派に追従する日本(2) 』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki8.htm を参照)の被害を最小限度にとどめる努力(*)をすべきです。それは、我われの後に続く子供たちへの責務でもあります。このため、政治権力の暴走と腐敗を看過すべきではありません。

*現時点における「被害の概要」は下記のとおり。

★[民主主義の危機]高すぎる日本の「民主主義のコスト」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050315/p1
★[暴政]「貧富差拡大時代」招来の上に、国の「社会保障的義務」も放棄するのか?
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050319/p2
★[暴政]米国に追従する「規制緩和」のお粗末な?実態
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050503/p1
★[暴政]「サービス残業の合法化」に関する情報が錯綜してきたので現況をまとめました
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050505/p2
★[暴政]日本政治の冷酷な現実・・・制限されつつある「生存権
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050616/p1
★[暴政]大増税時代が始まる、増税色強まる「政府税調」報告書
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050622
★[暴政]「総選挙」(亡国の美人コンテスト?)の影に隠れる「巨額の国民負担増」、4.8兆円
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050818/p1
★[暴政]「小泉劇場・亡国のリフォーム」の第二幕は『国民皆保険』(原則)の放棄か?
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050819/p1


阿修羅
http://www.asyura2.com/0505/senkyo12/msg/694.html