不連続的差異論入門:その26

人間の差異とはどういうものであるか:動物とどう異なるのか

本件の問題を模索ないし試行錯誤的に検討したい。
たとえば、動物で考えよう。
(なお、記号の説明をすると、たとえば、d1〜d2の〜とは、d1とd2の差異がメディア界に存しているということである。差異共存・連結・連続志向をもつ。また、d1ーd2のーは、連続化されたということである。d1・d2の・は、メディア界における差異の連続・同一性化の志向である。また、d1⇔d2の⇔ とは、差異共存志向性のことである。つまり、⇔は、メディア界のマイナス強度極であり、・は、メディア界のプラス強度極であり、〜はメディア界全体を指し、ーは現象界を指すのである。)

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

これを動物のメディア界としよう。
これが、現象化する。

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

である。ここでは、メディア界と現象界とが、過不足なく対応している。
しかし、人間の場合は、メディア界は、

d1〜d2〜・・・〜dn〜・・・〜d(n+x)

であり、現象界は、

d1〜d2〜・・・〜dn

と、たとえば、なる。つまり、

d(n+1)〜・・・d(n+x)

が余剰ないし過剰なのである。この余剰、過剰が、人間を創っていると思われる。つまり、差異共存志向性が、メディア界に残存しているのであり、これが、連続・同一性化した人間現象において、作動・作用・活動していると考えられる(エネルゲイア)。そして、自我は、これを否定し、排出・隠蔽する反動性をもつ(自我悪)。
 では、この差異、ズレはなぜ発生したのか。突然変異と言えば、それでおしまいである。これでは、説明にはならないだろう。突然変異の意味を探らないといけない。 
 ここで、少し、発想を変えたい。上図式であるが、修正して、動物の場合は、

d1〜d2〜・・・〜dn

であるとしよう。そして、動物の場合は、現象界がないとしよう。つまり、メディア界に生きているのである。しかるに、人間の場合、言語を介して、連続・同一性化=現象界化する。即ち、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdnとなる

(d(n+x)は、置いておく)。しかし、

d1〜d2〜・・・〜dn

というメディア界が潜在・内在している。ここに、差異共存志向性があるということになる。そうならば、人間の特殊性は、連続・同一性化にあると言えよう。ならば、なぜ、そうなのか。逆に言うと、なぜ、動物には、連続・同一性化がないのか。
 ここで、再び、発想を変えよう。私の直観では、「わたし」とは、メディア界に基盤がある。「わたし」とは、差異であり、同時に、連続・同一性である言語的自己意識をもっている。つまり、差異的自己意識と言語的自己意識を併存させている。そして、いちおう、フッサールの志向性のノエシスは前者で、ノエマは、後者になるだろう。問題は、メディア界の差異共存志向性と連続・同一性の志向性との極性が動物にもあるはずなのに、どうして、後者が展開しないのか。やはり、思うに、動物には、なんらかの余剰性、過剰性がないからではないか。つまり、動物のメディア界は、極性のバランスが取れているのであり、いわば、それで、閉じているのだ。動物のメディア界は完結したシステムであると言えるのではないか。均衡した完結したメディア界を動物は生きているから、連続・同一性化=現象化への志向性がないと言えるのであり、人間のような記号・シンボル・表現形成への志向性はないと言えよう。(もっとも、これはおおよその話であり、ゴリラやイルカ等はそれなりの記号システムをもっている。しかし、人間のような抽象的に独立した記号システムではないだろう。)
 とまれ、ここで、確認すると、メディア界の差異共存志向性は、ほぼノエシスであり、連続・同一性の志向性はノエマと言えるだろう。そして、後者が、言語・記号形成志向性であるが、動物の場合は一般にそれに留まり、人間の場合は、それが、現象化へと転化して、言語・記号形成が為されると考えられる。
 さて、もう一度、人間の差異のシステムを考えると、動物の自己完結したメディア界とは異なり、余剰・過剰な差異が人間のメディア界にはあるのではないだろうか。すなわち、差異共存志向性が動物のメディア界を逸脱してしまう余剰・過剰・超過性をもっているのではないか。つまり、人間においても、動物のような自己完結的なメディア界のシステムがあるが、それ以外に、余剰・過剰・超過的差異共存志向性が存在しているということではないだろうか。動物のメディア界を、

d1〜d2〜・・・〜dn

とすると、人間において、それ以外に、

d(n+1)〜d(n+2)〜・・・〜d(n+x)

というメディア界が存することになる。この図式を簡潔にするため、動物のメディア界をdn、それ以外の余剰のメディア界をdnxと表記する。すると、人間において、dnで自己完結してないで、dnxがいわば騒めくと言えよう。これは、いわば、「神」や「霊」・「スピリット」等と言っていいだろう。あるいは、そのように表象したと言えるだろう。「言霊」もそうだろう。そして、「イデア」や「ロゴス」もそうだろう。つまり、dnxの領域は、dnの自己完結領域を超えて、連続・同一性化への志向をもつと考えられよう。つまり、dnの場合は、メディア界の極性が均衡しているが、dnxは、均衡するのに必要な極を欠いていると考えられるだろう。つまり、dnは、

d1⇔d2⇔・・・⇔dn

というマイナス強度極と

d1・d2・・・・・dn

というプラス強度極の均衡が取れているので、現象化への力動はないということになる。しかるに、dnxの場合は、

d(n+1)⇔d(n+2)⇔・・・⇔d(n+x)

というマイナス強度極と均衡すべき、

d(n+1)・d(n+2)・・・・・d(n+x)

というプラス強度極が欠落しているのである。なぜならば、プラス強度極は、

d1・d2・・・・・dn

という動物メディア界の極で閉じているからである。そう、この余剰・過剰・超過の差異共存志向性が当然、連続・同一性への志向性を反作用として生産・形成すると考えられよう。しかし、この連続・同一性の志向性に対して、人間のメディア界には、いわば、受け皿がないのである。なぜなら、dnの動物志向性によって、連続・同一性の志向性の極は、使用されて、いわば、空きがないのである。だから、余剰・過剰・超過の差異共存志向性は、余剰・過剰・朝刊の連続・同一性の志向性をもち、これが、メディア界を超えて、現象化へと転化するのだと思われる。つまり、過剰の差異共存志向性が現象化へと転化するということである。この過剰の差異共存志向性が、記号・言語システムを形成・構築する力能であると考えられる。差異共存志向性の記号・言語であるから、本質的に個的あり、パブリック的であり、社会的である。しかし、反感反動の自我がある場合は、この記号・言語システムが自我のため、利己主義的に悪用されるのである。たとえば、卑近であるが、「郵政民営化」という言葉がそうである。
 とまれ、これで、本件の問題を解決したこととしよう。





メディア界の二つの様相:差異共存志向的メディア界と反動的メディア界

メディア界の二つの様相:差異共存志向性/宇宙同化感覚/連続・同一性と、反感反動的原自我的二項対立力動

先に、差異共存志向性=相互主観性に対する反感・反動力動と、連続・同一性=純粋ナルシシズムとが結合して、自我が成立すると言った。私が問題にしたいのは、差異共存志向性である共感性とナルシシズム的同一化の関係である。それらは、無関係なのだろうか。一見、似ているように思える。しかし、前者は不連続的である。距離がある。私が似ているように思えると言ったのは、いわゆる宇宙的感覚のことを念頭においてのことである。宇宙的一体感、コスモス感覚である。これは、理知的ではなくて、直感・感覚・感情的である。非合理主義的感覚と言えるかもしれない。しかし、差異共存指向性を保持するならば、この感覚は、美的感覚となるのであり、肯定できるものである。つまり、差異共存理性をもっているか否かが問題となる。
 ここで、整理すると、差異共存志向性と宇宙同一感覚と反感反動力動(原自我力動)があり、これらの関係はどうなっているのかが問題である。いったい、宇宙同一感覚とは何だろうか。それは、思うに、漠然としたメディア界全体の感覚ではないだろうか。差異共存志向性が連続・同一性を帯びているという感覚であろう。これは、全体的感覚である。あいまいな感覚とも言える。思うに、これが、ロマン主義の感覚であろう。あるいは、表現主義の感覚。そして、ユング心理学の集合的・普遍的無意識の感覚。さらには、ベルクソンの持続の感覚であろう。すると、この宇宙同化感覚とは、連続的差異の感覚に帰結すると言えるだろう。ロマン主義が、有機体論になるのは、このためと言えよう。そして、ドゥルーズの差異哲学も、この側面をもっているので、いい加減なのである。なぜなら、差異性を連続・同一性で処理してしまうからだ。特異性の差異、不連続な差異をそれとして把捉・理解せずに、連続・同一性として一般化してしまうからだ。私見では、ドゥルーズの映画論は、この誤謬に染まってしまっていると思う。
 ということで、メディア界的全体感覚があることがわかった。では、これと、差異共存志向性と反感・反動力動性とはどう関係するのだろうか。はっきりしているのは、差異共存志向性⇔宇宙同化感覚⇔連続・同一性志向性である。これが、思うに、フッサールの説く現象学的還元による純粋な生活世界の様態ではないだろうか。問題は、反感・反動力動が生じた場合である。それは、差異共存志向性を否定する。だから、この否定反動性とは、メディア界的全体性をもった否定反動性ということではないだろうか。そして、全体性をもって、差異共存志向性を劣位に置き、反感・反動的連続・同一性ナルシシズム=自我を優位に置く、二項対立的ヒエラルキーを確立するということではないだろうか。正に、父権神話の構造である。あるいは、一神教ユダヤキリスト教)の構造である。そして、差別構造である。西洋父権民族の差別構造である。そう、これは、ヨハネの黙示録の絶対的差別主義の構造である。キリスト教的絶対的差別の構造である。
 結局、宇宙同化感覚=メディア界全体感覚と反感反動力動性(原自我)との関係とは、前者の全体感覚性の反動性を後者がもつということだろう。つまり、宇宙同化感覚=全体感覚に対する反感反動力動性がもつという関係である。そう、考えると、D.H.ロレンスが『黙示録論』(ちくま学芸文庫)で批判・糾弾・弾劾していることは、この事態である。つまり、キリスト教によるコスモス否定とは、キリスト教の自己栄光化の利己主義・自己中心主義とは、この宇宙同化感覚=メディア界全体感覚に対する反感反動力動性的自我のことである。そう、ロレンスの言うコスモスとは、正に、メディア界全体感覚のことであり、差異共存志向性や特異性を内包するものである。後者の面が、単純にコスモスと言ったとき看過されやすいのである。ロレンスの場合、不連続的差異を内包したコスモスを説いていることを常に念頭に置かないといけない。つまり、イデア界的メディア界を説いているのであり、これは、不連続的差異論の文学思想的な先駆であると言える。(折口信夫の場合も、これに類すると考えられる。)結局、反感反動的原自我力動とは、宇宙全体感覚への反動性をもって、差異共存志向性(差異共存志向強度・マイナス強度)を否定・排出・隠蔽して、絶対的二元論・二項対立性を確立するものであるということである。
 さて、ここで、自我と個・個吾について触れたい。これは、人間とは何かの問題に関係する。なぜ、人間にだけ、明確に自我や個・個吾を成立するのか。確かに、諸動物にも、低度の自我や個・個吾はあるだろう。しかし、それらは、微小なものに留まっている。そう、思うに、植物や鉱物にさえ、考えようによっては存するだろう。(アニミズムは、差異論的には正しいのである。)問題は、人間における自我や個・個吾の構造である。私は以前、人間においては、イデア界全体が発現していると考えた。それに対して、他の存在は、イデア界の部分が発現していると考えたのである。
 今、考えると、自我は、反感反動的原自我力動と連続・同一性とが結合して成立するとわかった。そして、個とは、差異共存志向性をもった連続・同一性の個体であるということになる。結局、「われ」とは、メディア界の「差異」によって形成されると言える。自我とは、反感反動原自我と連続・同一性との差異ないし二重性によって、個・個吾とは、差異共存志向性と連続・同一性との差異ないし二重性によって形成されるのである。他の存在の場合、この差異・二重性が微小であるということになる。差異・二重性が顕著であるということはどういうことなのだろうか。ここに、人間問題の本質がある。そう、途轍もないズレがあるのである。断層、活断層である。キルケゴールの無限と有限のパラドックスである。神人問題、神化(テオーシス)問題にも関係する。そう、先に、ncRNA の記事を引用した。つまり、空(くう)の「遺伝子」があるのである。思うに、これが、人間の本質に関係すると思う。おそらく、このncRNAが人間のメディア界の差異共存志向性を指しているのではないだろうか。結局、先に述べたように、人間の遺伝子は、イデア界性を強く帯びているのだ。イデア界の差異共立のデュナミスがメディア界においてエネルゲイアである差異共存志向性となるのである。そして、その他の身体の遺伝子は別個にあるのである。つまり、イデア界の遺伝子(ncRNA)+人体遺伝子(セントラル・ドグマ)が人間のメディア界には存するのである。そして、前者は、仏性、性善説であある。古代キリスト教で言う種子的ロゴスである。これが、人間の差異・本質である。他の存在の場合、イデア界の遺伝子が限定されているのである。そして、生体遺伝子が主導・主要的なのである。神人や神化(テオーシス)とは根拠があるのである。結局、万人天才主義となる。このイデア界の遺伝子を抑圧するのが権力・暴力である。各個人のイデア界の遺伝子を開花することで、人間は復活するのである。万民ルネサンス。教育、社会が、このイデア界の遺伝子を閉ざしているのである。とりわけ、権力である。
 では、なぜ、人間の場合、遺伝子構造がこのようになっているのだろうか。突然変異なのか。これは必然である。なぜなら、イデア界の差異は、現象化へと向かうのであるが、最初は、低水準、低レベルのものから始まったと考えられる。無機物、有機体、動物、人間と。無限数の不連続的差異を現象化するには、複雑な手続きが必要である。そう、ここで、知的デザイン進化論、知的計画進化論(intelligent design)を想起する。原始的レベルから高等なレベルへ。そして、イデア界的超至高的レベルへ。そのために、イデア界の胚芽・遺伝子を内在・内包した存在が創造されるのである。これが人類である。そして、進化のためには、さらに高位へと転化する。だから、ニーチェが言うように超人化、フーコーがいうポスト・ヒューマンは必然であろう。つまり、イデア界の遺伝子の展開として、ポスト人類の動きがあるのである。そう、インディゴ・チルドレンとはそういうものではないか。また、占星術でいう水瓶座の時代とは、この人類進化のことではないか。そう、イデア界の超至高の力が、永遠に作用し、永遠回帰を発生させているのだろうか。イデア界史と私は言った。
 郵政民営化の問題とは、正に、人類史的問題である。人類進化の問題である。ポスト・アーリア民族的進化の問題である。

参考:ncRNA
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003746331.html





金権力とマスコミと自我欲望:メディアと欲望と権力

金権力に染まると、理性が麻痺して、自我欲望・権力欲望で動くようになる。マスコミは、特に、上層部が、金権力化している。これは、広告権力・政治権力等によるだろうし、本来、マスコミのもつ傲慢化によるものでもあろう。小泉亡国内閣は、金権力の腐敗の頂点にある。そう、金権力の連続・同一性の虜となっているのである。
 この連続・同一性とは何か。自我の場合であるから、反動化した連続・同一性である。とまれ、連続・同一性の意味するものを検討しよう。それは、メディア界における連続・同一性の強度、プラス強度の現象化である。すなわち、差異が隠蔽されて、連続体という擬制が発現するのである。そして、自我の場合は、連続・同一性という個体意識に反感・反動暴力が固着する。この固着が、金権力の起源であろう。
 問題は、同化するという感情・欲望である。ラカン精神分析では、鏡像段階という自我への契機を提起している。鏡像である自我像と同一化するということである。これは、どういうことなのだろうか。ナルシシズムの問題であるが、先に、ナルシシズムの快感とは、倒錯した歓喜であると述べた。つまり、差異共存志向性の歓喜が、反感によって、否定され、倒錯され、それが、連続・同一性に結びついているということである。しかし、これがナルシシズムのすべてではないだろう。反動ではない、連続・同一性化があるのである。これが、鏡像段階の意味するものではないか。つまり、メディア界という原個体ないし前個体性において、純粋な連続・同一性化あり、それが、純粋ナルシシズムを生むのであろう。この純粋ナルシシズムと反感・反動暴力が結びついて、自我が成立すると言えよう。これが、金権力の根源であろう。これで、本件の問題である金権力の連続・同一性を解明できたであろう。単に、反感・反動性による倒錯だけでなく、純粋ナルシシズムも関係するのである。そして、この自我における金権力の連続・同一性とは、諸欲望体であり、個体の基盤の一極である差異共存志向性を完全喪失しているのである。純粋ナルシシズムに陶然とし、また、ルサンチマン的感情に囚われて、人間の本来の基盤である差異共存志向性=相互主観性=人倫性を喪失しているのである。
 今回の首相の選挙戦術、すなわち、粛清、郵政民営化の二者択一、色仕掛けは、正に、自我=反感・反動的連続・同一性純粋ナルシシズム(これが、悪の正体である)に拠るのである。究極的な悪が発現したと言えるだろう。





超越論的哲学とスピノザ哲学

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫:諸学というのは、誤訳ではないだろうか。諸科学の方が明確だと思うが)の「第五十八節 心理学と超越論的哲学の親縁関係とその差異。決着の場としての心理学」を読んで想起したのは、スピノザの『エチカ』である。スピノザの能動的観念は、心理学から超越論的哲学への方向を意味するのではないだろうか。それは、直接的な感性・経験に対して、能動的に積極的に観念形成するということである。感性レベルよりは一歩高位に立って、事態を能動的に把捉・理解するということである。

p.s. スピノザの能動的観念とは、思うに、差異共存志向性によって、感性的経験を、積極化した観念のことのように考えられる。そして、差異共存志向性とは、経験を自我的に対処するのでなく、自身の秩序に則って、構成すると言えよう。つまり、差異共存志向性に、スピノザの能動的観念を形成する基盤があるということになるだろう。つまり、差異共存志向的観念と言えるだろう。この観念レベルは、メディア界にあると言えるだろう。そして、メディア界とは、いわば、超越論的領界だから、結局、能動的観念=差異共存志向的観念=超越論的観念という等式ができるのではないだろうか。
 思えば、スピノザは、デカルトから出発しているのである。デカルトの「吾」の超越論的次元を、スピノザは彼なりに受容して、能動的観念を考えたのではないだろうか。
 結局、デカルトは、超越論界に存する「吾」を発見したのでり、それをスピノザは、自己の哲学に取り込んだのであり、そして、この超越論的哲学は、フッサールによって明確化されて、現象学となったと言えよう。
 超越論界の明示化、これがフッサールの大発見であり、これは、不連続的差異論からいえば、メディア界になる。そして、超越論界とは、実は、構造主義の構造界になるだろう。だから、フッサールは、現象学によって、構造主義も実質上提示していたのである。思うに、ハイデガーは意識を存在に換えたと言えるのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、存在を差異に換えたのである。しかし、ハイデガーは、フッサールの特異性を忘失していると思う。そして、ドゥルーズは前に何度も述べたが、ベルクソンを無批判的に引き継いで、連続論を取り込んでしまったのである。つまり、超越論界・メディア界・構造界を、連続界にしてしまい、ニーチェのもっていた特異性の不連続性を連続性と折衷させてしまい、不整合な、混濁した哲学になってしまったのである。
 不連続的差異論は、フッサールドゥルーズ哲学を、不連続的差異の視点から、再構築したものとも言えるだろう。ここで、強く興味を引くのは、デリダレヴィナスフッサール論である。





特異性と超越論的「自我」:不連続的差異論とフッサール現象学

私は、特異性とは、現象界にありながら、イデア界に通じていると考えている。これは、正確に言うと、メディア界における差異共存志向性ないし差異性による特異性が、イデア界の不連続的差異である特異点と繋がっているということである。そして、ニーチェドゥルーズ哲学にこのことを見たのである。
 この特異性が、現象界/メディア界/イデア界を貫通していることを、フッサール現象学からも、確認できるのである。自我を判断停止して、超越論的な自我極・全能作を確認する。ここに、特異性が現われると考えられる。(参考:『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』p.371) 
 では、両者を併せるとどういうことになるだろうか。私は、自我と個・個吾を分離しているが、フッサールは、自我(エゴ)の超越論的展開を考えているのである。ここで、整理すると、私がいう自我、近代的自我とは、反動的な連続・同一性である。しかし、反動ではない、連続・同一性の個体が考えられるのである。この連続・同一性は、確かに、「自我」である。そう、メディア界の現象化が、「自我」であり、「自我」には、揺らぎがあるのである。それは、差異共存志向であったり、連続・同一性志向であったりする。しかるに、私の言う自我とは、反動性でしかない自我である。これは、思うに、父権的自我と言ってもいい。私が個・個吾というのは、反動的な自我を解体した、差異共存性をもつ個体性である。
 私としては、自我(エゴ)とは、反動的反感的個体意識として、個・個吾とは、能動的共感的個体意識を意味させたい。そして、後者は、特異性へとつながるのである。「わたし」とは、自我と個の二種類があるのだ。「わたし」を自己と呼ぶことにして、自我や個と区別しよう。「わたし」・自己とは、メディア界の「差異」や揺らぎのことであろう。デカルトのコギトとは、これを指しているだろう。そして、「近代的自我」とはコギトの「わたし」・自己とは全く別のものである。「近代的自我」とは自我である。自我と個の混同・混濁が近代においてあったと言えよう。
 とまれ、特異性を再確認しておくと、それは、自我ではなくて、個において存するものであり、それは、現象界の個体において存し、メディア界/イデア界へと繋がるのである。つまり、個的特異性において、人間は、イデア界的であると言えるだろう。そして、この特異性の構造を、フッサールもまた、「われ」(エゴ)の超越論的展開によって説いていると考えられる。





ヒトゲノムのメロディーを聴こう

研究資料です。

これも、メディア界の差異共存志向性ないしイデア界の差異共立秩序論で説明できるのではないだろうか。しかし、ヒトゲノムは、あくまでも、物質的現象化であり、差異共存・連結自体を意味しているのではないことに注意である。だから、メディア界ないしイデア界の音楽のシュミラクラであろう。



ヒトゲノムのメロディーを聴こう

robert thomason

 ヒトゲノムの塩基配列の地図が公表されたとき、その謎を解き明かして医学などに活用できるようになるまでには何年もかかるだろうと思われた。

 だが、2人の音楽家が早くもそのデータを使って現代音楽を作曲し、『MP3コム』に公開した。

 ミズーリ・ウエスタン州立大学で音楽を教えるブレント・D・ヒュー教授と、オレゴンシェークスピア・フェスティバル劇場の専属作曲家であるトッド・バートン氏は、ヒトゲノムを構成する30億の文字から曲を作った。そこからインスピレーションを得ただけではなく、曲の素材をも手にしたのだ。

 どちらの作品も神秘的だが癒し系の雰囲気を持っており、DNAらせんを探検するSF映画サウンドトラックにでも使えそうだ。幻想的な旋律からは、その出所がこのような現実的な科学技術であることなど微塵も感じられない。

 「音の高さや長さ(リズム)はすべて遺伝子の塩基配列から作ったものだ」と、『ミュージック・オブ・ザ・ヒューマンジーノーム 』を作曲したヒュー教授は言う。

 「遺伝子の塩基配列を旋律に置きかえる法則を作った。法則にしたがってメロディーを作ったあとは、その形を完全に尊重した」

 ヒュー教授は生の配列データを、自作ソフトでメロディーとリズムを表わす数字に変換した。そして、独自の「スプライシング」(配列の切断と再接合)を行ない、ハーモニー、対位、句切りのバランスをとった。

 「ゲノムのメロディーは一種の『ファウンドアート』であり、私は見つけたとおりのメロディーを使った」

 最初は、電子音楽がゆっくりとしたミニマリズム風な雰囲気を作る。そこに、シンセサイザーによるウッドブロックが早いリズムで強弱をつける。やがて、ランダム・サウンドらしい管鐘の音が響く。

 ヒュー教授は、塩基配列を記述する4つの文字、A、T、C、Gの組み合わせから曲を作り出す技術について、詳しく説明している。この4つの文字は、DNA分子を構成する4種のヌクレオチドの塩基部分、アデニン、チミン、シトシン、グアニンをそれぞれ表している。

 ゲノムデータをメロディーに置きかえるために、ヒュー教授はデータを4文字ごとに区切った。最初の2文字が音の高さを決め、後の2文字が音符の長さを決める。

 一方、バートン氏の作品 は、1956年のSF映画『禁断の惑星 』の電子音楽を作曲したビーブ・バロンとルイス・バロン夫妻の影響を受けている。

 「ルイスは12年前に亡くなったが、ビーブは今でも現役だ」と、バートン氏は電子メールによるインタビューの中で語った。「昨年秋にビーブと会うことができた。そして、2人が作った音楽はすべて、哺乳類の生体電気回路を複製するために自分たちで作った電子モジュールから作られたことを知った」

 バロン夫妻はこのモジュールが作った音を、人工的な「生命の形態」誕生があり寿命があり、そして内部に流される電流の量が増えたことによる騒々しい感電死があるとして扱った。2人は回路の「生命」の音を録音し、それを譜面に写しかえた。

 バートン氏がゲノムデータに出くわしたのは、生命を表わすものを音楽に結びつけるというバロン夫妻のアイディアについて熟考していた時期だった。試しに、第1染色体の塩基配列の一部をMIDI シーケンサーに入れてみた。

 「できあがったリズムと調子のパターンに想像力をかきたてられた。私はそのパターンを、基本的な関係を壊さないよう注意しながら単純に拡張したり短縮したりした」と、バートン氏は自身のサイト に書いている。

 4つの塩基文字にそれぞれ1つずつ音符を割り当て、オクターブ単位で上下に移動して音の高低を作った。シンセサイザーによるストリングオーケストラのゆったりとした瞑想的なイントロが、ミニマリズムの雰囲気とテーマを作り出している。

 バートン氏もヒュー教授も共に、太古の哲学を採用している。どちらも、星や惑星のリズミカルな運動が「天球の音楽」を奏でていると主張したギリシャの哲学者、ピタゴラスを引き合いに出している。

 「宇宙の美と調和(ハーモニー)こそが『本物の』音楽であり、すでに存在するその宇宙のハーモニーの一部に共鳴し、それを人の声や楽器からなる普通の音楽に作りかえるのが、音楽家の仕事だ。『ミュージック・オブ・ザ・ヒューマンジーノーム』は、われわれの内部に古くから存在しながら、耳に聞こえる音楽という形にはされていなかった宇宙のハーモニーのほんの一部なのだ」とヒュー教授は語った。

[日本語版:寺下朋子/岩坂 彰]」
hotwired japan
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20010316204.html





チベット仏教神経科学の融合は可能か(上)

研究資料です。

これはとても興味深い記事だ。チベット仏教は、メディア界の差異の共存・連結の領域を調整する方法・技術をもっているのではないだろうか。瞑想とは、メディア界を直接、調律する方法なのだろう。ニューロン神経細胞)とは、差異を物質的に現象化したものではないだろうか。そして、差異の共存・連結・連続性が、シナプスで現象化されているのではないだろうか。 
 結局、差異共存志向性(相互主観性)は、瞑想によって賦活されるということだろう。差異と差異との志向性とは、「観念」=ヴィジョンであり、これと瞑想が直結するのではないだろうか。そのように考えると、プラトンが、エレウシスの秘儀に参加したという言い伝えが説得力をもつようになるだろう。プラトンは、秘儀=瞑想によって、メディア界の差異と差異の「観念」=ヴィジョン=イデアを直覚したことになるのではないだろうか。こうなると、神秘学とは、本質学、フッサールの本質直観と関係すると言えよう。神秘学は、メディア界学になるだろう。
 後で、本件を検討したい。

参考:神経細胞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B4%B0%E8%83%9E



チベット仏教神経科学の融合は可能か(上)
Daithi O hAnluain

 「数年前、『トンレン』を知ったときには非常に驚いた。手にやけどをしていたのだが、(この方法を使うと)腕に麻酔を打ったように痛みを感じなくなった」と、オーストラリアの著名な生理学者ジャック・ペティグリュー教授は、先月オーストラリアのキャンベルで開かれた『科学と精神についての国際会議』で語った。この会議にはダライ・ラマも出席した。

 トンレンとはチベット仏教徒によって、麻酔の発見より800年ほど前に開発された瞑想法だ。これについてはチベット仏教の古典的な思想書である『チベットの生と死の書』[邦訳講談社刊]の中でも説明されている。やけどのような他者の痛みを思い描き、それを自分の身に引き込むことによって作用する技法であり、他者から苦痛を引き取ることによって、自分自身の痛みが消失する。

 この技法の達人は、日常つねにトンレンを実践し、周囲の苦痛を受け入れて、自身の安寧の感覚を増大する。負のエネルギーを世界から受け取り、正のエネルギーに置き換えるのだ。

 「自分の腕に麻酔をかければ、何が起きるかはわかる」とペティグリュー教授は語った。「しかし、トンレンの実践者と一緒の部屋にいる人々もまた、具合がよくなったのを感じる。これをどう説明するのだ?」。科学者には理由はわからない。だが、実に強力な効果があることはわかる。

 ペティグリュー教授の考えでは、西洋科学に東洋の内観法といった瞑想の技法を取り入れれば、脳の働き方への理解を深めることができ、悩み苦しむ人々に実際的な援助の手をさしのべることができるという。

 さまざまな分野で、チベット人が実践してきたことの有効性が続々と明らかになっている。科学がやっと、検証できるだけの高度なテクノロジーを開発したわけだ。

 最近の実験がこれを証明した。被験者は、2つのチームがキャッチボールをしているビデオを見る。チームはそれぞれ着ているシャツの黒と白の色で分かれており、被験者は、白いシャツのチームが互いにボールを投げ合う回数を数えるよう求められる。

 この中で、ゴリラの着ぐるみの男が画面の中に歩いてきて、こちらに向かって手を振り、そのまま歩み去る。ところが、被験者はこれに気づかなかった。

 ここからわかるのは、人はそこにあるものを知覚するのではなく、求めているものだけを知覚するということだ。なんと、チベット仏教徒はこれを2000年以上前にすでに見出していた。現代科学がやっとこれを理解するようになったのは、この20年ほどのことだ。

 『科学と精神についての国際会議』は、チベット仏教と現代科学との接点へ踏み込み、協力し合える部分を探る試みだった。

 「どんなことでも本当の意味での大きな進歩には、飛躍がある……どこからともなく出現し爆発的威力を持つ飛躍だ」と、会議で基調講演を行なったアラン・スナイダー博士は話す。スナイダー博士は、磁気を使って無意識下の精神の創造性を引き出す「シンキング・キャップ」(考える帽子)を研究中(日本語版記事) だ。

 またスナイダー博士は、チベットの瞑想のような意識の変容状態でも同じ目的を達成できるとし、今こそ科学は、科学と仏教という2つの伝統の間の共同作用を探るべきときだと述べた。

 問題は、現代科学が劣っていて、チベット的技法が優れているということではない。ただ、チベット人は経験的観察に基づいた科学的真理を数多く発見してきたということなのだ。さらに、トンレンのように、科学ではいまだ謎ではあるが、実際的に有用だと思われる技法もたくさんある。

 こういったものは科学では説明できず、証明できないがゆえに科学はチベットの技法を受け入れようとはしない。

 シドニー大学のマックス・ベネット教授は、世界でもトップレベルの神経科学者だが、この問題に注意を喚起し、経頭蓋磁気刺激(TMS)によって脳卒中の患者の苦しみを軽減する(日本語版記事) ことは可能だが、「実際脳内で何が起きているのかについては、ヒントすらつかめていないのだということを強調せざるをえない」と語った。

 そのうえ、問題はきわめて大きいと予想される。「(磁気を使った場合に)脳を構成する1000億のニューロンそのそれぞれが1万の神経結合を有しているに何が起きるのかは誰にもわからない。われわれが扱っているのは10の15乗にのぼる神経結合であり、磁気の刺激によってどの結合が遮断され、どの結合が刺激を誘発されているのかに関しては全くわかっていない」とベネット教授。

 「現象として存在するのは確かだ。だがある意味で、西洋科学ではまだわかっていない事項が数多くあることを示すものでもある」とベネット教授は話す。

 しかしベネット教授によれば、ヒトゲノムの解明に伴って、神経科学は心躍る発見の時代にさしかかっているという。可能性は大きい。脳の精密な働きに対する医学的理解を深めることが緊急に求められている。

 「2020年ごろには、人間が抱える最も厄介な症状はうつ病になると言われている。ガンでも心臓病でもなく、うつ病なのだ」とベネット博士は言う。

 これまで、薬剤を基本とする治療の発達は歩みがのろい。

 「われわれは今、奥の深い問題に直面している。神経科学の本格的研究が始まって50年を経てさえ、精神の病の苦しみの緩和に最も貢献する技法は、神経科学の研究が実質的にスタートする(1950〜52年)以前からなされていたものなのだと言ったら、現状が最もわかりやすいだろう」とベネット教授は語る。

(7/26に続く)

[日本語版:近藤尚子/小林理子]」

hotwired japan
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20020725307.html





フッサール Edmund Husserl 1859‐1938

参考資料です。

フッサール Edmund Husserl 1859‐1938

現象学的哲学を確立したオーストリア出身のユダヤ系ドイツ人。 1886 年にユダヤ教からルター派キリスト教に改宗。学生時代はライプチヒ,ベルリン,ウィーンの各大学で数学と自然科学を専攻し, 83 年数学の論文によりウィーン大学の博士号を取得。 84 年から 2 年間ウィーンのF.ブレンターノのもとで哲学を学び,それ以後哲学研究に専念した。職歴と生前の主要著書は以下の通りである。 87 年から 1901 年までハレ大学私講師,この間に,基数概念の心理学的分析を試みた《算術の哲学》 (1891) と《論理学研究》全 2 巻 (1900‐01) を公刊した。後者は現象学の誕生を告げる記念碑的労作である。 01 年にゲッティンゲン大学助教授,06 年に教授となり,《厳密な学としての哲学》 (1911) と《純粋現象学現象学的哲学のための諸考想》 (通称《イデーン》) 第 1 巻 (1913) を出版して,彼が指導する現象学運動は最初の隆盛期を迎えた。 16‐28 年はフライブルク大学教授,退官後も同地で研究活動をつづけ,《形式論理学と超越論的論理学》 (1929), 《デカルト省察》 (フランス語訳版 1931), 《ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学》 (1936) などを公刊した。 50 年以降,彼の遺稿を中心に著作集《フッセリアーナ》の出版が継続されている (84 年現在 23 巻まで既刊)。 13‐30 年には現象学の機関誌《哲学および現象学研究年報》計 11 巻と別巻 1 冊が出版され, M.シェーラーの《倫理学における形式主義と実質的価値倫理学》や M.ハイデッガーの《存在と時間》などを掲載して,現代哲学に深甚な影響を与えた。

 フッサールが活躍した時代は,数学,物理学など諸科学の理論体系を支える基本的諸概念の意味が動揺して,その再検討を迫られた時代,すなわち〈諸科学の危機〉が顕在化した時代であった。したがって哲学界においても,科学的認識の方法と基礎づけをめぐる論理学的および認識論的諸研究が重視され,とりわけ 19 世紀末ころには経験心理学に依拠したそれらの研究 (心理学主義) が優勢であった (《算術の哲学》はこの系統に属する)。しかしそれらの試みの多くは相対主義的な真理論や懐疑論に陥りがちであった。このような状況の中でフッサールも終始一貫,学問論的諸問題に最大の関心を示し,現象学による論理学と認識論の新たな基礎づけを通して,哲学全般を〈厳密な学〉として確立しようとした。彼によれば真に学問的な認識は,絶対的な確実性と普遍妥当性をそなえていなければならない。それゆえ彼は絶対に確実な所与を見いだし,そしてそれを現象学的研究の出発点にしようとした。この条件を充足する第 1 の所与は,反省的直観によって直接明証的に把握される自我の〈意識現象〉すなわち自分自身の知覚体験や認識体験の内在領域である。したがって,これら意識体験の構造と機能を記述することが,現象学的研究の第 1 の課題となり,そしてその結果,意識の本質特性はその志向性(すなわちつねに何らかの対象に関係し,それを思念すること) にあることが確認された。次いでこの特性と関連する第 2 の課題は,志向される〈対象現象〉としての諸事物とその世界の根源的な在り方を,あくまでも意識体験との相関関係の中で解明することであり,そして第 3 の課題は,意識する自我それ自身の存在性格を考察することである。換言すれば,認識論的研究と存在論的研究と自我論の三つが,フッサール現象学の主要な研究領域であり,しかもこれら 3 分野を〈自我が対象を意識する〉という志向的構造に即してつねに相関的に考察する点に,最も重要な特徴がある。ヨーロッパ諸科学の危機を招来した根本原因は,ガリレイ的な物理学的客観主義とデカルト的な哲学的主観主義との分裂にあると見ていたフッサールは,この相関的考察の方法によって,主観と客観との間に新たな関係を回復しようとしたのである。

 ところで上述した諸問題を解明する現象学の基本的性格を,フッサールは〈超越論的〉現象学および現象学的〈観念 (イデア) 論〉という言葉で表現している。認識論的反省以前の,日常の自然的態度におけるわれわれの関心は,もっぱら客観的諸事物に向けられ,しかもそれらは認識主観にとって〈超越的なもの〉として,意識作用とは無関係に実在しているかのように思われている。しかし,そのような超越的客観がいったいどのようにして〈これこれしかじかの存在者〉として,すなわち〈意味的に規定された対象〉として認識されうるのか,という疑問を解明するのが〈超越論的〉現象学の課題である。それゆえ現象学者は対象の実在を素朴に認める態度を一時中止 (エポケー) すると同時に,反省のまなざしを自分自身の意識作用そのものへ向けるための現象学的還元 (または超越論的還元) を行わねばならない。この還元の結果あらゆる対象は,もはや端的な超越者とはみなされず,もっぱら意識の志向的相関者として,すなわち認識されている限りにおいて,意識体験の領域に志向的に内在するノエマ的対象 (思念されている対象) として,その認識の可能性と存在性格を究明されることになる (ノエシス)。この超越論的還元と並行して現象学者はさらに,個々の事実をその本質 (形相=イデア) へ還元する形相的還元を行わねばならない。なぜなら学問が真に求めているのは,単なる事実認識ではなく,本質認識であり,しかも個々の事実はその本質と関係づけられることによって初めて真に論理的に理解されうるからである。現象学的観念 (イデア) 論の特徴は,このように事実学に対する本質学の,あるいはまた感性的直観に対する本質直観の優位を認める点にある。フッサール現象学が〈純粋〉現象学とも呼ばれる理由は,このように本質と意味を固有の研究対象としているからである。

 この超越論的な純粋現象学においては〈志向性〉も,もはやただ単に対象への関係を意味するのではなく,あらゆる対象に意味と妥当性を付与するという仕方で,対象を構成する機能と解される。とはいえこの構成の機能も,対象自身が意識主観に対してみずからを示し与えることとの相関関係において可能になる。換言すれば,認識のヒュレ (質料) は現出している対象の側から与えられねばならない。そしてまた,このような仕方で対象を構成する主観 (ないし自我) は,単なる経験的主観ではなく,超越論的‐純粋主観であるとされ,世界に内在する経験的自我と世界を構成する超越論的自我との間の統一性と差異性の問題や,意識の流れの時間性とその中での自我の同一性の問題などが,自我論の新たな研究課題となる。しかしそれにしても,世界はもとより各事物も個々の主観に対してのみ存在しているのではない。それゆえ超越論的主観性は究極的には間主観性であるとされ,そしてこのことと関連して他我認識の方法が,意識主観の身体性や歴史性の問題と絡めて考察される。これらの諸問題に加えて,後期のフッサールは諸科学の成立基盤としての〈生活世界〉の問題をも主題化して,科学的認識の成立過程をいっそう具体的に解明しようとした。

 《危機》書によれば,フッサールは〈真の哲学と真の理性主義とは同一である〉との確信のもとに,上述した一連の諸問題を探求したのであり,そしてその究極の意図は,理性に対する信頼の喪失に起因するヨーロッパ的人間性の危機を救うことにあった。彼によれば,理性的存在者であることが人間の最も基本的な本質であり,そして理性とは〈あらゆる事物や価値や目的に究極的にみずから意味を与えるもの〉のことである。理性主義を擁護し顕揚するこの思想は,ナチズムの狂躁に対する老哲学者の警告と抵抗の言葉でもあった。彼の現象学は,その志向性の概念をはじめとして,本質直観や記述を重視する方法論上の諸特徴によって,現代哲学のみならず,心理学,精神医学,社会学言語哲学など広範囲の人間科学に深い影響を与えている。日本からも,田辺元九鬼周造,高橋里美,尾高朝雄ら多くの学者がフッサールのもとへ留学した。 ⇒現象学

立松 弘孝」

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排出・隠蔽された差異共存志向性はどういう作用をもつのか


本件も、以前に何度か検討したことがあるが、ここで、再確認のために検討しよう。
 問題は、反感独善的自我を形成した場合、排出・隠蔽された差異共存志向性はどうなるのかということである。男性の場合は、もともと、差異共存志向が連続・同一性志向に対して、弱いのであるが、決して、無くなるわけではない。だから、反感独善自我によっても、排出・隠蔽されても消失するわけではない。では、どうなるのだろうか。ただ、潜在しているだけということなのか。今、問題になっているのは、メディア界である。メディア界は、極性極度があり、差異共存志向性は、マイナス強度である。だから、潜在しても、それは、マイナス強度をもって作用していることになる。反感・反動による排出(排斥)・隠蔽にもかかわらず、差異共存志向性(フッサールならば、相互主観性・間主観性)は、作動しているのである。すると、反感・反動と差異共存志向性とは衝突することになる。だから、ここには、断層、活断層があるのであり、震動しているのである。ここには、いわゆる、反復強迫が生起するだろう。追い遣っても、差異共存志向性は作動し続けるのである。だから、分裂状態にあるとも言える。
 また、差異共存志向性は真の調和的創造的力であるから、これを汲み取らない個体とは、活動力が衰えると言えるだろう。つまり、差異共存志向性を満たすような需要が個体に生まれるのである。これが、ユングが述べた中年の危機に相当するだろう。これは、いわば、宗教的な衝動である。個体の本質に関係するアイデンティティ性に関係すると言えよう。しかしながら、この欲求が充足されないと、個体は、能力、体力等が枯渇するだろうし、また、差異共存志向性が衝動となって、個体の自我を襲うのではないだろうか。つまり、精神病の発病である。
 ということで、排出・隠蔽された差異共存志向性は、潜在的ながら、作動しているのである。
 さて、敷延して考えると、ナショナリズムとは、この差異共存志向性が、自我の支配下において、発現した形ではないだろうか。自我による「宗教」である。だから、反動的「宗教」である。つまり、自我という反動的連続・同一性の枠に閉ざされた、排外的な「宗教」であり、一神教的であると言える。
 これから脱するには、自我を「判断停止」(エポケー)しなくてはならないのであり、差異共存志向性に直截に接しないといけないのである。自我から個へとエポケー的に転換しないといけないのである。この自我から個・個吾への転換の方法については、後で、述べたい。





超越論的不連続的差異論あるいは超越論的不連続差異論

不連続的差異論とは、哲学史的に言えば、超越論的不連続的差異論となる。超越論的不連続差異論とした方がすっきりするだろう。そう、この理論の先駆は、ドゥルーズ哲学ではあるが、今や、フッサール現象学にもあると言うべきだろう。ただし、不連続性の観点がフッサールにあったかどうかである。ニーチェでは、絶対的特異性において不連続性があった。フッサールの「自我(エゴ)」は、絶対的唯一性である。これは、ニーチェの特異性に通ずる面があるが、やはり、相互主観性において、連続性が生じているようにも感じられるのである。しかし、絶対的唯一性としての「自我」とは、やはり、特異性であり、不連続性ではないだろうか。後で、この点について検討したい。