不連続的差異論入門:その25

フッサールニーチェを越えていた

先にも述べたが、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第五十四節bは、不連続的差異論のメディア界の記述と見ていいと思われる。相互主観性とは、これまで、ピンと来なかったが、これは、差異共存志向性そのものである。フッサールは、ニーチェの特異性の哲学にも達していたし、また、ニーチェ以上の叡智に達していたと考えられる。ニーチェは、差異共存志向を排除してしまい、もっぱら、連続・同一性の破壊に向かったのである。そして、その破壊は、残念ながら、反動性を帯びてしまっているのである。力の意志には、自我衝動が入ってしまっていると思う。だから、ナチスに利用される側面があったと言えよう。フッサールは、ニーチェを越えていたのである。しかし、彼の叙述の晦渋さ、くどくどしさが、読者を遠ざけたと言えよう。そう、フッサールは大天才であるが、しかし、叙述の才能は鈍才である。ユダヤ人哲学者の特有の抽象癖と言うのか、観念癖と言うのか、高踏的で、味気、興趣、潤いが欠落しているのである。





現象学、不連続的差異論、仏教:超越論的現象、メディア界、空


フッサール現象学が、先にも触れたが、不連続的差異論の先駆の一つであることが、明確に検証される箇所が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)の中に見いだすことができた。それは、第五十四節のbの箇所である。そこでは、不連続的差異論のメディア界における差異共存志向性に当たる事柄が、フッサール特有、一流のくどくどしい用語や言い回しで詳論されている。今は余裕がないので、引用できないが、例えば、338ページのところは明らかに、差異共存志向性を述べていると考えられる。
 先にも述べたが、現象学とは、超越論的差異論である。そして、ドゥルーズ哲学の主要な源流はここにあると言うべきである。ドゥルーズ自身がフッサールに言及したことを見たことはないが、フッサールを読んで、相当取り込んでいると考えられる。思うに、スピノザニーチェベルクソンドゥルーズ哲学の表立った源流であるが、隠れ源流としてフッサール、そして、現象学があるのだ。フッサールの超越論哲学とは、主体の構造主義であるし、また、差異論を示唆しているので、ポスト構造主義の先駆である。また、無意識論と言うことができるだろう。判断停止とは、自我の判断停止であり、個吾の強度が対象となるのである。個吾とは、メディア界的であり、それは、無意識の領域である。そう、フッサールが言う自我(エゴ)とは、通常の自我ではなく、個ないし個吾として捉えなくてはならない。
 結局、現象学的判断停止(エポケー)とは、不連続的差異論でいう現象界の判断停止であり、メディア界への直覚へと人を赴かせると言えるだろう。そして、これは、仏教の解脱と重なるだろう。道元の身心脱落も同様だろう。自我から個・個吾へだ。(ユング心理学の個性化とは、本当は、このことを意味するべきであるが、ユングは、通常の自我を維持しているので、分裂しているのだ。そう、ユング心理学は、メディア界と現象界との折衷であり、混乱、混濁していると言わざるをえない。)
 結局、予見通り、不連続的差異論、現象学、仏教は共通する領域をもっているのである。それは、メディア界、超越論的現象、空である。結局、ポスト・モダン哲学である。脱近代哲学である。いわゆる、ポスト構造主義とは、実は、現象学のある種の進展であったと言えよう。現象学自体、構造主義的である。結局、19世紀から20世紀にかけての哲学の営為とは、超越論性、超越論的差異性を共通の震源にしていたと考えられる。そして、今や、グローバリゼーションによる日本乗っ取りの状況の中で、哲学、フィロソフィア、叡智学が、不連続的差異論として、結晶したのである。数千年、否、それよりも太古から、人類は、智慧を探究してきたのであり、いわば、永遠の智慧が不連続的差異論として、結晶したと言えよう。これは、森羅万象、万物、万有を包摂する統一理論である。存在の普遍的基本構造をこの理論は、明らかにしたのである。だから、あらゆる事柄に適用できるのである。そう、これまで、哲学者たちが探究してきた叡智の形が発見されたと言えよう。日本人には、縁遠いとされた哲学が、奇蹟的に創造されたと言えるのである。日本人も哲学民族になったのである。これを、郵政民営化衆院総選挙で、考えるべきである。日本人の叡智が試されているのである。





今度の選挙は哲学的な選挙である:仮象か理念(イデア)か


日刊ゲンダイ(8/24)で、緊急連載 狂乱小泉自民 デタラメ落下傘候補の人物判定の記事があり、藤野真紀子愛知四区、西川京子福岡十区、飯島夕雁北海道十区を、批判している。しかし、首相のイメージ戦術は、考えたら、アイコン戦術でもあり、これはこれで、したたかなのだ。理性的にはめちゃくちゃであるが。そう、ブランド戦術と言えるかもしれない。確かに、背水の陣的ではあるが、これは常識人にはできない戦術である。パフォーマンスで、首相の座を維持してきたのだから、最後までパフォーマンスというのは、一貫しているとは言えよう。
 結局、イメージ、仮象、アイコンの側か、理念、理性、意味の側かの闘いである。これは、プラトン哲学の選挙である。広告か真実かである。しかしながら、直観としては、これは、実にくだらない、茶番、子供だまし以下、漫画チック、等である。いわば、シュールレアリスム選挙である。不思議の国の選挙である。現実が非現実、バーチャルになってしまったのである。すると、これは、先に言ったのは違った意味でプラトン哲学の選挙である。現象は仮象となったのである。あるいは、仏教選挙である。実体なき選挙である。だから、これは、実に哲学的選挙である。何が現実か、わからなくなっているのである。幻想選挙でもある。だから、必然的に、仮象を越えた真実、実体のありかを人は求めるだろう。何が真実、実在なのか。すると、広告側ではなくて、理念、理性、意味の側が有利となるだろう。

p.s. デリダ脱構築主義にも近いだろう。つまり、郵政民営化という理念と多種多様な候補者とのズレが生じて、理念が脱構築されるのである。そう、ジェイムズ・ジョイスの小説のようである。シニフィアンシニフィエとのズレが生じて、シニフィエ(対象)が浮遊してしまうのである。