不連続的差異論入門:その32

新自由主義を哲学する:弱肉強食の思想と差異共存志向の思想


ハリケーンカトリーナによって、新自由主義は、打撃を受けて、小さな政府から、必要な政府という方向に風向きが変わるだろう。もっとも、官と公は区別しないといけない。日本語だと、混同される傾向にあるだろう。お上=公(パブリック)ではない。
 また、首相の「官から民へ」の「民」は、民間大資本ということであり、日本「人民・民人」のことではない。これも確認しておこう。 
 さて、ここでは、政治学の見地ではなくて、新自由主義を生む思想源について、考えたい。これは、古典経済学に起源があるだろうが、それよりは、もっと哲学的に考えたい。つまり、近代の問題である。近代における個体の問題である。私は、自我と差異とを明確に区別して、いわゆる、近代主義は、自我に、ポスト近代主義は、差異に関わると考えている。そして、近代は、差異主義であるイタリア・ルネサンスへの反動である宗教改革プロテスタンティズムに起源があると考えている。
 哲学的には、当然、デカルトが問題となる。デカルト哲学には、自我と差異の両面が存していると考えられるのである。とまれ、近代主義とは、自我主義である。これは、差異を否定するのである。差異であれば、差異共存志向性があるから、公益、相互扶助、共助等の社会志向性がある。これは、実は、欧州にある志向である。つまり、欧州は、近代主義を生みながらも、それに対抗する差異共存の思想をもっているといえる。これが、ポスト近代主義、メタ近代主義の思想になるのである。(これは、ジェンダー論的には、欧州には、母権思想が強いと言うべきである。地中海沿岸の国は、そうであるし、古ヨーロッパの前アーリア民族文化も、「遺伝子」としてあるだろう。)しかし、近代西欧・米が支配的になり、自我主義、自由主義個人主義が強化されて、古典経済、そして、究極的には、新自由主義やlibertarianismが生じたと言えるだろう。(思うに、アナーキズムシュティルナーの唯一者の思想とは、これらに近いのではないだろうか。)
 自我主義・近代主義とは、差異の否定である。それは、差異への反動形態をもつ。精神的には、2項対立、優劣、善悪、二元論の思想であり、憎悪、侮蔑、嫌悪、傲慢の感情をもって、支配的である。これが、新自由主義にはっきり現れている。今回のハリケーンカトリーナニューオーリンズ直撃は、そのことを白日の下にさらした。ブッシュは、民主主義を唱えるが、それは、政治形態としての民主主義(間接民主主義)に過ぎず、社会組織としての民主主義ではない。民主主義も、数えなくてはならない。民主主義たち、democraciesである。だから、ブッシュのは、政治形態的民主主義と呼ばないといけなく、また、それは、社会組織的民主主義を欠落させているのであり、欠陥民主主義である。
 とまれ、ここに来て、自我/近代主義の資本主義の中味が露呈されたと思う。黙示録的終末論である。自我/近代主義とは、政治形態的民主主義をもったが、社会組織的民主主義を否定するものである。つまり、自我/近代主義は、民主主義としては、パラドクシカルである。たいへんな矛盾を抱えた問題であり、完成的形態からはほど遠いのである。ここで、差異/ポスト近代主義、差異/メタ近代主義が明確に出現する。
 この哲学的意味を考えると、必然性があると思う。不連続的差異論から見ると、いわゆる現実である現象界を創っているのは、メディア界である。そして、メディア界における反動から、自我/近代主義が形成されたのであるが、しかし、源泉は、メディア界であり、メディア界には、差異共存志向性が、潜在的に活動しているのである(エネルゲイア)。これは、反動である自我に対して、いわば反復強迫のように、反復されるのである。つまり、自我に対する攻撃をするのである。ジュリア・クリステヴァ風に言えば、ル・セミオティック(原記号作用)がル・サンボリック(象徴・言語作用)を襲うのである。そう、根源の差異共存志向性が、自我を解体せんとするのである。これは、哲学的には、ニーチェフッサール哲学が震源である。結局、人間存在の根源の必然性から、自我/近代主義は、解体されると言えるだろう。結局、新自由主義に取って代わる、差異共存主義が出現するのである。これが、新しい政治思想である。

p.s. 思うに、スピノザ哲学は、差異共存主義の先駆であろう。また、スピノザ哲学をどう捉えるのかの問題もある。先に述べたが、スピノザ哲学は、デカルトを受けて、ある意味で、個・差異の哲学を形成したと思う。先にも触れたが、能動的観念という考え方は、現象学的還元性をもっているのではないか。この点は、後で、再検討したい。

参考
新自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

新自由主義(しんじゆうしゅぎ)、ネオリベラリズムとは、政府 の機能の縮小(ダウンサイジング)と、一切の規制の廃止、市場原理 の絶対化を特徴とする経済 思想である。

1980 年代、英国 首相のマーガレット・サッチャーアメリカ合衆国 大統領のロナルド・レーガン新自由主義を先駆けて実行した。サッチャー政権は、電話、ガス、航空などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。 日本 においても中曽根康弘によって電話、鉄道などが民営化された。

1990年代 に入ると、日本 では小沢一郎 が、著書「日本改造計画」で、新自由主義の思想を集約した。 「日本改造計画」では、既存の市町村 の全廃と300都市への削減が述べられている。 2000年以後に現れた、韓国の金大中 政権や、日本 の小泉純一郎 政権や竹中平蔵 蔵相(正式には経済財政担当大臣)の政策も、新自由主義の典型である。
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新自由主義の弊害

新自由主義について、「国民の生存権の保障」を、「『サービス』という名の営利事業」に変えたものであるとの指摘がある。つまり、従来は民だと撤退する準公共財の供給事業を官が補完していたが、新自由主義はそれを否定し、「民(=大企業)こそ絶対だ」という一元的な発想に基づいていると言うのである。

国営事業の民営化による弊害の例としては、アメリカ合衆国アトランタ における水道 事業の民営化やニュージーランドにおける郵便・電力・航空事業の民営化等がある。前者においては、水道管の点検と交換がままならなくなり、銹びた水が噴出して、ペットボトルが必需品となっているという。後者においては一旦民営化が行われたものの、様々な問題が噴出したために再国営化が行われた。

新自由主義者に共通する特徴は、大企業 の横暴への放免と、労働者 への迫害(例:日本の産業再生法 、韓国の整理解雇法 )であるという主張もある。
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関連項目