不連続的差異論入門:その31

フッサール現象学の意味するもの:超越論性と客観性:主観且つ客観的超越論的哲学としての不連続的差異論


後で、検討したいが、フッサール現象学によって超越論的主観性による世界観が生じるとき、これまでの客観的世界はどうなるのか。こうではないかと思う。即ち、人間の見ている世界、現実世界とは、正に、現象界であり、連続・同一性によって生起したものであり、ここには、言語認識が深く関与しているのであるから、連続・同一性/言語によるベールを通して真実の世界を見ている、あるいは、連続・同一性/言語・象徴で加工された本当の世界を見ているということではないだろうか。「物自体」は見えないのである。だから、客観的世界とは、連続・同一性/言語・象徴が創る客観的世界ということで、真実の世界ではない。そして、超越論的志向性がその連続・同一性/言語・象徴の基盤である。
 では、人間以外の存在にとってはどうなのであろうか。この超越論的志向性はない。だから、動植物、鉱物にとって、現象界はないのである。つまり、簡単に言えば、真実在の世界とは、不連続的差異論の言うメディア界であるということになる。これが、「物自体」である。これは、客観的世界とどう関係するのか。つまり、自然とは、真実在的には、メディア界であり、人間以外の存在は、このメディア界に存しているのである。(勿論、人間においても、メディア界は当然、内在している。)すると、超越論性が、自然自体に存在していることとなるだろう。フッサールは、超越論的志向性という主観性を基盤にしている。これは、人間のみにあてはまることである。しかし、人間以外の自然において、超越論的志向性ではないにしろ、超越論性が確認できるだろう。これをどう呼んだらいいのだろうか。
 思うに、フッサールとは異なる意味で、超越論的志向性は、自然全体に存在していると言えるのではないだろうか。そして、人間の場合、これが、過剰であり、この志向性に対応するものとして、連続・同一性/言語・象徴による現象界が形成されるのではないか。たとえば、ゴリラの場合は、連続・同一性/言語・象徴への志向性はあるが、微小である。これは、ゴリラの場合、超越論的志向性が、メディア界において、極性強度のバランスが取れているということではないだろうか。即ち、マイナス極である差異共存志向性とプラス極である連続・同一性志向性の均衡が取れているということである。そして、人間の場合、過剰なマイナス極が、現象界へと転化するのではないだろうか。これは、先にも述べたが、過剰なマイナス極と釣り合うプラス極がないからであると考えられる。あるいは、人間において、動物領域を超えた超越論的志向性があるということが言えるだろう。動物的超越論的志向性とは、極性バランスが取れているので、連続・同一性/言語・象徴という現象界までは十分には達しないということだろう。つまり、微小な連続・同一性/言語・象徴はあるが、大半は、バランスのとれたメディア界であると言えるだろう。
 後で、再検討したい。

p.s.  メディア界という考えは、フッサール現象学の超越論的主観性を超えているものではないか。なぜならば、メディア界は、差異の連結界であり、差異とは、客観的なものであるからである。ドゥルーズフッサールを超越性という観点で批判するのは、この主観性においてではないだろうか。また、ドゥルーズの言う内在性とは、いちおう、メディア界に当たるだろう。しかし、それは、メディア界の連続・同一性の志向性においてであり、差異共存志向性においてではない。なぜなら、差異共存志向性とは、不連続的差異の共存志向性であり、ドゥルーズの連続的差異=微分に基づく内在性では、包括できないものであるからである。 
 すると、不連続的差異論、あるいは、メディア界の考えた方とは、ドゥルーズ哲学とフッサール現象学をも超えていると言えるのではないだろうか。後者に関連させて言えば、不連続的差異論は、その超越論的主観性による主観主義を乗り越えて、主観且つ客観的超越論的哲学になっていると言えるのではないだろうか。





ドゥルーズ哲学はいかがわしい:ポストモダンからメタモダンへ

ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』を久しぶりにめくって、拾い読みしたが、論述が乱雑であり、フッサールに関しては、超越論ではなくて、超越性として捉える誤謬があった。これでは、フッサールを捩じ曲げている。ドゥルーズは、内在性の理論を立てるために、超越性の哲学という悪役をこしらえている。しかし、内在性とは、実は、連続的差異という原空間である。これは、微分空間である。ここから、フッサールを超越性の理論と見ているのだ。そう、連続性の観点からは、フッサールの哲学は、超越性に見えてしまうだろう。だが、フッサールの哲学は、超越性ではなくて、超越論性の哲学であり、ドゥルーズは曲解しているのだ。
 私は、ドゥルーズ哲学は、今や、まったく使い物にならない、時代遅れの理論だと思った。というか。樫村晴香氏が指摘したように、トリック、まやかしの理論である。連続的差異の視点から、他の哲学を見ているので、不連続的差異の理論(フッサール)が見えないのである。だから、思うに、デリダの方が、相対的不連続的差異という明確な根拠によって、誠実なように思える。ドゥルーズ哲学は、不連続性のポーズをしているが、実際は、連続性を基盤としている、不誠実な哲学だと思う。
 そう、フッサールに返る必要がある。ポスト・ポストモダンである。そう、フッサール哲学は、メタ・モダン、メタモダンと呼べるだろう。ポスト・ポストモダンとしてのメタモダン、メタモダニズム