コメント

この記事は、現在の地球を含む太陽系の環境の現実をかなり正確に描写しているのかもしれない。
高エネルギー領域に太陽系が突入することによって、太陽が高エネルギー化されるというのは11年周期を逸脱した太陽活動の説明になるものだろう。
このような太陽系自体が関係する環境の変化が、エネルギーのある種のフードバック回路を変化させ新しい均衡調和状態に移行する。そして、このエネルギー自体が意識と同じものという観察や、物質の基本特性が同時発生的に変化するという観測はいかにもロシア的だ。



http://www.asyura2.com/0403/jisin11/msg/200.html
阿修羅





米国が現実に引き戻された

資料です。

「米国が現実に引き戻された(仏『ヴォルテール・ネット』より)
http://www.asyura2.com/0505/jisin13/msg/118.html
投稿者 さすれば 日時 2005 年 9 月 07 日 17:23:23: reQxnNwQ2shuM

米国が現実に引き戻された
(9月5日 主筆ティエリ・メイサン)

      • -

突然、米国の「国家の不在」を明るみに出しながら、ハリケーンカトリーナブッシュ政権の真の政治を暴露した。すなわち、国家の民営化、縁者びいき、公益より石油企業優先という路線変更。
ティエリ・メイサンによれば、米国内の緊張の始まりは戦争ではなくてハリケーンである。


第一次大戦以降、米国は《自由の国》というイメージをでっち上げてきた。20世紀初めのヨーロッパの崩壊と、それに次ぐソヴィエト連邦の崩壊によって、民主主義と繁栄を保証するモデル国家として人々を納得させてきた。

その優位性と《神》から授けられた使命感によって、米国はその規範を至るところに押し付けようと企て、石油産出地帯を植民地化しようとした。フランシス・フクヤマは《アメリカ式生活》の勝利は決定的だと説いた。----

流れに逆らって、われわれは今日の米国は民主主義ではない、米国は世界と自国から略奪し捲くっている捕食動物の徒党によって統治されていると言い続けてきた。

突然、米国のプロパガンダは現実の壁に砕け散った。ハリケーンである。カトリーナが、ミシシッピー地域とニューオーリンズを破滅させたのである。一瞬のうちに《王様は裸になった》

米国南部はハリケーンには慣れていたが、このような激しさで北へ向かって吹き荒れたのは初めてである。そこには、米国が主要な原因で、京都議定書を受け入れていたら削減できたであろう気候温暖化に関する罪がある。しかしブッシュ政権は、同胞の利益よりも、政権を構成している石油会社の利益を擁護することを好んだ。

ミシシッピー地域は多くのハリケーンに耐えてきた。だが堤防が水没したのは初めてである。そこには、一世紀半にわたる乱暴な石油開発を原因とする沼地の崩壊に関して罪がある。

そこには、科学者が警告し、同時にデルタ地帯の合理的な管理と、下から侵食する堤防の強化を勧告してきた長い年月がある。しかしブッシュ政権は、この地域ではことに黒人である同胞の利益よりも、政権を構成している石油会社の利益を擁護することを好んだ。

FEMA (連邦緊急事態管理庁)はたいへんな自然災害に直面した。この新しい状況に対してどうしてよいか分らなかった。そこには、新しい長官、マイケル・D・ブラウンに関する罪がある。無資格の法律家で、アラブ馬の国際協会顧問という地位から乱暴に配置転換された人だ。他の人たちと同様、ブッシュ家によって再就職したのである。FEMA911の後に創設された国家安全保障省の中心部に組み込まれた。ここにあるのは、対テロ戦争という名目だけで、見せかけの契約と閑職以外のなにものでもない。

米国には、すばやく展開できる優良な衛生機関がある。しかし、連邦の財政負担を軽くするために、反論もなく民営化された。つまり教会に与えられたのである。これはすべて官僚の報告により信仰に基く優位性の名で実行された。

(以下略)

http://www.voltairenet.org/article127437.html


阿修羅





ハリケーンカトリーナと台風14号のタイミング

古い文学作品、例えば、シェイクスピア等を読むと、天の采配、天の配剤、摂理等の言葉が出てくる。私は、今は、そのようなことを信じないが、今回のハリケーンと台風は、そのようなことを想起させるように、衆院総選挙に影響すると思った。これは、野党の雄弁をはるかに越える説得力があると思う。
 首相、自民党は、小さな政府を主張するが、小さな政府の結果が、ニューオーリンズである。災害救助の恐ろしい遅れやその無策等は、ブッシュの小さな政府路線によるものである。あるいは、戦争にかまける新自由主義路線による。金融資本の利潤のために、社会的公益が見捨てられるのである。富者のための政治で、一般人は、犠牲を強いられるのである。そのような路線の帰結が、今回のハリケーンと台風のダブル・災害によって、誰の目にも、明らかとなったと言えよう。これは、天の裁量ではないが、それに近いようなものである。ネットで、「荒野に叫ぶ声」を演じることは大事であるが、その影響はまだ限定されている。しかし、カトリーナ、そして、それと重なる台風14号の甚大な被害は、啓蒙・覚醒的な作用があると思う。さすがの、パフォーマンス屋のゴミ済みも、自然の真の PERFORMANCE(行為)には勝てなかったようだ。





日本語の「KAIKAKU」について:REFORMとA REFORM

先に、郵政民営化問題は、一部、日本語が原因になっているのではないかと言った。つまり、日本語の場合、抽象語、観念語に、冠詞がないので、全体化されて、絶対化されやすいということである。英語では、改革は、抽象語としては、reform,reorganizationであり、具体的には、a reform(一つの改革), a reorganizationであり、観念レベルと具象レベルの区別がつくのであるが、日本語では、それができない。首相や自民党が「改革」というが、抽象か具象か区別がつかない。単に、「改革」は、reformであり、これは、いわば、概念、イデアである。これを実現するのに、具体的な「改革」案が生じるのであり、これが、a reform, a reorganizationである。だから、首相等が、「改革」というならば、それは、後者が中心となり、説明する責任があるのであるが、それが欠落しているのであるから、それらは、信用できないものであると判断できる。一種アカウンタビリティを、首相らは放棄しているのである。 
 結局、この手法は、商品の使用価値を説明しないで、売ろうとするイカサマ、詐欺、ペテン的手法である。でも、おかしいのは、たとえば、胃薬を買うとき、店員が、これは、胃薬!、胃薬!、胃薬!ですと宣伝したって、普通は買わないのに、KAIKAKU!, KAIKAKU!, KAIKAKU!は買ってしまうというのは、奇妙である。どういうKAIKAKU薬なのかを説得力をもって説明する必要がある。また、なされている説明らしきものは、合理的、論理的根拠がないのである。この問題は、情緒的判断か知的判断かを問われている。マスコミぐるみの超ペテンに国民をかけようとしているのである。マスコミに死を!!!(もっとも、マスコミにはたらく個々の人たちには真面目な人がいるだろうから、彼らには、独立して、新しく、差異としてのメディアを創ってもらいたいものである。)





最重要な記事です:自衛隊イラクで戦争ゴッコをしている間に日本で小泉がクーデターを実現した


資料です。

自衛隊イラクで戦争ゴッコをしている間に日本で小泉がクーデターを実現した
http://www.asyura2.com/0505/war74/msg/105.html
投稿者 フランクリン 日時 2005 年 9 月 07 日 09:20:51: YsxokeAxLx13M



自衛隊アメリカ軍を助ける「お手伝いさん」として、イラクの戦場の塹壕にもぐっている間に、日本では小泉が自衛隊抜きでクーデターをやってしまい、独裁者として全権委任を求める国民投票を行い、いよいよファシズムが始まったという分析は、単なる選挙だと考えている者にとって教訓的だ。しかも、イラク李戦場で殺されて帰る自衛隊員には、小泉の「靖国維新」が何かをするらしいから、日本のことはくよくよと考えないでいるしかなさそうだ。それにしてもヒットラーの手口を使うとは、この四年で小泉は大化けしたものだと思う。


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9月11日の選挙の正体は「全権委任」の国民投票という理論
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/866.html
投稿者 海野雄吉 日時 2005 年 9 月 07 日 00:55:01: Kg/AGhESWTs4c

今度の選挙は選挙ではなく国民投票であり、それは全権委任を求める独裁への道で、小泉の郵政改革の正体は「靖国維新」名づけたらいい、クーデタだという議論が日本の外で行われている。

「宇宙巡礼」という変わったホームペイジがあって、アメリカで活躍するジャーナリストとして知られた、藤原肇の書いた興味深い記事が読める。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/

とりわけ興味深いのはブロッグ的な「掲示板」であり、その「日本不沈の条件を考える」というスレッドで、興味深い問題提起と議論が行われている。国内の議論の視点と世界で行われている議論が、これほど違うかということが良く分かる。特に小泉の郵政改革の本質が「靖国』維新」であり、クーデタだという分析は秀逸である。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2491/1125942348/


日本不沈の条件を考える
1 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 02:45:48
二十数年ぶりにこの本を読んだことにより、当時の危機感を思い出すと共に、現在の日本がもっと危険な状態に直面しているのに、日本人はそれに気づいていないと先ず指摘したいと思います。
世界週報」に1977年の11月に出た記事は、日本人記者クラブ石油連盟での講演の草稿で、このときの帰国には防弾チョッキを身につけ、成田ではなく羽田空港を使うために、わざわざ中華航空を使ったことを思い出しました。
2 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 07:59:15

1973 年の石油危機の到来についての予告記事は、1971年の春の『文芸春秋』に掲載されたが、石油危機でパニックに陥っていた時期に、『石油飢餓』の出版がサイマル出版会で決まった。だが、この時点での私の危機感は別のものに移り、それはこの本の「前書き」に次のように記録されている。
「・・・戦後長らく続いた保守政治がついにファッショ化して、独裁者のまわりに翼賛政治家が結集し、すでに財閥化した財界と結託して、一億の国民を再び悲劇の中に巻き込もうとしている。・・・現在進行していることを正しく評価するためには、時間を置いて歴史的事件として過去において見るか、空間的に距離をおき日本列島から一歩遠ざかって、しかも、日本に焦点を合わせてみるかの二つの方法しかない。私は地球を相手にした歴史学者として、自分の生きている時代がどのようなものであったかを後になって気づいて、後悔するのは嫌だから、太平洋を間において日本を観察しているが、このファシズムの不吉な胎動は気がかりでならない。国民が力を合わせてこの狂気時代の亡霊の復活を粉砕し、日本人が一致団結して石油危機の克服に向かって、集中できるような条件を作っておくように期待してやまない。・・・」
そして、この本の中のどこかに、田中首相と中曽根通産相の辞任を要請して書き。それが理由でこの本は市場から消え去ったし、私は多くの人の忠告に従って1977年までは、日本に近づくのを回避したし防弾チョッキを着て帰った。それにしても「光陰矢のごとし」で、この記事が31年前に書かれたとは思えないほどで、今日執筆しても新鮮だと感じるほどである。
なぜならば、小泉がやっている一連の政治的な布陣は、情報時代のソフトなクーデタであり、それに気づいているのは私ぐらいだろうが、それを将来の歴史のために「靖国維新」と名づけて、私はその動きを太平洋のた対岸から観察している。そして、維新は権力支配を目指すクーデタであり、支配者の間の権力争奪だという点で、911選挙で使う非公認や刺客の手配が、ソフトな粛清だと気づく日本人がいないのが寂しい。
3 名前: 中野美恵子 投稿日: 2005/09/06(火) 12:08:11
ショックです。凄い指摘で目のうろこが落ちて胃に詰まったのか食欲がなくなりました。日本の外から見る観察者には、そんな具合に見えたとは驚きです。小泉首相がやっているのがクーデターだとしたら、この選挙は何でしょう。気分がふさいで憂鬱になります。<靖国維新>だと言われてみて、全てが氷解した感じです。目の前で進んでいるのがファシズムですか。怖いですね。
4 名前: 相沢敏夫 投稿日: 2005/09/06(火) 15:19:25
ファシストヒットラーを最初に支援したのは欧州の大銀行家たちだったことは、
だいぶ前に資料がでて明らかになっていることです。
出自に影を持ち芸術志向で口舌巧みな煽動師をはやし立て、お飾りをつけ、
世に出したのが誰だったかを忘れてはならないと思います。
小泉さんも又同じ性向の持ち主、出自もとかくの噂があり、その性癖もまた。
あの時代と同じく利にさとい資本家たちが選んだのが同じタイプの小泉さんで
あったのでしょう。表向きは、愛国主義を押し出しながら、
その実は国際金融資本家の餌食となるのが、ファシズムの歴史から学ばなければ
ならないことではないでしょうか。
郵政民営化もこの流れにあると思われます。
革命家レーニンを応援したのは誰だったか。改革家(?)小泉首相を操る人形師たちは
はこれからどんな手を繰り出してくるのか。しばらくの間、注意されるべきでしょう。
5 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 17:09:22
脱藩道場の総会に出席したことのある人は覚えているはずだが、ここはモデルを緒方洪庵適塾にとっていて、表札には私の顔写真が出ているけれど、皆さんが自主運営をして切磋琢磨し、私は必要な時にしか発言を控える姿勢です。それは自らの頭で考えることが重要で、説明や答えを聞く場所ではないからです。ただ、今回の場合は私が言いだしっぺだから、維新の意味論だけは書いておきます。日本では明治維新が歴史の節目で、維新という言葉はなじみ深いものですが、維新をカタカナにすればクーデタであり、これは権力内部における覇権争いであり、下から体制を変革する革命と違うことは、「ジャパン・レボリューション」で論じたことです。
クーデタは1630年代にイタリアのリベルタンが取り上げ、君主が取る特別な措置という意味で使われ、権力サイドが自分の都合のいいように、改革と称して試みる支配権の確立に期限を持ちます。国家が公を体現し「朕は国家なり」という時代は、権力者による反対派の弾圧はクーデタであり、だから、ブリュメールの18日もクーデタでした。だから、首相として権力を握っていても、絶対的な支配が出来ていないと考えれば、首相自らがクーデタを試みるわけで、それが小泉の「靖国維新」の歴史学的正体です。19世紀までのクーデタは軍事力が中心だったが、情報化が進んだ20世紀はソフトになり、ハードなクーデタは中南米やアフリカにあったが、先進国はソフトな権力交代が中心でした。明治維新はハードだったから戦争が絡んだし、昭和の日本は形だけは工業国だったが、分明度の実態は後進国だったから515事件や226事件は軍事力と結び、昭和維新としてのクーデタになりました。だが、軍隊は権力サイドの組織だから、日本の右翼は時代遅れのせいで三無事件や三島事件のように、自衛隊を使って維新をしようとしたわけです。小泉の場合は背後に電通がいるので、同じクーデタをソフトにやっており、メディアの関心を集めるために殊更に靖国問題を使い、大衆の感情をそこに集める心理作戦を駆使するので、テレビなどのマスコミを使った情報戦術だから、私は「靖国維新」と名づけたのです。
6 名前: 平野次郎 投稿日: 2005/09/06(火) 22:40:06
クーデタの意味論とても分かりやすく明快です。そうなると靖国維新というクーデタは、もう成功してしまった感じです。独裁がどうすれば崩壊するか、その戦術を考えることが問題になりますト思います。
7 名前: ご隠居 投稿日: 2005/09/06(火) 23:32:25
大手メディアが郵政改革支持の方向で歩調を合わせていることが、小泉に対しての批判に水をかける形になりその結果、マスコミ自体が批判眼や牙を抜かれた状態になっているとしたら、小泉政権が国際金融機関のために郵便貯金などを差し出そうとしているこの郵政騒動は、自民党において絶対的な独裁権を握ろうとして強行した藤原流の「靖国維新」になったわけだが、クーデターの仕掛け人が電通ならばメディアに期待は出来ない。
ということはテレビや新聞を読めば読むほど電通の狙いにはまってしまい、毎日のように日本国民は洗脳されて思考能力が低下してしまい、ヒットラーユダヤ人たちを虐殺したのと同じことになり、小泉の場合だと小泉に反対する日本人はユダヤ的な存在だと扱われてしまい、社会的に差別されていよいよ没落して負け組みになってしまうことになる。
年金問題は我々老人にとって生活がかかった最も重要なテーマであるが、それが脅かされているのに新聞も正面から取り上げてくれないけれども、老人党の存在はほとんど目につかなくなってしまったのは、どうしたことだろうかと気になって仕方が無いけれども、老人は死ねとでもかんがえているのなら世も末だと思わざるを得ない。
それにしても自分が生きている間に靖国維新などに振り回されるとは、夢にも思っていなかったので不甲斐なさに対して情け無いと思わざるを得ない。
8 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/07(水) 00:27:54

日本の言論界の批判精神が衰えたために、目の前で進行している事態に対して、正確な把握が出来なくなっているような感じで、それが現在の日本を閉塞感から救えない、最大の理由になっていると思います。たとえば、参院での郵政法案否決にたいして行った、小泉の政治的慣例を無視した解散に対して、どうも感情的なネーミングをしており、理性的かつ分析的な発想で位置づけした形で、概念化をしていないように思われます。新聞で見かけたものだから特殊かも知れないが、例えば次のようなものがそれです。
自暴自棄解散・亀井静香
自爆テロ解散・森永卓郎
自己愛解散・香山りか
八つ当たり解散・又市征治
江戸の敵を長崎で討つ解散・高村正彦
これらは表に現れた現象的なものとか、心理的な面を強調したネーミングで、より深い歴史性や深層心理に肉薄しておらず、何となく現代風のコピーライト形であり、キャッチフレーズとして分かりやすいとはいえ、歴史に残るかどうか疑問に感じます。
私の「靖国維新」という捉え方に基づいて考え、そこから「靖国解散」とすれば混乱してしまい、訴える力がなくなるのは次元が違うからです。
だから、『911選挙』を「靖国選挙」といえないわけで、これは「大権委任の国民投票」と理解すれば、ヒトラーが「大権委任法」を根拠に独裁を確立して、合法的に独裁者になったプロセスと同じ、ソフトな形のクーデタに対応すると分かります。
独裁を狙うものは国民投票を好みますから、ペロンやフセインは常に国民投票を求めたし、それでポピュリズムの熱狂を盛り上げました。このメカニズムが理解できれば、なぜ中曽根康弘石原慎太郎小泉純一郎などが、首相公選を主張していたかという理由が、明白になるのではないかと考えます。
ほとんどの日本人は選挙だと考えているでしょうが、いま直面しているのは国民投票なのであり、その背後には「全権委任」という独裁者の狙いがあり、こうした理解が歴史の教訓の成果です。これで私の問題提起は一段落したので、後は皆さんの活発な討論を期待しています。


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Re: 自衛隊の駐屯地を思う。イラクで戦争ゴッコをしている自衛隊の明日の姿か ものぐさ太郎 2005/9/07 09:47:15 (0)」

阿修羅
http://www.asyura2.com/0505/war74/msg/105.html

p.s. なお、以上の引用における、字の着色(赤色や太字等)や強調は、renshi=sophioによる。なお、元の記事の強調も入っている。





ポスト・マスコミ論:代弁主義=ヘーゲル哲学から、差異メディア論へ

私は、昔から、マスコミである新聞に、根深い不信感をもっていた。また、一方、新聞に書かれている記事にも飢えていた。これは、真実を知りたい欲求によるものである。しかし、社説等を読むと、ええかっこしいで、「むかつく」。感情のレベルから、理論・批判的レベルに問題を移すと、問題点は、ポストモダンが問題にした事柄である。権力的言説の問題である。いわゆる、表象の問題である。representationの問題である。あるいは、言語の問題と言ってもいい。不連続的差異論から言えば、連続・同一性/言語・象徴である現象界の問題である。つまり、新聞マスコミは、大衆、市民、国民、民衆、人民・民人、人々等を代弁するという建前になっている。私は、これは、虚偽、欺瞞だと思う。なぜならば、多数、多様な国民を代弁できるはずはないからである。多種多様な不連続的差異である国民が存在しているのであり、それらは、代弁不可能である。だから、マスコミ新聞の存在自体が本来いかがわしい、胡散臭い、胡乱なものである。代弁ではなくて、差異としての事実や事象を伝達し、また、差異としての見解を述べることが正当である。つまり、個別=一般性というヘーゲル哲学が、マスコミを支配しているのである。これは、当然、国家主義となるのである。



小学館ランダムハウス英語辞典から
rep・re・sen・ta・tion

■ n.

【1】(…の)表現,描写,描出,叙述殪f・:
the representation of the visible world 目に見える世界の表現.

【2】(言葉・文字・記号などによる)表示,表現[表象]されたもの;表象:
a graphic representation 図示
a phonetic representation 音声表示,発音表記
a statistical representation 統計的表示
a symbolic representation 象徴
internal representations of external reality 外界の現実の心中での表象.

【3】(代理人・代表者による)(…の)代行,代弁.

【4】
(1)代表する[される]こと,代表(者)を出す[送り込む]こと,代表派遣;代表派遣の権利:

a fair representation of the people in Congress 議会で人民が公正に代表されていること
demand [or request] representation on a board of directors 理事会に代表を出すことを要求する.
(2)。行政「代議制,代表制:

proportional [regional] representation 比例[地域]代表制.

【5】沛W合的 (選挙区などの)選出議員団,選出議員数:
the representation from a constituency 選挙区選出議員団.

【6】。外交「国家代表権に基づく行為[発言].

【7】
(1)(考えなどを)心に思い描くこと,想像力,概念力[作用].
(2)(心に浮かぶ)表象,心象,概念;心象の形成.

【8】(絵画・彫刻などで)表現した[された]もの,描出,描写:
the pictorial representation of a myth 神話の絵画表現.

【9】絵画,画像,彫像,肖像[画],似顔:
the primitive representations of animals found in the cave 洞窟(どうくつ)で発見された動物の原始絵画.

【10】(劇などの)上演(performance), 演出,演技:
a theatrical representation 演劇の上演.

【11】汳ハ例 representations (説得のための)説明,説示;考えの表明;(…に対する)意見の提出[陳述]殳o・:
different representations of the same fact 同一事実の異なった説明
make representations 主張[陳述]する
They deceived us by false representations. 彼らはうその説明をして私たちをだました.

【12】泄カ語 殲epresentations (…への)(…についての)(正式の)申し入れ,抗議(appeal)殳o・about・:
make strong representations to the authorities 当局に強硬に抗議する.

【13】。法律「
(1)(口頭・文書による)表示:

a representation of authority 権限の表示.
(2)代襲[承祖]相続:
推定相続人が相続開始前に死亡した場合,推定相続人の子孫が代わって相続すること.

【14】。言語「表示:語・文などを分析し,構成要素を記号などで明示すること:
phonological [lexical, structural, semantic] representation 音韻[語彙(ごい), 構造,意味]表示.

【15】(前任者から権利・義務などを)引き継ぐこと.

【16】。美術「=representationalism 2.

[1400? 中期英語 representacion<ラテン語 repraesent殳i[〔repraesent殲e「表す(REPRESENT)」より〕]
[ 更新日時:2005/09/07 18:30 ]
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超越論的主観性と超越論的差異性
[ 09:55 ] [ 差異共存志向性と現象学的還元 ]
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フッサールの言う主観性と、不連続的差異論の差異とはどう異なるのだろうか。この相違は、決定的なものがあると考えられる。フッサールは、いわば、観念論の伝統から、超越論性を徹底化した。そして、認識の基盤・原基に、超越論的主観性や相互主観性を発見した。だから、思うに、フッサールは超越論的観念論の立場と言っていいのかもしれない。問題にしたいのは、フッサールは、根源に志向性という意識ないし原意識を置いていることである。だから、原意識である。そう、唯識論に似ているように思える。とまれ、原意識と生活世界は関係しているわけであるが、しかし、生活世界とは何だろうか。これは、思うに、メディア界的世界ではないだろうか。しかし、フッサールは、生活世界を十分に説明していない。志向性と生活世界の具体的関係はどうなるのか。志向性と生活世界はどうつながっているのかという問題もあるだろう。不連続的差異論から見ると、志向性と生活世界との繋がりは、メディア界的な繋がりではないだろうか。志向性は、メディア界⇒現象界であり、生活世界は、志向性の結果である現象界であるから、メディア界的現象界であろう。ということで、フッサール現象学は、不連続的差異論で説明できる。
 さて、最初の課題にもどると、超越論的主観性は、差異で十全に解明できるが、差異を超越論的主観性は十全に解明できない。なぜなら、差異は、主観性だけでなく、あらゆる事象に適用できるからである。問題は、志向性にとり、生活世界とは何であるかである。他者である場合は、相互主観性で、関係することができる。では、他者が自然であるとき、あるいは、物体であるときはどうなのだろうか。これは、不連続的差異論の観点になるが、自然や物体に対しても、一種相互主観性が形成されると思う。つまり、一種、アニミズム的になると思う。なぜならば、志向性である差異共存志向性は、他者の差異と共感するからである。つまり、生活世界は、近代以前の民俗学的な世界であろう。河童やオシラ様や物の怪あるいは妖精や天使が生きている世界である。活物論の世界である。そう、D.H.ロレンス的に言えば、コスモスの世界である。あるいは、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の世界である。
 このように考えて、超越論的主観性と差異性とを相違をまとめると、フッサールの超越論的主観性とは、人間の意識に限定された差異性であると言えよう。だから、フッサール現象学は、人間的現象学であり、自然をも、その観点と捉えようとするだろう。だから、これは、やはり、人間と自然との二元論になる。ここに現象学の欠陥があるだろう。だから、不連続的差異論のように、差異的普遍性の立場に立てば、人間と自然を差異一義的に記述できるのである。
 だから、フッサール現象学は、人間に限定して、差異を探究していたと言えるだろう。ドゥルーズの批判に即して言えば、超越論的主観性という超越性をフッサールはもっていたと言えるだろう。しかし、その主観性の枠には、差異が内包されていたのである。それも、ほぼ不連続的差異である。 
 最後に、先に触れた、ドゥルーズの内在論を考えると、内在論とは、実は超越論の言い直しであろう。ただし、それは、客観的超越論であり、主観的超越論であろう。