不連続的差異論入門:その33

自我/近代主義ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活


先の考察を続けよう。メディア界が現象化して、「現実」があるのである。近代においては、反動性である自我と「現実」(資本主義経済)とが「連続」しているのである。 そう、反感による独善衝動である自我は、本質的に倒錯的である。自己の暴力性に気がつかず、自己善を信じているのである。
 先に、精神分析の説を借りて、死の欲動、死の本能が自我にはあることを述べたが、不連続的差異論の観点から説明する必要がある。簡単に言えば、反感による攻撃衝動である。憎しみによる攻撃衝動である。これは、差異共存志向性がいわば死んでいるのであり、否定相となっているのである。そして、この否定相となった志向性が死の欲動に当たるのではないだろうか。心の闇である。このような反動、倒錯、攻撃的自我は、差異共感性、差異共存志向性を喪失しているので、つまり、理性を失っているので、邪悪である。そして、この暴力的感情・情動をもった自我に対して、権力的情動を注ぐ者が、リーダー、支配者に選ばれる。
 つまり、ファシズムでは、自我による反動・暴力・権力的情動が社会を支配するのである。つまり、自我に対する解毒剤のような智慧、文化、叡智がないところでは、自我主義が蔓延して、ファシズムに対する免疫がなく、感染するのである。つまり、自我主義が跋扈した社会に、ファシズムはその温床を見出すのである。自我を解体する、あるいは、自我を相対化する叡智がなくなれば、自我/近代主義における資本主義はファシズム化すると言えよう。
 日本において、今、「改革」ファシズムが実現した。では、何故、日本において、自我に対抗する叡智が、喪失したのであろうか。これは、政治/経済/文化/社会/歴史的問題である。これは、実に大きな問題であるが、ここでは、不連続的差異論の見地から言うと、何故、日本人は、肯定・積極的なメディア界を喪失したのかと換言できる。これは、折口信夫の新神道論とも関係する。折口は、日本人は、宗教的情熱を永く失っていると考えた。そして、敗戦は、新しい神道を生み出す好機と見たのである。しかし、日本人は、折口の意向をまったく無視した。宗教とは、実は、メディア界の問題である。そして、差異・個の問題であり、漱石が問題にしたものでもある。
 思うに、近代日本と戦後日本の問題である。そして、民衆、人民の問題であり、また、言語の問題である。問題はきわめて複雑なので、ここで、直観で言おう。父権的自我が、母権的差異を、日本では、侮蔑している文化・社会状況があると私は考える。この点が、欧州と異なるのだ。欧州文化は、母権的差異が基盤にある。そう、日本にはマッチョであることを美意識とする父権制が今でも残っている。母権的差異性、差異共存志向性を女々しいものとする父権的価値観があると思う。男尊女卑である。これが、日本問題の元凶だと思う。それは、以前、政府が、イラクに行ったNGOのメンバーに自己責任を取れと言ったことと通じる。そう、マッチョであり、暴力性を価値観とする父権制が日本には色濃くあるのだ。だから、刺客も生じるのである。(首相と暴力団との関係も取りだたされている。)これは、ある意味で、武士、武家の文化である。というか、一種野蛮性の文化である。これが、日本文化・社会にあるのである。アングロ・サクソンも野蛮性があるが、計算づくのものである。
 そう、粗野であること、荒々しくあることが、美徳のように、日本では今でも捉えられている。威勢のよさが評価される。これは、ヤクザ文化とも言えるだろう。そう、これが、日本社会に巣くっているだろう。西欧には、中世において、宮廷愛文化があった。女性が主となり、求愛するのである。これは、母権文化である。日本の場合、母権文化が、おそろしく破壊されてきたと思う。とにかく、日本にある凶暴・狂暴・野蛮な「文化」。この根因は何なのだろう。これが、日本の真の開化を阻害しているのだ。とにかく、日本的父権制、これが元凶である。どうも精神の基盤の喪失があると思う。私は、いつも、廃仏毀釈神仏分離政策が、日本人の精神性を破壊したと感じるのである。私見では、神仏習合は、日本の地域と一体となっていた。いわば、土着化されていた。これが、日本の大地や都市を「精神」化していたと言える。つまり、神仏によるメディア界で、日本の土地を包んでいたのである。しかし、日本においても自我化の傾向が生じる。それが、国学だろう。これが、天皇制・父権・一神教イデオロギーを生んでいく。思うに、日本における一神教の覚醒のようなものがあると言えよう。これと、下級武士が結びついたと言えるだろう。そう、廃仏毀釈神仏分離令以前に、日本において、多神教文化は崩壊していて、一神教性が芽生えていったのではないだろうか。日本における「ユダヤキリスト教」文化性である。これは、ルサンチマン宗教であり、反動・暴力的である。野蛮である。そして、これが、明治維新で、天皇制国家となって発現したのではないだろうか。日本的ユダヤキリスト教天皇教が、日本におけるマッチョ/野蛮文化を造ったのではないだろうか。この鋳型が近代日本にはあると思う。そして、戦後においては、アメリカがいわばこれを利用するようにして、日本を支配してきたと言えよう。小泉ファシズムは、この帰結ではないだろうか。そう、日本人は、内から一神教を形成して、野蛮化したのではないか。だから、日本の解放とは、ポスト一神教、ポスト父権制を意味するだろう。ならば、日本人が、アメリカに共鳴する内在的原因があるのである。野蛮な一神教父権制が共通なのである。日本の多神教を復活するには、差異共存志向性を肯定しなくてはならない。肯定・積極的なメディア界の復活である。





人相と人格相:その1

人を人相で見るのは、浅い、皮相な見方、浅薄である。人は、人格相で見ないといけない。小泉氏は、一見人相はよさそうであり、岡田氏は、人相はよくない方だ。しかし、人格相から見ると、小泉氏には、凶相がある。凶悪さが現れている。岡田氏の人格相は、単に生真面目である。凶悪な人格相の人を選んだのだから、この結果は、計り知れない恐ろしいものとなる。日本人は、心眼を失っているから、このような途方もなく由々しき選択をしたのである。
 私にははっきりと凶相が見える。小池にも見える。別に私は霊能者ではない。ただ、自分の直観を信じているだけである。そう、「霊」というものは、実は、「霊」ではない。「霊」ではなくて、不連続的差異論におけるメディア界なのである。魂とか、心とか、倫理とかは、実は、メディア界のことである。このメディア界を確信していれば、人格相が見えてくるのである。つまり、メディア界に他者のメディア界が映されるのである。
 どういうことかというと、人間の実在は、メディア界である。これが、現象化しているのである。そして、メディア界の差異共感性、差異共存志向性を誠実に、正直に保持している人は、それが、心を映す鏡となるのである。明鏡としてのメディア界である。フッサール現象学で言えば、志向性である。純粋志向性である。これを、ねじ曲げている人、濁らせている人、即ち、志向性を喪失している人は邪悪な人であるから、その歪みがメディア界に生じるのである。そして、このメディア界の歪みが凶相となって、顔の人格相に現れるのである。小泉氏の人格相は明らかに、凶相であり、凶悪である。そして、確かに、外見や発言は表面的には、真摯そうに見える、聞こえるが、それに同化されるというのは、自身のメディア界、すなわち、心や魂や倫理が歪んでいたり、喪失されているからである。表面で物事を判断しているのである。悪魔のペテン師に魅入られたアホな愚劣な国民と多くの日本人はなってしまった。
 後で、このメディア界的人格性についてさらに考察してみたい。

p.s. ついでに言えば、ホリエモンは、ある独創的な洞察力をもつブログ(『世に倦む日々』)で述べられていたが、確かに、人相と人格相が悪化したと言える。誠実さを無くしたのである。魂を悪魔に売ったと思う。





女男のメディア界の差異性:差異共存志向性と連続・同一性

先に、試論で、人間は、他の動物と比べて、差異共存志向性が過剰であり、それの受け皿となる極がないために、連続・同一性=言語・象徴という現象界へと転化されると述べた。
 では、女男の差異はどう説明できるのだろうか。私は、これまで、女性の方が男性よりも、差異が強いと言った。しかし、正確に言うならば、極性が違うと言うべきである。女性は、差異共存志向性であるマイナス強度に偏差があり、男性は、連続・同一性のプラス強度に偏差がある。もっとも、これは、相対的である。このように見たとき、現象化において、女男のどういう違いが生まれるだろうか。
 先ず、女性について見ると、メディア界が、差異共存志向性の強度(マイナス強度)をもっているので、これに補完するものとして、連続・同一性への転化である現象化が生起するのであるが、思うに、この転化・現象化は、差異共存志向性を積極的に帯びていると考えられる。つまり、差異共存内包的現象化が、女性存在であると言える。
 では、男性の場合は、連続・同一性の強度(プラス強度)が強いのであるが、それでも、存在する差異共存志向性によって、外連続・同一性=言語・象徴化=現象化が生起する。しかし、このとき、女性のように差異共存志向性が積極的に関与することはない。なぜならば、男性の現象化の場合、差異共存志向性の転化において、連続・同一性のプラス強度が介在するからである。つまり、女性の場合は、差異共存志向性の転化は、直截であり、積極的であるが、男性の場合、いわば、中間に、連続・同一性のプラス強度が関与するのである。この中間のプラス強度が、差異共存志向性のマイナス強度をいわば遮蔽するように作用するのではないだろうか。そう、こう考えたらどうだろうか。差異共存志向性の強度に押されるように連続・同一性の強度が連続・同一性=言語・象徴=現象化する。つまり、男性の場合は、二重になるのである。差異共存志向性に駆動されながらも、連続・同一性志向性が現象化すると言えよう。
 もう少し整理しよう。というか、考えを少し修正しよう。人間の場合、メディア界が過剰であり、この過剰さが、現象化を生む。これは、これまで通りである。そして、女性の場合、差異共存志向性であるマイナス強度が強く、これをもって、現象化すると言える。これもこれまで通りである。しかし、男性の場合、メディア界が、連続・同一性のプラス強度が強い状態で、現象化すると言い直そう。だから、当然、男性の場合は、連続・同一性=言語・象徴=現象化が強く、差異共存志向性は弱くなっているのである。では、男性の場合、差異共存志向性はどうなっているのだろうか。(急に思いついたが、右脳が差異共存志向性であり、左脳が連続・同一性志向性ではないだろうか。)思うに、メディア界においては、差異共存志向性と連続・同一性志向性の両義性が存しているが、しかし、現象化したとき、男性の場合、連続・同一性=言語・象徴性に同一化して、差異共存志向性を隠蔽するのではないだろうか。なぜならば、男性の特徴である連続・同一性のプラス強度が、言語・象徴と同一化しやすく、内在していた差異共存志向性を排出・隠蔽するからではないだろうか。もう少し丁寧に言うと、プラス強度が言語・象徴と同一化するのであり、マイナス強度である差異共存志向性が、正に、無意識化されるのだと思う。これは、精神分析の言うような抑圧や排除ではない。それは、自然に排出・隠蔽されるのである、女性の場合が、差異共存志向性を内在させた現象化であるのに対して。
 では、反感や反動はどうなるのだろうか。それは、これまで、述べてきている、冷暗化等で説明できるだろう。

p.s.  女性は、差異共存志向性が強いということは、女性が、男性よりも、芸術的、文化的であること、そして、右脳/左脳の両義性をもつことを意味しているだろう。女性が、例えば、編み物、衣服、織物、ファッション等々を志向するのは、メディア界の差異共存志向性に起源があると言えよう。なぜならば、それは、差異と差異とが共存的に連結される領域であり、テクスチャ、テキスタイルの領域であるからである。また、脳梁が女性は男性よりも太い、大きいのは、女性における右脳/左脳の両義性を証明しているのではないだろうか。
 結局、女性は、男性よりも、内在的には、多元的な能力に優れているのである。メディア界的能力をもっているのである。男性の場合は、メディア界を排出・隠蔽した連続・同一性=言語・象徴の能力が強いということになる。近代科学、近代主義は、正に、男性的である。哲学という行為は、女性的な領域を男性的な志向で構成する営為ではないだろうか。
 とまれ、今日、男性的領域(父権制近代主義新自由主義)は、行き詰まり、女性的領域(母権制/ポスト近代主義・メタ近代主義/差異共存主義)にシフトしていると言えよう。何故だろうか。後で、このパラダイム・シフトについて、考察したいが、簡単に言うと、近代主義への懐疑が強まり、脱近代主義(ディーモダン)への必然的展開があり、それによって、女性的領域、メディア界が発見されてきたことがあるだろう。ポストモダンポスト構造主義は、このようなものである(が、理論的不備のため、頓挫してしまった)。巨視的なスケールで見た場合、ポスト近代主義、脱近代主義の潮流は否定できない事実である。そして、これが、女性的領域への移行・シフトを意味しているのである。

p.p.s. 触れるのを忘れたが、一般に、女性がきれい好きというのは、どう説明できるのか。それはやはり、差異共存志向性のもつ根源的調和性に拠ると考えられるだろう。この調和が美を希求するのである。因みに、コスモス(宇宙)とは、古代ギリシアでは、秩序であり、美を意味していた。そして、化粧品(cosmetics)は、これ(cosmos)からの派生である。

参考
cos・met・ic/kzmétik | kz-/
[名]

1 *1化粧品.

2 (表面的な)体裁の繕い, ぼろ隠し.

━━[形]

1 表面的に繕った, ぼろ隠しの

a cosmetic solution

その場しのぎの解決, 弥縫びぼう策.
2 美容のための, 化粧用の.

3 《外科》整形の;補綴ほてつの

cosmetic surgery

整形外科. ⇒ PLASTIC SURGERY
ギリシャ語kosmētikos(kósmos秩序+-IC=秩序ある→美容の)]
livedoor辞書

*1:通例〜s