不連続的差異論入門:その34

現代日本ファシズムの成立と派閥政治の終焉:ポスト近代主義革命としての小泉ファッショ革命

先の記事は、支離滅裂であったが、支離滅裂になるというのは、私の思考が、私の哲学が、現実と噛み合っていないことから発しているのであり、これは、当然、洞察の不十分さを意味しているが、私としては、この矛盾は、とても生産的だと思っている。なぜなら、ここには、なにか新しい見方の必要が生じていることを意味しているだろうからである。たとえば、これまで、近代主義・自我主義を差異の観点から批判してきた。そして、小泉政治をそれと同一視してきた。しかし、これはある意味では正しいが、小泉政治が果たした積極的な仕事、派閥政治の解消を評価することができないということである。私は、理論的に、この点を取り込みたいので、理論のなんらかの進展や修正が必要となるのである。だから、ここで、整理して、整合化したい。
 新自由主義とこれまでの自民党の派閥政治の関連を整理しないといけない。これは、近代の問題、近代日本の問題である。私は、これまで、近代主義とは、反動である自我によるものと考えてきた。差異に対する反動である自我主義である。この近代/自我主義の考え方は、小泉新自由主義ファシズムと派閥自民党政治の相違をどう説明するのであろうか。この考え方では、説明できないと思うので、新しい観点を入れないといけないと思う。それは、小泉新自由主義ファシズムとは、派閥自民党政治への反動であるという観点ではないだろうか。つまり、前者は、近代・自我主義である後者への反動として生起していると見るべきではないだろうか。では、この新自由主義ファシズムの反動とは何かである。これは、思うに、近代主義の批判ではないか。私は、先に新自由主義は、古典派経済学や近代・自我主義が起源であると考えたが、それは、誤りだと思うので、ここで訂正したい。そうではない。新自由主義ファシズムは近代批判として捉えないと理解されないだろう。思えば、戦前の日本ファシズムは、「近代の超克」、「大東亜共栄圏」のイデオロギーをもっていたし、アメリカのネオコンは、元々はトロツキストであるということである。(ネオコンも、ここでは、新自由主義の圏内と見てもいいだろう。)つまり、新自由主義ファシズムは、近代主義の乗り越えを志向しているのだ。この点を見ないと、小泉ファッショ「革命」の意味が理解できないと思う。そう、広義的には、ポスト近代主義に入ると言えるだろう。では、この近代批判の新自由主義ファシズムの本体は何か見てみよう。
 ここにあるのは、一方、国際金融資本ないし世界金融資本であり、他方、民主主義であり、困窮する国民である。この二面性を見ないといけない。前者は、政治形態の民主主義(間接民主主義)を志向し、後者は、民主主義の社会的実現を切望している。だから、民主主義がある意味で共通点と言える。しかし、前者は、国家、国民国家、近代国家を枠を超えて成長する志向をもつ。これは、思うに、「力の意志」(ニーチェ)である(小泉ファッショ革命も「力の意志」を意味しているだろう)。この新自由主義ファシズムの「力の意志」を分析しないといけない。確かに、これは、権力の意志でもある。問題は、「力」とは何かである。不連続的差異論の観点からは、「力」とは強度であり、メディア界の「エネルゲイア」である。そして、これは、差異の「エネルギー」である。問題は、「力」、差異の「エネルギー」の発現形態である。ここで、確認すべきは、新自由主義ファシズムは、本体的には、差異の「エネルギー」を基盤にしているということである。しかしながら、新自由主義ファシズムにおいては、差異の「エネルギー」の発現形態が能動的ではなくて、反動的であるという点を確認しないといけない。つまり、新自由主義ファシズム、小泉ファッショ革命とは、基盤としての差異の「エネルギー」に駆動された反動形態であるということである。即ち、これは、本体はポスト近代主義であるが、発現形態は反動であるということである。だから、問題は、本体のポスト近代主義である差異の「エネルギー」を能動・積極・肯定的に発現させることなのである。そして、新自由主義ファシズムは、このポスト近代主義的「革命」・変容への過渡期であるということである。本体は、ポスト近代主義、メタ近代主義であるが、発現形態が反動形態である近代主義である。これが、小泉ファッショ革命の意味である。小泉ファシズムは、「力の意志」(ディオニュソス)の発現であり、反動的「力の意志」である。とても、ニーチェ的な現象である。だから、ここから、ポスト近代・メタ近代革命を能動・積極・肯定的に実現する「自然」の必然性があるのである。この反動形態を、フッサールの判断停止(エポケー)やスピノザの能動的観念やD.H.ロレンス的身心論、等によって、能動形態に変態転化して、突破する必要があるのである。
 ということで、小泉ファッショ革命とはポスト近代主義革命を志向しているのである。





小泉ファッショ党と諸派閥を清算した政治:小泉ファッショ革命とは何か


私の今の知識では、本件の問題に十分答えられないが、小泉ファッショ革命は、派閥政治に終止符を打ったことは認めなくてはならない。派閥政治とは何か。それは、政官財の癒着した国家資本主義ないし社会主義的資本主義のことではないだろうか。つまり、近代主義国民国家的資本主義を意味しているのではないだろうか。つまり、近代・自我主義という連続性による民主主義的資本主義である。これは、連続的資本主義である。
 では、これを清算したKファッショ革命は、何であろうか。新自由主義とは何か。これは、国際金融資本主義である。あるいは、世界金融資本主義である。そう、これは、近代国家内の連続主義の規制を破壊する。連続・同一性主義を破壊する。だから、自我をも破壊しているのだ。近代主義国民国家主義・自我の連続・同一性を破壊するのだ。ある意味で、資本主義の本質と言ってもいいのかもしれない。(資本主義の哲学が必要だろう。)思うに、資本主義は、国際的であり、ある形而上学性というか構造性をもっている。そう、これは、カントの言った超越論的形式性と合致する経済であろう。資本主義は、人間のもっている超越論的形式に合致した経済である。これは、抽象性をもっているのであるから、連続主義の現象界を破壊するのである。そう、確かに悪魔的であるが、これは、普遍的である。ユダヤ人、中国人は、おそらくこれを直覚しているのではないか。とまれ、Kファッショ革命は、ポスト近代主義革命である。しかし、おそろしく危険である。悪魔的革命でもあるのだから。思うに、ファシズムを捉え直さないといけないのではないか。ファシズムとは何ぞや? 新自由主義ファシズムとは何か? これは、哲学的には、今述べたように、超越論的形式の発現である。
 ここで整理しよう。連続・同一性と自我によって近代主義がある。しかし、超越論的形式とは、自我ではなくて、連続・同一性のことであろう。そう、これまでの議論では、新自由主義は近代自我主義であると私は述べたので、矛盾を犯している。そう、新自由主義は、利己主義と超越論的形式とが一体となったものである。では、近代主義の自我主義とどう異なるのか。
 ここで、超越論的形式にもどって考えよう。これは、連続・同一性の形式である。純粋なそれである。これは、普遍的である。では、近代主義は何か。それは、超越論的形式はもつものの、地域共同体という「連合」性をもっているのではないか。「連合」性とは、経験的連続性である。この経験的連続性と超越論的形式の連続性とは別種のものである。前者は個別、特殊的であるが、後者は普遍的である。ならば、近代主義とは、超越論的形式性をもつものの、個別・特殊性の連合性(国民国家であり、派閥である)に限定・規制されているものである。それに対して、新自由主義は、この個別・特殊性の連合性を解体するものである。この点で、新自由主義は、ポスト近代主義である。そう、悪魔的ポスト近代主義である。結局、Kファッショ革命はこれを意味しているのだろう。ここでは、個別・特殊的なものはすべて解体されるだろう。そして、人間は、抽象的に画一化されるのである。これは、超越論的形式の必然性である。しかし、不連続的差異論からは、差異の未来があるのである。差異の夜明けがあるのである。これは、政治経済的には何を意味するのか。差異主義政治経済である。これは、超越論的形式を破壊しないが、乗り越えたものである。そう、資本主義、新自由主義を差異によって乗り越えた政治経済である。超越論的差異的資本主義ではないだろうか。あるいは、超越論的不連続的差異的資本主義である。

p.s. では、K氏の靖国参拝とは何か。それは国民国家主義ではないのか。これは単純ではないだろう。これは、一神教の問題である。自我主義である。国民国家主義というよりは、そうなのだろう。

p.p.s.  ここで、考え直さないといけないのは、近代主義とは、不徹底な自我主義である。なぜなら、個別・特殊的連合性、地域共同体性があるからだ。つまり、前自我主義的要素、集合的要素、感情主義的要素がある。新自由主義は、徹底した自我主義である。利己主義である。これは、超越論的形式の必然性である。人間の必然性である。しかし、差異の必然性もあるのである。





メディア界と心身相補性:スピノザ哲学と現象学の統一:「最勝超至高」の不連続的差異論


心身二元論は、周知のように、デカルト哲学が拓いたものである。不連続的差異論のメディア界と、心身の関係はどうなのだろうか。これまで、私は、メディア界を、「心」、「魂」、倫理の領域と見てきたし、また、直観では、身体的であるとも見ている。この心身的両義性をどう見るべきだろうか。メディア界は差異の連結領域であり、これが、遺伝子を形成したり、また、精神や身体を形成したりする。差異の連結、差異の強度的連結状態、これが、身体や精神として現象するのである。 
 私は、以前、差異が身体的側面で、強度が精神的側面であると考えた。しかし、差異と強度は不可分一体であるから、身体と精神を厳密には区分することはできない。つまり、差異連結による差異即非強度とは、一種相補性を形成しているのであるから、身体と精神も相補性を形成していると言える。もう少し精緻に見よう。メディア界は差異連結領域であり、この差異連結が、身体や精神として現象化する。そして、この心身現象は、二元論的に捉えられてきた。しかし、身体とは、差異連結態(メディア界)の差異的側面であり、精神とはそれの強度的側面である。結局、心身とは、差異連結態が本体であり、心身自体も相補性を形成していると考えることができるだろう。すなわち、二つの相補性がある。一つは、差異と強度の相補性であり、一つは、精神と身体の相補性である。
 ここから帰結することは、身体に属する感覚とは、精神と関連するのであり、また、精神に属する知性や理性は、身体と関連すると言えるのである。だから、感覚的精神、知性的身体という表現が可能なのであるし、それが、おそらく、本来的であろう。しかし、近代的心身二元論は、この相補性を否定したと言えよう。スピノザの心身平行論は、心身二元論を基礎としているが、私見では、スピノザは、実は、心身相補性を、『エチカ』で採用していると思う。つまり、スピノザは、精神に感情を見て、その肯定的感情をともなう知性によって能動的観念を形成するのであり、その時、能動的な「力」が身体にも喚起されるという心身平行論を説いているのだが、この平行論の根拠は、実体(神即自然)にある。精神が実体に関わり、その結果、実体から身体へと関わるという図式である。つまり、実体とは、精神即身体であるような根源的存在である。スピノザ的に言えば、思惟即延長であるような原存在である。しかし、この考え方は、精神が身体と相補性を形成しているという考え方に直してもいいと思われるのである。すなわち、精神は、差異連結態の現象であり、その精神の現象を能動化するということは、差異連結態に働きかけて、強度に変化をもたらすことであり、この強度変化が差異連結態の現象である身体にも影響するというように考えることができるだろう。ならば、スピノザ哲学の心身平行論とは、心身相補性の理論に変換することができるのであり、スピノザ哲学は、メディア界の差異連結態の哲学であると言うことができるのではないだろうか。
 さらに、ここで、現象学ないし超越論哲学の観点から見ると、スピノザが説く能動的観念とは、実は、現象学的還元、判断停止(エポケー)を意味するのではないかと思われるのである。すなわち、否定的感情(自我)を停止させて、肯定的に、共感的に、事態への観念を形成するのであるからである。だから、スピノザの能動的観念とは、超越論的観念であり、メディア界的観念・概念であるということができるように考えられるのである。さらに、このように考えるならば、フッサール現象学自体も捉え直されることとなるだろう。すなわち、超越論的主観性あるいは相互主観性とは、メディア界自体であるということであり、スピノザ哲学と一致するのであり、また、メディア界とは原存在性であるから、ハイデガー存在論を鋳直す形で吸収することができるだろう。結局、不連続的差異論は、スピノザ哲学と現象学とを、メディア界の哲学として整合化して、統一させることができ、また自身に包摂することができるのである。
 これで、不連続的差異論は、プラトン哲学とアリストテレス哲学を統合し、さらに、スピノザ哲学と現象学とを統合し、包摂することができた。また、もともと、「ポスト構造主義」であるドゥルーズ哲学の不備をニーチェ哲学の特異性の視点から解消して、発展した理論であるから、ニーチェドゥルーズ哲学を発展的に包摂した理論でもある。以上から、これまで、述べたように、不連続的差異論は、西洋哲学の集大成であることが理解されるだろうし、また、ODA ウォッチャーズ氏が、数学/物理学的に不連続的差異論を展開されているので、これは、また、自然科学をも包摂する理論ということができるのである。また、さらに、社会科学への展開もすでに為されていて、これは、正に、全統一理論という性格をますます明らかにしている。私は、この理論を初期(昨秋)に、「最勝超至高」と形容したが、それは、誇張ではないだろう。

p.s. 単に西洋哲学の集大成であるだけでなく、仏教を含めた宗教思想・哲学の集大成でもあり、また、日本の西田哲学の積極的発展であり、また、包括的芸術論でもある。超統一理論である。