不連続的差異論入門:その35

ルネサンス宗教改革近代主義:差異の行方と差異メディア・エネルギー的資本政治経済へ向けて

先に、差異の開花としてのルネサンス、それへの反動としての宗教改革を提示して、近代主義は、ポスト近代主義を内包していると述べたが、少し訂正したい。宗教改革近代主義と捉えるのは、少し単純である。近代主義は、思うに、主に、ガリレオ他に発する近代科学とデカルト哲学の一面(合理主義)に見るべきである。(もっとも、デカルト哲学は、ポスト近代主義の発端でもあるのだが。つまり、デカルト哲学は、差異主義としてのルネサンスを継承しているということである。)そして、宗教改革は、主にルネサンスに対する反動と見るべきであろう。つまり、差異主義への反動であり、差異を逆に示唆しているのである。つまり、ルネサンス宗教改革は、差異を基盤にした能動と反動の関係にあるということになるだろう。 
 そして、資本主義は、宗教改革近代主義を伴って発達するのであるが、ここで、近代的自我主義とは何かをもう一度考えてみよう。それは、近代科学における観察主体であり、また、差異への反動である個体意識である。問題は、宗教改革、つまり、プロテスタンティズムにおける個体意識である。これは、超越神を意識した「自我」である。そう、この超越神を意識した自我こそが、差異への反動である自我と言えるのではないだろうか。そして、デカルトのコギト(吾思う)とは、差異をもつ個吾であり、それとは区別されるだろう。
 以上のように区別して見ると、資本主義とは、差異を排出する近代主義(近代科学)と差異への反動である宗教改革の両面をもっていると言えるだろう。そして、後者の面において、差異への反動的志向という一種捩れたポスト近代主義性をもっていると言えるだろう。つまり、資本主義とは、単純な近代主義ではなくて、差異、ポスト近代主義と関係するシステムであるということである。新自由主義とは、実は、この反動的な差異主義、ポスト近代主義的側面によると考えられるのである。これは、また、ファシズム形態を取るのだろう。
 結局、現代日本において小泉新自由主義ファシズム政権が誕生したが(ファシズムではないと考える人もいるが、しかし、誕生のあり方を考えると、ファシズムと見ていいだろう)、これは、反動ではあるが、広義のポスト近代主義、差異主義である。内在されている差異を、これから、能動・創造的に開花・実現する必要があるのである。つまり、これは、差異主義、ポスト近代主義への転換期を意味するだろう。そう、ニーチェ哲学(力の意志)的段階に達したのである。これからは、不連続的差異が解放されなくてはならない。差異共存共創的な差異メディア・エネルギー的資本政治経済へと進展すべき時なのである。

p.s. 近代的自我とは、近代科学的主体と差異への反動である個体意識であると上述したが、これは、表現としてのは不整合である、論理的ではない。近代的自我とは、単純ではなくて、近代/ポスト近代的個体と正確には言うべきである。これは、結局、デカルトのコギト(吾思う)に起源・基盤がある。コギトの個体が、近代/ポスト近代的個体である。だから、単純な近代的自我とはないだろう。私は自我と近代的自我とを混同している傾向があるので、明瞭にしないといけない。私の言う自我とは、近代的個体意識のことであるが、これは、実は、形容が不正確である。というか、近代自体の問題が生じているのである。近代とは、主に近代科学に限定すべきであろう。ルネサンスは、近代ではなくて、差異主義である。また、宗教改革は、その反動である。
 結局、近代とは何かということになるが、正しくは、差異主義を原点にして近代自体を捉え直すべきだろう。差異に対して、正道としてのルネサンス、反動としての宗教改革、そして、差異の排出としての近代科学があるのである。近代とは、差異へのある反応を意味するのである。そう、近代とは、差異の排出・隠蔽と見るべきであろう。そして、差異への能動主義であるルネサンス、差異への反動主義である宗教改革があるのである。近代とは、だから、差異への一対応に過ぎないのである。ポスト近代主義とは、実は、発現・発動したポスト中世の震源である差異へのさらなる進展を意味するだろう。近代の終焉である。ポスト中世、ポスト近代としての差異主義が活断層として大震動しているのが、現代であると言えよう。





差異と反動:ルネサンス宗教改革:近代とは何か:差異エネルギー資本政治経済へ

今は問題提起に留めたい。
ルネサンスで、差異が開花した。それへの反動として、宗教改革が起こった。この反動の意味を考えないといけない。つまり、近代とは、差異への反動であるのであり、内在的には、差異を示唆しているとは言えるだろう。つまり、近代主義とは、内包的には、ポスト近代主義なのである。新自由主義ファシズムは、隠れポスト近代主義だと思う。この反動形態を判断停止して、能動形態へと変換すること、これが、真のポスト近代主義である。現代は哲学的時代である。

p.s.  政治・経済的に、差異を能動的に展開するとはどういうことなのだろうか。差異の反動形態である新自由主義ファシズムは、破壊的である。差異が反動エネルギーになっているのであり、それを能動的エネルギーへと転化することが、差異の能動的展開である。破壊エネルギーを能動的創造的エネルギーへと転換すること。これを政治・経済的に発現するということは、差異と差異との新たな連結を意味するのではないだろうか。差異の新しい集結である。これは、資本が差異化することではないだろうか。近代においては、資本は、連続・同一性である貨幣の獲得のために利用されていた。しかし、資本の差異化によって、差異の能動エネルギーが発動して、差異の新しい連結が生まれるだろう。資本差異政治経済である。差異としての資本の展開である。これは、差異エネルギーとしての資本経済である。差異連結エネルギー資本経済である。差異の共存性と差異の創造性とを連結させる資本経済であろう。私が差異共存共創政治経済というものはこのようなものであろう。とまれ、差異エネルギー資本経済であり、政治は、この経済を実現する差異的立法機関となるだろう。

p.s. 差異メディア・エネルギー資本政治経済とも言える。正確に言えば、差異メディア界エネルゲイア資本政治経済である。

p.p.s.  差異メディア・エネルギー資本主義によって起業すれば、現代において、発展する核となるだろう。差異メディア・エネルギー資本会社を創業するのである。メディア・エネルギーをメディアルギーとしようか。メディア・エネルゲイアから、メディアルゲイアとしようか。difference media-energy capital economy. difference media-energy capital political economy.