不連続的差異論入門:その36

差異ルネサンスへ向けて:新自由主義を哲学する:小泉新自由主義ファッショ革命とは何か

問題点は、近代主義であり、資本主義である。
 まず、近代主義について、簡単に整理しよう。私は、初め、差異への反動性をもつ自我主義と考えた。しかし、これだと、新自由主義と区別がつかなくなる。
 ここで、発想を変えよう。政治/経済/社会という三層性から生活界は成り立つ。政治は法権力的である。そして、経済は、生産/消費の仕組みである。そして、社会は、ある種の倫理性をもつ集合的組織である。
 さて、近代は、封建的政治から、国家主義的政治へと移行したものである。しかし、実は、封建制を中央集権化したものと言えよう。つまり、封建制の一極的極限として近代国家がある。ヒエラルキー的である。そして、経済的には、封建的構造から、脱封建的な、個体的自由な活動、利益追求的経済活動が台頭する。そして、社会的にも、個体的な自由を求める動きが出てくる。問題は、資本主義の勃興において、個体的活動は、プロテスタンティズムの影響を受けて、利己主義的となる。イタリア・ルネサンスにおいては、経済活動は、差異的であり、差異共存性をもっていた。しかし、宗教改革によって、経済活動は、利己主義・自我主義となる。私が、差異への反動と言ったものである。問題は、政治・国家の次元である。これは、上述したように、封建性のヒエラルキーを残しているのだ。この封建的国家構造と資本主義的運動が衝突するのである。啓蒙思想フランス革命はこれを意味しているだろう。もっとも、ここでは、社会的次元も考えなくてはならない。ここでは、ユートピア社会主義共産主義的志向が現れるのである。簡単に言えば、資本経済における利己主義的な自由と、社会的な自由への衝動がある。これが、民主主義に収斂する。これが、近代主義の完成である。ここでは、国家の制限・規制に対する経済や社会からの反撥がある。経済においては、自由な市場を求める衝動となる。これが、新自由主義に帰結するだろう。そして、この資本主義運動は、社会的次元を巻き込んで、政治・国家レベルを動かすのである。この帰結が、今回の小泉新自由主義ファシズム政権の誕生である。新自由主義は、政治・国家レベルをミニマム化して、資本経済にとり、自由な条件を確保しようとする。そして、社会における国民層を巻き込むのである。
 さて、このように考えた時、小泉新政権が果たした、派閥政治の解体とは理論的にどういうことなのだろうか。それは、もう言うまでもなく、「封建」的政治・国家レベルでの特権的利権の解体である。これは、国家資本主義、「社会主義」的資本主義の解体であり、これは、ある意味で、ポスト近代的出来事である。 
 結局、一番の問題は、宗教改革、差異への反動である。これが、新自由主義を起源である。私は、ポスト新自由主義を唱えているが、これは、プロテスタンティズムの解体を意味する。つまり、差異の積極的肯定を意味する。これによって、新自由主義は、脱構築されるのである。差異の解放である。これによって、世界は絶対的に革命化される。ある一つの人類史の終焉となるだろう。だから、今や、差異ルネサンスを提唱する必要がある。





光:優しさの社会経済へ:差異の社会資本経済へ

私はポスト新自由主義として、差異共存共創主義を唱えているが、それは、以下の記事のようなものを志向しているだろう。そう、一言で言えば、優しさの社会経済である。新自由主義は、正反対である。もっとも、優しさと強さは一如である。新自由主義は、強さというよりは、暴虐性である。攻撃性、獰猛性である。交感神経の過剰作用である。思うに、軍事とは、父権的な、自我主義的な、反動性、攻撃性に基づいている。脱自我的な、脱父権的な、政治経済のあり方があるはずである。ポスト近代主義とは、差異理論とは、差異共存共創主義である。フッサール現象学もそれを説いていると考えられる。差異主義的政治経済社会。競争は共創となるべきである。
 とまれ、私は、だんだん、この国に住みたくなくなってきた。傲慢や暴力が蔓延っている。思えば、D.H.ロレンスは、いったん、ファシズム的な指導者を志向した時期があったが、晩年、それを破棄して、優しさを説くようになった。『チャタレイ夫人の恋人』に、初めは、『優しさ』(Tenderness)というタイトルをつけようとしていたのである。優しさのない新自由主義を、私は批判する。

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今日は某大企業の人が来る

精神障害者の法定雇用に向け

情報収集をしている人だ

あんまりここに書ける具体的な話は今の所ない

今日話した事と常日頃考えてる事を交えて書く


精神障害も法定雇用の中に含まれ

大企業は、精神障害者を雇用する社会的責任が生じた

現段階での企業側のひとつの見解は今抱える精神病の社員に手帳を取らせて

法定雇用率を満たそうという考えが主流だ

うつ病の蔓延は何処の企業も抱える問題

企業の本音は、精神病の人には退職してもらいたいと陰では聞く

中小企業と違い大企業は福利厚生が良いし組合もしっかりしてるので

長期療養の後、復職する人が多い

だから大きな企業ほど精神病の人が多い

公務員もそうだ

笑い話じゃないが道庁など何処に健康な人が居るんだと

健康な人を探す方が難しいなどという道会議員もいる

まあ、市役所もにたようなものだ


不思議なのは制度があって金があっても機能しない

産業カウンセラーや社内メンタルヘルス事業

企業側が窓口を置き医者やカウンセラーまで置いて

誰も利用しない

そんな現象も結構耳にする

差別や偏見が根深いからだと思う

行政サイドでは福祉工場を幾つか作り企業とタイアップして障害者雇用を促進してきた

勿論、福祉法人が主役だし身体と知的がほとんどだ

これも立ち上げるには、どえらい苦労が居る

本の一冊も書ける内容だ

土地の確保や億単位の資金繰りから認可まで

作業所立ち上げの何倍かの労力を要する

しかし福祉工場そのものも仕事が無いという不思議な現象がある

障害者に仕事をやって貰うより

中国に外注したほうが安価で確実だという現実がある

企業側が苦労して仕事を回すそんな事例もある

そんな障害者福祉の中でも精神障害福祉だけは悲しいくらい遅れてる

主因は行政の怠慢だけでもない

遅れてる原因は医療の側や親の囲い込みの問題でもあるだろうし

事業を立ち上げる主役になる当事者がほとんど居ないというのもある

身体障害では当事者が運営する所が主流だ

知的障害では育成会など親の会が様々な運動を起こしてきた

もうひとつが企業の利益追求や効率性から離れた所で何か出来ないか?

今ある福祉という枠組みや企業という枠組みを超えた何か?

これは、僕もいつも考えているので知ってる限りの事を話す

何か新しいものを創造しようというひとつの流れ

融合なんだけど。。。。

浦河ベテルや和歌山のやおき福祉会

数少ない中で奮闘中の所もある

医療と福祉と地域の融合だ

そして官と民の融合

これが理想だと思う

アメリカのNPO企業のの成功例を見ると本当に凄いと思う

道路やビルの設計から施行までNPO企業がやるのだ

勿論、談合も入札もない

民間が受注する額の半額以下で工事してしまうのだ


精神障害者の就労を企業で考えているというだけで少し明るくなれた

企業も社会貢献する時代に少しずつなっていくべきだ

広告にばかり金をかけないで社会還元するべきだと思う

金の出所が行政だけじゃなく・・・・行政がまず出すべきだが

あちこちから色々なものが出来てきたら面白いなあと思う

もっともっと当事者の人材が出てきたら面白いと思う

どう考えても社会資源が少なすぎるのだ

金儲けばかりのこの国で社会を良くしたいとか

障害者の為に何か始めたいとか

そんな人が企業の内部にも居るんだという事が僕には嬉しかった

経団連厚生労働省もこの企業の方針に賛成だという


ひきこもりやニート

うつ病その他の精神病

これらが蔓延して

医療機関福祉施設も手詰まりの観がある

そんな中で企業側が当事者を主体にした事業を起こそうとしている

利益や効率だけじゃない事業所

人間関係を大切にする職場

そんなのが増えて欲しいと思う

ネックは人材だ

いつもこれを思う

人が育たない

余裕のない福祉や医療

当事者に対する過保護

これらの問題を少しずつ考えていくと

人が育てる場

育てられる人

そんなものが沢山必要だと思う

ようやく社会全体がメンタルヘルスに本腰を入れようとしている

そんなことを感じた

暗い話ばかりの世の中で

何だか明るい気分になれた

久しぶりにこの国に光を感じた
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■光とは何か

nohohonkoubouさん
この記事の意味するものは何であろうかと思います。私は、ポスト新自由主義として、差異共存共創主義を説いていますが、いまだ、抽象的な段階です。しかし、ここにあるのは、具体的なもの、血肉のあるものですね。少し時間をかけて、熟考したいと思います。
sophio (2005-09-22 06:43:47)

そういちの平庵
http://ameblo.jp/nohohonkoubou/entry-10004448520.html





異邦人と喪魂:脱近代主義と叡智学

昨日、昼の新宿をやや久しぶりに歩いたが、なにか異国を歩いているような感じがした。なぜ、そう感じたのか。ただ、人の歩く姿を見て、漠然とそう感じたのだ。つまり、私の関心は、人が誇示する外見にはまったくなくなっているということだろう。魂の無い街。死せる魂というよりは、喪失した魂の都会だ。喪魂。これは、近代主義の帰結である。本当は、知とは、身体であり、身体とは知である。というか、本来、知と身体との二重性があるのである。これは、差異である。「吾思う」という知と「吾在り」という身体があると思う。「故に」(エルゴ)とは、差異、不連続的差異と見るべきなのだ。コギト・エルゴ=不連続的差異・スムである。一種、多重人格としての個である。ただし、コギトもスムも、一義的である。つまり、特異性である。特異性において、多重・多元なのである。 
 問題は、観念である。イデアは、メディアであるが、メディアは、本来、差異的である。しかし、今日、現象(界)が支配的である。連続・同一性が反動的に支配しているのだ。(これが、新自由主義ファシズムでもある。)そして、マスコミは、本来のメディアではなくなり、現象界のメディアとなっている。これは、メディアとしての自殺行為である。差異として、メディアがあるのであり、メディアが現象界化したら、それは、単なる現象に過ぎない。メディアの死である。観念が今日、現象になっているのである。プラトン哲学は、観念と現象との差異に基づいているのだ。私としては、哲学者、思想家の犯罪的な怠慢を許せない。哲学・思想を、国民・庶民化しなかったのである。自己満足の曲芸的言語で、哲学・思想を、生活に無縁なものとしてしまった。ポスト哲学・思想。叡智学へ。





改憲問題と新自由主義:差異共存共創主義へ

民主党代表の前原は、改憲論者である。私は、軍隊をもってもいいと思ったが、改憲論者は、ただアメリカの計略に乗っているだけであるから、改憲論には、与するわけにはいかない。また、ブログ「世に倦む日々」で鋭敏に述べられているように、民主党は、日和見ってしまい、党は、世間から見透かされて、さらに、支持を失うだろう。とまれ、こういう状況だから、改憲論には、反対の立場を取らないといけない。日本の進路は、独自に選択しないといけない。もっとも、現在の状況は、アメリカは、軍備において、日本に肩代わりさせたいと考えているのだろう。(p.s. 対中国、対東アジアのアメリカの戦略にますます日本は組み込まれて、資金だけではなくて、軍隊も提供するようになるだろう。日本は、中国や東アジアと、アメリカの狭間で、どうするのだろうか。靖国参拝が強化されるだろう。ここに問題点がある。反動的な力の意志としての、新自由主義ファシズムである。しかし、戦前と異なるのは、明らかに、国際金融資本が背後にあることである。本来、国際主義と靖国参拝は矛盾することである。しかし、アメリカが、日本のナショナリズムを利用しているのだ。この点を後で、検討しよう。)
 現在は、小泉新自由主義・ファッショ政権によって、なにか、閉塞状況が深まった感じがする。凶暴な牙が、むき出しになるのが目に見えている。この必然性が閉塞感、絶望感を生む。古い派閥政治が終焉したが、うれしさがまったくない。結局、今は、「一派閥」が、他の派閥を破壊して、独占してしまった専制・独裁形態となっている。新自由主義のもつ市場経済性と社会的共存性をどう連関させる政治理念を形成することが必要である。私は、差異共存共創主義と言っているのが、新自由主義では、これがまったく否定される。「力の意志」の政治経済であるから。「力」を差異、それも不連続的差異に脱構築しないといけないのである。今は、「力」が連続・同一性の全体になっているのである。フッサールにしろ、D.H.ロレンスににしろ、当時ファシズムを目の当たりにして、個・特異性・不連続的差異の思想を説き、表現したと言える。問題は、現代哲学の継承にあるだろう。ニーチェ哲学は二面性をもっている。不連続的差異の思想と、力・権力の意志の思想である。後者は本来、前者とリンクするものであるが、ニーチェは、混乱して、反動化した側面を帯びてしまっている。
 問題は、反動化への対処である。その乗り越えである。「ポスト構造主義」は、これを意味していたはずである。構造のもつ規定を外して、差異の力を発現させるはずである。しかし、差異はなくなり、連続・同一性の構造のみが、今、支配している。後で、小泉新自由主義ファシズム政権の成立をもう一度哲学的に解明して、何が問題かを明確にしたい。

p.s. 軍事力をもっていいと私は述べたが、寺田学氏の明晰なブログを見て、考え直さないといけないと思った。自衛権と軍事権とは異なるのである。ここを明確にしないといけない。この問題は私の盲点である。自衛力と武力。ここを哲学しないといけない。平和憲法は、特異な憲法である。それは、武力ではなくて、自衛力をもった平和主義の憲法であろう。問題は、世界が、武力肯定であるという現実の文脈において、自衛力的平和主義をどう位置づけるかであろう。後で、検討したい。





アレゴリーとシンボル:構造主義の二つの表象・表現方法

今日は必要で、文学表現であるアレゴリーとシンボル(象徴)について、愚考してみた。この分野では大古典のC.S.ルイスの『愛とアレゴリー:ヨーロッパ中世文学伝統』(玉泉八州男訳 筑摩書房)の第二章アレゴリーと解説を読んだ。はっきり言って、難しい問題である。若い頃、アレゴリーに対して反発を感じて、シンボルの肯定派であった。何故、反発したかと言えば、抽象観念の道徳性が予め規定されていて、読書・読者の自由がないことに反発を感じたのである。とまれ、今日も、解説を読んだが、よくわからなかったので、自分なりに整合的な解明を試みた。その結果、これは、「構造主義」に対する二つの表現の仕方だと思った。不連続的差異論から言えば、メディア界の「実在」に対する二つの表現方法である。即ち、アレゴリーとは、「構造」を知的に、観念的に、直接的に指摘する表現方法であり、シンボル(象徴)とは、「構造」を感情的に、間接的に、示唆・暗示する表現方法であると考えたのである。たとえば、中秋の名月であるが、これは、暦という「構造」においては、アレゴリーであるが、純粋に月と見た場合は、シンボルであろう。あるいは、百合であるが、これは、キリスト教的には純潔を意味するのであり、それは、キリスト教的「構造」におけるアレゴリーであるが、純粋に花としては、シンボルである。(私の直観では、百合は、楚々として、凛とした、単独的な花という印象をもつ。これは、シンボルとしての百合である。)
 以上、大雑把ではあるが、本件に関する実に明快明確な分類説明解明になると思う。

p.s.  中秋の名月の例は、中秋の名月という暦上の観念を表現する月ということになるだろう。しかし、明快ではないので、別の例を考えよう。たとえば、巨大な杉の木を考えよう。直観では、いかにも、内在的力を感じさせる。だから、シンボルとしては、力である。力を象徴する。しかし、神社にとっては、御神木である。つまり、神道の「構造」では、神を表現するアレゴリーである。これは、山でもそうだろう。奈良の三輪山は、ご神体であるから、神のアレゴリーである。しかし、三輪山を直観すると、これは、いかにもシンボルで、いろいろな連想が湧いてくる。暗示・示唆的である。そう、フッサール現象学と使用すると明快になるのではないか。シンボルは、暗示的な志向性であり、アレゴリーは、直截な志向性である。 
 とまれ、アレゴリーとシンボルは明確に区別されるが、実際は、両者混淆していることが多いと言えよう。





近代国家・国民国家の原動力としての「力の意志」:「力の意志」は、国民国家を超える

明治維新は、私見では、衰退した多神教神仏混淆)に換わる一神教天皇教・尊王思想)/自我主義によるものであり、これが、国民国家を形成した。これは、文学的にはロマンティシズムである。しかし、これは、当然、反動化する。そして、諸戦争を起こして、敗北する。戦後、この反動化した権力がもどり、アメリカと連携する。現代、アメリカにおける新自由主義と連動する形で、小泉新自由主義ファシズム政府が誕生する。
 原動力は、やはり、一神教/自我主義=力の意志であると思う。これを不連続的差異論から見たら、メディア界の力・強度が反動的に自我権力へと作動していると言えるだろう。
 さて、新自由主義とは、近代主義の最終点であり、ポスト近代主義を内包しているが、問題は、これは、「ファシズム」であり、人間の個が犠牲にされるシステムであることである。そう、反動のシステムであるから、優れたものは、生まれにくいのである。これが問題である。画一性・凡庸さが支配する。ビッグブラザー体制である。画一的自我、連続・同一性の自我から、差異を肯定して、ポスト新自由主義へと展開するには、たいへんな時間がかかるだろう。少なくとも数十年はかかるだろう。もっとも、アメリカが、ポスト新自由主義になりそうなので、その影響を日本も受けることだろう。そう、アメリカに差異革命が起こるかどうかである。差異がキリスト教に吸収されないで、発現できるかどうか。アメリカ文化には、内在的には、神秘的伝統があって、それが、差異へと転化すれば、差異革命は起きるだろう。神秘主義とは、実は、差異の不十分な、不正確な知覚である。





検討課題:プロテスタンティズムとは何か:新自由主義を超えて

マックス・ウェーバーの論は有名であるが、これにニーチェ哲学を加味して、考えると現代的な理論となるだろう。私は、宗教改革とは、ルネサンスへの反動であると言った。とまれ、この資本主義的帰結が新自由主義である。つまり、差異の反動の帰結である。差異は狂気となる。そう、ディオニュソスや力・権力の意志となる。(ブッシュや小泉がそうである。)ここで、古代ギリシア悲劇、エウリピデスの『バッカスの信女』を想起するのもいいだろう。結局、新自由主義は一種神憑りである。これは、不連続的差異論の視点では、メディア界が動力となっているのである。そして、これが、連続・同一性である金融資本によって規制されているのである。これを、差異的に解放実現する必要があるのである。なぜならば、それこそ、メディア界の本来の力であるからである。つまり、新自由主義は、不十分な実現である。新自由主義脱構築が必要である。それが、差異共存共創経済、差異メディア・エネルギー的資本政治経済である。





ポスト新自由主義とは何か:シェイクスピアの予言的『リア王』:第三の方法としての差異共立路線

後で、本件を検討したい。
問題の一つは、国家、近代国家とは何であるかである。
ホッブズリバイアサン問題。
近代国家は、絶対主義の延長にあるだろう。
これは、一種封建制を維持しているだろう。
国家=お上・王権である。
だから、国家・「公共」的利権で政官財が癒着する。
そして、新自由主義は、これを解体するものである。
しかし、カトリーナで、この脆弱性が露見した。
結局、ポスト新自由主義であろう。
これは何を意味するのか。
これは、これまで、私が繰り返したように、
差異メディア・エネルギー資本政治経済、
差異メディア主義であろう。

p.s. そうすると、「近代」とは、実は、中世的枠組みをもっているということになる。

「近代」とは、少なくとも、以下の8個の要素から成るだろう。

1)「近代」科学/技術
2)差異主義としてのルネサンス
3)差異への反動としての宗教改革プロテスタンティズム
4)国家や領地・領土という中世・封建的枠組み
5)資本主義
6)民主主義
7)デカルト哲学(これは、1〜3と関係する)
8)自我中心主義(3と7に関係する)

p.p.s.  今回の「郵政民営化・改革」選挙やハリケーンカトリーナによるニューオーリンズの惨害を見ると、シェイクスピアの予言的な『リア王』を想起する。リア王の長女たち、グロスターの私生児エドマンドは、自我中心主義で、「新自由主義」であり、リア王グロスターは、「派閥政治」や「社会主義」である。そして、後者は、無惨に前者に破壊されるが、前者も、自身の破壊本能によって自滅する。そして、第三の方法として、コーディリアのあり方がある。これが、私の言う差異共存共創主義/差異メディア・エネルギー資本政治経済に当たるだろう。

3p.s. 日本の明治維新天皇一神教体制とは、宗教改革プロテスタンティズムに当たるだろう。

4p.s.  イギリスの作家D.H.ロレンスも、第三の方法を探究していたと言える。『王冠』で、「父」は新自由主義、「子」は派閥政治・社会主義、「聖霊」が第三の方法である。これは、正に、差異の方法である。そう、ある意味で、キリスト教とは、二元論的に分裂しているのだ。キリスト教は、新自由主義も生んだし、派閥政治・社会主義も生んだのである。ロレンスは、『死んだ男』で、ポスト・キリスト教を表現しているが、「死んだ男」のあり方が、第三の方法、差異の方法である。それは、正に、差異共存共創主義であり、差異メディア・エネルギー的資本政治経済であろう。