不連続的差異論入門:その37

イデア界とメディア界の関係:不連続的差異論とホワイトヘッド哲学

差異共存調和波動とは、確かに、メディア界のものであるが、しかし、イデア界に関係していると思う。この点について、簡単に考察してみよう。

イデア界:d1/d2/・・・/dn

メディア界:d1〜d2〜・・・〜dn

(なお、dkは、不連続的差異であり、/は境界、〜はゆらぎの記号である。)

問題は、メディア界(d1〜d2〜・・・〜dn)を精緻に見ることであろう。

イデア極:d1⇔d2⇔・・・⇔dn (⇔は差異共存志向性)
現象極:d1・d2・・・・・dn

これが、メディア界の両極である。現象極は、ほぼ、連続・同一性である現象界(d1ーd2ー・・・ーdn)と類似的である。しかし、現象極は、構造、超越論的構造であるから、本来、現象界とは異質なものである。
 さて、差異共存志向性は、イデア極にあり、現象極になると、それは、連続・同一性の志向性へと変容している。だから、私が、考える差異共存調和波動とは、やはり、メディア界的というよりは、イデア界的であるように思える。(差異共存志向性とは、フッサールの相互主観性・間主観性ホワイトヘッドのいう抱握 prehensionとほぼ等価だろう。)
 次のように考えたらどうだろうか。すなわち、ある文化期において、ある差異の連結の周期があり、それが、サイクルを終えて終焉するとしよう。これは、つまり、現象界へと帰結して、メディア界を忘却している。しかし、新たな差異の連結の周期が発動する。新しい差異連結の出来事である。これは、実は、イデア界の出来事(デュナミス)である。この新しいイデア界の出来事(デュナミス)によって、メディア界に新しい波動・強度・力・エネルゲイアが発生すると言えよう。これが、差異共存調和波動となるのではないだろうか。これならば、イデア界且つメディア界的であり、整合的であり、私の直感に合う。
 ところで、大問題は、以上の考えは、ある種占星術の文化期論に適合するのであるが、しかし、問題はこれが決定論であることである。スピノザ的と言ってもいいだろう。自由即必然である。人間は、ただ差異に駆動されるままである。受動的存在である。カントのアンチノミー論にも関係する。しかるに、ホワイトヘッド哲学は、過程を重視している。これは、いわば、相互作用・双方向的作用、インタラクティブである。この点では、ホワイトヘッド哲学の方が、不連続的差異論よりは、すぐれているような感じがする。この過程的双方向性を不連続的差異論にも取り込む必要があるようにも思える。ならば、問題は、メディア界からイデア界への作用を理論化しないといけない。
 ここで、私の最初のイメージ・直観をたどりたい。私は、不連続的差異論が誕生する前、大根源界を想定して、これと私自身の心身・「魂」がつながったと感じたのである。そして、主体的な働きによって、この回路が形成されたと感じた。つまり、ブッシュのイラク侵略によって、私の義憤は絶頂に達して、世界に対する絆が、ある意味で、断ち切れ、私の心身は、超越論化して、「大根源界」に到達したと感じたのである。しかし、他方、私の直観は、「大根源界」からの働きかけもあると考えたのである。それは、そったく同時(卒啄同時)的なものと考えたのである。つまり、「大根源界」からの働きかけ、そして、主体からの働きが、一致して、この超越論的相互的回路ができると考えたのである。この考えを不連続的差異論に適用すればいいだろう。
 即ち、イデア界からの源活動があり、それが、メディア界において、差異共存調和波動・差異共存志向性を発生させる。しかし、この波動を個体・主体は、無意識に内に受信してはいても、この力・強度・エネルゲイアを積極的に活用することができない。逆に、反動的に排出・隠蔽しようとする。(精神分析的に言えば、抑圧・排除である。)そして、この結果は、精神病理であろう。うつ病、「分裂症」、パラノイア、多重人格症等々であろう。(私は、この精神病理に、今回の小泉ファシズム現象を入れてることができると思う。もっとも、精神病理だけに社会現象を還元するつもりはない。もっとも、精神とは、心身、あるいは、メディア界と把握すべきである。)つまり、ここには、イデア界からの差異共存調和波動と現象界の利己主義、自我主義という連続・同一性という反動的形式力が衝突しているのである。活断層となっているのである。だから、個体・主体、そして、社会が、真に解放されるには、個体・主体の積極的な働きかけ、個体・主体的能動性が必要であるということになる。そう、この主体的能動が、たとえば、フッサールの自然的態度の判断停止(エポケー)、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念であり、D.H.ロレンスの脱自我論であり、仏教の解脱、禅の瞑想、道元の「身心脱落」の方法だろう。また、プラトンイデア(善の太陽)の観照とも通じるだろう。
 結局、個体のメディア界において、この解放への「闘争」が行なわれるのである。この個体・主体的格闘が為されて、人間は、自由を勝ち取ると言えるだろう。自由は確かにやってはくるが、それを受け取るための自己闘争が必要なのである。思うに、ホワイトヘッドのいう過程や抱握は、このメディア界の闘争・格闘と関係するだろう。 
 しかしながら、ホワイトヘッド哲学は、この主体の働きが、根源界にも影響を与えるとしているのである。この点で、不連続的差異論と異なるだろう。これは、思うに、デュナミス(可能態)とエンテレケイア(終局態)の関係で説明が出来るのではないだろうか。デュナミスであるイデア界はエンテレケイアである現象界となることが、目的である。謂わば、イデア界は種子であり、現象界が実である。だから、主体的現実化が、ホワイトヘッドのいう主体による根源への働きかけに相当すると考えられるだろう。しかし、やはり、ホワイトヘッドは、根源(デュナミス)を変化させられると考えていることが、やはり、相違点として残る。しかしながら、デュナミスとは、結局、無限の可能性・潜在性であり、ホワイトヘッドがいう主体的働きかけによる根源の変容と一致できると言えよう。つまり、後者の主体的変容を、イデア界・デュナミスは既に内包しているのであるから。可能性・潜在性としては、すべては、決定されているのである。ただ、それは、主体的能動性によってのみ現実化すると言えよう。
 さて、では、主体性とは何だろうか。それは、本来的には、やはり、イデア界/メディア界の差異共存志向性の力ではないだろうか。少なくとも、メディア界の力とは言える。そして、これに個・単独・特異性的に肯定的に、積極的に、能動的に応えて、取り込んでいくことが、本当の主体性と言えよう。つまり、ここには、個的決断があるのだ。個的勇気が必要なのだ。ここで、決断しないかどうかが、主体性が形成されるかどうかの決定的な分かれ目である。そして、この主体性が、歴史を創るのである。そして、現代の日本人は、度し難く、この主体性を欠いた奴隷的国民になっているのである。思うに、個的決断、個的勇気、能動的主体性の根本的意義を説かなかった教育は、決定的に、惰眠を貪る国民を生んでしまったと言えるだろう。





聖書の命の水と水瓶座の水

ヨハネ黙示録22・1「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。」

聖書の命の水とは、思うに、占星術でいう水瓶座の水と等しいのではないかと思った。水瓶座の時代は、この水瓶の水が地球に注がれるということだろう。これは、物質的な水ではないだろう。それは、霊感や聖霊だろう。メディア界の賦活であり、「波動」を意味するだろう。メディア界の差異共存性の波動ではないだろうか。つまり、イデア界の波動と言ってもいいだろう。それは、調和の波動である。円空の言った「法の御音」のようなものだろう。芸術的には、ミューズである。東洋的には、「気」である。宇宙の「気」である。それは、量子的なものでもある。とまれ、イデア/メディア的な力である。
 だが、今一つ、ぴんとこない。これは、メディア界的ではあるが、よりイデア界的なものである。というか、イデア界の力ではないのか。イデア界の根源的な調和波動ではないのか。このように考えると、ピンとくる。イデア界の門が開かれて、イデア界の「命の水」が地球に注がれるということだろうか。そう、エデンの園を守護する炎の剣をもつ智天使ケルビムが、開門するのだろうか。イデア界ないしメディア界の「命の水」ならば、それは、叡智の水でもあるだろう。叡智としての「命の水」ではないだろうか。

参考
智天使
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

智天使ヘブライ語 ケルブ 、複数形ケルビム )は、天使の位階のひとつ。第二位。

旧約聖書 の創世記 にはエデンの園 の入り口を炎の剣 を持って守っているとされる。また、契約の箱 の上にはこの天使を模した金細工 が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア )ことから「智天使」の名で呼ばれる。


エデンの園
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

エデンの園ヘブライ語 Gan Eden,  英: Garden of Eden)は旧約聖書 の創世記 (2:8-3:24)に登場する理想郷の名。楽園 の代名詞になっている。パラダイス とも言う(ラテン語 ではパラディースス、ギリシャ語 では、パラデイソス)。地上の楽園とも言う。

創世記の記述によればエデン は「東の方」(2:8)にあり、アダムとイヴ は園を管理するため、そこにおかれ、そして、食用果実の木が、園の中央には命の木 と善悪の知識の木 が植えられた。

また、エデンから流れ出た1つの川は、四つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川(チグリス川 )、ユーフラテス川 )に分かれていた。

ヤハヴェ・エロヒム(日本では主なる神と訳されている)はアダムとイブが禁じていた善悪の知識の木の実を食べたことから、命の木の実をも食べることをおそれ、エデンの園を追放する。命の木を守るため、ヤハヴェ・エロヒムエデンの東にケルビム ときらめく剣の炎をおいた。

ダンテ・アリギエーリ の叙事詩神曲 』では、煉獄山の山頂にエデンの楽園があり、天国に最も近い場所となっている。

なお、エデンとはヘブライ語 で快楽、アッカド語 で園という意味である。





ポスト新自由主義の哲学について:自由市場と差異共存共創主義

後で検討したい。
自由市場と差異共存共創主義との関係を検討したい。
思うに、差異共存共創主義的資本を自由市場が評価するようになればよいのだ。差異共存共創社会経済資本を自由市場が積極的に評価すれば、ポスト新自由主義となる。そう、新自由主義が、差異共存共創主義へと進展するということもできるだろう。つまり、ポスト・モダンの差異への徹底的還元である。差異論的還元である。自由市場が、利己主義ではなくて、差異共存共創主義のためのものとなる。利己主義の自由から差異主義の自由へのパラダイム変換である。





再録:光:やさしさの社会経済へ:差異共存共創的資本主義へ

私はポスト新自由主義として、差異共存共創主義を唱えているが、それは、以下の記事のようなものを志向しているだろう。そう、一言で言えば、優しさの社会経済である。新自由主義は、正反対である。もっとも、優しさと強さは一如である。新自由主義は、強さというよりは、暴虐性である。攻撃性、獰猛性である。交感神経の過剰作用である。思うに、軍事とは、父権的な、自我主義的な、反動性、攻撃性に基づいている。脱自我的な、脱父権的な、政治経済のあり方があるはずである。ポスト近代主義とは、差異理論とは、差異共存共創主義である。フッサール現象学もそれを説いていると考えられる。差異主義的政治経済社会。競争は共創となるべきである。
 とまれ、私は、だんだん、この国に住みたくなくなってきた。傲慢や暴力が蔓延っている。思えば、D.H.ロレンスは、いったん、ファシズム的な指導者を志向した時期があったが、晩年、それを破棄して、優しさを説くようになった。『チャタレイ夫人の恋人』に、初めは、『優しさ』(Tenderness)というタイトルをつけようとしていたのである。優しさのない新自由主義を、私は批判する。

p.s. 以下の記事の差異共存共創主義は、著者が、「官と民との融合」と言っているが、そうではなくて、「公と民との連結」と言うべきだろう。
即ち、民的企業が、公としての役割を果たすようになった。つまり、企業が差異として、活動するようになった。企業の差異化である。資本の差異化である。差異資本主義である。差異共存共創的資本主義である。
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今日は某大企業の人が来る

精神障害者の法定雇用に向け

情報収集をしている人だ

あんまりここに書ける具体的な話は今の所ない

今日話した事と常日頃考えてる事を交えて書く


精神障害も法定雇用の中に含まれ

大企業は、精神障害者を雇用する社会的責任が生じた

現段階での企業側のひとつの見解は今抱える精神病の社員に手帳を取らせて

法定雇用率を満たそうという考えが主流だ

うつ病の蔓延は何処の企業も抱える問題

企業の本音は、精神病の人には退職してもらいたいと陰では聞く

中小企業と違い大企業は福利厚生が良いし組合もしっかりしてるので

長期療養の後、復職する人が多い

だから大きな企業ほど精神病の人が多い

公務員もそうだ

笑い話じゃないが道庁など何処に健康な人が居るんだと

健康な人を探す方が難しいなどという道会議員もいる

まあ、市役所もにたようなものだ


不思議なのは制度があって金があっても機能しない

産業カウンセラーや社内メンタルヘルス事業

企業側が窓口を置き医者やカウンセラーまで置いて

誰も利用しない

そんな現象も結構耳にする

差別や偏見が根深いからだと思う

行政サイドでは福祉工場を幾つか作り企業とタイアップして障害者雇用を促進してきた

勿論、福祉法人が主役だし身体と知的がほとんどだ

これも立ち上げるには、どえらい苦労が居る

本の一冊も書ける内容だ

土地の確保や億単位の資金繰りから認可まで

作業所立ち上げの何倍かの労力を要する

しかし福祉工場そのものも仕事が無いという不思議な現象がある

障害者に仕事をやって貰うより

中国に外注したほうが安価で確実だという現実がある

企業側が苦労して仕事を回すそんな事例もある

そんな障害者福祉の中でも精神障害福祉だけは悲しいくらい遅れてる

主因は行政の怠慢だけでもない

遅れてる原因は医療の側や親の囲い込みの問題でもあるだろうし

事業を立ち上げる主役になる当事者がほとんど居ないというのもある

身体障害では当事者が運営する所が主流だ

知的障害では育成会など親の会が様々な運動を起こしてきた

もうひとつが企業の利益追求や効率性から離れた所で何か出来ないか?

今ある福祉という枠組みや企業という枠組みを超えた何か?

これは、僕もいつも考えているので知ってる限りの事を話す

何か新しいものを創造しようというひとつの流れ

融合なんだけど。。。。

浦河ベテルや和歌山のやおき福祉会

数少ない中で奮闘中の所もある

医療と福祉と地域の融合だ

そして官と民の融合

これが理想だと思う

アメリカのNPO企業のの成功例を見ると本当に凄いと思う

道路やビルの設計から施行までNPO企業がやるのだ

勿論、談合も入札もない

民間が受注する額の半額以下で工事してしまうのだ


精神障害者の就労を企業で考えているというだけで少し明るくなれた

企業も社会貢献する時代に少しずつなっていくべきだ

広告にばかり金をかけないで社会還元するべきだと思う

金の出所が行政だけじゃなく・・・・行政がまず出すべきだが

あちこちから色々なものが出来てきたら面白いなあと思う

もっともっと当事者の人材が出てきたら面白いと思う

どう考えても社会資源が少なすぎるのだ

金儲けばかりのこの国で社会を良くしたいとか

障害者の為に何か始めたいとか

そんな人が企業の内部にも居るんだという事が僕には嬉しかった

経団連厚生労働省もこの企業の方針に賛成だという


ひきこもりやニート

うつ病その他の精神病

これらが蔓延して

医療機関福祉施設も手詰まりの観がある

そんな中で企業側が当事者を主体にした事業を起こそうとしている

利益や効率だけじゃない事業所

人間関係を大切にする職場

そんなのが増えて欲しいと思う

ネックは人材だ

いつもこれを思う

人が育たない

余裕のない福祉や医療

当事者に対する過保護

これらの問題を少しずつ考えていくと

人が育てる場

育てられる人

そんなものが沢山必要だと思う

ようやく社会全体がメンタルヘルスに本腰を入れようとしている

そんなことを感じた

暗い話ばかりの世の中で

何だか明るい気分になれた

久しぶりにこの国に光を感じた
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■光とは何か

nohohonkoubouさん
この記事の意味するものは何であろうかと思います。私は、ポスト新自由主義として、差異共存共創主義を説いていますが、いまだ、抽象的な段階です。しかし、ここにあるのは、具体的なもの、血肉のあるものですね。少し時間をかけて、熟考したいと思います。
sophio (2005-09-22 06:43:47)

そういちの平庵
http://ameblo.jp/nohohonkoubou/entry-10004448520.html





派閥政治と新自由主義:近代的資本主義から脱モダン的資本主義へ

先の検討では、派閥政治とは、近代国家の封建主義的特権性に基づくと考えたが、それだけでは、とても不十分であるので、さらに検討したい。
 近代的民主主義ないし間接民主主義は、先に述べたように、自由な市場を求める資本主義と自由・平等を求める社会・「民衆」との収斂として形成された。しかし、近代的政治・国家は形式的には民主主義形態を取ったが、政治・国家(官)は、公共投資、公社・公団、地縁的共同体、圧略団体等を含む国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義的な政治・行政形態となっていた(いる)のである。これは、政官財の癒着となって現れているのであり、ここが、日本の財政の破局的危機をもたらしたと言えよう。
 さて、では、この国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義政治形態とは、理論的にはどういうものか考察しよう。これは、実は、社会・「国民」の民主主義の政治・経済的実現を意味しているだろう。つまり、国民のための公共投資等々である。つまり、民主主義は、いわば、社会主義と資本主義を折衷させたのである。これが、20世紀ないし戦後の近代国家の政治経済状態である。資本主義と社会主義のハイブリッドとしての近代民主主義政治経済と見なくてはならない。これが、派閥政治の本質である。しかし、この中間形態に対して、資本主義側から、異論・反対が生まれる。それが、新自由主義である。これは、反抗であり、革命性を帯びている。自由市場論であり、脱社会主義化である。そして、これが、現代日本にも押し寄せたのである。
 とまれ、以上のように考えると、社会主義的資本主義とは、近代主義の帰結と言えよう。資本主義と社会・「民衆」のそれぞれの志向が民主主義によって妥協的に統合したのであるから。しかし、資本主義、国際金融資本主義は、この近代主義を否定して、さらに、資本主義自体の自由を求めて、新自由主義を形成するのである。これは、明らかに脱モダンである。ここでは、もはや、社会・「民衆」の本来的志向は無視されている。社会主義的志向は完全に否定される。利己主義、弱肉強食が正当化される。これが、小泉新自由主義ファシズム革命の意味である。
 ここで、これまでの私の考察を加えると、新自由主義は、差異への反動である宗教改革プロテスタンティズムの延長・帰結である。日本では、おそらく、明治維新尊王一神教的「革命」の延長・帰結である。そう、戦前であり、明治に日本は回帰したのである。問題は、ここで、反動により否定されたものが、必然的に力をもつことである。これは、反動の問題である。反動となるのは、元にある根源的な力があるからである。この根源的な力に対して、反動が生じるのである。だから、新自由主義とは、この根源的な力を逆喚起するのである。これが、差異の力である。おそらく、新自由主義は、差異理論に喚起されているはずである。そう、差異哲学、ポストモダン理論、ポスト構造主義理論の影響を新自由主義は受けていると思う。つまり、こういうことではないだろうか。20世紀後半、1970年代〜1980年代、ポストモダンの隆盛期であり、1990年代からは、新自由主義の隆盛期である。この順序に注意すべきである。ポストモダンは、近代主義への批判であり、その解体であり、連続・同一性を批判し、差異へと解体したのである。これは、差異の力への還元を意味する。そして、この還元された差異の力が、賦活して、原動力となったと考えられるのである。つまり、差異ルネサンス(イタリア・ルネサンス)が復活したのである。そして、これに対応するように反動としての新たな宗教改革プロテスタンティズムが復活したのであり、それが、正に、新自由主義なのである。現代は、近世の復活・回帰現象である。14世紀〜17世紀の回帰(日本で言えば、安土桃山時代明治維新の回帰)である。(思えば、私がシェイクスピア悲劇を引用したのは、衒学ではなくて、本質的意味があると言えよう。そう、また、ここで、忘却された花田清輝が復活するだろう。)
 結局、現代は、ルネサンスプロテスタンティズムの回帰である。しかし、それは、単に同じものの回帰ではなく、らせん的回帰のはずである。それは何か。アメリカ一極主義ないし欧米中心主義の崩壊である。多極主義・多元主義がはっきりと出現し出したことである。これは、国際・世界金融資本主義という一義性における多極化・多元化である。これは、いわば、経済のスピノザ主義であり、「帝国」の実現である。そう、経済のスピノザニーチェ主義と言えるだろう。
 さて、もう少し詳しく見ていこう。ポストモダン理論であるが、それは、結局、近代主義を解体・破壊したのは事実である。もはや、連続・同一性を信じられないのである。結局、個・単独性・特異性へと還元されたのである(デカルト哲学への還元)。つまり、多元主義の勝利がここにある。ドゥルーズガタリの理論は無ではなかったのである。この基盤にある多元論こそが、現代のルネサンスプロテスタンティズムをらせん的回帰にしているものである。かつては、一元論、一神教が基盤にあったが、現代は、ポスト一元論、ポスト一神教である。ここが決定的に異なるのである。これは、何を意味するかと言えば、新自由主義は、早晩、解体して多元主義へと進展することである。ポスト新自由主義であり、差異共存共創主義・差異メディア・エネルギー資本的政治経済へとパラダイム変換することである。