不連続的差異論入門:その38

不連続的差異論:アフォーダンス理論とホワイトヘッド哲学との比較論

不連続的差異論は、アフォーダンス理論とホワイトヘッド哲学との比較論を経ることで、さらにグレードアップするだろう。
今は、予見で言うしかないが、アフォーダンス理論とは、環境にアフォーダンス(提供理論)があると考えているようだが、「環境」は、不連続的差異論のメディア界で説明がつくのではないだろうか。
 また、ホワイトヘッド哲学の抱握(prehension)であるが、これは、どうも、ライプニッツの予定調和に似た概念のように思える。これは、思うに、各個が、それぞれ全体を内包するような理論だろう。不連続的差異論のメディア界の考え方から見ると、そのような包み込みは、存在していないと思う。確かに相互反照があるだろう。そう、抱握とは、相互反照と見るのがいちばん適切かもしれない。そうならば、ホワイトヘッド哲学を取り込むことができる。しかし、再確認すべきは、個=差異とは、特異性・不連続的差異であり、本来、相互反照とは独立したものであることである。この点で、ホワイトヘッド哲学は、連続性の理論であると言えるように思う。「有機体」という発想が、連続性の理論であると推測させるだろう。だから、不連続的差異論は、ホワイトヘッド哲学を超えていると考えられる。
 最後にアフォーダンス理論について、付加すると、「環境」は、対象的メディア界であり、知覚主体は、主体的メディア界であると言えるだろう。だから、私見では、「アフォーダンス」とは、単に「環境」にあるだけではなくて、知覚主体にも存しているのである。対象的メディア界と主体的メディア界との接点に、過程・動的な知覚像が結像すると言えると思う。換言すると、対自的メディア界と即自的メディア界との接点・結節点・交差点である即自且つ対自的メディア界が過程生成・動的な知覚像を構成すると考えられる。こう考えると、不連続的差異論は、アフォーダンス理論も超えていると言えるのではないだろうか。

p.s. フッサール現象学であるが、それは、即自的メディア界理論であり、対自的メディア界が欠如しているのではないだろうか。ポスト・フッサール現象学は、この対自的メディア界を取り込もうとする努力であろう。ハイデガー、メルロポンティ、サルトルポスト構造主義も、そのような面があるだろう。ドゥルーズガタリの内在平面とは、そのようなものだろうし、デリダ差延も、対自的差異と言える。

以下、資料です。
「つまり、彼らは、小泉首相ドメスティック・バイオレンス (DV/Domestic Violence)的でアンモラル(背徳的)なゾッとするほど凄惨なセックス・アピール(ナルシスティック(自己愛性格的)な“狂喜”の表情)へ大いに共鳴してしまうのです。そして、宮台氏によれば、これらの弱者たちは、溜まり溜まってマゾヒズム の塊と化した自らの怨念のマグマを一気に解放し法悦(カタルシス )しているのだそうです。これが、不安と恐怖感に満ちた弱者層の人々が“幻想の小泉劇場 ”に嵌る、言い換えれば、非情な暴君の恫喝が被虐者(餓鬼化した弱者)たちを魅惑する異常なメカニズムです。

 そして、これこそが“恫喝 =被虐のポピュリズム ”による『スピノザ が言う「延長」の社会的共振 現象』(スピノザ 流の感覚質(クオリア )の伝播/脳内ニューロンクラスター の発火・共鳴 現象)であり、小泉政権は、この悪魔的で「淫猥な秋波戦略」を一般大衆へ向けて意図的に使っているのだと思われます。冷静な一般国民の一部で『小泉劇場』に対する激しい嫌悪感が存在するのは、この悪魔的で「淫猥な秋波戦略」(=弱者を餓鬼化する非情な戦略)の存在を考慮すれば、ごく当然だと思われます。その深奥には「暴力的ファシズム 」(軍事・強権的な独裁政治 への暴走)の臭いさえ色濃く立ち込め始めています(なお、スピノザの「延長」については、下記Blog記事●を参照)。

<注>『脳内ニューロンクラスターの発火理論』については、下記Blog記事★を参照のこと。当然ながら、この理論そのものに善・悪の価値判断が入る隙はない。例えば、それはJ.ギブソン の『アフォーダンス理論』のような生命科学的な仮説概念(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403 )である。

★「幻想民主主義 の国」日本 (1)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050510

アーカイブの役割とは何か?(Ⅴ)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050310

 宮台氏は、このような“恫喝=被虐のポピュリズム ”に踊らされて『小泉劇場 』を支持した浮動票、つまり弱者層に属する若者たちのことを「ヘタレ保守 」(彼らは、歴史観などに裏付けられた伝統的な意味での保守主義者ではない/ただ、恫喝に怯えて目先の強い権力に必死にしがみついているだけの存在)と名づけました(MIYADAI.com Blog、http://www.miyadai.com/ )。本来であれば、民主党がこれらの弱者層(都市型不動票)の受け皿となって、彼らを「都市型リベラル」(歴史観と論理性をわきまえた人々)へ脱皮させるべきであったのですが、民主党 はそれに失敗したと宮台氏は分析します。そして、今後、民主党がやるべき二つの課題を次のように指摘しています(注、( )内は筆者の脚注)。

(その一)都市型リベラル を惹き付ける新しい「政党アイデンティティ 」を示すこと

・・・そこでは「徒な小さな政府 原理主義 」や「弱者切捨て政策」は間違いだと宣言する必要がある。都市的弱者たる非正規雇用者やシングル マザーや障害者などの支援やフリーター がフリーター のまま幸せになる社会を主張すべきだ(なぜなら、もはや彼らの存在が“日本 の現実”なのだから)。

(そのニ)アマルティア・セン が言う「Capability」(潜在的可能性)を主題化すること

・・・ Capabilityとは、現実化し得る選択肢 の豊かさのこと。今の日本は、多用な仕事、多用な趣味、多用な家族のあり方、多様な性のあり方、つまり多様な人生が選べない社会になっている。これは、「法的規制のあり方」と「教育のあり方」の問題でもある(徒に規制緩和すればよい、というものでもない)。

toxandriaの日記

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050929/p1





間接民主主義の問題:資本公共主義・差異共存共創主義へ

今日、帰路で、思った、間接民主主義では、民とは、私的になるのであり、公的なものは、国家へと委託されるのではないかと。
郵政民営化とは、英語では、post privatization であり、私有化である。あるいは、民的私有化である。問題は、私有化とは、公共性とは基本的には関係ないことである。極論すれば、社会的公共性は一切無視してかまわないのである。当然、「弱者」は、淘汰される。(今度の衆院選挙は、弱者が、強者を肯定したという倒錯的選挙として、歴史に残るだろう。)
私の考えは、差異的資本主義である。差異的還元による資本主義である。ここでは、差異の自由市場があり、差異の産業があり、差異の共存共創がある。これは、究極的ヴィジョンであり、いまだ、抽象的段階である。

では、この差異資本主義と新自由主義との関係はどうなるのか。
新自由主義とは、差異の反動だと思う。では、国家資本主義、社会主義的資本主義、近代的資本主義とは何か。つまり、問題は、新自由主義と国家資本主義との理論的差異である。

私は、先に、近代主義とは、資本主義と国民主義との妥協としての民主主義であると言った。どちらも、「民主主義」に収斂する。しかし、内容が異なる。資本主義にとっての民主主義とは、間接民主主義という政治形態であり、国民主義にとっての民主主義とは、公共的民主主義である。だから、名前は一致するが、基本的には、両者は、別箇のものと考えるべきである。結局、後者は、政治レベルでは、公共事業主義となったと言えよう。これは、国家主義的資本主義、「社会主義」的資本主義である。そして、これが、政官財の癒着を生み、財政超赤字をもたらしたと言えよう。そして、資本主義側は、この国家主義に反対して、新自由主義を唱えたと言えよう。

問題は、所謂、公共投資である。これは、国家的公共投資である。民間的公共投資ではない。つまり、国家資本主義、「社会主義」である。新自由主義は、これに反対しているのである。そして、小泉新自由主義・ファッショ革命は、当然、国家資本主義、「社会主義」への否定を意味する。しかしながら、これは、資本主義の論理であることを確認しないといけない。公共性はないのである。私有制の肯定である。弱肉強食の論理である。

では、問題はどこにあるのか。つまり、公共投資が、国家・官的になっていることではないだろうか。そう、新自由主義では、公共主義が喪失するのである。カトリーナに襲われたニューオーリンズを見よ。結局、国家主義社会主義ではない、公共主義が今日、必要とされていると言えよう。私は、差異共存共創主義を説いているが、それは、いわば、差異的公共主義である。そして、ここにしか、公共主義はありえないだろうと思う。

では、国民主義がどうして、国家的公共主義=「社会主義」になったかを考えるべきだろう。これは、エンゲルス/カウツキーの社会民主主義に求めるべきではないだろうか。あるいは、レーニンの国家資本主義に。資本主義国家は、これを取り込んだと言えよう。つまり、20世紀において、資本主義国家は、社会主義と妥協したと言えよう。資本主義と社会主義のハイブリッドとしての20世紀近代主義である。

私がこれまでくどく述べてきた自我主義は、本来、資本主義のものであり、社会主義ではない。(思うに、ゆとり教育の発想は、社会主義ではないか。これが、日本人の知性を、二流三流にしたと思う。)そして、自我主義が、新自由主義を生んだと言えよう。ならば、自我主義と社会主義の関係はどうなのか。社会主義とは資本主義への反動であり、結局、資本主義を志向しているのである。だから、社会主義⇒資本主義と言えよう。では、国民主義はどうなるのか。そう、これは、本当は、民間的公共主義となるべきものであったのではないだろうか。それが、社会主義共産主義化したと思う。結局、国民主義は、民営的公共主義となるべきではないか。そして、私の説く差異共存共創主義とは、これを意味していよう。郵政民営化とは、資本主義の徹底であり、国民主義は破壊されよう。

ならば、問題は、資本主義と公共主義との関係である。この解決が、差異主義だと思う。結局、両者が結合してこそ、真の発展があると思う。公共主義のない資本主義は破壊主義であり、資本主義のない公共主義は、衰退主義である。だから、資本公共主義がありえるのではないか。差異共存共創主義がそうではないか。

p.s. 以下のtoxandriaの日記の叙述から考えたことだが、市場原理主義の自由とは、自我主義の自由であり、個・差異主義の自由ではない。前者は、これまで何度も言及したように、プロテスタンティズムに起源があるものであり、後者はルネサンスに起源があるのである。だから、自由の理論がここでは問題になっていると言える。自我の自由と個の自由。新自由主義とは、自我自由主義であり、個自由主義ではない。自我自由とは、自我放縦につながる。いや、単純に言えば、利己主義のことである。利己的リベラリズムか、差異的リベラリズムか。 
 しかし、今や、アメリカは政策を多極主義(田中宇氏)に転換したようなので、新自由主義ネオコン時代とは、意味が変化する。多極主義とは、多元論であり、当然、一元論的利己主義ではなくて、相互的「利己主義」である。つまり、利他性が、利己になると考えているのだ。これは、もはや、利己主義ではない。自我自由主義ではない。いわば、ポスト自我の時代。ポスト近代のエポックである。この時代転換の意味に十分留意しないといけない。相互利益の世界時代になっているのだ。この点、アメリカ一辺倒の日本の政治は、完全に時代遅れである。ただ、ドン・キホーテのように、世界から嘲られ、虚仮にされ、また、利用されるだけの存在になるだろう。哲学・理論的に言えば、差異のエポックに入ったのである。多極主義・多元論は、差異の理論である。すると、新自由主義も、差異化されてくる。これは、ポスト新自由主義であろう。公共性も差異化されるだろう。つまり、潜在的な公共的差異を掘り出すことが必要となるだろう。今は、ここで、留めるが、後で、検討を続けたい。

以下、参考資料

★「軍事的国体論」を超える日本国憲法 の先進性 (toxandoriaの日記)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419

(その一)組織体としての国家を優先する立場(プラトンソクラテス からヘーゲルニーチェ に至る系譜)

・・・この立場は、人間も自然淘汰の法則に運命づけられている。従って、不平等が生まれるのは当然であるので、弱者は支配的な力を持つ者の庇護を一方的に受けなければ(支配者に服従しなければ)生きられないとする。植民地主義 時代のヨーロッパ 、ヒトラーナチス ・ドイツ、軍事国体論時代の日本などがこの立場である。民主主義 世界の旗手を自任する現代のアメリカ で政治を牛耳るネオコン一派も、この考え方に立っている。現在の『小泉劇場政治』は、この立場へ接近する強い意志を持っていると見做すことができる。この先に見えるのは日本の政治 が「暴走」(暴政化)することである。

(そのニ)組織体としての国家に対して、個人の自由と平等を最大限に尊重する立場(ルネサンス啓蒙思想フランス革命 等の市民革命 に至る系譜)

・・・当然のことながら、個人の自由と平等を最大限に尊重する立場に一定のルールがなければ個人と個人のいがみ合いが際限なく広がり継続することになったり、市場原理主義 (自由原理主義)に際限なく突っ走ってしまう恐れがある。現代のアメリカ の政治を牛耳るネオコン 一派は、明らかに、この自由原理主義の立場である。彼らは、自由原理主義によって最大限の平等を実現できると信じているらしい。しかし、この点こそが普通の人間の立場から考えると甚だ疑問となるところであり、そこには何か狂信的な空気が感じられる。なお、下記二つのBlog記事★には「市場原理主義 を研究するアカデミズム の現場にカルト臭が漂っている」という記述がある。特に、この点については十分に留意しておくべきであろう。

★カルト 宗教のような新自由主義 (Cityscape Blog)

http://cityscape.air-nifty.com/cityscape_blog/

★作家アイン・ランド 、米国ユニラテラリズム のもう一つの『源流』(toxandoriaの日記)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326

toxandriaの日記
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050929/p1




以下も資料。_________________________________
p.s.「

面白い記事を見つけた。>「2005総選挙 (4)日本とドイツの対照的な選挙結果 」@CYBER FRENCH CAFE

単なる選挙結果の比較に留まらず、ドイツにおける政権の新自由主義 的シフトの背景についても言及しており非常に興味深い。

小泉が選挙に勝利して以後、株価が回復している。しかし、単純には喜べない。株価が上昇するとは、日本企業の収益改善が期待されているということである。企業がイノベーションによって新製品を開発したり、より低コストでの生産が可能になったり、という要因で収益が改善するならよい。しかし、企業が人員整理などによって収益改善する場合には話は別である。一言でいって、企業が生み出す「パイ」が大きくなることによる収益改善と、「パイ」は変化しないでコスト削減(主に人件費)によって生まれる収益改善がある。前者の場合は労働者に対する分配は悪化しないし、向上する可能性も見込まれる。しかし、後者の場合は、これは株主にしか利益はゆかないことになる。ぶっちゃけて金持ちにしか利益はいかない。・・・

もじもじ君の日記。みたいな。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050928/p1#seemore





検討課題:近代的資本主義とポスト近代的資本主義

1)国家主義的資本主義と国際金融資本主義との論理について検討しよう。
2)国民という集団的連続・同一性:これは、自我観念から発している。それに対して、国際資本主義は、自我観念ではなくて、利潤という量的論理によっている。これは、実は、超越論的形式主義ではないか。問題は、この形式と自我との関係である。自我は、差異への反動であり、集合性を志向する。しかし、国際資本主義は、数字を志向する。ここには、数的合理性がある。超越論的形式的合理性である。自我のもつ集合的非合理性はない。





多極・多元主義について

今は、ごく簡単に触れたい。
田中宇氏の考えである多極主義であるが、これは、実は、ポストモダンポスト構造主義の考えから来ているのではないかと思う。
http://tanakanews.com/f0927ukus.htm
http://tanakanews.com/f0906multipolar.htm
つまり、ポスト近代主義革命が成就したのであり、一元論・一神教は、終焉したのではないだろうか。日本のように、アメリカ一元論・一神教は、今や、時代遅れのように思えるのである。
日本人は、世界の思潮の動きから取り残されているようである。
思うに、日本の優れた知識人である(あった)柄谷行人は、現代哲学の超越論性を真に理解できずに、カント/マルクス近代主義に退行したし、また、中沢新一は、すぐれた感覚をもちながらも、唯物論と超越論を混同する遊戯を行なっている。
そう、日本人の知的遅れが現代にあると思う。
是非、不連続的差異論を理解していただきたい。

不連続的差異論ノート
http://blog.melma.com/00138706/

不連続的差異論入門
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913

不連続的差異論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0

不連続的差異論(メルマ)
http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0
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■まさに、その通りです。日本人の知的遅れが原因です。

>思うに、日本の優れた知識人である
>(あった)柄谷行人は、現代哲学の
>超越論性を真に理解できずに、
>カント/マルクス近代主義
>退行したし、また、中沢新一は、
>すぐれた感覚をもちながらも、
唯物論と超越論を混同する
>遊戯を行なっている。

この御指摘、非常に重要です。

ブッシュ政権からも、既に、唯物論ネオコン主義者は去り、ライス氏のような、バリバリの、ポスト・モダン世代に入っています。

日本の、ポスト構造主義的思想の薄弱さが、際立っています。
ODA ウォッチャーズ (2005-09-27 21:36:48)





非連結的差異と形態形成:差異共存志向的非連結差異的共立構造

非連結的差異と形態形成の関係はどうなっているのだろうか。連結的差異が、構造を成し、形態を形成する。では、非連結的差異は、形態にどう関わるのだろうか。思うに、環境に対応するために、非連結的差異が、新たな連結を創造するというのは、考えられるかもしれない。それは、新しい形態を意味することもできるだろう。では、この新形態は、遺伝子として蓄積されるのだろうか。これは、獲得遺伝の問題である。新形態が存するということは、新構造があるということであり、ここには、新たな遺伝子構造があると見ていいのではないだろうか。ならば、獲得遺伝が肯定されることとなる。 
 では、この新構造は、どうやって形成されるのか。非連結的差異がどうやって新しい構造となるのか。考えれば、メディア界には、力、強度、エネルゲイアがある。この強度が、非連結的差異に働き掛けることが考えられるだろう。これまで、連続化していない非連結的差異に対する強度が強化されることが考えられるだろう。そもそも、非連結的差異とは、差異共存志向性が強いと考えられないだろうか。つまり、差異共存志向性が強いからこそ、非連結的差異であると考えられないだろうか。ならば、非連結的差異による新構造とは、連結的差異による既成構造とは異質なものとなるだろう。つまり、いわば、脱構造的構造とでも言うものではないだろうか。共立的構造と言ってもいいだろう。結局、生存のためのなんらかの必要から、メディア界内の強度変容によって構造変換が起こり、非連結的差異が共立的構造を形成するようになると考えよう。これが、新構造である。これは、マイナス強度による新構造である。つまり、連結的差異による連続・同一性のプラス強度の構造が、一種脱構築されて、このマイナス強度の差異共存志向性である非連結差異による共立的構造である新構造が新構築されるということだろう。強度変換がある。強度極性変換である。
 さて、では、新しい遺伝子構造ができることとなる。遺伝子は、メディア界の事象であろう。イデア界は、思うに、無限の可能性・潜在性をもって、メディア界を生産するだけであり、メディア界は、自身の志向性・差異連結性に基づいて構造化する。そして、メディア界を構造変形的に生成創造するのは、発生した現象主体の能動性によるのではないだろうか。
 また、後で、さらに検討を続けよう。





検討課題:決定論と非決定論、日本人の集団的連続・同一性の分析

1)先に、私は、不連続的差異論は、決定論であると述べたが、しかし、非決定論的であると見る方が妥当ではないだろうか。即ち、イデア界の不連続的差異群は、多数の差異群であり、メディア界化するとき、連結する差異群もあれば、連結しない差異群もあると考えられるのである。遺伝子で言えば、たんぱく質を構成しない遺伝子に相当するのかもしれない。つまり、連結差異群と非連結差異群の二種類の差異群をメディア界に見ることができるだろう。前者は決定論的であり、後者は非決定論的であるということになる。これは、スピノザニーチェドゥルーズとの分かれ目でもある。後者は、偶然を肯定している。思うに、非連結差異群という偶然性という概念は、ホワイトヘッドの過程論に通じるものがあるだろう。この偶然性を通して、主体は、固定されていない新しい差異連結、新しい構造を構築することができるだろう。思うに、イデア界は、デュナミスで、無限の可能性・潜在性があり、それが、メディア界化するときに、被限定的差異と非限定的差異とに分離して、後者の偶然性に主体が働き掛けて、いわば、突然変異のような自由創造を実現するのではないだろうか。骰子一擲。どうも、このような考え方、つまり、非決定論的概念の方が、正しいように思える。ポスト・スピノザ主義である。因みに、マルクスは、唯物史観以前は、非決定論的史観をもっていただろう。

p.s. 正確に言えば、決定論と非決定論とのハイブリッドが真理である。このように考えれば、カントのアンチノミー論も楽々解決されるだろう。決定論と非決定論との二重性を肯定すればいいのである。それを統一しようとするから、矛盾が生じるのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一という理論であるが、これも、絶対矛盾的共存的一義性と呼べば、明快になるだろう。

参照:がらくたDNA
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003969034.html

2)先の衆院選挙で見た、日本人の洗脳されやすさは、集団的連続・同一性の志向が多数の日本人にあるからだと考えられる。これを哲学的に洞察したい。
[ 更新日時:2005/09/26 09:05 ]
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2005/09/25のBlog
アントニオ・ネグリ
[ 12:44 ] [ 差異共存志向政治経済 ]
[ スライドショウ ] [ 編集 ] [ 削除 ]
私が唱える差異共存共創資本主義とは、ネグリの特異性の共同性に似ているかもしれない。私は、不連続的差異論から言うのである。ネグリは、スピノザドゥルーズから言うのだろう。マルチチュードという概念だが、どうも、プロレタリアートのような感じがある。つまり、ネグリには、資本家vs労働者の二項対立がある。しかし、私は、そのような二元論は、弁証法で、単純化だと思う。私は、差異資本を新たな基盤・基体に考えたいと思う。差異的個体の連結によって、差異資本的経営をするのである。
 後で、検討したい。

「・・・
ネグリは、マルチチュードが「帝国」に対抗するには、すなわちこれらのことをひとつでも実行プログラムに移そうとするには、マルチチュードはまずもって「特異性」(シンギュラリティ)としての多数性でなければならないと考えた。特異性を増殖させなければならないのである。マルチチュードがもし孤立してしまったら、マルチチュードはあのおぞましいファッショに墜落していくしかない。
 そうならずに、マルチチュードがつねに特異性を食らいこんで、どんなタイポロジーにも還元されえない活動そのものになること、これが新たな構成的権力の萌芽形態なのである。
 こんなことを初めて聞くとギョッとするかもしれないが、このマルチチュードの特異的共同性という特色こそ、アントニオ・ネグリの大胆で緻密で異常なプログラムの骨格にある行動思想だった。
・・・」
アントニオ・ネグリ
『構成的権力』
1999 松籟社
Antonio Negri : Le Pouvoir Constituant 1997
杉浦昌昭・斎藤悦規訳
松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1029.html