カルキディウス研究[1]

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カテゴリ : 哲学書 | グノーシス | プラトン

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/10/31 21:41】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

メディア・現象境界構造について:思いつき
本件は容易に分析できると考えていたので、これまで、特に問題化しなかったが、やはり、きちんと整理する必要がある。
 簡単に言えば、差異的多様性がメディア界にある。それを、「光」が主導して、連続・同一性化させるのである。即ち、差異的多様性をもっていた「光」が、言語的連続・同一性化されて、自我・現象界化するのではないだろうか。この言語的連続・同一性が、カントの超越論的形式に当たるだろう。
 思うに、メディア界においては、『鏡の国のアリス』の白の女王におけるように、時間が逆転することも可能であるが、この超時空性が、メディア・現象境界において、凝縮するのではないだろうか。つまり、簡単に言えば、差異1→差異2が、イデア界とすれば、差異1⇔差異2ないし差異1〜差異2がメディア界で、双方向的である。これが、差異1ー差異2ないし差異1・差異2と固定化するのが、現象界だろう。メディア界の強度という原時間(⇔又は〜)が、垂直化して、有時間(ー又は・)となるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化としての現象界である。メディア界は、垂直性と水平性がゆらいでいるのである。位相体。垂直力によって、時間が生じて、水平性が空間化して、現象四次元空間が生起するのではないだろうか。メディア界は、超時空間位相体であるが、これが、垂直力の有時間化によって、有空間化するのではないか。垂直力が「光あれ」ではないか。言語行為である。というか、原言語行為である。そして、人間の言語とは、これを模倣しているのではないか。だから、現象界とは、「言語行為」によって形成されているということではないか。これが、超越論的形式ではないか。つまり、これは、数学である。数学=言語行為⇒現象ではないか。微分という言語行為があり、現象=積分(=異化)が生じたのでは。そう、垂直力が微分ではないか。垂直力=微分=時間ではないか。これで、空間=積分が生じたのでは。つまり、微分積分である。つまり、時間が空間を形成する。つまり、志向性が、メディア連結を生み、さらに、現象界連続化を生んだのではないか。

1.イデア差異志向性⇒2.メディア連結志向性⇒3.現象連続志向性? 

ここで、簡単に現象界知覚について触れると、
差異1⇒差異2の⇒の終点の極限値状態つまり、差異1=差異2となったのが、現象界ではないか。では、どうして、主客二元論となるのか。差異1=差異2とは、正に、超越論的形式のことではないか。差異の連続・同一性化である。これが、フレーム化ではないか。差異の連続・同一性化によって、現象性が形成されるのではないか。言語とは、この記号化であろう。つまり、差異の喪失としての現象界化である。
 しかし、私は、現象界の個体は本来、特異性と考えている。これをどう説明できるのか。それは、連続・同一性(差異1=差異2)においても、差異(=特異性)自体が内在しているからではないか。つまり、本来、不連続的差異の共立である一種の特異性がそこには潜在しているということではないか。そう、不連続的差異の共立・共存体が、本体であり、それが、連続・同一性化されているのが、現象個体(=仮象)であり、不連続的差異=特異性の共立体である現象個体とは、当然、本来、特異性である。特異性の集合と言ってもいいのかもしれない。ここで、思うのは、やはり、ニーチェである。ニーチェは、特異性の共立体、不連続的差異の共立の垂直性を説いたと言えよう。そして、フッサールは、主に、その水平性であろう。ドゥルーズも最善のときは、存立平面として、それを説いているだろう。