不連続的差異論入門:その55

ディオニュソスとは何か:イデア界・根源界・叡智界の復活としての新世紀代

ニーチェの有名な『悲劇の誕生』のディオニュソスとは、不連続的差異論から見たら何か。これは、いわば、「カオスモス」であるから、イデア・メディア境界の事象のように思える。ならば、アポロとは何か。これは、現象界の視覚ではなくて、内的なヴィジョンである。それは、イデア界的だと思う。つまり、イデア・メディア境界から見たイデア界的なヴィジョンではないか。折口信夫の『死者の書』の鮮烈なヴィジョンも、そうではないか。
 アポロ的ヴィジョンがイデア界的ヴィジョンとは、納得できるものだろう。なぜなら、これまで、宗教的光をイデア界の光と考えてきたのだから、神話のアポロ神(太陽神)は、イデア界的と見て整合的である。すると、神話はイデア界を、言わば、視ているということになるだろう。そして、多神教の神々とは、イデア界の「神々」ということになるのではないだろか。この筋で考えると、不連続的差異とは「神々」に通じているということになろう。つまり、極論すると、イデア界にある不連続的差異とは、多神教の神々である。これまで、不連続的差異を知即存在と考えてきた。この知即存在が神々ということになる。すると、神々が、宇宙を創造し、創造していることになるだろう。思うに、天使や精霊や妖精等々も、イデア界に含めていいだろう。思うに、物質の霊もあるのではないか。四大(地水火風)である。すると、人間の霊も存するだろう。人霊である。では、釈迦やキリストや孔子老子ゾロアスタームハンマドは何だろうか。彼らは、イデア界の実在を人類に伝えたのだ。永遠界・叡智界であるイデア界を人類に伝えたのだ。そして、プラトンは哲学的にイデア界として説いたのだ。彼らが説いているものは同一のことである。万教帰一。万知帰一。
 思うに、どうして、このような偉大な根源界とその叡知を人類は失ったのであろうか。それは、近代、西欧近代主義のためである。今や、ポスト・モダン、近代の超克の時、大いなる、偉大なる、根源界がよみがえるのだ。








靖国問題:脱靖国神社

後で検討したいが、靖国神社信仰は、1.民間の祖霊信仰に、2.国民国家主義、3.一神教天皇制、4.軍国主義イデオロギーが重なったものであった(ある)。だから、とても複雑で難しい問題である。この四つの要素・差異が連続化しているのである。政治家が靖国参拝する問題は、4に関わるからである。4の問題をクリアしない限り、解決しない。
 ここで、直観から述べよう。問題は、「英霊」の問題である。これは、ナショナリズムのフレーム・前提から発している。ここが問題である。太平洋戦争を、ナショナリズムの視点ではなくて、インターナショナリズムの視点から見ることが前提である。インターナショナリズム的民主主義の視点である。だから、英霊は「英霊」である。「お国のため」である。現象学的還元をしないといけない。エポケー(判断停止)である。ここから、靖国問題を見ないといけない。ここで、アジア、アメリカ他と日本が共通の基盤に立つことができる。太平洋戦争とは何であったのか。これは、近代国家的資本主義のもたらした世界戦争である。近代主義の戦争である。つまり、国民国家イデオロギー国民国家主体性に起因するものである。ここに批判を加えないといけない。これは、連続・同一性主義である。これを批判解体しないといけない。「英霊」は、アジア他に、甚大な被害をもたらしたことは事実である。これは非難すべき点である。「お国のため」は国家主義イデオロギーである。しかし、それに応じた戦死した若者の心には、真率なものがあったであろう。ここが問題である。この戦死した若者の真率な心をどうするかである。これは、利用された事柄ではあるが、その心性の真率性は疑えない。(勿論、批判はできるが)
 ここに、答えなくては、この問題は解決しないだろう。これは、不連続的差異論から見ると、基本的にはイデア界の問題であるが、それに連続主義が関係している。だから、イデア界心性として、それらを評価すべきであり、同時に、軍国主義的には、批判すべきである。だから、やはり、イデア界「神社」に彼らを祭り、同時に、歴史的には、軍国主義批判ということで、靖国神社批判を行なうべきである。心的には矛盾するようなことを為さなくてはならないのである。とまれ、脱靖国神社である。イデア界「神社」参拝ならいいだろう。








不連続的差異論は、宗教問題を解明する:近代主義清算
日本社会の問題。戦後、科学教育が支配的となったが、宗教問題に関して、回避している。これが日本人の精神の闇を産んでいると思う。新興宗教、オカルト、占い、靖国参拝公明党創価学会、(共産党)等々。近代的自然科学、近代的合理主義は、宗教問題は、古い問題として切り捨ててきた。しかし、実際は、日本人の精神は、この影に動かされているのではないか。
これらの問題に正対しないでは、迷妄は続くばかりだ。非合理主義の影に日本人は囚われているのだ。靖国問題が最大のものだろう。しかし、近代的科学は、この問題に答えない。答えられない。思うに、日本人のこの非合理主義の問題を解決したとき、日本人は蘇るだろう。なぜなら、そのとき、日本人は、個であることを回復するだろうからだ。日本人の非合理主義は、近代において、天皇制に吸収された。そして、戦後、象徴天皇制になり、地下水となった。しかし、それは、日本人の潜在意識に蠢いている。これを、清算しないといけない。これにフタをしているのである。精神病の問題も、これに関係するだろう。
 不連続的差異論から言えば、イデア界を認めることである。これにより、非合理主義は解消されて、イデア界的合理主義が生まれる。それは、japan renaissanceだろう。

p.s. 宗教欲動の起源はどこかと言えば、それは、根源は、イデア界であるが、心的には、空虚から来るが、この空虚は、ニヒリズムだろう。死の恐れとも言えるだろう。死の無である。もう少し、感覚的に言えば、頼りなさであろう。土台の無さ。基盤の無さ。これは、ある意味で、デカルトの直面した問題だろう。個であることの基礎を、何処に求めるのか。デカルトは、コギトに達して、また、近代合理主義を生んだ。これが、日本の戦後に共通する。しかし、戦後は、コギトを喪失している。
 とまれ、支えの無さの感覚とはどこから発するのか。直観で言えば、イデア・メディア境界のイデア界の動態性である。これは、現象界的自我が、利己主義であるのに対して、いわば利他主義であるし、また、宇宙的でもある。これは、現象界のフレームを明らかに超えるものである。しかし、現象界的自我意識は、これを、当然、規定できない。このイデア界からの発動に対して、自我意識は、対処できないのである。これが、拠り所の無さを生むと言えよう。つまり、イデア界的衝動に対して、自我意識は不安を感じるのである。(パスカルの宇宙への不安)イデア界衝動とは、特異性である。単独的なものである。これを、通常、人は回避するのである。あるいは、排出・隠蔽するのである。そして、わかりやすい近代的合理主義に支点を求めるのである。デカルトのように。しかし、これは、いわば、自己欺瞞であるから、不正直さ、不誠実さを生むのである。また、反動となり、狂気・精神病・暴力を発動することとなるのである。イデア界的衝動を認めること、現代の狂気・混沌・暴力・不合理等からの救済は、ここにしかないだろう。イデアルネサンスである。








イデア界の変容としての現象界:原我(アートマン)は、記憶するだろう

後で、検討したいが、イデア界の不連続的差異の志向性(原我=アートマン)が、メディア界を形成し、そして、現象界を発現させるのだから、現象界・現実とは、根源界であるイデア界の不連続的差異の変容であると言えよう。経験界は、イデア界なのである。イデア界の座標の出来事なのである。不連続的差異の事象・出来事なのである。当然、経験は、イデア界の事象であるから、永遠である。つまり、現世は、永遠に記憶されているということである。プラトンの霊魂不滅説や想起説は正しいのである。