不連続的差異論入門:その56

種子が生長するということはどういうことか:内在・超越論的力と現象力

種があり、これが、水分を含み、熱によって発芽して、生長するが、それはどういう構造をもつのか。植物の種子は、差異連結1・差異連結2・・・差異連結nを内在させているとしよう。そして、これが、現象化しているわけである。
 では、現象化とは何か。差異連結が連続・同一化することである。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n

現象界:差異1ー差異2ー・・・ー差異n

現象化とは、換言すれば、ゼロがいわば無になることであろう。ゼロがあると、ゼロが無いは違うことである。ここで、点描画を喩えにするとわかりやすいだろう。

イデア界: ・/・/・   ・/・/・   

メディア界:・φ・φ・   ・φ・φ・ 

現象界:  ・・・    ・・・
    又は___    ___

イデア界では、点は、境界を隔てて区別されている。メディア界では、点と点との距離がゼロ化する。しかし、ゼロがそこには存している。そして、現象界においては、ゼロが取れて、点が連続化して、線分となる。
 さて、現象界の・・・ないし___を差異連続・同一性とすると、種子は、1___、2___、3___、・・・、n___
の連結である。Σk___であろう。
これに水をやり、適切な温度を与え、また暗くすると、発芽する。これは、どういう構造作用なのだろうか。胚芽という、差異連続・同一性の連結体がある。これが、賦活されるのであるが、どういう事象なのか。生長のエネルギーとは何なのか。生長のエネルギー自体は、内在しているのではないか。それが、外的条件によって活性化するのではないか。つまり、潜在する力・エネルギーが、種子にある。それは、エネルゲイアであろう。これが実現するには、外的条件、水、熱、闇が必要ということだろう。ならば、内在的エネルギーと外在的条件とが接する必要があるということである。これは、構造的にはどういうことだろうか。種子という現象体がある。それは、Σk___である。しかし、それは、Σk・φ・φ・を内在させている。これまで、メディア界で、強度が生じると考えてきた。(強度を、差異・ゼロ自体ととるのか、ゼロと取るのか、後検討したい。p.s. 結局、強度とは、差異・ゼロ全体であろう。差異ゼロ連結自体が強度であろう。)この内在する強度が、現象的生長の原型を描いているのではないか。朝顔の蔓が、らせん的に巻いて伸びることを、メディア界の内在強度が志向しているのではないか。そして、その原型力ないし形相力(エネルゲイア)に即した形態で、現象体である朝顔の種は生長するのではないのか。ここでは、原型・形相・エネルゲイアと現象・エンテレケイアの関係が問題である。
 ここで、ガウス平面(x,y)に直交するz軸が考えられたことを想起しよう。z軸が、いわば、メディア軸である。このx,y,zで、メディア界が形成されるだろう。そして、それは、ほぼ、らせん形を描くのである。そして、このメディア・ラセンが、原型・形相・「イデア」・エネルゲイアである。そして、このメディア内在力に沿うように、現象化が生起するのではないか。つまり、z軸が時間軸のようになって、ラセン現象が生じるのではないか。この現象は、x,y,z三次元と重なるものの別次元である。つまり、x,y,zの三次元に時間次元が加わったものだろう。それを、t軸としよう。すると、x,y,z、tの四次元が現象界となるだろう。(z軸を時間軸と言ったが、それは、メディア界的な時間ということだろうから、t軸とは異なるだろう。)
 そう、問題は、現象界・時空四次元において、メディア界の力、内在する形相の力が把捉できないことである。これは、超越論的力である。では、この内在的、超越論的形相力とは、座標的にはどうなるのか。これは、z軸方向の力である。ガウス平面に直交する力である。これが、内在・超越論的形相力であろう。これが、狭義のエネルゲイアであろう。そう、強度と言ったものもこれだろう。ということで、このz軸のエネルゲイア・強度が現象界では測定できないのである。なぜなら、これは、物質力ではなくて、物質を動かす力であるからだ。(ひょっとして、重力はこれに関係しないか。)また、例えば、遺伝子を動かす力もこのエネルゲイア・強度であろう。
 では、この内在・超越論的力とアインシュタインのエネルギー公式はどう関係するのか。これは、別物と考えなくてはならないと直観で思う。アインシュタインのエネルギーは物質エネルギーであり、前者は、物質力を超越した力であるからだ。
 しかし、これは、どういうことなのか。超越論的力が現象を引き起こすとすると、この力と現象との関係があるはずである。思うに、このメディア界の力は、現象に変容するのである。ゼロから無へと変容するのである。
 ここでも直観で考えてみよう。思うに、メディア界から現象界への変化とは、ベルクソンハイデガードゥルーズの連続的差異による変化であろう。現象化を、連続化の帰結とすると、超越論的力が、現象化するのである。しかし、超越論的力は、いわば、自分の姿を消すのである。無化である。微分から積分であろう。つまり、メディア界の超越論的力が、現象と変化して、現象界を形成するのである。つまり、ここでは、メディア界の内在的超越論的力と現象界の力とは連続である。そう考えると、超越論的力が現象を引き起こすことが明快となる。内在・超越論的なメディア界の力が、現象力となるのである。だから、種子の場合は、種子のメディア界の超越論的力が、種子の胚芽にも作用しているのであり、その胚芽に水、熱、闇がはたらきかけて、発芽作用を起こすと言えるだろう。ドゥルーズは内在性を超越性に対して、主張していたが、メディア界の力は、内在・超越論的力であり、超越の力ではない。
 さて、このように、メディア界の力と現象界の力を連続して考えると、先に述べたことを訂正する必要がでてくる。即ち、アインシュタインの公式は、物質エネルギーの関するもので、メディア界の超越論的力に関わるものではないというようなことを述べたが、それは、誤りである。メディア界の内在・超越論的力とは、現象界の物質エネルギーの力と連続であるので、両者は関係しているのである。アインシュタインの公式は、メディア界の内在・超越論的力に関しても適用できると考えられるのである。形相力・強度(エネルゲイア)が、現象化するのである。E=mcc とは、これを意味するだろう。
 では、ここで、光の存在について考えると、思いつきで言うと、メディア界のゼロ度が、光を意味しているのではないか。これは、ゼロ度として一定であり、差異と差異との時空間のゼロ度ということではないだろうか。この点は後で検討するとして、このメディア界の差異ゼロ連結が、宇宙論的にはビッグバンに相当するのではないだろうか。また、ゼロ連結において、諸力が形成されたのではないか。

差異1φ差異2φ差異3φ・・・φ差異n

ここで、作業仮説すると、差異はガウス平面で、垂直力と水平力をもつとしよう。そして、ガウス平面と直交して、別の力が作動する。これをメディア力と呼ぼうか。そして、これが、現象化する。これを現象連続力と呼ぼう。

1.垂直力
2.水平力
3.メディア力
4.現象連続力

の4つの力がある。これが、現代物理学の4つの力と関係しないか。弱い力、強い力、電磁気力、重力である。
そして、差異は、不連続的差異と連続的差異の2種類ある。
また、差異は、境界を隔てて、数珠のようである。
また、境界に注目すれば、膜のようである。







心身平行論とエネルギー:メディア・エネルギー(心的且つ身体的エネルギー)

心的エネルギーについて、うまくまとまらないので、角度を変えて、スピノザ哲学を参考にして考えたい。
 『エチカ』では、いわゆる心身平行論が述べられている。即ち、デカルトの思惟(精神)と延長(物質、身体)の二元論を活用して、それらを属性として、実体=神=自然を説いているのだ。思うに、スピノザはいわば無限遠点として、実体を考えているようである。精神と身体とは平行であり、交わらないが、無限において交わるように考えていると思う。とまれ、能動的観念によって精神を積極化すると、それに応じて、身体が積極化されると考えている。これは、エネルギー論的に考えられるのではないだろうか。心的エネルギーの賦活が、身体的エネルギーの賦活となるということである。
 ここで、気をつけるべきは、エネルギーと代謝の関係だと思う。心的エネルギーとは、精神的エネルギーであり、それは、代謝エネルギーと即ではないだろう。それらは、異質だろう。前者は、いわば、「気」のようなエネルギーであるのに対して、後者は、物質エネルギーである。どうも、先の諸試論では、それらを混同して、混乱したようだ。ならば、心的エネルギーと物質エネルギーの関係を考察すべきである。
 先ず最初に、メディア界のエネルギーを把捉すべきである。差異の連続化としてのメディア界であるが、連続化とは、ゼロ境界を意味する。そして、ゼロ境界が心に、そして、連続化された差異が身体、物質になるのだろう。

メディア界:差異1φ差異2φ差異3φ・・・φ差異n

である。このφが、精神、心、知覚、意識等であろう。そして、差異の連結が身体、物質等であろう。しかしながら、差異とφとは不可分一体である。つまり、相補性を成している。
 では、このメディア界のエネルギーとは何だろう。これは、精神と身体の不可分一体の心身エネルギーではないだろうか。このエネルギーは純粋な心的エネルギーでもないし、純粋な物質エネルギーでもない。一種混合的エネルギーではないだろうか。つまり、ある側面では、心的エネルギーであり、別の側面では物質的エネルギーである。これは、量子力学の粒子と波動の相補性に類似していると考えられよう。
 とまれ、メディア界エネルギー(メディア・エネルギー)とは、心身エネルギーと言えそうだ。これが、現象界の基礎エネルギーではないか。物質エネルギーとは、この心身エネルギー=メディア・エネルギーの近似値ではないだろうか。つまり、物質主義のフレーム(近代的二元論)で、現象界を測定した結果のエネルギーではないか。物質エネルギーとは、仮構であろう。それは、心身エネルギー=メディア・エネルギー(略して、メネルギー)の物質主義的還元であろう。つまり、現象界を構成している心身エネルギー=メネルギーを測定していないのである。思うに、「気」が、この心身エネルギー=メネルギー、ないし、その一種ではないだろうか。つまり、自然界は、メネルギーで満ちているのだ。この点は後で検討するとしよう。
 さて、この観点から、心的活動を考えると、それは、メネルギーを賦活しているということだろう。では、代謝エネルギーとは何だろうか。摂食によるエネルギー補給とは何か。一つは、身体活動によるエネルギー消費に対するエネルギー補給である。これは、物質エネルギーと考えられているが、しかし、これも本当は、メネルギー補給ではないか。摂食とは、物質エネルギー補給ではなくて、メネルギー補給だろう。メネルギーとしての糖質、タンパク質、脂質等であろう。ビタミンはよりメネルギーという感じがするだろう。
 このメネルギー観によると、量子力学ないし自然科学はどうなるだろうか。物質的自然科学は、変更されねばならないだろう。メネルギー的自然科学とならなくてはならないのではないだろうか。量子力学は、本当は、メディア界を対象としているのである。心身エネルギー=メネルギーを物質主義的フレームで対象化しようとしているのである。粒子/波動の相補性とは、差異/φないし身体/精神の相補性であろう。
 では、この視点から睡眠を考えるとどうなるか。昼間消耗する知覚・意識・精神とは、メネルギーであろう。摂食もメネルギーの補給ではあるが、それは、メネルギーの身体的回路で消費するエネルギーの補給であろう。そして、睡眠とは、メネルギーの精神・心的回路で消耗するエネルギーの補給ではないだろうか。ということは、メネルギーは、身体的現象と心的現象をもっているのであり、両者の現象エネルギーの補給源は異なるということではないだろうか。
 では、心的現象のエネルギー補給として、睡眠があるとして、その構造はどうなっているのか。思うに、メディア・現象境界での消耗から回復することではないか。つまり、現象界的連結から外れて、メディア界に心的知覚が回帰する。それは、夢の世界である。しかし、夢を見ていない熟睡状態は、どうだろうか。それは、これまで述べたように、心的知覚が、メディア界から離れて、イデア界へと帰入しているのではないだろうか。つまり、メディア界のφの状態から、イデア界の境界の状態にもどっているのではないか。これは、メディア界が解体しているということだろうか。そうではないだろう。メディア界の差異・ φの状態は残っている。しかし、イデア・メディア境界がいわば賦活されて、差異境界が作用しているのではないだろうか。φが夢知覚とするならば、境界は原知覚を帯びる。イデア知覚である。つまり、熟睡において、夢知覚からも離れて、原知覚・イデア知覚へと回帰するのではないか。これは、純粋知覚である。フッサールの超越論的主観性に近いだろう。つまり、志向性そのものである。この状態に回帰して、心的知覚は、エネルギーを回復するのだろう。思うに、ここで、心的知覚・「魂」が目覚めて戻ってくるのは、メディア界/現象界が存在しているからだろう。因みに、死ぬとは、人間メディア界構造の崩壊によるのだろう。そして、φが消失して、知覚は原知覚へと還元するのだろう。つまり、差異の志向性へと回帰するのだろう。
 そうならば、人間を形成するメディア構造とはどうやって発生するのだろうか。動物の形態をもっている。類人猿。しかし、心的要素が大きい。これは、以前述べたが、メディア界化においても、完全にメディア界化されない、差異が過剰にあるのが人間存在ではないか。普通の動物の場合は、メディア界化によって、差異はほぼ連続化し、現象化する。しかし、人間は、差異が過剰にあり、メディア界では、完全に取りこめないのではないか。そのため、反動化しやすいのではないか。
 ならば、言語の発生はどう説明できるのか、これは後で考察したい。


参考:
睡眠
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
(REM睡眠 から転送)
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睡眠(すいみん)とは、幅広い脊椎動物にみられる静的状態で、刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界への注視など様々な活動の低下を特徴とする。一般的には、閉眼し意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に覚醒する。このため睡眠と意識障害とはまったく異なるものである。 またヒトをはじめとする大脳の発達したいくつかの動物では、睡眠中に夢と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。

睡眠の目的は休息、傷病の治癒などのほか、記憶の再構成など高次脳機能にも深く関わっているとされるが、その意義は完全には解明されていない。短期的には睡眠は栄養の摂取よりも重要である。ラットを用いた実験では、完全に睡眠を遮断した場合、約10〜20日で死亡するが、これは食物を与えなかった場合よりも短いからだ。

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ヒトの睡眠

ヒト に必要な睡眠量には個体差があり、6〜8時間の場合が多い。統計的には7時間の場合に平均余命が最も長くなる。睡眠不足した場合に最も影響のある精神活動は集中力である。計算能力、記憶能力、連想能力などはあまり低下しない。

睡眠の取りやすさにも個体差がある。さらに、入眠時の身体状態や精神状態、外部環境に依存するため、睡眠が取りやすかったり、睡眠が取りにくいなど、同一個体でも状態による差が大きい。そのため、睡眠を快く取る為の安眠法 が幾つも発明 されている。後述する入眠ニューロンは体温の上昇によって活動が亢進するため、入眠前の入浴や入眠時に寝室を暖かくすることが有効である。

ヒトの睡眠は、脳波と眼球運動のパターンで分類できることが知られている。成人はステージI〜REMの間を睡眠中反復し、周期は1.5時間程度である。入眠やステージI〜 IVとレム睡眠間の移行を司る特別なニューロン群が存在する。入眠時には前脳基部に存在する入眠ニューロンが活性化する。レム睡眠移行時には脳幹に位置するレム入眠ニューロンが活動する。覚醒状態では脳内の各ニューロンは独立して活動しているが、ステージI〜IVでは隣接するニューロン低周波で同期して活動する。