ナルコレプシー

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日本人の精神構造について:日本人は、戦前、戦中と変わったか

小泉首相靖国参拝であるが、私は、それは、国民国家ナショナリズムというよりは、封建主義的ナショナリズムであると述べて、批判した。しかしながら、小泉首相を支持する人が過半数であるから、ここで、小泉首相と日本人をパラレルにして考えたいと思った。(現代の政治・社会状況は、全体主義ファシズム的であり、戦前、戦中と酷似しているだろう。)
 即ち、日本人は、戦前・戦中と変わっていないというのが、私の意見である。天皇制である。これは、象徴天皇制ではなくて、明治天皇制である。即ち、一神教天皇制である。尊王攘夷天皇制である。かつてと異なるのが、鬼畜米英が、中国・朝鮮になり、天皇が米国になっていることだけであろう。構造は同一である。つまり、日本人は、知らず、一神教的発想になっているのである。日本の始原的な多神教は、一神教に形骸化していると思う。あるいは、一神教の指揮下にあると思う。確かに、多神教一神教ダブルスタンダードがあるが、ベースは、一神教である。お上である。この一神教支配下において、日本人の差異が隠蔽されているのである。これが、先の倒錯的衆院選挙を生んだものでもあるが。
 思うに、日本人は、民族的には、差異を自立的に構築するというよりは、「舶来」のもので、差異の代理を崇拝してきたと言えよう。かつては、中国・朝鮮が崇拝の対象であり、明治以後は、欧米が崇拝の対象である。これは、構造的には、まったく変わっていない。おそらく、江戸時代から変わっていないのではないだろうか。
 日本人には、もとより、特異性をもった天才たちがあまた居た。また、特異性の社会・文化ももっていた。しかし、この日本特異性文化・社会が一神教体制によって喪失したと言えよう。思うに、日本人の精神構造は、メディア界的であると考えるのが妥当のように思える。揺らいでいるのである。利己主義ではあっても、自己主張は弱い。集団と個人との中間で揺らいでいるのである。半個人半集団主義だ。これは、ちょうど魚群や鳥群のように、群を成していて、集団生活するのである。小泉改革に集団で賛成するのである。集団の首長としての首相であろう。この集団とは、思うに、村落集団ではないだろうか。閉鎖的な村落集団である。村長としての首相である。封建主義的な要素もあるが、基本は、村落集合体だと思う。これは、全体主義である。全体の意志に従うのが正しいのである。つまり、日本人には、根っからの全体主義があるのである。しかし、他方、特異性の日本人も存しているのである。思うに、この特異性の人を日本人は、村落共同体の首長・宗教的首長(天皇)にしてきたのだろう。これは、実は、特異性の力を畏れているのである。だから、崇めて、避けようとしているのである。さわらぬ神にたたりなし。御霊信仰。つまり、日本人の村落共同体の原理は、特異性と共同体の宗教的関係である。そして、特異性を祭り上げて、共同体を維持するのである。
 思うに、これは、極めて原始的な社会である。非合理主義の社会である。(しかし、今や新自由主義路線となったので、はっきりと、酷烈苛烈な経済合理主義を身心に刻むこととなるだろう。)この原始的共同体はいったい何なのだろうか。ジェイムズ・フレーザーの古典の『金枝篇』の世界である。文化人類学の世界である。これは、原始的農耕社会の残滓なのか。しかし、フレーザーの王権的共同体とは、実は、父権的社会であろう。母権的社会ではないだろう。母権的社会とは、女王の社会であるが、女王とは、自然の象徴である。そして、自然とは、恐怖の対象であろうか。自然を恐怖の対象とするのは、父権制であろう。その論理から言えば、日本の原始的共同体とは、父権的原始共同体である。そして、もし、日本が本来、母権制の国ならば、それは、父権制によって破壊されたことが考えられるのである。父権制の民族によって、国が破壊されて、改造されたと考えられる。つまり、それまであった母権的社会が、解体されて、父権的共同体ができ上がったといえよう。思うに、これは、ほとんど、父権的封建主義的共同体であろう。思うに、より正確に言えば、母権的社会の基層に父権的支配層が形成されということかもしれない。母権制多神教父権制一神教とするならば、多神教のベースの上に一神教が支配しているということになる。とまれ、日本社会は、母権制から父権制にチェンジした時期があったと思う。これは、以前に述べたが、天孫降臨民族による革命だと思う。つまり、父権的天皇制による日本革命があったのである。天照やヒミコの母権的日本が破壊されて、その上に天皇制的父権制の日本が形成されたのである。思うに、この革命がトラウマのように日本人にあるのかもしれない。舶来崇拝はここから発しているのではないか。 
 とまれ、母権制父権制ダブルスタンダードの日本共同体が考えられる。これが、日本全体主義を生んでいるのだろう。甘えの構造もここからだろう。また、無責任体制を生んでいるのだろう。ここから脱するには、母権制父権制のメディア・現象界の相補性から脱するには、イデア界に回帰する必要がある。不連続的差異に回帰する必要がある。新自由主義革命は、この点で、不連続的差異回帰への笞となるだろう。苦痛を伴う目覚めへの契機である。母権的父権制ないし多神教一神教という日本共同体を破壊する必要がある。これは、新世紀代において、あまりにも時代後れであるからだ。自我の特異性、不連続性を肯定することだ。コギトを徹底することだ。日本集合体的自然的態度をエポケーすることだ。日本を現象学的還元をすること。非日本である。絶対的特異性となること。絶対的個、絶対的不連続的差異になることである。我在り・スムである。宇宙的自我としての我在りである。梵我一如である。天上天下唯我独尊である。






遺伝子とは何か:「私」は遺伝子にあるのか?

イデア界に原自我、原「わたし」、不連続的差異志向性、超越論的主観性、アートマンがある。そして、これが、境界がゼロ化して、連続的差異が形成されて、メディア界となり、差異・ゼロ=差異・光=身体・精神の相補性が形成させる。これは、また、量子力学の世界であり、また、相対性理論の世界であろう。
 さて、ここで、遺伝子の問題を考えると、遺伝子とは、メディア界の原型、構造、形相であると言えるだろう。つまり、身心性であるメディア界の形相が遺伝子であろう。そして、この形相とは、イデア・メディア境界によると言えよう。つまり、イデア・メディア境界の構造をメディア界化したが、遺伝子であろう。つまり、遺伝子は、基本的には、思うに、イデア界総体を潜在・内在しているが、その一部だけが、顕在化して、自我的有機体を形成するようになっているだろう。いわゆるがらたくDNAは、潜在・内在しているイデア・メディア境界の構造の一部ではないだろうか。
 問題は、自我、「わたし」が、遺伝子にあるのかどうかである。つまり、ここで、「わたし」をコギトの私、さらには、原自我の「わたし」としよう(少し、矛盾的であるが)。つまり、イデア界の原自我が遺伝子にあるのかということである。(ここで、遺伝子とDNAとを区別しないといけない。遺伝子は、メディア界的構造体であり、DNAは、その現象体である。)だんだん、ロジャー・ペンローズの探求領域に近づいてきた。思うに、遺伝子の問題を考えるときは、メディア界を階層化する必要があるだろう。なぜなら、身心体も遺伝子も共にメディア界となるからである。だから、メディア界の潜在・構造体を遺伝子と呼ぼう。そして、メディア界の顕現・発現体を身心体と呼ぼう。 
 さて、遺伝子は、当然、イデア・メディア境界構造を一種縮約しているものだろう。一種コンパクト化と言えるかもしれない。とまれ、メディア界的極性(+と)をもって連結・連続化している。DNAのらせん形態は、メディア界的構造であろう。(そして、四つの塩基とは、思うに、差異の垂直・水平の極性構造と関係するのかもしれない。垂直の±、水平の±。これは後で検討したい。そう、四つの力とは、これに関係しないのか。強い力と弱い力、電磁気力と重力。重力問題であるが、これは、思うに、これにも、相対論が当てはまるのではないか。つまり、重力は無限にはならない。重力は、メディア界という差異・光の相補性の領域における一つの力であり、メディア界総体のエネルギー量に限定されているのではないか。E=mccであるが、このエネルギーに限定させるのではないか。つまり、質量mとは、相対的重力ではないか。また、重力以外の三つの力は、光に集約できないのか。相対性量子力学である。) 
 さて、遺伝子であるが、それは、イデア・メディア境界構造を潜在・内在させた連続的差異構造であると考えられる。だから、「わたし」は、遺伝子に潜在・内在しているのである。(ここで、臓器移植の問題を思うが。)ならば、遺伝とは何かということになる。才能は遺伝しない。では、才能はどこから生まれるのか。これは、もう簡単に答えられるだろう。才能とは、遺伝子に潜在・内在しているイデア・メディア境界構造から発生すると考えられよう。この境界のイデア界の不連続的差異の共立構造を、才能は顕在化させたものと考えられよう。イデア界を天とすれば、天賦の才である。天職とかもそうだろう。
 ここで、余談ながら、占いの問題を言うと、占いとは結局、宇宙論的表象解釈術である。この宇宙論とは、イデア界→メディア界という宇宙を対象とするだろう。しかし、占いは、連続化した宇宙表象を対象としているから、イデア界を外している。つまり、占いはアナロジー的予想なのである。これは、だから、当たるときは、アナロジー的に当たるのである。特異性的には当たらないだろう。つまり、世界は、メディア界によるアナロジー化を被っているから、アナロジー的予想が可能なのである。しかし、これは、あくまで、アナロジーであり、連続化なのである。しかし、真正な現実とは、イデア界の事象、不連続的差異の事象であるから、占いはここでは、無力である。メディア界の連想ゲームとしての占いである。








知覚・精神・心的活動の構造分析:原自我/連続的自我/同一性自我

代謝の本質構造について検討していたら、知覚・精神活動とは何かということが新たに問題となった。知覚の根源は、超越論的主観性・原自我・原我、即ち、イデア界の差異の志向性である。これが、1/4回転で、差異の境界がゼロ化して、連続化が生起する。つまり、メディア界の形成である。これは、差異・ゼロ=強度である。(思うに、これが、アインシュタインの有名な公式E=mccと通じるだろう。ゼロが、光速度と関係する。そして、これは、また、量子力学と粒子と波動の相補性と通じていると思う。)
 問題は、メディア界と知覚との関係である。思うに、メディア界から現象界へと進展して、感覚活動が生じる。外的世界と内的世界との交互領域としの感覚である。そして、外的知覚、外的知性、外的認識の活動が起こる。内的知覚と外的知覚との相互作用。しかし、近代主義となり、内的知覚が外的現象界、物質界に限定される(近代的二元論、フッサールの近代的科学批判)。
 結局、原知覚から、現象知覚への進展をどう見るかである。また、精神活動、脳神経の活動をどう捉えるかということである。思考活動とは、エネルギー活動ではあるが、どういう構造なのか。エネルギー活動ということは、メディア界的であるということである。しかし、ここには、知覚作用はあるのか。あるなら、どういう構造なのか。思うに、メディア界知覚があるはずである。それは、夢のような、幻想のような、超時空間的知覚である。多様体的な、位相的な知覚であろう。つまり、メディア・エネルギー知覚は、現象界で、思惟(精神)と延長(物質)に二元化される以前の身心一如界、身心不可分界であろう(絶対矛盾的自己同一)。ここから、カントの超越論的形式という同一性の閾と介して、現象界が形成される。(これは、言語形式と通じているだろう。)
 では、精神活動とは、どうなのかというと、思うに、精神活動は、メディア界の活動であろう。ここで、エネルギー消費されるのだ。想像力・イマジネーション・構想力、心的空間、直観等々は、このメディア界空間の作用であろう。芸術は、主に、この領域の活動である。身心性もこの領域である。身体性というのも、この領域である(メルロ=ポンティは、この領域の現象学を探求したのだろう)。これで、一応、精神活動の代謝の構造がわかった。
 では、原自我、原我、超越論的主観性、差異の志向性にとっては、これは、どういうことなのだろうか。つまり、原自我にとって、メディア界的精神活動とはどういうことなのだろうか。換言すると、メディア界の知覚とイデア界の知覚との関係はどうなのかということである。イデア界の知覚は、原光知覚ないし超光知覚であるが、メディア界のそれは、光知覚であろう。(思うに、「気」とは、このメディア界の事象ではないか。これまで、イデア界の原力と考えてきたが。後で検討。)つまり、心的活動とは、光活動である。ならば、それは、イデア界的心的活動(イデア界的超心的活動)とどう関係するのか。
 少し整理すると、光活動であるメディア界知覚とは、連続的知覚である。イデア界知覚は差異的知覚(差異共存的知覚ないし不連続差異的知覚)であるのに対して、メディア界的知覚、心・精神的活動は、連続的知覚、連続差異的知覚である(ベルクソンの持続、内的時間とはこれを指すだろう)。そして、現象界的知覚が同一性的知覚である。結局、不連続的知覚と連続的知覚の関係の問題である。そして、イデア・メディア境界、IM境界の問題である。心的活動(メディア界的知覚活動)を行なうときに、イデア界的知覚、超越論的主観性、不連続的差異の志向性はどうなっているのかということである。これは、連続性にいわば包まれているのだろう。包蔵隠蔽されているだろう。というか、不連続的差異が連続的差異に変容しているのだ。ここが、ポイントである。これが、また、フッサールの自然的態度を形成しているのだ。煩悩の形成である。自我形成である。権力、暴力、差別の形成である。(デカルトの「自我」とは、メディア・現象界の自我を超えて、イデア界の原自我に達していると見るべきだろう。特異性、単独性。)
 しかし、知覚において、どこかで、イデア界に通じているはずである。(日本人は、一般に、メディア界/現象界中心で、イデア界を喪失している。イデア界忘却である。仏教は、日本人に、イデア界を想起させたと言えよう。神道的世界観のデカダンスがあるのだろう。折口信夫は、新たに神道を復活させようとした。これは、日本人に、イデア界を主体的に復活させようということである。この課題は、今でもある。)簡単に言えば、コギト(我思う)にイデア界に通じる知覚があると言えよう。これはどういうことなのだろうか。メディア界/現象界における知覚自我があるが、それが、コギトとなるとき、それは、イデア界に触れていると言えるだろう。ただし、出発点として、原点としてである。換言すると、それは、ニヒリズムになるということである。コギトは、現代では、ニーチェが説くようにニヒリズムになるのである。無になるのである。実存とは、このことだろう。コギト的ニヒリズムが実存である。
 さて、では、自我やコギトとは何かである。メディア界的知覚における自我、メディア界的自我(これは、現象界的自我とほとんど同じだろう)は、連続的差異の自我であるが、自我であるということは、当然、「我思う」の知覚である。これは、当然のことながら、イデア界の原自我から発しているのである。即ち、差異の志向性である原自我が根源的知覚作用であり、これが、メディア界的自我においても作用しているのである。連続的自我であるが、ここには、我思うがあるのであう。メディア界においても、コギトがあるのである、当然と言えば、当然であるが。このメディア界的コギトが、イデア界的「コギト」、原コギト・原自我・アートマンに通じているということとなる。そして、このメディア界的コギトは、連続的差異や同一性に覆われているので、イデア界に明確に達することはできないのである。そう、部屋の中に飛び込んだ鳥や蝶のように、天井の方に羽ばたくばかりで、窓を認識できないのである(比較:モナド)。そう、メディア界に窓、イデア界への窓があるのではないだろうか。これは、どういうことだろうか。これは、イデア・メディア境界を思えば、簡単にわかることである。即ち、メディア界は確かに連続界であるが、イデア・メディア境界、IM境界を内在しているのである。つまり、メディア界とは完全な連続界ではなくて、IM境界において、不連続性と接しているのである。このIM境界において、コギトがイデア界、イデア界の原自我に接するのである。プラトンの善の太陽の領域である。そして、諸宗教の「神」の領域である(本当は、「神」と言うべきである)。結局、メディア界のコギトにおいて、イデア界の不連続的差異が介在しているのである。しかし、一般には、メディア界/現象界の自我に囚われていて(無明)、イデア界的不連続的差異を忘失しているのである。(大乗仏教の空とは、メディア界的中間性・相対性を説いて、イデア界を感得させるものだろう。禅もそうだろう。デリダ哲学は、現代大乗仏教である。イスラム教や東洋哲学研究家の井筒俊彦氏が、デリダ哲学に注目していたことを想起する。)
 ということで、自我、知覚とは、おおまかには、メディア界的事象であり、メディア界の強度・エネルギーを消費するのである。それは、摂食によって、エネルギー補給されると言えよう。しかしながら、それは、単純化、一面化である。自我、知覚は、イデア界と関係しているのである。イデア界の原自我と結びついているのである。原自我の不連続性が連続化されているのである。そして、連続化は有限化である。この連続的エネルギーは、脳神経という物質有機体と結びつき、物質エネルギーを消費するのだろう。問題は、メディア界的自我連続エネルギーと脳神経の物質エネルギーの関係である。思うに、自我連続エネルギーと物質エネルギーは違うのではないだろうか。前者は、イデア界のデュナミス・ポテンシャルの変容したものである(エネルゲイア)。活動態である。この活動態と現象態の関係である。思うに、自我メディア体と、身体メディア体があるのではないか。
 先に、心的活動は、メディア界的であると述べた。そして、光活動であると述べた。そして、身体的活動は、差異活動となるだろう。だから、メディア界の差異・ゼロ的相補性のエネルギー体(エネルゲイア)とは、精神と身体の両面ともつのである。心身体である。そして、心的活動とは、エネルギー活動である。これは、消費・消耗する。これを、摂食・代謝と通じて、補給するということだろう。あるいは、睡眠によってエネルギーを補給する。ここで、問題は、心的エネルギーと栄養エネルギーの関係である。
 心的エネルギーが、消耗・消費されるとはどういうことだろうか。これは、メディア界の連続的差異的心身性を活発化させることによるものだろう。何が消えるのか。連続的差異が消費されるということか。そうだろう。おそらく、これに対して、睡眠というエネルギー補給作用があるのだろう。消費された連続的差異・自我を新たに形成するのが、睡眠ではないか。では、摂食・代謝はどういうことなのか。確かに、心的活動もエネルギー消費する、身体運動と同様に。だから、心的活動と代謝の関係を考えなくてはならない。心的活動は、光活動であり、それは、差異活動=脳神経と結びつく。だから、心的活動は、脳神経エネルギーを消費するのである。ここで、脳神経という物質の消費があるのである。これを補うために、摂食が必要であるということではないだろうか。つまり、メディア界において、差異・ゼロ、差異・光相補性があり、これは、身体・精神、身心相補性であり、心的活動は、このエネルギー消費活動であるから、脳神経という身体エネルギーを消費するので、摂食によって補給すると言えよう。そして、また、心的活動、身心活動は、連続的差異の活動であり、それが消耗して、睡眠を取り、新たに、連続的差異を形成すると言えるのでないか。そうならば、睡眠においては、自我は、連続的差異の自我は解体しているのではないか。夢は、メディア界の位相的多様体の知覚であろう。しかし、熟睡しているときは、自我知覚は解体しているのではないか。つまり、ゼロ化が解体しているのではないか。つまり、再差異化である。redifferenceである。つまり、知覚は、イデア界に回帰しているのである。そして、原自我、原我、アートマンとなっているのではないか。そう、この覚醒と睡眠のリズムと、イデア界の力とメディア界の活動とは結びついているのだろう。これは、宇宙、コスモスの活動とつながっているだろう。地球の自転と月の公転。宇宙・コスモスの力と人体や地球のリズムがつながっているのだろう(二十四節気)。また、寿命等にもつながっているだろう。ここで、遺伝子の問題がある。遺伝子とは何かである。
 本件が長くなったので、稿をあらためて、検討しよう。







アポロ的ヴィジョンの再考:イデア界的ヴィジョンか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか

先に、アポロ的ヴィジョンを、イデア界的ヴィジョンと言ったが、違う考え方もできるように思われる。即ち、イデア・メディア境界におけるヴィジョンと見られるということである。つまり、イデア界自体のヴィジョンではなくて、イデア・メディア境界自体のもつヴィジョンである。つまり、IM境界(イデア/メディア境界)という「カオスモス」、不連続的差異の共立性と連続性との矛盾同一という混沌とした領域において、複数の連続的なヴィジョンが発生しうると考えられる。すなわち、不連続的差異が複数的に連続化して、アポロ的ヴィジョン、多神教的ヴィジョンが形成されるということである。幻想と言ってもいいだろう。
 ということで、アポロ的ヴィジョンとは、どちらなのだろうか、イデア界的ヴィジョンなのか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか。(メディア界的ヴィジョンを、メディア面的ヴィジョン・心象風景とも言えるだろう。)ここはある意味で、核心的な問題である。神話/宗教的表現を理論的にどう把捉するのかという問題である。ニーチェディオニュソス/アポロ的概念とは、多神教の表現概念である。つまり、多神教表現を、どのように位置づけるかである。IM 境界(カオスモス、絶対矛盾的自己同一)における、多数、複数、多元性の問題である。アポロ神(太陽神)とは、これは、当然、現象界の太陽という連続/同一性の表現をともなっている。だから、メディア界的ヴィジョンとは言えるのであるが、この太陽というメディアを構成しているものがあるはずである。太陽の構成要素である。ここは微妙な箇所である。IM境界において、不連続的差異の連結/連続化で、メディアの太陽が構成される。このメディア面の太陽は、背後に、複数の不連続的差異を内在している。しかし、この不連続的差異の連結/連続化には、ある種の必然性があるだろう。太陽の「イデア」が必要だろう。だから、問題は、太陽イデアが、イデア界にあるのか、それとも、IM境界にあるのかということになるだろう。
 ここで、観点を変えて考えよう。太陽とは、光の発生源であり、光とは、差異境界に関係するものと考えられる。差異境界が1/4回転で、差異「ゼロ」化となり、差異強度が発生する。この差異強度をメディア・エネルギーとすると、このメディア・エネルギーは、差異と光の関係であると考えられる。 E=mcc (Eはエネルギー、mは質量、cは光速度である)。これが、連結・連続エネルギーである。つまり、太陽メディアとは、差異連結・連続自体と見てもいいだろう。すなわち、差異「ゼロ」である。つまり、イデア・メディア境界が太陽イデアであり、太陽メディアではないだろうか。「ゼロ」が太陽イデアないし太陽メディアに当たるだろう。ならば、太陽のイデアは、やはり、イデア界の境界にあるだろう。つまり、やはり、太陽は特殊ないし特異なのである。差異というよりは、差異の境界から発生しているのである。だから、太陽イデアが、差異の志向性ということになると思う。つまり、原自我、原我、超越論的主観性とは、太陽イデアということになる。
 ここで、本論にもどると、アポロ的ヴィジョンであるが、それは、結局、イデア界的ヴィジョンでもあるし、メディア界的ヴィジョンでもあるということになるように思える。
 では、多神教の神々の他のヴィジョンはどうなのだろうか。金星、ヴィーナスだとか、等々。ヴィーナスのイデアが、イデア界にあるのか、メディア界にあるのか。換言すると、イデア界の不連続的差異とは、多種多様なものなのか。共通単位なのか、それとも、個々別々のもの、特異体なのか。プラトンは、後者を考えていたと思うが。多種多様な類的な不連続的差異があるということでいいのであろうか。それとも、共通単位としての複数の不連続的差異が存するのでいいのだろうか。問題は、共通単位とすると、差異になるのかという問題も生じるだろう。例えば、不連続的差異として、A,B,C,・・・があるとしよう。これが、ゼロ化して、連結・連続化する。A-B-C・・・。だから、A-B連結、B-C連結、等々が生じるだろう。もし、A,B,C・・が、共通単位ならば、 A-B連結とB-C連結とが、同じものとなるだろう。つまり、共通単位の場合、連結・連続化は、いわば、ノッペラボーになるのではないだろうか。しかし、これは、数学的空間ではないだろうか。数学的ではあるが、まったくの同一性であり、差異が喪失しているのではないか。喩えて言えば、すべてが水のようなものである。共通単位の連結・連続化とは、水のように一様となるだろう。しかし、現実・現象は、水だけでなく、多種多様なものが存在しているのである。
 もっとも、共通単位の順列で、多種多様性が生じると考えることも出来るだろう。A-BとA-B-Cとは異なる。この考えで行くなら、ヴィーナスとは何か。マルスとは何か。差異の志向性自体にも差異があるのではないか。そう、差異には、垂直・水平対極相補性を考えたから、この対極相補性の構造に多種多様性を生む力学があるのではないかと考えられよう。例えば、垂直性の極限としてマルス、水平性の極限としてヴィーナスというように考えることができるかもしれない。だから、差異の内在構造による多種多様性である。そして、これが、ゼロ連結(太陽連結)する。ゼロ連結によって、差異連結の多種多様性が発生する。しかしながら、差異の内在構造による差異の志向性自体にもともと多種多様性の「イデア」があるということになるだろう。だから、多神教ないし神話の神々のイデアとは、イデア界にあると見ていいだろう。
 このように考えると、結局、この問題は、上位概念で包摂されて解決されることになるだろう。イデア界的ヴィジョンなのか、メディア界的ヴィジョンなのかとは、二項対立ではなくて、イデア界の原ヴィジョン(原意識、原自我、原我、超越論的主観性)が、メディア界のヴィジョンになるということになるのである。だから、多神教・神話の神々とは、イデア界において、神々のイデアとして存するということになるだろう。このように考えると、それは、神話構造論の根拠となるだろう。ジョゼフ・キャンベルの神話構造普遍主義は、この差異内在構造論で説明ができるだろう。即ち、イデア界に多神教・神話・宗教のイデアが存しているということである。一神教の場合も同様である。ただし、一神教は、メディア界の志向性の終結領域であるということである。
 すると、結局、不連続的差異は、共通単位として考えていいことになる。つまり、初めに、多種多様な不連続的差異があるというのはではなくて、初めは、単一の不連続的差異が境界を隔てて無数ないし多数存しているのであり、それが、差異内在的垂直/水平対極相補構造によって、多種多様性のイデアをもっているということになるだろう。無数ないし多数の単一的な不連続的差異が、多種多様なイデア、森羅万象のイデア八百万の神々のイデアを内在しているということになるだろう。
 ここで、D.H.ロレンスの最晩年の『アポカリプス補遺』によると、まだ、生まれていない神々があるということになる。確かに、不連続的差異の内在構造の変化によって新しい神々(メディアそして現象)が生まれるだろう。結局、世界は、境界で隔てられた垂直/水平対極相補性を内在した無数の不連続的差異の共立するイデア界という純粋な数学的構造をもっているということになる。創造神とは、数学者である。初めに、数学ありき。
 
p.s. 太陽イデアとは、原自我、原我、超越論的主観性と結びつけたが、この視点から一神教を考えると、差異の垂直主義化が、一神教の動きと考えることができそうだ。先においては、メディア界化の極限と言ったが、どうだろうか。つまり、差異の志向性を一神教は廃棄しようとする動きである。つまり、差異→ 差異という志向性が、差異=差異=一神教的自我・同一性とするのが、一神教である。ならば、差異の垂直主義化とは、一見、一神教化に見えるが、そうではないことになる。差異の連続化の極限が一神教化と見るべきである。差異を廃棄するのが一神教である。これは、結局、連続・同一性主義であり、西洋文明の基本動向である。オリエンタリズム植民地主義帝国主義覇権主義等々。しかし、同時に、差異が西洋文明には作用している。つまり、西洋文明とは、一神教多神教との二重構造である。思うに、一神教は西欧性であり、多神教性は南欧性、地中海性であろう。そして、ルネサンス宗教改革の二重性が近代において作動しているのである。そして、今や、不連続的差異論の成就によって、差異が純粋化しようとしている。ポスト・キリスト教、ポスト・一神教、新多神教の新時代である。