不連続的差異論入門:その57

絶対統一的不連続的差異論:4つの力について:メディア界の力の構造について

4つの力について:心物エネルギーと知覚

私の直観的作業仮説として、心物エネルギーにおける4つの力とは、始原的知覚を意味するのではないだろうか。これは、イデア界的根源的知覚というよりは、メディア界的中間的知覚ということになる。4つのメディア的知覚があることになる。ここで、深層心理学のカール・G・ユングが、性格の4元性を述べていたのを想起する。即ち、直観、知性、感情、感覚である。これは、神秘学の四大(地水火風)とも関係する。即ち、「地」が感覚であり、「水」が感情であり、「火」が直観であり、「風」が知性である。(これは、また、占星術が取り入れている考え方でもある。)そして、作業仮説として、この性格・知覚の4元性を、4つの力のメディア界的知覚と結びつけよう。すると、一応、次のようになる。

強い力・感覚・地
弱い力・感情・水
電磁気力・直観・火
重力・知性・風

(因みに、これに、単純ではないが、血液型が関係するだろう。)
これらに、差異の連結・連続化が関係してくる。また、「わたし」とは、これら4つの力・知覚の統合体だろう。これらが、整合的に統合されていないと、「精神」の病気になるだろう。(近代主義とは、だから、「精神」の病気である。)
思うに、「自我」とは、これら4つの力、それぞれに存しているだろう。即ち、感覚、感情、直観、知性、それぞれ、自我的機能をもつだろう。「わたし」である。
では、この自我、「わたし」の根源は何だろうか。これは、イデア界の差異の差異への志向性だと思う。簡単に言えば、差異境界が原自我・アートマンである。これが、メディア界において、4つの力・知覚の「自我」となると言えよう。【ここで、アフォーダンス理論も、このメディア界の4つの力・知覚(=自我)論で、説明できるだろう。フッサール現象学の超越論的主観性とは、この4つの力・知覚(=自我)と等価であるし、また、イデア界の原自我・アートマンと等価であろう。つまり、それは、根源的な自我を説いていると考えられる。】そして、この4つの力・知覚が、連続・同一性化して、現象界の自我・「わたし」となるのである。しかし、発生的には、4つの力・知覚が、整合的に統合化されているのではなくて、4つの力・知覚が不整合・混合・混同的に連続・同一性化されているのである。そして、幼児・小児の成長過程で、だんだん、整合化していくのであるが、しかしながら、時代の枠組み・フレームワークパラダイムによって、ある傾き・偏向・イデオロギーを帯びると言えよう。近代においては、近代主義のそれを帯びるのである。世界観の歪曲化と言えるだろう。
4つの力・知覚の整合化が、自我形成と言えるだろう。これをユングに倣って、自己形成(自己実現・自己創造)、個性化と呼んでもいいかもしれない。しかし、問題は、この自我形成において、イデア・メディア境界IM境界に接触して、いわば、壁にぶつかることである。ポスト構造主義は、この壁にぶつかって、停滞し、混迷し、衰退したのである。そう、メディア界的4つの力・知覚の自我とは、基本は、連続性の自我なのである。そして、カオスモス的自我なのである(ドゥルーズガタリリゾーム論他)。連続性と不連続性とが矛盾同一している自我である。(これは、実際は、現代資本主義のあり方の一つである。つまり、現代資本主義は、メディア界的なのである。)これは、はっきり言って、分裂的自我である。連続的自我と不連続的自我の分裂的混同である。(精神病理もここに関係しているだろう。例えば、自己中心主義、パラノイア自己愛人格障害等とは、不連続的自我が、連続的自我を装ってしまうことだろう。不連続的自我・特異性という境界を超えて、連続・同一性へと僭越化するのである。ここに傲慢、厚かましさ、慢心、専制・支配・差別・権力・暴力等が生まれるのである。また、近代主義は、これを普遍化しただろう。)
 だから、4つの力・知覚の自我の整合化は、やはり、不十分なのである。結局、イデア界を想定しないでは、自我は真に整合・統合・調和化されない。イデア界のおける不連続的差異を想定することで、自我は、根源的に統一するだろう。つまり、連続的な4つの力・知覚(=連続的自我)を超えて、不連続的な根源的な力・知覚に達するからである。それは、不連続的差異の根源的な力、イデア界の力(虚力、複素数力)である。イデア界の原自我・アートマンに達して、自我は統一するのである。4つの力・知覚(メディア界的自我)は、不連続的差異の境界の力に還元されるかもしれないが、思うに、境界の力とは、不連続的差異の垂直志向性と水平志向性によって発生するのではないだろうか。
すると、根源力は、不連続的差異の即自力に存すると言えるだろう。不連続的差異の即自的垂直/水平相補性の力である。(これが、古事記の三神の意味ではないだろうか。また、多くの根源的三元性(三美神他)もここに拠るのではないだろうか。)これは、差異と差異との境界を形成するだろう。また、フッサールの志向性も、このことになる。不連続的差異の即自的志向性が、同時に、対自的志向性となるのである。
では、この根源力がメディア力となるのは、どういう構造からだろうか。1/4回転で、ゼロ化が発生する。これは、イデア界的即自=対自力を連続化させるのである。即ち、不連続的差異の即自=対自的垂直・水平相補性の元力・虚力にゼロ化を発生させて、不連続的差異と不連続的差異とを連続結合するのである(φ 結合と呼ぼう)。このとき、即自的垂直・水平力と対自的垂直・水平力が分離するだろう。つまり、連続化とは、即自性と対自性の分離である。そして、即自性において、連続化は、垂直力と水平力との分離を発生させるだろう。これが、強い力と弱い力ではないか。そして、対自性において、同様に分離して、重力と電磁気力を発生するのではないだろうか。感覚と感情、知性と直観の二元的四元性である。(ここで、D.H.ロレンスが『無意識の幻想曲』で、無意識の二元的四元論を説いていることを想起する。後で言及したい。)地水火風の四大である。メディア・コスモスの発生である。ビッグバンである。ここで、前ソクラテス的哲学を想起してもいいだろう。また、ストア哲学スピノザ哲学、また東洋哲学を想起してもいいだろう。(陰陽論の陰とは、即自性であり、陽とは対自性であろう。そして、対極性自体は、相補性であり、それは、力の統一を意味しているだろう。そう、量子論的である。)一応、これを作業仮説とする。
では、次に問題は、時空間の発生、現象界の発生である。ゼロ化によって、4つの力が発生するのであり、差異が連続化されるのであるが、この連続化の終点が現象界である。つまり、エンテレケイア(終極態)である。デュナミス→エネルゲイア→エンテレケイアである。原時空間は、メディア界である。4つの力にあるだろう。そして、時空四次元性もここに起因するだろう。相対性理論とは、メディア界の原時空間性を説明するものであろうが、アインシュタインは、対自的力、即ち、重力と電磁気力にこだわり、他の二つの力への考慮が足りなかったのではないだろうか。つまり、メディア界の物理学である量子力学と等価的帰結として相対性理論が存するのであり、当然、相対性理論を包摂した量子力学が必然となると言えよう。重力を組み込むことがネックになっているが、また、標準理論は破綻しているが、不連続的差異論ならば、重力と量子とを統合化できるだろう。思うに、量子とは、メディア界自体の力であり、それは、4つの力自体である。つまり、量子は、強い力、弱い力、重力、電磁気力を内在しているのである。量子とは、連続化された不連続的差異、ゼロ化された不連続的差異のことである。ゼロ差異、φ差異、φdである。ゼロ差異が量子であり、これが、4つの力を内在しているのである。量子・ゼロ差異は、強い力、弱い力、重力、電磁気力を帯びるのである。量子力⊃重力である。そして、これで、超大統一理論が確立するだろう。無限大の問題は、連続的差異を仮定していることから発生する問題であるから、不連続的差異を仮定することで、無限大の問題は生じなくなるのである。即ち、ゼロ化とは、ゼロのことではなくて、空化のことである。これで、超大統一理論が完成するのではないだろうか。これは、単に物理学ではなく、理科系と文科系の分化を超えて、全科学を総合化しているので、絶対的統一理論である。不連続的差異絶対統一理論である。








エネルギーとは何か

エネルギーは、E=mccで表現できる。しかし、これは、物質量としてのエネルギーである。しかし、エネルギー自体は、単に物質ではない。それは、いわば身心的エネルギーである。知即存在的エネルギー、ないし心即物的エネルギーである。「心」・「物」エネルギー、これが、E=mccの意味するエネルギーである。例えば、思考したとき、脳神経を活動させている。このとき、エネルギー消費するが、単に、脳神経の物質のみが消費されるのではなくて、心的エネルギーが消費されるのである。この心的エネルギーは、心物エネルギーである。そして、それが、物質エネルギーとして、現象化される。
 思うに、「気」というものも、心物エネルギーであろう。「気」を、磁気として検出できるが、「気」=磁気ではない、磁気は、「気」の物質的現象である。さらに、量子力学の対象とするミクロの世界も心物エネルギーの世界だと思う。仏教の「空」も、心物エネルギーと関係するだろう。
 心物エネルギーは、メディア界エネルギー(エネルゲイア)、メディア・エネルギーである。そして、これが、現象界において、思惟(精神、意識、認識)と延長(身体、物質、物体)のデカルト的な二元論として発現・現象するのである。つまり、身体は、心物エネルギーの物質的表現・現象であり、精神・心は、心物エネルギーの思惟的表現・現象である。スピノザの心身平行論とは、デカルト哲学をベースにした心物エネルギー論ではないかと思う。ならば、スピノザの神即自然とは、心物エネルギーのこと、メディア界のことである。だから、スピノザ哲学は、イデア界に達していない。ドゥルーズスピノザに魅かれたのは、ここに関係するだろう。即ち、メディア界のもつエネルギー的な知に魅かれたのである。それを、ドゥルーズは差異と考えていた。(しかし、他方、イデア界的な特異性も差異とも考えていた。ここにドゥルーズ哲学の混乱があるのである。)思うに、ポスト構造主義とは、主に、不連続的差異論が説くメディア界の知を説いていたと言えるだろう。デリダ哲学の脱構築は正にそのようなものである。しかし、メディア界を超えて、イデア界を示唆していたと言えるだろう。結局、不連続的差異論は、ポスト構造主義の完成であると言えるだろう。
 さて、問題は、量子力学相対性理論超大統一理論、超ひも論、ツイスター理論他である。思うに、現代自然科学は、メディア界を対象としている。問題は、重力と量子論との結合である。詳細はわからぬが、諸力は、メディア界に内包されると思われる。つまり、心物エネルギー、メディア・エネルギー、メネルギーにおいて、重力と量子は結合していると考えられよう。先にも触れたが、私の直観では、差異が粒子的側面であり、ゼロ度が、波動的側面である。そして、差異ゼロ度において、四つの力が作用しているだろう。差異と差異との間に、強い力、弱い力、電磁気力と重力が作用しているのではないか。私の直観は、先にも述べたが、
差異の垂直力が強い力で、水平力が弱い力で、ゼロ度が電磁気力ないし光であり、差異とゼロ度の力の間に重力が作用するのではないだろうか。

差異1⇔強い力・弱い力⇔差異2・・・重力・・・ゼロ度・電磁気力

もっとも、これは、単なる作業仮説に過ぎないが、結局、イデア界の境界が、ゼロ度を構築するのである。光を発出するのである。イデア界の境界は、原光であり、かつ、原重力をはらんでいるということになるだろう。そう、原四つの力のデュナミスである。しかし、思うに、強い力と弱い力を一つと見ると、三つの力で済む。古事記の三神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)とは、これではないだろうか。差異力と中間力と光力である。また、父、聖霊、子である。どうも、重力が枢要なものに思えてきた。天と地とを結びつけるのは、光ではなくて、重力だろう。父と母とを結びつける聖霊とは、重力ではないか。天・光と地・差異を結びつける聖霊・天使・重力。 







一神教と自然:自然と均衡をもった社会・政治・経済・文化へ向けて

私は日本の天皇制、つまり、明治の天皇制は、一神教的であると言った。そして、日本人の基底には、多神教性があると言った。もっとも、多神教性は、堕落・腐敗しているし、また、埋れて、休火山状態である。冬眠とも言えよう。そして、象徴天皇制においても、近代一神教性は日本人の精神の上層にあると思う。
 しかし、この一神教は、ユダヤキリスト教ないしイスラム教的一神教とは異なるだろう。それは、後者が、超越的一神教、超越神的一神教であるのに対して、日本の一神教は、いわば、多神教と共存しているようなそれではないかと考えられるからである。つまり、日本一神教は、超越神ではないのではないだろうか。もし、超越神としても、ユダヤキリスト教ないしイスラム教のそれに比べると、はるかに弱いだろう。自然を排除してはいないだろう。例えば、医学での動物実験で、犠牲になった動物の供養をするというのは、ユダヤキリスト教では考えられないだろう。人間は被造物の最高位であるからである。
 何を言いたいのかというと、一神教ユダヤキリスト教)と資本主義が結びついているので、欧米、特に、アメリカ資本主義は、自然破壊に対して、無頓着になりやすいということである。アダム・スミスの見えざる手による予定調和は、一種一神教的で、楽天的である。ここには、神と人間の調和があるだけであり、自然が盲点になっている。
 私は、ユダヤキリスト教的資本主義は、地球を破壊すると考えるので、結局、多神教、新多神教的資本主義が必要ではないかと思ったのである。これは、自然、環境、地球、宇宙とのバランス、均衡、相互作用を意識した資本主義である。現代の地球環境の悪化、新型ウィルスの猛威、新しい感染病等々に見舞われているのは、ユダヤキリスト教的資本主義のあり方が問題だからと思うのである。これは、青少年の暴力・狂気化にも関係していると思うのである。
 新多神教的・自然均衡的資本主義が必要だと思うのである。新自由主義は、いわば、市場原理という純粋形式を尊ぶものであり、自然との均衡という発想はない。つまり、自然との交換が必要だと思うのである。今や、自然からいわば奪取している面が強い。石油資源、漁業資源等において。この新多神教的理性・ロゴスとは、いわば、多元的理性・ロゴスである。また、不連続差異的理性・ロゴスである。
 後で、詳述したい。