不連続的差異論入門:その58

一神教ユダヤキリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論

何故人間は、自己中心主義、利己主義、傲慢・尊大・暴力的になるのだろうか。ソクラテス無知の知と言った。アポロンの神託は、汝自身を知れであった。しかし、これは、難問である。超難問である。どうして、自己を知ることができるのか。ハムレットは、ミメーシス論を説いた。鏡に映して見るということである。しかし、鏡像に人間は、ナルシシズムを覚えるのではないか。 
 本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
 近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分積分の世界である。ライプニッツベルクソンハイデガードゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
 近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教プラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
 近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
 ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
 では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。

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【2005/11/25 19:19】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論

ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで、消滅する。しかし、根源の核は、根源を反復するということになるが、この反復の力学は何か。そう、結局、現象体は、展開するが、それは、根源の核のプロセスである。つまり、根源の核の変態・変化・過程そのものである。だから、遺伝子、種子、卵を「生産」するのである。初めから、現象体には、核が内在しているのであるから、帰結的に、核を現象化すると言えよう。この反復はいわば、シャッフル作用だろう。骰子一擲である。アトランダム作用である。いわば、万華鏡の世界である。
 さて、ロレンスの「自己完成」、無限化とはどういうことだろうか。それは、存在体をイデア界化することではないだろうか。脱構造性をより進展させることが、「自己完成」、無限化であろう。そして、これは、宗教の本来の意味であろう。色即是空、空即是色。親鸞の往相・還相。阿弥陀如来。禅。万教帰一。万物が、イデア界的現象界を志向していると言えるのではないだろうか。地上楽園。万物はそれぞれの「速度」で、イデア界を志向しているのではないだろうか。万物は、生命であれ、非生命であれ、イデア・メディア境界的「霊魂」、「原形質」、「遺伝子」、「種子」、「卵子」、「胚芽」をもっているのだ。
 さて、ここで、経済、資本主義、民主主義を考えるとどうだろう。万民民主主義である。普遍民主主義である。個それぞれの「速度」、「色」で存在している。しかし、脱構造性への志向性を閉ざしたものは、悪である。つまり、構造性だけの存在は悪である。近代主義がそれである。これが、人類を絶滅の危機に陥れているのだ。絶対的ポスト近代主義である。資本主義も、ポスト近代的資本主義にならなくてはならない。新自由主義は、その一歩ではあるだろう。ただし、脱構造的資本主義になることが、本来である。思うに、ドゥルーズガタリは、連続性と不連続性を区別しなかったので、構造性と脱構造性を明確に識別できなかった。だから、彼らの資本主義論は、中途半端なのである。構造と脱構造、近代とポスト近代の混同があるのである。不連続的差異論に立脚することで、資本主義は脱近代化するのである。それは、脱構造的資本主義である。ポスト近代的資本主義である。

p.s. 少し蛇足的であるが、宗教の光とは、脱構造性が放つ光、イデア界の光である。これは、超光、原光である。ロレンスが無量光と言っているのは、正に、阿弥陀如来、アミターヴァ(無量光)に関係しよう。後で、この超光・原光と現象界の光の関係を考察したい。

p.p.s. また、後で、異性化の問題を考えよう。何故、雌雄の別が生じて、それが、牽引したり、反発させたりするのか。これは、正に、差異の問題である。不連続的差異の志向性の問題であろう。以前に、男性は、女性にイデア界を見て、女性は、男性に現象界を見ると述べたことがある。予見を言えば、女性とは、複雑で、イデア界的でありながら、連続主義を志向しているのである。つまり、不連続的差異でありながら、連続主義志向である。現象界志向である。それに対して、男性は、連続主義であり、不連続的差異を志向するのである。ちょうど、女男は正反対である。これは、生命体の脱構造性⇔構造性の「絶対矛盾的自己同一」が二元的に分化・分離したものではないか。

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【2005/11/25 13:24】 | 遺伝子/生命科学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

D.H.ロレンスのコスモス論と不連続的差異論:脱構造性と構造性の「差異」としての自我

ロレンスの『エトルリアの故地』で説かれている宇宙論と不連続的差異論を結びつけられないかと思っている。問題は、宇宙を一つの「霊魂」と考えている点である。不連続的差異論は、無数の不連続的差異が境界を隔てて存するイデア界を根元に見ているので、一元論的考え方を否定するのである。一つの「霊魂」は、イデア・メディア境界と考えることができるだろう。しかし、イデア界をなんらかに意味合いで、そのように考えることは意味があるかもしれない。
 ロレンスの言う二元性・対極性の宇宙とは、いわば陰陽論であるが、それは、垂直・水平性をもつ差異の「宇宙」と等価になるように思える。ロレンスが説く分裂と統一を行う宇宙とは、やはり、イデア・メディア境界のカオスモスに似ていると思う。
 問題は、自然形成の構造を緻密化することである。多様な宇宙・自然の発生の構造の精緻化である。ロレンスはあらゆる存在には、核があると言っている。これも「霊魂」であろう。そして、ロレンスは、霊魂も破壊されてエネルギーに還元されると言っている。これは、物理学的な考え方に近い。根元をエネルギーと見るのである。これは、不連続的差異論では、メディア界の考え方に相当しよう。エネルギーは±でゼロになるだろう。ここで整理すると、イデア・メディア境界は、境界とゼロ度が交差する領域であり、メディア界がゼロ度の領域である。そして、現象界は、+エネルギーによる現象と−エネルギーの現象が連続する領域だろう。つまり、生成消滅する領域である。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

イデア・メディア境界:差異1/φ差異2/φ・・・/φ差異n

メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n

現象界:
 
A −差異1+−差異2+−・・・+−差異n+  

B +差異1−+差異2−+・・・−+差異n−  
      
      −  
     差異1
      +
      −  
     差異2
      +
      −
      ・
C      ・
      ・
      +
      −
     差異n
      +



      +
     差異1
      −
      +  
     差異2
      −
      +
      ・
D      ・
      ・
      −
      +
     差異n
      −

以上四種類の差異連続・同一性が生起するのではないか。上二つは、差異水平力の連続化であり、下二つは垂直力の連続化である。だから、両者をまとめることができるだろう。

     ±
  Σ ±差異k± 
     ±

問題は、+と−のエネルギーないし極性の意味である。ゼロ度から、±が生成するだろう。では、なぜ、生成するのか。それは、差異がもともと志向性があるからである。志向性が根元的な力、虚力であると考えられる。この志向性(原志向性と読んだ方が明快だろう)が、ゼロ度連結で、連続化すると言える。つまり、実数化されると言えるのではないだろうか。虚数から実数へ。この時にゼロ度連結の+エネルギーが形成され、同時にそれを解消する−エネルギーが発生するのではないか。つまり、連続化とは、エントロピーを発生させるということではないか。生成消滅性である。これは、現象界の4つの連続的差異現象にあてはまる。そして、それは、メディア界へと解消するように見えるだろう。ゼロ度の世界である。これが、いわば、「空」である。しかし、これは、見せかけの「空」、ゼロ度の世界である。
 とまれ、問題にしたいのは、ロレンスが説く烈しく対立しつつ調和する世界のこととである。この対立、対極・両極・相補性はどう説明できるだろうか。ライオンと鹿の対極性はどう説明できるだろうか。火と水の対立・相補性はどう説明できるだろうか。作業仮説的に、垂直力と水平力の対立・相補性ではないだろうか。差異の原志向性である垂直/水平力の根元的対立相補性が、つまり、イデア界の差異の原志向性である垂直/水平力が、ゼロ化によって、連続化される。そのとき、垂直的連続化と水平的連続化が発生する。そして、これが基本的対立構造(構造主義)を構築しているだろう。そして、この連続化は、現象界での対立となり、同時に、メディア界においては、「空」、ゼロ度として、一体化している。これが相補性となるだろう。ロレンスが説いているエトルリア文明の古代宇宙論、コスモス論は、このように説明できるだろう。即ち、「空」、ゼロ度のメディア界と連続・同一化の現象界の結合としての宇宙論である。そう考えると、これまで、イデア・メディア境界をカオスモスとしてきたが、メディア界自体をカオスモスないし絶対矛盾的自己同一と考えた方が適切・的確であると考えられる。とまれ、差異・ゼロ度のメディア界からの現象発生であるが、それは、上述の差異連結からわかるように、垂直連結と水平連結が結合して、らせん的な形状・形態となるのではないだろうか。DNAの二重らせん形態とは、一種典型であろうし、渦巻星雲、つるまき植物、巻貝、竜巻、台風等々のらせん形態もそうだろう。黄金分割やフィボナッチ数列は、このメディア・現象境界の構造であろう。つまり、原らせん構造は、メディア界にあるのであり、それが、メディア・現象境界を通して、現象化するということだろう。また、時空四次元の発生であるが、それも、これで説明できるのではないだろうか。つまり、差異・ゼロ度の原らせん的構造が、時空四次元現象となるのではないだろうか。つまり、宇宙時空間とは、らせん形態をしているということである。そして、ここでは、ただ触れるだけだが、現代物理学の4つの力も、この4つの差異・連続化に関係しているのであり、当然、4つの力は、差異・ゼロ度のメディア界の数学で説明できるはずである。強い力、弱い力、重力、電磁気力は、融合して、メディア界の差異・ゼロ度になるはずである。(このように考えても、重力と電磁気力は双一的ないし相補的ではないだろうか。光が重力によって曲がるのは、ここから見れば、当然である。)
 さて、時空四次元のうち、時間を形成する差異連続とは何だろうか。時間も一つの空間ではないだろうか。あるいは、逆に空間が時間なのか。思うに、時間によって空間が移動するのだから、やはり、空間軸ではないか。とりあえず、時間も空間としよう。そうすると、時間は、電磁気力が形成するのではないだろうか。光である。(これは直観である。)
 次に、ロレンスが説く「霊魂」、「魂」とはどう説明できるだろうか。すべての存在にそれがあると言う。物質的には、DNAのようなものである。遺伝子である。あるいは、現象体の発生をどう説明するのか。あるいは、生命とはどう説明するのか。現象体は、メディア界の構造によって(、正確に言えば、メディア・現象境界の構造だろう)、発生するだろう。つまり、差異連続の順列の種類によって多種多様な現象体が発現すると考えられる。「霊魂」、「魂」とは、メディア界の差異・ゼロ度であるということになるだろう。
 では、生命と非生命体はどう説明できるのか。あるいは、知的生命体と非知的生命体は。たとえば、鉱物と植物の相違は何か。直観で言うと、基本構造的には、相違はないのではないか。共に、差異・ゼロ度の原構造をもっているのではないか。人間また他の動物の違いもそうなるだろう。また、確かに、新しい存在が生まれてもいいだろう。ポスト人間が。天使は、現象体ではなくて、メディア界の構造だろう。
 しかしながら、私はこれまで、人間の特性として、イデア界の過剰性を説いてきた。つまり、メディア界的構造性を脱構築するものとしてイデア界的不連続性をもっていると考えてきたのである。これはどう説明するのだろうか。
 人間の場合、あるいは、生命の場合も含めていいかもしれないが、メディア界の差異・ゼロ度構造に対して、イデア界の不連続的差異的脱構造性が存していると考えられる。つまり、イデア界の脱構造性とメディア界の構造性との「差異」があるのである。(カントのアンチノミーはこの表現の一種であろう。)脱構造性は創造性とも言えるだろう。そして、構造性は同一性である。便宜的に、脱構造性を差異性、構造性を同一性としてもいい。(プラトンイデアは、両者を指していたと言えよう。)
 もし、構造が必然性ならば、脱構造性は偶然である。(スピノザ哲学は、やはり、基本的には、メディア界的哲学である。)そして、意識や認識、自我を考えると、それは、イデア界(脱構造性)/メディア界(構造性)の「差異」によって生起しているだろう。コギト・エルゴ・スムとは、やはり、この「差異」を指しているだろう。デカルトはカントやフッサールの先駆である。これを具体的に解明するなら、特異性や不連続的差異とその共存性が、連続・同一性の構造に介入することであろう。【ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)とル・サンボリック(象徴作用)との対立を想起するが。】この「差異」が人間存在の本質と言っていいだろう。(しかし、近代主義は、この差異を排出・隠蔽してきた。そして、近代主義自体が、いわば「精神病」になったのである。つまり、脱構造性を否定するので、それが反動衝動・狂気となって主体に逆襲するのである。現代社会の精神病理は近代主義の病理であろう。)
 思うに、もし、イデア界、脱構造性の介入がなかったら、意識、自我、認識は生まれなかったのではないだろうか。ただ、動物のように自動作用しかなかったのではないか。(勿論、ここで、進化を考えているのではない。進化論については、後で検討しよう。)とまれ、イデア界、脱構造性の介入によって、生体は、主体となり、現象界その他を対象化するようになったと言えよう。これは、不連続的差異の不連続性によって原志向性が、純粋志向性になっていると言えるのではないだろうか。なぜなら、通常の差異・ゼロ化による連続化では、志向性が連続化して、自己対象化ができないからである。つまり、連続・同一性化された志向性とは、自己対象化がないから、意識、自我、知的認識は生じないだろう。動物である。動植物である。対象と一体となった個体である。だから、イデア界の不連続的差異の脱構造性の介入によって「差異」が発生して、意識、自我、認識が生まれる基盤となると言えるだろう。(ここで、精神病について言うと、この「差異」において、脱構造性を否定する方向に構造性が作用するのだろう。そして、その反動衝動が狂気である。また、これは、一種分裂性である。自我分裂である。脱構造性と構造性の分裂である。しかし、両者の接点があるので、病理的な自我が発現しているのである。本来の自我は失われているのであるが。今日の自己愛性人格障害とは、ここに病因があるのではないだろうか。「差異」を否定して、連続・同一性の自我に癒着しているのではないか。)
 ということで、物質身体的には、類人猿と人間は違いがほとんどなく、ヒトゲノムは、他の動物のゲノムとの違いはわずかであろう。結局、質的差異を以上のように認めなくてはならないだろう。人間において、過剰なイデア界、脱構造性、不連続性が存在するのである。ならば、人間の「霊魂」、「魂」とは何だろうか。それは、イデア界の「霊魂」、「魂」ということだろう。動物の「霊魂」、「魂」は、メディア界の構造であろう。もっとも、この二分化を絶対化してはいけないだろう。おそらく、相対的なものではないだろうか。イデア/メディア的「霊魂」ということである。脱構造/構造性、不連続性/連続性である。すると、これは、イデア・メディア境界の問題となるだろう。このゼロ度において、「霊魂」が発生するだろう。ここは微妙な問題があるだろう。 二つの変換が考えられるのである。一つは、イデア/メディア変換であり、一つは、メディア・現象変換である。後者は、構造による生成消滅を意味しよう。+エネルギーと− エネルギーの相補的ゼロ度性である。前者は、不連続/連続変換でもある。これは、境界/ゼロ度変換でもある。そして、ゼロ度は境界へと回帰するということになるだろう。つまり、ゼロ度、「空」、メディア界が、イデア界に回帰するのである。虚界に回帰するのである。ロレンスが、魂も破壊されてエネルギーになると言っていたが、魂をメディア界的構造とするなら、このエネルギーは、イデア界的なものではないか。もっとも、もうエネルギーとは呼べなくなるだろうが。何が、言いたいのかというと、人間の場合、いわば、二重構成となっているということである。一つは、構造性であり、一つは脱構造性である。そして、両者の「差異」において自我が生じる。つまり、二つの要素の中間としての自我である。つまり、いわば、二つの「霊魂」、「魂」を人間はもっていることになろう。イデア界の「霊魂」とメディア界の「霊魂」であり、後者はゼロ度、「空」ないし「無」に回帰する。しかるに、前者は、イデア界に回帰する。つまり、不連続的差異とその境界に回帰するのではないか。つまり、イデア界の「霊魂」とは、不連続的差異とその境界のことではないか。これをロレンスは根源的エネルギーと呼んだのではないか。しかし、これは、メディア界から見た把捉である。もっとも、デュナミス・エネルギー、ポテンシャル・エネルギーとすればいいだろう。ならば、人間(、本当は、動植鉱物を含めていいのだが)は、死んだ時、その「霊魂」はイデア界に回帰すると言っていいだろう。それは、イデア界自体かもしれないが。それとも、一つの不連続的差異なのだろうか。とりあえず、今は前者を取っておこう。
 ならば、さらに問題は、これまで、何度も検討してきたが、記憶の問題、プラトンの想起説の問題である。「霊魂」は現象界の記憶をもつのかである。脱構造性と構造性との「差異」があるのだから、両者には、なんらかの交通があるはずである。どうやって交信するのか。それは、思うに、先に述べた想像力・創造力・虚力が顕現する身心体(メディア界)において交通すると思う。メディア界が媒体となり、イデア界と現象界が交通するのだ。すると、現象界の知覚・経験は、メディア界に内蔵されるだろう。そして、それは、そこに存する想像力・創造力・虚力に反映するだろう。これで、現象界がイデア界に記録されることになるだろう。虚力的記憶である。(これが、大乗仏教阿頼耶識ではないか。)これが、イデア界という記憶装置に蓄積されるのだろう。イデア界は、個体的記憶をもつことになるだろう。イデア界とはいわば、一者が多数・無数である。この一者が、無数の個体的記憶をもつのだろう。この一者がブラフマン、梵である。しかし、真実在は、境界で隔てられた無数の不連続的差異である。思うに、ロレンスが一つの「霊魂」としての宇宙を述べていたが、それは、この意味で取ることができるだろう。一つの「霊魂」としての宇宙とは、無数の不連続的差異の一者である。もっとも、一者とは、存在の一義性と言うべきかもしれないが。
 最後の付け加えると、一神教の一神・超越神とは、このイデア界をいわば連続化していると言えよう。無数の不連続的差異としての一神・超越神を捉えるべきである。それも、内在性・超越論性においてである。

p.s. 「気」とは、これまでは、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の虚力と考えるべきだと思う。自然が発する「気」=生命力とは、イデア界の力だろう。
イデア界の「霊魂」であろう。

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【2005/11/23 16:44】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

エトルリアの故地』Etruscan Places 1932 D.H.ロレンス著 奥井潔訳 南雲堂

これは、小説家(長編、中編、短編)、評論・批評家、紀行作家、詩人、劇作家他であったD.H.ロレンスの紀行文である。紀行文として、他に、『イタリアの黄昏』Twilight in Italy、『海とサルジニア』The Sea and Sardinia、『メキシコの朝』Mornings in Mexicoが、代表的である。『メキシコの朝』を除けば、イタリア紀行文の三部作と言えるだろう。
D.H.ロレンス(1885〜1930)は、日本では、一般には、『チャタレイ夫人の恋人』でのみ知られたほぼ忘れられた作家であるが、アカデミズムにおいては盛んに研究されている作家である。ここで一つ問題をあげておけば、現代文学のカノン(「聖典」)の問題がある。20世紀現代文学の代表的古典として、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(並びに、T.S.エリオットの『荒地』)とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をあり、これらが、規範となって、現代文学が形成されてきたことは確かであるが、しかし、現代文学が行き詰まる新世紀において、アカデミズムの規範が排除してきた文学を見直すことは意味がある。詩人T.S.エリオットは、批評家でもあり、文学のモダニズム革命に当たり、文学の規範を、古典主義に求めて、ロマン主義を排除した。しかし、このモダニズム革命は、矛盾していたのである。自身の内部にロマン主義ないしサンボリスム象徴主義)の要素をもっていたのであり、それを否定するように、反動的に、古典主義を主唱したのである。だから、モダニズムは早晩限界に突き当たるのである。結局、ロマン主義象徴主義の問題に正対しなくてはならなかったのであり、今日、D.H.ロレンス研究が盛んであるというのは、この意味があると言えよう。つまり、ポスト・モダニズム(ポスト近代主義)の問題が、現代的であると言えるのである。そういう現代の知的文脈において、D.H.ロレンスの再評価があると考えるべきである。そういう意味合いにおいて、ロレンスの本作品と自身の絵画集の序論を見ていきたい。

エトルリアとは、簡単に言えば、先史時代、イタリア半島に住んでいたイタリアの先住民である。紀元前8世紀〜紀元後2,3世紀まで、存在して、ローマ帝国によって滅びた。今日、イタリア半島の西側にある海洋をティレニア海と呼ぶが、ティレニアとは、エトルリアの語から発している。
本作は4つのエトルリアの地を選んで、そこの遺跡の紀行文となっている。

1. チェルベテリ
2. タルクィニア
3. ヴルチ
4. ヴォルテラ

本紀行文の中核となるタルクィニアに関する章を簡単にまとめる。


「タルクィニア」
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb01.html
「古代の原始時代の地中海民族、それもアジアもしくはエーゲ海系の民族の系譜に属していたと考えなければならない。私たちの歴史の始まりを告げる夜明けの薄明かりは、それに先立って存在した歴史の日没を告げる薄明かりに外ならなかった。」p.54
エトルリア文明は、先史時代の地中海世界から芽吹いた一本の小枝、おそらくは最後の一枝のように思われる。そして、エトルリア人というのは、新たに来た人々も原住民たちも、互いに種族の異にし、文化の水準を異にしてはいたけれども、共にあの有史以前の古代世界に属する民族であった点では同じだった。勿論、後になるとギリシア人が大きな影響を及ぼすことになった。しかしそれはまた別問題だ。」p.54
「・・・ちょうどエトルリアの宗教が十中八九まで基本的には土着の宗教であり、有史以前の古代世界を包んでいたある広大無辺な古代の宗教に属するものであるように。有史以前の世界という暗がりの中から滅び行く様々な宗教の瀕死の姿が浮かび出て見える。それらの宗教は未だ男の神々、あるいは女の神々という人格神を作り出してはいず、ただ大宇宙に存する根源的な諸力の神秘によって、私たちが今日弱々しい声で自然と呼んでいるものが持つ、あの様々な複合的な生命力によって生きている宗教である。神々も女神たちも、何ら明確な形では未だ出現してはいなかったように見えるのだ。」p.56
エトルリア人の本能のなかには、生命(いのち)から生まれる自ずからなる気分を守りたいちう真率な願望があったように思われる。」p.68


「タルクィニアの壁画のある墓(1)」

「狩りと漁り(すなどり)の墓」p.86
「みんな小さくて、浮き浮きとしていて、生き生きとした動きがあり、若い生命だけが持つあののびやかな自然さがある。ただ、こんなにも破損がひどくさえなければ嬉しいのだが・・・だってここにこそ本当のエトルリア的な快活さと自然さがあるからだ。それは強い感銘を押しつけてくるものではないし、また偉大でもない。ただ生き生きと寄せてくる生命の小波、と言った感じなのだが、もしそれで満足されるならば、まさにそれがここにあるのだ。」p.88
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb07.html
(突き当たり壁の死者が宴会を開いている光景)
「これは死の、葬送の宴なのだ,そして同時に、これは死者が、下界で、黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国は、楽しいところであったからだ。生者が戸外で楽しい祝宴を開いている時、同時に、死者の墓でも、死者自身が、同じように祝宴を開いていたのである、傍らに貴婦人が侍して彼に花輪を捧げ、奴隷たちは彼に紫の酒を運んでいたのである、はるかなる黄泉のくにで・・・。なぜなら地上の生活が、かくも楽しく良きものであったが故に、下界の生活もそれの楽しい続きとなるより外はなかったからだ。
・・・
すべての立居振舞いの中に、何か舞踏のようなもの、生き生きと心を魅する輝きがある。裸の奴隷の男たちの立居振舞いの中にすらそれはあるのだ。」p.89〜p.90
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「豹の墓」p.92
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「饗宴の墓」p.98
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バッカスの巫女の墓」p.104
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「死者の墓」p.105
「雌獅子の墓」p.106
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「乙女の墓」p.107
「彩色壺の墓」p.107
「老人の墓」p.109
「記銘の墓」p.111

★p.113〜p.134で、ロレンスが考える、エトルリア人の世界観・宇宙観が爆発的に述べられる。

「まるである力強い別種な生命の流れが、・・・彼等の中を滔々と流れているよう、まるで我々には掬むことを許されていない別の深淵から、彼等は生命の水を掬み上げているかのよう。」p.114
「生命の自然なる開花!」p.114
エトルリア人にとっては、すべてのものが生きているものだった、全宇宙も生きていた、そして、人間の務めは、その全体の唯中で自分も生きることであった。人間は、様々な生命力が巨大な潮のようにうねり流れているこの世界という海から、生命という水をみずからの内部に掬み入れなければならなかった。全宇宙は生きていた、まるで巨大な一個の生きもののように。その全体が呼吸し、動いていた。
・・・
世界全体が生きものであった、そして、偉大な魂を、即ち霊魂(アニマ)を持っていた。そして偉大な一つの魂であるにもかかわらず、同時にもっとも小さな無数の漂泊して止まることのない魂に分かれているものでもあった。すべての人間が、すべての動物、樹木、湖、山、川がみな生きものであり、それぞれが自分固有の意識を、心を持っていた。そして、今日だってそれに変わりはないのである。 
 宇宙は一つであった、そして、宇宙の霊魂(アニマ)も一つであった。しかし、それは無数の生きものから出来ている一つなのであった。」p.115
「宇宙というものは、ただ一つの魂を持つただ一つの生きものであったが、そう私たちが考える暇もなく、それはたちまち変化して二つのものから成る一つの生きものとなり、内なる魂も、火のような魂と水のような魂と二つになり、二つは小休みなく混じり合い、またたちまちに相離れつつ、究極的には大宇宙の生命力によって一つの均衡調和が保たれているのであった。しかし、この二つは常に烈しい勢いで合体し、また烈しい勢いで分裂し、そして瞬時にして無数の生きものに変ずるのだった、無数の火山に、海に、それから河川に、山々に、森や林に、生きものたちに、そして人間に。だからすべてのものは二元的であった、即ち内に二元性を蔵していた、そして常時小休みなく混じり合い、瞬時にしてまた分裂していたのである。
 宇宙は一つの生きものであるという古代の思想が徐々に形成されて行ったのは、有史時代が始まるよりもはるかに古い昔のことであって、この思想が精緻に集大成されて既に巨大な一つの宗教となった後に有史時代がきて、我々はこの宗教を垣間見ることになるのである。有史時代のまさに夜明けの頃の、支那にも、印度にも、エジプト、バビロニアにも、いや太平洋諸島や原始時代のアメリカにも、既に一つの宗教思想が、それぞれの土台に存在していたという明らかな証拠が見られる。即ち宇宙は一つの生きものであり、宇宙を形成している無数の生命は、烈しく入り混じって混沌なる状態にあるが、しかしこの混沌には、依然としてある秩序が保たれているという宗教思想が・・・そして人間は、この真赤に燃え上がる混沌のただ中に立って、あえて危険をものともせず、力戦苦闘してただ一つのものを、生命を、活力を、さらに多くの活力を求めるのだ、彼方にきらめく大宇宙の生命力を、さらに多く己れの内部に、いやが上にも掬み入れようとするのである。その活力こそ求むべき宝なのだから。この能動的な力に満ちた宗教観によれば、人間は、鋭敏な注意力と繊細な感受性と全力をあげての努力によって、いよいよ多くの生命(いのち)をいやが上にも多くの、きらめく生命力を己れの内部に掬み入れることが出来、かくして遂にはみずからも朝の如く光り、神の如く燦爛として輝くことになるのであった。生命に満ち、完全に己れ自身を成就すると、彼は自分の全身を朱に塗った、曙の赤い初光のような朱に、そして神の体になった、まざまざと目に見える神の、赤々と、全身に生命が満ち輝く神の身体が具現したのである。」p.116〜p.117
「いろいろな墓を見て私たちの目に付くのは、ライオンと鹿とが対比されている図が、次から次に繰り返し出てくることである。この世界が創造されたそもそもの初めから、この世界は二元的な存在形式を取っていたと言うのが古代人の考え方だった。あらゆるものが、二元性を持つものとなった。・・・ 
 豹と鹿、ライオンと牡牛、猫と鳩もしくは鷓鴣(しゃこ)、これらの組み合わせは、この根元的な偉大な二元性、即ち動物の王国にある両極性と切り離せぬ一部をなしている。・・・この組み合わせは、聖なる大宇宙は、動物を創造する場合にも、動物には二つの対極があるような創り方をしたということをあらわしているのである。
 大切な宝の中でも大切な宝は魂であって、それはあらゆる生きもの、あらゆる生きもの、あらゆる木にも池にも内在するもの、そして火的性質と水的性質というこの二元性を形成する二つの部分、二つの要素の間の釣合い、もしくは均衡を知覚するあの神秘的な意識の切点を意味している。この神秘的な切点は、右手から次々に押し寄せる生き生きとした生命にも、それから左手からも次々に押し寄せるくる生命にも包まれるのである。そして個体は死んでも魂は決して消え失せることはなく、あの卵の中に、あるいはあおの壺の中に、あるいはあの木の中にすら保存されていて、そこから再び芽吹き生まれてくるのである。」p.131〜p.132
【この切点である魂とは、不連続的差異の境界のことではないだろうか。後で検討したい。】


「タルクィニアの壁画のある墓(2)」

「牡牛の墓」p.148
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb02.html
この箇所においても、ロレンスのエトルリアの宗教観・世界・宇宙観が述べられている。
エトルリアの宗教は、けっして神を擬人化し神と人間を同一化する性質のものでなかったことは確かである。即ちこの宗教の中に現れている神々は、すべて存在しているものではなくて、根源的な様々な力(エネルギー)の象徴だった、まさに象徴に外ならなかった。そして、これはさらに昔のエジプトにおいても同じだった。分割されていない究極の神の本質は、もしそういう呼び方で言ってよければであるが、あのマンダム、即ちその中に核を持つ原形質的な細胞によって象徴化された。そしてこれがそもそもの始源、はじまりなのであって、我々の場合のように、究極の神の本質が、擬人化された神、人格神によって象徴されるではなく、また人間がすべての創造もしくは進化の目指す終点、究極の目的ではないのである。これがエトルリアのすべてに一貫して見られる原理だ。エトルリアの宗教は、霊魂の形成のもとでもあり、また霊魂の破壊のもとにもなるあの物質的な、そして創造的なあらゆる力、あらゆるエネルギーに対する信仰なのである。そしてあの霊魂、個性なるものは、混沌の中から、まるで花のように徐々に産み出されてくるもの、そして再び混沌の中に、即ち下界へと消え去って行くものに過ぎないのだ。これとは反対に、私たちは言う、太初(はじめ)に言葉ありき、とーーそして宇宙という大自然が真に実在することを否認するのである。私たちはただこの言葉の中にのみ存在するのであり、この言葉は打ち延ばされ薄く広げられて、すべてのものを覆い、メッキをかけ、すべてのものを隠してしまうのである。
エトルリア人にとって、人間とは、その人間の持つ他と異なる様々な性質や力に応じて、牡牛であり、あるいは牡羊であり、ライオンであり、あるいは鹿でもあるものであった。人間はその血管の中に、翼ある鳥たちの血を持ち、また蛇の毒を持つものであった。すべてのものはそういう血の流れから出現したのであり、従ってこの血縁関係は、それがどんなに複雑で両立出来ない関係になったとしても、けっして断ち切れれることはなく、また忘れられることもなかった。この血の川の中にはいろいろな流れがあって、その中にはいつもぶつかり合っている流れも少なくなかった、鳥と蛇、ライオンと鹿、豹と仔羊というように。しかしそのぶつかり合いそのものが和合調和の一形式に外ならなかった、ライオンが同時に山羊の頭を持っている姿に見るように・・・。」p.153〜p.154


「占い師の墓」p.161
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb03.html
「男爵の墓」p.165
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb08.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/194.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/197.jpg
「オルクス、即ち地獄の墓」p.168
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb12.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb13.html
「楯の墓」p.171
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb14.html

リンク
http://www.basarchive.org/sample/bswbBrowse.
asp?PubID=BSAO&Volume=1&Issue=1&ArticleID=10
http://www.victorianweb.org/courses/nonfiction
/lawrence/

エトルリア美術 
http://www.mysteriousetruscans.com/art/art.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/main.html
http://www.artlex.com/ArtLex/e/etruscan.html
http://www.huntfor.com/arthistory/ancient/etruscan
.htm
http://www.google.co.jp/search?q=etruscan+art&btnG
=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&num=30&hl=ja
http://www.insecula.com/us/salle/theme_40013_M0001
.html
http://witcombe.sbc.edu/ARTHrome.html#Etruscan

イタリアの地図
http://www3.zero.ad.jp/cipolla/map.htm
http://rome-navi.net/miritalymap.htm
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9716/italia0.
html
日本語
http://www.jalcityguide.com/world/italy/citymap01.jpg
イタリア(ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3
%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
イタリア・リンク
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5769/links.html


テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/22 03:55】 | 文学&哲学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

日本人の想像力・創造力・差異力が枯渇・消滅・死滅した理由について
ロマン派は想像力を強調する。また、大江健三郎もそうだった。想像力をやたらに言うのは、鼻につく。しかし、芸術からこれを除いたら、単に感覚だけになる。先にも触れたが、想像力は唯物論によって衰退し、死滅させられたのではないか。かなり想像力のある中沢新一でさえ、霊的唯物論という奇妙な唯物論を説いている。唯物論とは、主体の外部に、客体である物質が存しているのであり、その真理を、主体が認識するという考えである。この考えを認めると、主体のもつべき想像力は、衰退する。どうも、戦後日本は、唯物論の道を歩み、現在のように、想像力の枯渇した国になってしまったようだ。イギリスの版画家で詩人のウィリアム・ブレイクは、詩的精神である想像力を強く説き、物質主義の近代に対抗した。そう、ディケンズもそのような面があるだろう。二つの文化(理科系と文科系)の問題は、実は、フッサール現象学で、乗り越えられているだろう。西洋人はプラトン主義が大伝統であるが、日本人は、アリストテレスは理解できるが、プラトンが苦手なようである。
 ところで、日本文学で、想像力がもっとも豊かなものは何だろうか。私は、折口信夫の『死者の書』をあげる。ただし、難解である。精読しないと理解できないだろう。緻密で、複雑にできているのである。

p.s. 想像力とは特異性においてあるものでもあろう。つまり、イデア界の力でもある。これは、軽薄ではない。想像力が消滅すれば、軽くなる。知識人に想像力がない。優れた知識人であった柄谷行人氏にも、想像力が欠落している。
 思うに、知識は、想像力を排除するような方向ではたらくようだ。想像力は理念的な力でもあり、また、主体の力でもある。民主主義を健全なものにするには、想像力が不可欠である。想像力的民主主義である。想像力の欠落した多くの日本国民に対して、民主主義は、洗脳する政治家の道具となる。
 とまれ、何故、想像力を排除するのか。どうして、想像力をもった知性を発展させないのか。それは、やはり、近代的合理主義的知性にとって、想像力は、夾雑物に思えるからだろう。これは、デカルトの責任があると思う。想像力はあいまいに見えてしまうのである。しかし、想像力はあいまいではなくて、明快なものである。虚構想像的な力である。スピノザの能動的観念には、想像力が含まれているだろう。

p.p.s. 想像力を排斥・排除した場合、それは、逆襲するだろう。想像力は本質的に人間に内在するものであるから、否定できないのである。だから、排斥・排除されれば、逆襲する。想像力はイデア界の力である。それは、ほぼ、イデア・メディア境界の力となるだろう。カオスモスの力である。これが排斥されたときは、反作用・反動が生じる。それは、どう現象するのか。それは、衝動となる。非合理な衝動、つまり、狂気となるだろう。もっと正確に言うと、志向性、他者への志向性を排除しているので、連続化だけとなり、現象自我へと集中する。自己中心主義、パラノイア自己愛性人格障害、分裂症等になるだろう。つまり、想像力の排除に対して、反動衝動が起こるのである。現象自我中心性に、他者排除的反動衝動が加わるのである。つまり、憎悪・暴力が現象自我に内在しているのである。想像力的他者を攻撃しないではないだろう。反感、ルサンチマンからである。そう、ニーチェキリスト教に見たルサンチマンとは、想像力の排除と等価だろう。想像力とは他者への志向性である。一神教は他者を否定するのである。ここから逆に言うと、一神教とは、ユダヤキリスト教とは、想像力を排除したものである。イデア界の志向性を排除しようとする連続・同一性の宗教であろう。やはり、イデア・メディア境界において、イデア界を暴力的に閉ざそうとするあり方であろう。それは、連続・同一性の展開のあり方である。そう、おそらく、+エネルギー的あり方と言えるのではないか。−エネルギーを否定するのである。−エネルギーを認めまいとする不合理な暴力性をもつ。そう、これは、無意識となったイデア界の力が衝動化して、現象自我に狂気をもたらすのである。そう、差異・他者を否定しているので、コスモスがカオスとなった衝動が襲うのである。これは、明らかに精神病である。西洋文明、キリスト教文明は精神病となるのである。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/20 23:48】 | 心的活動 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

夢、想像力、創造力と不連続的差異論:実在感、実在力の基層・原基・基盤は何か

先の検討の中から、夢、想像力、創造力の基盤・根拠が問題になったので、ここで検討したい。 
 先ず、具体的な簡単な疑問から見ていこう。夢を見ているとき、ほぼ夢には実在感がある。夢の世界を疑問なく信じている。(中には、夢と感ずる場合もあるだろうが、ここでは、例外としておく。)この夢の「実在感」から考えたい。現象界の知覚の基盤として、メディア界がある。超越論的知覚である。夢は、この知覚が形成すると考えられる。メディア界は、多様体と考えられる。そして、原時空間であるから、時空を超越するし、また、現象界的連続性を超越する。【フロイトは、夢における性的思考の圧縮や置換を述べていたが、性的と限定する必然性はないと考えられる(フロイト批判)。】この現象界から見たら、奇妙な世界を、見ているときは、そのまま実在と感じている。夢見とは何だろうか。視覚、内的視覚、内的視知覚の問題がある。これは、志向性に還元できると考えられる。つまり、志向性には、視覚、ヴィジョンも入るのであり、とりわけ、視覚が重要だと考えられる。しかし、志向性は根源的には原知覚である。超越論的主観性である。とまれ、視覚優位とは、当然、光と関係する。差異・ゼロ度から発出するメディア界は、ゼロ度を内在している。このゼロ度は、メディア界の強度を発生させるものである。もっとも、強度とは、差異・ゼロ度自体を意味するが。
 ここで、力の問題を考えよう。ゼロ度において、力が発生する。この力は、「知覚」でもある。ここで、用語を規定して明快にしよう。イデア界のおける超越論的主観性を根源知覚ないし原知覚、メディア界におけるそれを中間ないし媒介知覚と呼ぼう。そして、現象界の主観性は現象知覚である。メディア界の力は、中間ないし媒介知覚である。そして、これは、作業仮説として、4つの力に呼応する4つの中間ないし媒介知覚である。感覚・感情・直観・知性の媒介知覚である。もっとも正確に言えば、中間的感覚・感情・直観・知性であり、現象界のそれではない。とまれ、これらが、ゼロ度の4つの力・媒介知覚である。
 では、これらと視覚、視知覚とどうつながるのか。E=mccである。エネルギー・強度において、質量と並んで、光が根源である。強い力と弱い力と重力が質量に関係し、電磁気力が光に関係するだろう。思うに、光の特殊性があるのだろう。ここで、作業仮説的に私の直観を言うと、重力が反光である闇、ダークネスである。つまり、光と重力が対(つい)になっているのではないだろうか。光と闇(重力)が相補性を形成するのではないか。とまれ、言えることは、光と闇が、メディア界において志向性の中核になるのではないかということである。そう、光とシャドウ(重力)の相補性がメディア界の知覚、中間知覚の枢軸ではないか。これを作業仮説とする。ということで、メディア界の志向性
において、視覚、視知覚が優位となるのである。これは、光且つ影である。そして、夢の実在感から言うと、この光/影が実在感の基盤ではないだろうか。即ち、光/重力が基盤ではないかということである。正確に言えば、光/影と質量性が実在感の根拠であろうが、質量性は、夢においては、光/影の背後に隠れているのだろう。(後で、光/重力、光/影(シャドウ)について考察する。)
 では、この実在感とイデア界はどう関係しているのだろうか。睡眠において、イデア界に「知覚」は回帰すると仮説しているが、夢を見ていない睡眠において、「知覚」は、4つの力・中間知覚を超えて、イデア・メディア境界(IM境界)に達して、さらに、イデア界内部に帰還していると思われるのである。つまり、根源知覚、根源的超越論的主観性に達していると考えられるのである。純粋な志向性の世界である。これは、絶対界である。デュナミスである。ここは、前エネルギー世界である。あるいは、ポテンシャル・エネルギーの世界である。これによって、知覚は、原エネルギー体となるのであろう。そして、目覚めとともに、知覚はエネルギーを使用するのである。
 さて、最後に、光/重力、光/影(シャドウ)について考えよう。これは、相補性の関係にあると思う。比喩的というか文学的に言えば、光には、影が伴っているのである。光と闇とは一体である。両者は分離できないのではないだろうか。つまり、光と重力は分離できないのではないだろうか。電磁波と重力との相補性があるのではないだろうか。光が重力で曲がるのは当然だと思う。なぜなら、光と重力は不可分一体だからである。光は重力を伴うのである。知覚で言えば、直観と知性が結びついているのである。そして、これが広義の視覚・ヴィジョンであろう。これが、ニーチェのアポロ的なものに相当しよう。アポロ的ヴィジョンである。そして、これは、影・闇・シャドウが付随している。ディオニュソスである。アポロとディオニュソスは一体であり、いわば、双子である。先に、ディオニュソスを、イデア・メディア境界的な矛盾同一・カオスモス的なものと考えたが、それも考えられるが、狭義においては、こちらの方が適切ではないだろうか。(後で、検討しよう。)アポロとディオニュソス、光と影は一体であると考えると、いろいろ説明がつくことがあるだろう。D.H.ロレンスは黒い太陽と言ったが、それは、ディオニュソスのことだろう。また、暗い神と言ったが、それもディオニュソスだろう。光と闇は双子である。(思うに、天使と悪魔、善と悪も双子だろう、おそらく。プラトンの白い馬と黒い馬も双子だろう。)この闇が光に付随して、身体へとつなぐ。知性が身体と連結するのである。思うに、この闇が想像力・構想力であり、心身を結合しているものではないか。そして、「気」とはこの闇ではないか。つまり、重力である。また、さらに、ダークマターの問題であるが、これも、重力に関係する問題ではないか。光の背面にダークマターがあるのではないか。結局、光重力論が出てくるのではないだろうか。まぁ、作業仮説的想像はここまでとしよう。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/20 12:24】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

イデア・メディア境界とイデア界的身体/意識について:イデア知覚とメディア知覚

先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
 明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、

身体ー差異/ゼロ度ー思考

である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
 問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
 そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
 では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
 では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
 そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
 最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/20 02:44】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

不連続的志向性と連続的志向性:イデア界的志向性とメディア界的志向性

先にあげた4つの力・知覚(力知覚)は、メディア界における連続的な力であり、それは、現象界の自我の基本構成(基本構造)となるだろう。しかし、自我においては、メディア界だけではなく、イデア界が作用しているのである。もっとも、これは無意識的にという方がほとんどの場合適切だろう。ここで、身体の問題が発生するだろう。通常、身体は、感覚、感情、欲望の領域であるが、イデア界の作用を問題にするとき、身体性が問題となるのである。これはどうしてなのか。身体とは何かを考える必要があるだろう。実は、身体とは、延長と思惟との接合領域であると考えられる。感覚体であり、同時に、思考体である。つまり、身体とは、差異ゼロ度のメディア界領域総体を指していると見ていいだろう。自我や意識は身体から発すると言ってもいいだろう。(思惟と延長の二元論は、身体が欠落している。スピノザの心身平行論は、精神と身体の二元論で、思惟と延長との二元論とは異なるだろう。)
 ということで、身体=メディア界となったのである。そして、イデア界の力は、イデア・メディア境界に存している。これは、換言すれば、メディア界の背後、裏面にあると言えるだろう。通常は、この無意識のイデア界は隠蔽されている。しかし、ある時、これがひらかれるのである。これは、仮説的だが、成長と関係していると思う。成長の前半は、イデア界→メディア界→現象界と進展して心身形成される。しかし、これが、成長の後半になると反転すると思うのである。つまり、現象界→メディア界→イデア界である。何故こうなるのか。
 今、二つの考えが浮かぶ。一つは、イデア界のさらなる1/4回転である。他の一つは、メディア界の強度の極性力学である。前者は置いておいて、後者を考えよう。つまり、プラス強度によって連続化が発生したとするならば、当然、力の拮抗性によって、マイナス強度が発生する。

A)差異1+−差異2+−差異3・・・+−差異n

B)差異1−+差異2−+差異3・・・−+差異n

Aを+強度として、Bを−強度としよう。BはAの反転である。そして、A+Bで、再び、ゼロ度の状態を回復するだろう。つまり、イデア・メディア境界回帰となるだろう。この反転が、成長の後半であると作業仮説しよう。そして、これによって、イデア界の差異共存志向性が出現することとなる。ある人にとっては、心機一転の時期だろうし、ある人にとっては、宗教性への開眼だったり、ある人にとっては、精神病や狂気の発生だったりするのではないだろうか。ユングが中年の危機と呼んでいたものがこれと共通するだろう。(思うに、ユング心理学の無意識はイデア界と見れば、明快になるだろう。)
 すると、必然的に、メディア界の反転によってイデア界の力が自我に参入するようになるのである。(思うに、天才と呼ばれる人は、イデア界の流入が初期、前期からあるのだろう。また、精神病理も、これと関係しよう。)そして、この流入の場所が、身体であると考えられる。なぜならば、メディア界の反転においてイデア界が流入するのであるから、身体であるメディア界に生起することになるだろう。
 このように考えると、メルロ=ポンティの身体現象学D.H.ロレンスの身体的無意識論が、より明快整合的に説明できるだろう。フッサール現象学も身体現象学と言えるようになるだろう。また、ロレンスの身体的無意識の二元的四元性の知覚とは、イデア界的対極的志向性とメディア界的対極的志向性を総合させたものを表現したいるのかもしれない。
 さて、この観点からポスト構造主義を見ると、それは、イデア界的次元の示唆にあると言えるだろう。差異ゼロ度によるメディア界を近代的二元論的世界に説くのであるが、それは、また、イデア界領域を示唆していたのである。思うに、長期の文化期においてもこのような反転が言えるのではないだろうか。不連続性から連続性へ、そして、連続性から不連続性へと移行する。
 ここで、気になるのが、映像の問題である。特にテレビの問題である。(私は、テレビをほとんど見ない。)今日の映像は、写実主義であり、連続体である。(ドゥルーズの映画論はベルクソンの持続論を根拠にしているので、連続論で、全く使い物にならないだろう。)これは、人間の視覚を平面・平板化させると思う。つまり、イデア界的心象直観を喪失させるように思うのである。これは、また、都市の問題である。イデア界的建築物や施設の有無の問題である。今日の都市文化において、イデア界的直観が欠落すると思うのである。自然の乏しさも問題である。おそらく、イデア界的心象直観と現代の映像・都市がそぐわないのである。不連続的映像・都市が必要である。テレビの不連続化が必要だろう。ライブドアはどうなっているのだろう。不連続的差異テレビである。

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【2005/11/19 10:07】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性

先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
 思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダドゥルーズを超えていたと言えるだろう。

p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。

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【2005/11/18 22:27】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

不連続的差異論的資本主義とはどうなるのか:不連続的差異論的共創共存資本主義ゲーム

不連続的差異論の開花した資本主義とはどうなるのだろうか。それは、差異共創共存主義となるだろう。市場原理は尊ばれる。一種、ゲームのように資本主義がなるだろう。つまり、ゲームを楽しむように、資本主義を経営するようになるだろうし、働きが、楽しみとなるだろう。楽働、楽労、楽営となるだろう。
 不連続的差異論とは、差異の全面的な開花を意味する。即ち、スーパー・ルネサンスである。このとき、企業において、共創共存原理によって、どんどん新しい製品が開発されるようになるだろう。つまり、個々の才能が開花されて、連結されて、独創的な発想や製品が生まれるのである。これは、次から次へと、自ずから、湧き上がる発想・独創である。いわば、インスピレーションによって企業経営が為されるだろう。そして、この延長で、諸問題も解決されることとなるだろう。病気、戦争、公害、食料、福祉・医療・年金等々の大問題も、解決されるだろう。人類は、新しい黄金時代を迎えるだろう。「水瓶座」の時代である。
 これは、空想ではなくて、真理である。根源的差異である不連続的差異を開花させることで、資本主義は、新しい段階に達するだろう。不連続的差異論的共創共存資本主義ゲームである。人類総天才化時代となるだろう。イデア界的資本主義ゲームである。

一神教ユダヤキリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論

何故人間は、自己中心主義、利己主義、傲慢・尊大・暴力的になるのだろうか。ソクラテス無知の知と言った。アポロンの神託は、汝自身を知れであった。しかし、これは、難問である。超難問である。どうして、自己を知ることができるのか。ハムレットは、ミメーシス論を説いた。鏡に映して見るということである。しかし、鏡像に人間は、ナルシシズムを覚えるのではないか。 
 本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
 近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分積分の世界である。ライプニッツベルクソンハイデガードゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
 近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教プラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
 近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
 ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
 では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。

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【2005/11/25 19:19】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論

ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで