不連続的差異論入門:その59

2つの1/4回転:2つのメディア差異と4つの力
[ 00:26 ] [ 不連続的差異論 ]
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ガウス平面で、x軸のプラスにおいて、1/4回転するとき、虚数はプラスとなる。また、x軸がマイナスにおいて、1/4回転するとき、虚数はマイナスとなる。つまり、メディア界化、ゼロ化は、2つの、2種類の差異・ゼロ度を形成すると言えるようだ。プラス・差異・ゼロ度とマイナス・差異・ゼロ度である。差異・ゼロ度は、連続的差異であり、簡単にするため、連続差異ないしメディア差異と呼ぼう。即ち、+連続差異(+メディア差異)と連続差異(メディア差異)である。(ここで、関係子、メディオンという用語を借りてもいいだろう。)量子力学では、2つの量子があるが、この±連続差異(±メディア差異、±関係子、±メディオン)が、それに相当するのかもしれない。 
 問題は、このメディア差異の力の関係である。メディア界を、エネルゲイアと見ているが、この2つのメディア差異によって対極・両極性が発生するだろう。これを、陰陽と見ていいだろう。先に、メディア界のゼロ度において、極性が発生すると見たが、しかし、今や、2つのメディア差異があるのだから、2つのメディア差異×ゼロ度極性(+と)=4元性、4極性が発生しているのである。+メディア差異の正負とメディア差異の正負の4つである。 
 とまれ、この±メディア差異が、根源的2元性の起源ではないだろうか。陰陽、雌雄、対極等々である。±メディア差異の根源は、ガウス平面のx軸上の不連続的差異であり、これらは、不連続的調和(discordia concord)、不連続的共立を成している。これが、1/4回転して、この±メディア差異を発生させる。これは、正に、対極性であり、相補性であろう。そして、量子力学の世界であろう。この2種類のメディア差異(連続差異、メディア子、量子、関係子、メディオン)が、対極となり、二重らせんを形成するのではないだろうか。(中国の神話、女媧?)+メディア差異とメディア差異は対称的な二重らせんを描くだろう。そして、これらは、対立しつつ一体である。つまり、ガウス平面・イデア界の+とをもって、対立一体化しているのである。この対極力が、例えば、DNAの二重らせんを構成するのだろう。そして、一本のらせんのひもの連続は、ゼロ度における極性、+とによるものであろう。だから、根源的極性とメディア界的極性を区別する必要があるだろう。とりあえず、前者をイデア極性、後者をメディア極性と呼んでおこう。
 さて、ここで、メディア界の力を考えよう。ゼロ化によって、イデア界の境界の虚力が、実的力となる。(おそらく、有限力である。)これは、メディア差異と力との不可分一体相補性を意味するのではないだろうか。ゼロ化によってメディア差異が発生するが、それは、有限であり、いわば、反作用として、脱連続化エネルギーを同時にもっているのである。つまり、ゼロ化の連続化とは、同時に、脱連続化を意味している。生成消滅である。脱構築である。とまれ、メディア差異(連続差異)は、+と、と+との2つの連続化の力をもつだろう。そして、メディア差異自体が、2種類だから、結局、4つの力が発生するだろう。これで、2種類のメディア差異と4つの力が演繹された。これは、現代物理学のあり方と一致する。しかし、不連続的差異論の場合、4つの力は、イデア界の根源的力、虚力、イデア力、不連続的差異境界力によって包摂されているだろう。後者が上位概念である。高次元である。
 さて、ここで、ダークマターダークエネルギーを考えてみると、メディア差異の4つの力は、メディア差異における極性の力であり、メディア差異自体の、メディア界自体の「力」ではないのである。つまり、4つの力とは、メディア差異の内部の力であり、メディア差異という「存在」を表わしてはいないのである。つまり、メディア差異のエネルギー、メディア界というエネルゲイアを表現してはいないのである。このエネルギー、エネルゲイアこそが、ダークマターダークエネルギーの本体であろう。このエネルギーは、イデア界の力であろう。虚力、元エネルギーであろう。デュナミスである。そう、ダークマターダークエネルギーとはデュナミスであろう。虚エネルギーである。
 さて、ここで、中国哲学を考えると、理気とは、イデア界の不連続的差異であり、虚エネルギーであろう。つまり、理とは、不連続的差異の元調和性であり、気とは、理のもつ元・虚エネルギーである。そして、これが、ゼロ化によって、エネルゲイア、陰陽となるのである。つまり、太極とは、理気であり、そのゼロ化が、陰陽なのである。ここで、理気の気と陰陽の気とが、朱子学においては、混同されているように思える。前者は、正に、「元」気であり、後者は、言わば、分極気である。だから、明快にするために、前者を虚気、後者を分気とでも呼ぶといいだろう。
 さて、以上のように考えると、4つの力は、メディア界の力に見えるだろう。物理学の4つの力は、現象界の力ではないか。4つの力は、以上からは、メディア差異内部における極性化によるのである。差異・ゼロ化がメディア界化とするならば、ゼロ度内部の極性化は、メディア界化自体とは異なるのではないだろうか。つまり、ゼロ度化が、メディア界の基本的な事象である。そして、ゼロ度内部で、極性化が生起するが、この原因は何か。ゼロ度と極性化は異なると言えよう。思うに、極性力とは、現象力なのではないか。これが、メディア差異を現象化させているのではないか。ゼロ度では、多様体、位相体となるが、固定した形を取らないだろう。現象的時空4次元を取るには、ゼロ度以外に力が必要だろう。そう、ゼロ度を極性化する力である。今、思いつきで言えば、それは、根源の境界力ではないのか。分離する力である。ゼロ度に対して、分離する力がはたらくだろう。ゼロであり、同時に、分離である。これが、極性力ではないか。ゼロでありつつ、境界力が作用して、極性分離するのではないか。ならば、4つの力とは、やはり、メディア界の力ではないのか。しかし、この極性力は、現象力ではないか。
 ここで、簡単に結論づけると、メディア界の4つの力と現象界の4つの力があると考えられる。それは当然、対応している。前者とは、いわば、微分であり、後者は積分であろう。
 さて、難問の一つは、時空4次元の問題である。x軸、y軸、z軸を考えると、z軸は、現象軸となるのではないだろうか。x軸が差異軸であり、y軸がゼロ度軸、メディア軸で、z軸が時空連続軸ではないだろうか。では、どうして、現象界は時空4次元となるのかである。先に、私は、高さの次元と時間の次元は重なるのではと言ったが、あらためて考えなくてはならない。問題は、時間である。時間とは何かである。直観で言えば、時間とは、力である。現象生成の力である。内在する力である。メディア界の4つの力、そして、現象界の4つの力を見たが、この4つの力が、時間ではないか。否、直観では、メディア界のエネルギー、エネルゲイアが時間である。しかし、これは、虚時間のようなものであろう。とまれ、これが、現象界の時間になるのではないか。つまり、隠れた次元としての時間である。可視的なのは、三次元空間であるのに対して、時間次元は、不可視である。何故なら、それは、隠れた次元だからでははないか。x,y、zという三次元空間がある。しかし、4つの力の背後に、原基に、メディア界のエネルギー、エネルゲイアがある。これが、現象空間における、いわば生成の次元となるのではないか。つまり、メディア差異・エネルギーである。これが、三次元空間を包摂しているのではないか。光速度一定というのは、この包摂の規定の定数ではないか。つまり、メディア差異、連続差異、差異ゼロ度があるが、このゼロ度が、光速度一定ではないか。何故、光速度が無限ではないかと言えば、それは、メディア界は、有限化の世界だからであろう。有限エネルギーの世界だからだろう。差異ゼロ度という連続エネルギーを規定するものが、光速度一定ではないか。そして、差異ゼロ度のエネルギーの現象界化がE=mccではないか。そして、4つの力とは、このエネルギーに包含されるだろう。メディア差異のエネルギーがダークエネルギーではないだろうか。
 ここで、ロレンスと関係させると、ダークゴッド(暗い神)とは、メディア差異のエネルギー、エネルゲイアでいいのではないだろうか。しかし、コスモスはどうなるのだろうか。ここは微妙なところである。メディア差異のエネルギー自体は、イデア界の虚力から来ている。つまり、デュナミスである。デュナミスが、ゼロ化で、エネルゲイアとなるのである。コスモスと言ったとき、それは、両義的ではないだろうか。それは、気と同様のように思える。コスモスは、イデア界であり、同時に、メディア界となるだろう。不連続的差異の共立・調和としてのコスモスと、生成変化・生成消滅を行なうエネルギーとしてのコスモスである。後で、検討したい。
[ 更新日時:2005/12/04 00:26 ]
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2005/12/03のBlog
ゼロ・ポイント・フィールドとメディア界:永遠のイデア
[ 04:53 ] [ 量子力学 ]
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『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』リン・マクタガート著 インターシフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309906079/250-7564220-6771446

この本は読んではいないが、ゼロ・ポイント・フィールドという考えが出てくる。これは、不連続的差異論においては、メディア界に当たると言えよう。あるいは、イデア・メディア境界である。思うに、D.H.ロレンスドゥルーズは、このような考えに魅かれたであろう。しかし、私は、メディア界の力を問題にしたい。ここで、共鳴が起こると考えよう。ある意味、コスモスとは、ここの考え方である。神秘主義も、ここから発するだろう。とまれ、今は、科学を問題にしたい。
 イデア・メディア境界で、ゼロ化が生起し、それから、メディア界が形成される。これは、ゼロ度の連結体である。ここでは、力は融合して、不可分となっていると考えられる。現象界では、4つの力が分離するが、ここでは、一如である。思うに、これが、無量光ではないだろうか。つまり、メディア力が無量光ではないか。そして、これは、原4つの力である。言わば、第5の力である。超越論的力である。これが、言わば、根源力となって、4つの力として現象化するのであり、4つの力では、根源力は十分把捉できない。先にも触れたが、ダークマターダークエネルギーは、この根源力で説明できるのではないか。しかし、根源力は、超越論的力であるから、現象界的な「物質」的エネルギーでは把捉できない。そう、この根源力、メディア力は、正に、エネルゲイアである。「マグマ」である。(プラトンのコーラは、やはり、ここに位置させるべきなのか。)
 とまれ、4つの力は、この根源力で統一されるだろう。超大統一論とは、これで、完成するはずである。超ひも理論のように、10次元は必要ないのではないだろうか。これは、5次元である。しかし、イデア界を考えるともっと複雑になる。とまれ、おそらく、4つの力は、根源力において不可分となる。未分化的になるだろう。光と重力が一如になる。
 ところで、これは、心身的には何になるのだろうか。おそらく、これが、「気」ではないか。身心体である。根源力=気ではないか。気は陰陽性があるが、根源力は、確かに、プラスとマイナスの極性がある。つまり、ゼロ度であるから、プラスマイナス、ゼロである。このプラスとマイナスが、陰陽となるのではないか。結局、メディア力=根源力=エネルゲイア=気=第5の力となるだろう。そして、この根源力が、現象力へと分化するのである。これは、四元性だろう。四大等々。十字架とは、現象界のシンボルだと思う。そして、メビウスの帯・輪とは、メディア界であろう。無限・∞もそうだろう。そして、量子力学は、メディア界を対象としているだろう。メディア界は二元論だろう。陰陽、プラスマイナス、粒子/波動。粒子・波動の絶対矛盾的自己同一だ。
 では、最大の謎であるイデア界であるが、これをどう見るのか。直観では、密教金剛界の感じである。メディア界が胎蔵界だと思える。デュナミスである。ここは、何か、結晶の世界を想起する。絶対の世界である。ゆらぎゼロである。ゼロ以前の世界である。虚界である。理の世界である。「理気」である。真のイデアの世界である。不連続的差異の調和の世界である。おそらく、華厳経に近いのかもしれない。硬質の世界である。鉱物的な世界である。少し、宮沢賢治的な宇宙である。思うに、差異が境界となり、境界が差異となるような世界ではないか。差異/境界の相補性。この差異/境界の力が、超根源力であろう。絶対力である。垂直・水平の絶対力ではないか。discordia concord. 思うに、ここでは、理が力であり、力が理である。知が力であり、力が知である。理=力、知=力、理気である。理気界ではないか。いわば、超ゼロ度である。超越界である。ガウス平面である。超時空である。虚時空である。超根源界である。数学の世界である。超抽象の世界である。超調和の世界である。コスモスである。
 思うに、メディア界とイデア界は混同されやすいし、これまで、混同されてきた。しかし、イデア界は超エネルギーの世界であり、永遠である。問題は、メディア界は、永遠なのかどうかである。メディア界は、有限ではないか。メディア宇宙があるのだろう。思うに、これが、アイオーンではないか。そして、イデア界がブラフマンである。とまれ、メディア界は、有限だと思う。宇宙は、有限であり、それが、消滅して、新しく宇宙が生まれるだろう。今の宇宙は、例えば、死滅するだろう。そして、新たな宇宙が誕生するのだろう。インドの神話・哲学である。人間は、永遠である。梵我一如である。輪廻転生は問題にならない。それは、小さな、取るに足りない問題だ。永遠界と一如としての人間である。
[ 更新日時:2005/12/03 04:54 ]
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2005/12/02のBlog
文学者や芸術家他にどうして同性愛が多いのか
[ 20:40 ] [ 遺伝子/生物学 ]
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これは、固有名をあげるまでもないことである。古代ギリシアにおいて、美少年を愛することが、愛の至高のあり方であった。ギリシア神話では、ゼウスが、美少年ガニュメデスを愛した。これは、水瓶座の神話ともなっている。ここで、想起するのは、天上のヴィーナスと地上のヴィーナスという図像学(イコノロジー)の考え方である。あるいは、プラトンの有名な白い馬と黒い馬である。確かに、古代ギリシアルネサンスは、天上的なものを志向した。(キリスト教宗教改革と決定的に異なるのは、美への志向性であろう。)これは、不連続的差異論から言えば、イデア界への志向性である。これはこれでいい。 
 通常、この区分は、精神と肉体の二項対立による。精神が肉体よりも優位にあるというものである。(D.H.ロレンスは、これを転倒させたのであるが。)精神的な美と肉体的な美の対立と言ってもいい。しかし、天上のヴィーナスと、地上のヴィーナスとは、相関関係がある。後者は、前者を反映しているのである。つまり、ネオプラトニズムの考えでは、地上と天上とは照応している。思うに、プラトンの考えも、照応説的ではないか。白い馬と黒い馬の区別をプラトンは説いたが、前者と後者は照応しているだろう。地上から天上への志向性がある。この美的志向性が、同性愛になっているのではないだろうか。つまり、古代ギリシアの同性愛とは、本質的には、地上→天上への美的志向性を説いていると言えるのではないだろうか。つまり、同性愛とは、いわば、象徴である。問題は、天上的美への志向性であろう。
 では、天上的美への志向性が、どうして、同性愛を選ぶのか。それは、異性愛が、地上的なもの、世俗的なものに束縛されているからではないだろうか。つまり、異性愛とは、世俗的であり、経済的であり、私有・所有的なものでああるからである。異性愛は、地上の生命に関係する。生殖である。しかし、同性愛は、地上の生命とは関わらないだろう。
 ここで、ニーチェディオニュソスとアポロの二元論を導入するがいいと思われる。これは、本当は、二元論ではなくて、対極論、相補論であろう。ディオニュソスを肉体、アポロを精神としよう。すると、これは、肉体/精神相補性である。アポロとは、「同性愛」的となろう。つまり、ここで、結論を言えば、同性愛とは、やはり、結果であり、本体は、天上的美である。天上的美を同性に見出すと考えられる。生殖を超えた美を同性に見たのが、「同性愛」現象ではないか。D.H.ロレンスは、異性愛をラディカルに説いたが、実際のところ、同性愛がロレンスには色濃くあるのである。これは、ロレンスが、真に天上的美への志向性をもっていたことの証明であろう。異性愛は生産的であり、同性愛は創造的である。現代資本主義は、後者的である。生産から創造へ。
[ 更新日時:2005/12/02 20:40 ]
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物理学と不連続的差異論
[ 00:16 ] [ 自然科学 ]
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物理学と不連続的差異論の関連を整理したい。例えば、電子とは、不連続的差異論においてどういうものになるのか。簡単に言えば、電磁気力とは、現象界のものなのか、それとも、メディア界のものなのかということである。現象界において、電磁気力は観察、観測される。しかし、だからと言って、電磁気力は、現象界のものなのか。電磁気力という実在する力は、現象界のものなのか。明確に言えば、現象界における現象から、電磁気力が想定できるということである。現象という発現の検証から、電磁気力が想定できるということである。一応、現象界における力として考えられているだろう。しかし、だからと言って、電磁気力が、絶対的に、現象界にあるとは言えないだろう。これは、仮説である。現象界に発現したある力を電磁気力としているとも言えるだろう。
 不連続的差異論から見ると、メディア界における力が、電磁気力として発現していると考えることができるだろう。メディア界の力とは、差異・ゼロ化の力である。これをメディア力と、とりあえず、呼ぼう。このメディア力(差異・ゼロ力)が、発現して、電磁気力となると言えるだろう。他の力である弱い力、強い力、重力も、同様に理解できるだろう。つまり、メディア力の現象界的顕現として、いわゆる、4つの力があるということである。だから、「起源」は、差異・ゼロ度の連続力である。これが、4つの力として現象・発現していると言えよう。そして、差異・ゼロ度の連続力、メディア力とは、まだ、4つの力に分離していない状態と言えるのではないだろうか。量子力学は、このメディア力を対象としているのではないか。粒子/波動の相補性とは、このメディア力を意味しているのではないか。
 これまで、イデア界における不連続的差異の垂直・水平力を根源力として見て、それが、1/4回転で、ゼロ化して、4つの力が発生すると考えてきた。しかし、4つの力は現象界における力であるから、これは、短絡的である。1/4回転で発生するのは、メディア力と見なくてはならない。メディア力とは、量子力学が対象とする力であると言えよう。4つの力とは、現象界における仮説であるから、思うに、メディア力を十分に捉えていないと思う。つまり、4つの力では、不足すると思われる。ここで、ダークマターダークエネルギーの問題を考えていいだろう。4つの力は、現象界における発現から仮説されているのであり、メディア力自体を捉えていないと考えられるのである。
では、メディア力をどう捉えるべきか。これまで、イデア界における差異の垂直・水平力という即自・対自力を仮定してきた。そして、これが、1/4回転で、即自性と対自性とに分離すると考えたのである。しかし、この分離は、メディア力=差異・ゼロ度を考えると、決して、絶対的分離ではない。即自性と対自性は、不可分であると見るべきだろう。これが、メディア力であると言えるのではないだろうか。即自対自のメディア力である。ここには、原4つの力が、あるだろう。相補的4つの力と言えるだろう。そして、これが、4つの力に分離するのである。差異・ゼロ度のメディア力が、現象界の4つの力として発現するのである。しかし、メディア力⊃4つの力 である。
 では、光の問題、相対性理論はどうなるだろうか。E=mccとは何か。アインシュタインの公式は、現象界の公式だろう。だから、このエネルギーは現象界のエネルギーである。メディア界の「エネルギー」ではないだろう。
 では、光速度一定とは何を意味するのか。それは、メディア・現象境界における「構造」・形式を意味するのではないだろうか。カントの超越論的形式に当たるのではないだろうか。ならば、光とは、現象界に限定されるものであり、メディア界においては、別物であろう。それは、メディア界的な光である。メディア光と仮に呼ぼう。そして、通常の光を現象光と呼ぼう。
 さて、ここで、宗教の光を考えよう。それは、どうなるのか。これまで、イデア界の「光」と考えてきた。いわば、イデア光である。無量光とは何か。これは、イデア光でいいのか、それとも、メディア光なのか。無量光とは、メディア光ではなくて、メディア力ではないのか。原4つの力ではないのか。そして、原4つの力とは、本来、イデア界の力である。イデア力がメディア力となり、それが、宗教の光となっているのではないか。あるいは、イデア・メディア境界の力を考えてもいいだろう。そうすると、光は、特別の意味合いがあるだろう。現象界では、電磁気力となっているが、実際は、より根源的なものではないか。そう、メディア力が、光速度一定と関係するのではないか。相対性理論とは、メディア力を基盤とした理論ではないか。メディア力は、確かに、一定の力であり、位相的な力であろう。これが、現象化するときに、E=mccとなるのではないか。現象エネルギーとなるのではないか。そう、メディア力の現象化における形式を定数が、光速度なのではないだろうか。E=mccとは、正に、メディア・現象境界の構造力・構造エネルギーを意味するのではないか。ならば、アインシュタイン相対性理論は、メディア・現象境界の理論化であると言えるだろう。そして、量子力学とは、メディア界を対象としていると言えよう。だから、量子力学相対性理論を包括・包摂できるのである。
[ 更新日時:2005/12/02 00:21 ]
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2005/11/28のBlog
1.傲慢さの起源 2.差異の垂直・水平性に関して再考
[ 21:54 ] [ 相対論/量子論 ]
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1.傲慢さの起源:はっきり経験的にわかるのは、傲慢さとは、差異を閉ざしていることから発しているということである。この差異を閉鎖ないし閉塞させることは、どういう構造をもつのだろうか。あるいは、同じことであるが、傲慢さとは、他者を排斥することから発している。差異と他者の閉鎖・排出・隠蔽。これまで、何度も述べたが、これは、差異共存志向性のイデア界を閉ざしていることである。今の考えは、これまで、述べたことの繰りかえしであるが、差異の連続・同一性化が生起し、また、その反転が生起して、差異化が生じる。だから、連続性ないし構造性と不連続性・脱構造性との矛盾が生じるのである。そして、このバランスを取るのが、人倫ということである。しかし、この矛盾を否定する連続・同一性・構造性が近代的自我にある。これは、近代的自我的合理主義で、すべてを解明しようとするので、矛盾を否定するのである。コギトが、近代的主客二元論的自我となるのである。思うに、ここには、不誠実さがある。虚偽がある。自身の矛盾を矛盾として認めずに、近代的自我によって、それを排出・隠蔽して、自己正当化するのであるから。そう、近代的自我は、不正となる。

2.差異の垂直・水平性について:

問題は、立体性にあるのではないか。イデア界は平面であり、そこに、垂直・水平性がある。そして、その平面に直交するように力がはたらく。z軸である。これが、人間で言えば、自我の起源であろう。スピノザのコナトゥス(自己保存欲)とは、このz軸的力によるのではないか。しかし、これは、イデア界平面性をもっているだろう。つまり、このz軸的力は、イデア界の虚力を内在しているだろう。z軸的力とはメディア界の力=エネルギーである。そう、z軸的力をコギトの力と言えるだろう。これは、現象界とイデア界の媒介となっているだろう。このコギトには、差異の垂直・水平性というイデア界の虚力が内在しているのである。だから、現象界的コギトは、内在的にイデア界的コギト(特異性、不連続的差異)へと展開する志向性をもつと言えようが、実際は、1.で述べたように、内在的矛盾を排出・隠蔽して閉ざして、傲慢となる傾向があるのである。
 とまれ、これで、メディア界的垂直性(屹立性、z軸的力)とイデア界的垂直・水平性を区別できたのではないか。
 また、思うに、メディア界的垂直性とは、内的時間、内在的時間ではないか。この時間が力ではないだろうか。思うに、これはまったく思いつきだが、メディア界的垂直性は内的時間であり、また高さの次元ではないか。つまり、この垂直性、z軸は、時間と高さ、つまり、二つの次元を兼ねているのではないか。イデア界平面が、x軸とy軸で構成され、それに垂直にz軸が発出する。作業仮説として、これを、内的時間とし、かつ第三次元とする。そして、例えば、これを重力方向と考えよう。鉛直線である。この重力方向において、時間が進行するのではないか。そう考えると、三次元空間が、時間的に進行するのではないだろうか。
 また、メディア界的垂直力とはゼロ度の力である。だから、思うに、重力と光は同時発生である。そして、また、差異連続化の力として、強い力と弱い力が発生するだろう。強い力は、差異の水平力であり、弱い力は、差異の垂直力から派生するのではないか。問題は、重力と光の関係である。これは、先に触れたことだが、イデア界の不連続的差異の即自的力=対自的力であり、これが、境界の力、虚力を生んでいる。そして、これが、1/4回転によって、境界がゼロ化される。この時に、即自的力と対自的力が分裂して、即自的力が、弱い力と強い力に、対自的力として、重力と電磁気力が発生するのではないか。これは、作業仮説である。即自的力は、連続力そのものである。そして、対自的力は、放出されるエネルギーである。重力と電磁気力が放出されるのである。ここで、即自的力から類比的に言えば、不連続的差異の垂直性の対自的力は、重力であり、不連続的差異の水平的力は、電磁気力となるのではないか。また、両者は、対極的相補性を形成しているのではないだろうか。また、即自的力と対自的力とは、量子論の粒子/波動の相補性に通じるのではないだろうか。
 問題は、重力エネルギーと電磁気力エネルギーの関係ではないか。思うに、重力とは垂直に電磁気力が働くのではないか。そう、電磁気力を水平面として、それへの直交軸として、重力を考えよう。これは、正に、植物の生長を示唆しないだろうか。あるいは、造山運動を。(参照:フレミングの法則)もし、そうなら、エネルギーの立体力学となるだろう。
 ところで、光を発する太陽や恒星とは、イデア・メディア境界の差異の事象だろう。また、ここは、宗教的事象と一致するだろう。光と神仏の関係。
[ 更新日時:2005/11/28 21:54 ]
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インターネット・メディアの生活と瞑想
[ 15:46 ] [ メディア論/メディオロジー ]
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今は簡単に触れるが、新聞購読も止め、テレビを見ることも止め、今は、インターネットで、情報を得ることが中心になってきた。そう、インターネット・コミュニティができつつあると感じる。直接会ってはいないが、ネット通信で、それなりに、相手の存在を感じているようになっている。これは、新しい対人関係、社会関係であろう。ガタリなら、機械状アジャンスマンと呼んだものになるだろう。不連続的差異論ならば、不連続な差異の共立コミュニケーションである。これは、新しい社会共有体であろう。ネット・コモンズであろう。
 ところで、このネット・コモンズは、何か、私感では、瞑想生活に近いのである。テレビや新聞の「雑音」がなくていいのである。静謐である。
http://freett.com/commons/about.html
http://www.alles.or.jp/~spiegel/docs/cc-about.html
http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000050150,20059809,00.htm
http://research.mki.co.jp/eco/proposal/commons.htm
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=912
http://pcweb.mycom.co.jp/articles/2004/01/27/isic/
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0748-X.htm
http://joi.ito.com/jp/archives/cat/104.html
http://www.mitsue.co.jp/case/design/b_025.html
http://yanbaru.dyndns.org/creativecommons/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0719.html
http://commonsphere.jp/column/myasuda/
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0411/24/news110.html
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/02080000.html
http://hiki.cre.jp/copyright/?CreativeCommons
http://wiki.fdiary.net/NetSociety/?Commons
http://www.creativecommons.jp/



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発起人は、ローレンス・レッシグ を始め、知的所有権問題、インターネット法などの専門家を多く含む。

ライセンス(Licence)は文書、動画、音楽、写真など多様な作品を前提としている。但しソフトウェアについては既にGPL などが存在することから特に対象としていない、としている。

ネットワーク上でのリソースの流通に寄与する活動が認められ、2004年アルス・エレクトロニカ 賞を受賞した。
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