日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに

日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに部族主義から脱却するか


脱亜入欧で、様々な欧米の思想を取り入れてきた日本ではあるが、一つ取り入れていないものがある。それは、個の思想である。近代主義を取り入れたが、デカルトの個の思想は取り入れていない。欧米の強さは、エゴイズムと同時に、この個の思想にあると私は考えている。後者が、前者の行き過ぎに対して、批判的機能を果たすのである。

 しかし、日本の場合、部族主義があるために、個の思想が排除されるのである。部族主義は、二元論であり、部族への同一性か、部族による他者差別である。もっとも、日本のよさは、この部族主義をもたない、ほのぼのとして「庶民」の個が生きていることだろう。これは、日本多神教の末裔であろう。この点については、後で述べるとして、今や日本の未来にとっての害悪となっている部族主義を批判的検討しないといけない。

 日本の部族主義とは、一言で言えば、父権主義的部族主義である。これと西欧の近代主義が重なっているのである。つまり、近代主義的父権的部族主義、これが、日本社会の諸権力を構成しているのである。問題は、上述したように、ここでは、欧米文化の根底にある個の思想が欠落していることである。これが、いわば、日本の「権力」の致命的欠陥である。そのために、事象を分析的に知解できないし、また、個の思想のもつ内省・省察・自己考察性が欠落するのである。これは、はっきり言えば、愚である。盲点である。ここで、想像をたくましくすれば、日本が、太平洋戦争という大愚行を犯した精神的要因はここにあると思うし、バブルを生み出したのもこれであろうし、また、今問題の耐震強度偽装の問題にも、これがあると思われるのである。

 この近代的父権的部族思考から脱却しないと、日本は没落・滅亡するだろう。ここで、この思考の欠点を詳述しよう。実は、近代主義批判で、ほぼ済んでいるのであるが、ここで、確認しよう。

 近代主義思考とは、叡知の裏返しのような知である。ここでは、知覚は主に外界に向けられているのであり、自己内界は排斥されるのである。外界知覚が、意識の基盤となるのである。また、言語もそれへ向けられる。問題は、この主客二元論は、主観性に対して盲目で、客観性志向である点である。そして、主観性とは、自然的態度では、否定的なものである。つまり、受動的な感情・欲望によって作動しているのであり、簡単に言えば、反感によって作動しているのである。スピノザの『エチカ』から言えば、「悲しみ」の感情から発してるのである。この反感は、反動となるのであり、これによって、近代主義が形成されるのである。反感・反動的主客二元論である。D.H.ロレンスは、知性の基底には、憎悪があると言ったのは、この意味である。もっとも、知性は近代的知性である。

 結局、近代主義は、主観の反感・反動性に盲目であるのである。自己暴力性に盲目であるのである。他者に対して、攻撃的になるのである。そして、この自己盲目性が、いわば、狂気である。無知である。無明である。近代主義は、このように極めて欠陥のある思考である。

 ということで、この近代主義と父権的部族主義が結びついているのが、日本の権力・支配層である。 極めて危険であることがおわかりになるであろう。ここでは、父権的部族に属さないものを差別し、暴力的に排除する体制があるのである。これは、また、天皇制をイデオロギーとして、日本国家ナショナリズムを形成しているのである。(そして、これが、靖国神社と関係するのである。)

 この近代的父権部族主義は、欧米の個の思想を欠いている、一種全体主義である。これが、日本国民に、とりわけ、子供に破壊的な影響を与えるのである。学校問題、ニート・引きこもり・精神問題、幼児殺害等々の、社会問題の元凶はここにあると見ていいだろう。この日本の権力・支配の近代父権部族主義から脱しない限り、日本は、沈没するだろう。結局、日本の個の思想を肯定していかなくてはならないのである。

 日本の個の思想は、実は、日本多神教に本来潜んでいると思われるのである。森羅万象を肯定する日本多神教は、個的であり、同時に、多元的であると考えられるのである。つまり、日本的個の思想は、他者との共存・共生性を本来もっているのである。これは、日本文化・社会の本当の美点であると思われるのである。おそらく、イギリスにおけるケルト文化、北アメリカにおけるインディアン・「ネイティブ・アメリカン」の文化、イタリアにおけるエトルリア文化、ラテンアメリカにおけるインディオの文化、等に相当するものではないだろうか。日本の先住民文化が、日本多神教・庶民文化の基底・原基ではないのか。「縄文」(東アジア照葉樹林帯)・アイヌ・沖縄等々の文化につながる日本の根源・基層的文化が、無意識裡に、庶民層に、底流しているのではないのか。日本多神教文化が、近代父権部族主義の日本権力とは、異質なものとして存していると見なくてはならないだろう。(『古事記」の大国主は、日本的個の思想を体現している人物のように思える。)

 結局、これからの日本の針路とリンクして、日本人の個の思想を展開するには、この根源的な日本多神教(おそらく、東アジア、アジア、ユーラシア、アフリカ、オセアニア南北アメリカ、そして、地球多神教に通ずるだろう)を復活させなくてならないと考えられる。この日本多神教は、日本の大地・風土に根差したものであり、同時に、普遍的なものと考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、特異性としての日本多神教である。そして、これが、普遍・叡知界であるイデア界に通じているのである。

Let Japanese polytheism resurrect! 

Let new Japanese polytheism be your singular thought!

Let Japanese fundamental culture awaken in your minds!

Awake, awake, Japan!

Tremendous danger threatens us.

The sun is fresh and new everyday.

Wake up to the dawn of New Japan!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・父権的部族主義の脱構築多神教ヤポネシア:不連続的差異的投資主義へ


「島尾さんは、日本社会の「固い画一性」は、近世の徳川時代の体制やその時代の武士道や儒教的倫理とのつながりが強いと考える。この肩肘を張った「固さ」は、さまざまな文化を受容してきた中国大陸に対するコンプレックスを裏返しにした虚勢のようなものと結びついている。他方、琉球弧は、長く琉球王朝支配下にあり、中国の影響も受けているが、南の島々から入ってきた南方的な要素が強く、それが「本土(ヤマト)」の人たちのこわばった「固さ」のない「やわらかさ」を感じさせるのではないか。」
NA NA
ヤポネシア論」を甦らせよう(編集委員レビュー・3月第1週) 
http://www.janjan.jp/editor/0503/0503074347/1.php
__________________________________

直観から、父権的部族主義を考えると、この思考には、想像力が欠落している。即ち、不連続的差異論のメディア界に相当する「こころ」である想像力が欠落している。また、「生」の「身体性」を排出・隠蔽する。この点がいちばんの問題点だと思われる。個の特異性を排除して、アイデンティティを形成するのである。個の特異性に正対できない何かがあるように思える。今、思ったのは、父権的部族主義の虚勢とは、現実と観念との乖離に対する観念的代償行為ということである。現実は惨めであるという事実を認めずに、観念表象において、それを否定して、自分は優れているという幻想を抱き、自己満足するのである。魯迅の阿Q的である。
 推測するに、これは、下級武士的な発想ではないだろうか。商人が実権をもっていた江戸時代において、困窮した彼らは、自己優越の幻想を形成していただろう(武士は食わねど高楊枝)。これが、私の言う父権的部族主義の精神構造ではないだろうか。おそらく、そうであろう。このタイプが、日本近代、そして、今日を通して、権力・支配層を構成しているのである。官僚のタイプと言ってもいいし、マスコミのタイプと言ってもいいだろう。自己の個、特異性を排除・隠蔽して、自己欺瞞・自己瞞着的に、尊大・傲慢・慢心的に、自己優越・独善化するのである。一種狂信性である。パラノイア的、マインドコントロール的とも言えるだろう。この観念優越幻想が、結局、父権的部族主義の実体であると言っていいだろう。つまり、日本の権力・支配層は、自己優越の幻想・妄想のタイプで占められているのである。似非指導者である。
 このタイプがアメリカを崇拝するのである。独善者であるから、失敗しても、責任は、当然とらないのである。今日の日本社会の荒廃は、ここに起因すると考えられる。国民は、権力者の言動に騙されるだけである。
 結局、個・特異性を取り戻すことが、脱出の方法となるだろう。理論的には、ポスト近代、ポストモダンということになる。父権的部族主義の構造は近代主義の構造と重なるので、ポストモダン的脱構造化によって、父権的部族主義は脱構築されることになる。それは、日本的個・特異性の構築であり、日本においては、「多神教」性の回帰となるだろう。「ヤポネシア」的コスモスの回帰となるだろう。らせん的回帰であるが、それは、不連続的差異的多元的共立・共生主義となる。
 では、この日本的個・特異性=「多神教」的共立共生主義は、経済的には、どういうことになるのだろうか。今、簡単に言えば、能動資本主義的民主多元主義となるのではないだろうか。不連続的差異的資本共創主義である。不連続的差異的投資主義である。ミクロ投資主義である。後で、この意味を考察したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創造・能動主体的資本主義あるいは不連続差異的資本主義
テーマ:不連続的差異論と未来・創造・平和共立
個的多元主義的資本主義を考える。これは、哲学的には、どういうことを意味しているのだろうか。近代においては、資本家と労働者という二元論で考えられていた。二項対立である。しかし、ポストモダンの現在、この図式はもう崩壊している。不連続的差異論的に言えば、主客二元論・現象界的資本主義から、主客相補性・メディア界的資本主義(情報資本主義)に変容しているのであるし、さらに言えば、個・特異性的資本主義、即ち、イデア界的資本主義になりつつあるだろう。
 二元論が崩壊して、現在、結局、脱構造化された差異論、とりわけ、不連続的差異論というポストモダンの世界となっているのである。だから、個人も、意識をポストモダン化する必要があるのである。いまだに、近代主義の意識では、時代の動きに対応できない。資本主義と民主主義、資本家と労働者等々の主客二元論では対応できない。つまり、これまでのように主観性を否定・受動的にしておくのではなくて、主観性を肯定・能動化することが求められているのである。この創造的能動的主体が、私の考える個・特異性につながるのである。そして、この主体が資本主義に参与することになるのである。それは、資本主義内部での「仕事」であると同時に、不連続的差異的投資という形も取るだろう。つまり、創造的能動的主体的資本主義ということである。これが、共生共創的資本主義ということになるだろう。だから、ポストモダンの時代においては、創造的能動的主体性を構築しないと、取り残されるだろう。落ちこぼれるだろう。敗者となるだろう。ここでは、ポストモダン教育が必要である。主体・主観性の変容が必要なのである。結局、ポストモダン意識革命である。これが、ポストモダン資本主義を形成するのである。
 この点、日本の教育は、いまだに、近代主義的教育であり、致命的である。世界から取り残される。敗残者の日本となるだろう。

Awake, awake, Japan!
Arise, arise, new Japan!
Great darkness bears down on you.
There are darkness of mind and of institution.
You have to change your negative passive mind into positive creative one in order to make postmodern Japan.
Modernized Japan is too incompetent to cope with the comtemporary world.
Wake up and arise for the dawn of new "polytheistic" Japonesia of postmodern capitalism!
You are too lazy and dreaming.
You have to be rather a postmodern Asian wolf than a modern stupid sheep!
Life is Struggle!

▼ 急速に広がる格差社会の現実 ▼

 UFJ総研の試算によると、正社員の平均年収387万円に対してフリーターは4
分の1の106万円。生涯賃金では正社員の2億1500万円に対してフリーターは
5200万円とダンゼンの開きがある。この差は今年以降、さらに拡大することは間
違いない。政治評論家の本澤二郎氏が言う。
「日本社会でこれほど格差が開いた時代はありません。正社員になれない月収10万
円ちょっとの人は、結婚はおろか、国民年金、健康保険料すら払えない。これでは国
の根幹が崩れてしまいます。ところが竹中・小泉路線はそんな競争社会を奨励してい
るのですから、格差は広がるばかりです」
 公立の小中学校に通う児童・生徒のうち、文房具代や給食代が払えずに自治体から
援助を受ける子どもが、この4年間に4割も増えているという。東京・大阪では4人
に1人の親が子どもに給食代や修学旅行の積立金を持たせられないのである。小泉政
治が生んだ、この悲惨な現実は今年、さらに拡大する。

dailymail日刊ゲンダイから
[NGD:060105]大乱加速のドッグイヤー