検討問題:超越論的自然主義と多神教と不連続的差異論の関係

後で、検討したいが、今、予見を言うと、結局、「身体性」、つまり、身心性の問題になるのではないかと思う。デカルトのコギトは、確かに、特異性の指摘であったが、それを、近代的合理主義に向けた。デカルトを受けて、スピノザライプニッツが、独自に展開した。後者は、微分積分の方向であった。前者は、コギトを発展・進展させたと思われる。一言で言えば、能動・創造的コギトにしたことである。これは、メディア界的コギトだと思う。これによって、コギトは、真に、イデア界に通じることができるようになったのではないだろうか。デカルトのコギトは、偉大な端緒であったが、それで、とどまっているのではないだろうか。確かに、イデア界の不連続性を取りだしたのは言えるが、それからの発展の糸口がないように思える。
 それに対して、スピノザは、コギトにメディア界を付与して、実践的な方法論を与えたと思えるのである。つまり、想像力である。その後、カントが、想像力即ち構想力を総合力として、提起するが、それ以前にスピノザが提起していたのではないだろうか。もっとも、スピノザの想像力とは、想像力的理性・知性である。これを、スピノザは能動的観念と呼んでいるが、これが、本件の鍵概念となるだろう。これが、超越論的身体性であり、超越論的自然である。あるいは、超越論的経験と言えよう。これは、フッサールの超越論的現象学の先駆であろう。
 私が、日本の個の復活として、新多神教と言うとき、それは、これに相当するだろう。超越論的身体・自然・経験としての新多神教である。これは、もはや、信仰にはならないだろう。なぜならば、個的観念がそこにはあるからである。知的多神教と言えるかもしれない。これは、結局、自然的多元主義ということになるだろう。これが、新しい、日本のアイデンティティとなるのではないだろうか。