新多神教とは、超越論的多元主義、即ち、イデア的多元論、理念的多元

まだ、うまく、超越論的自然主義の「意識」について、明快に表現していない。これは、身心的意識(身心的情覚)であると同時に、それを超越論化した知であるということである。
 思うに、スピノザの心身平行状態に近い。身体性であり、同時に、知性である。どちらにも、主体性があるだろう。これは、心身・身心相補性とも言えるだろう。不連続的差異論から言うと、メディア界的「知」性である。これを、メディア界的身体性、身心性、メディア知性、メディア精神、メディア意識、メディア観念、メディア・インテリジェンス等とも呼べるだろう。
 とまれ、新多神教知性とは、超越論的多元主義であり、メディア的多元論とも言えるだろう。

p.s. 心身平行的と言ったが、そうではなくて、身体性を包摂した知性・観念である。知性の方が、上位にあるのである。ここで、階層性があると見てもいいのかもしれない。身体性を内包した知性であるのだから。だから、メディア的多元理性、メディア的多元知性と言っていいのだろう。

p.p.s. 身体性を包摂した知性を的確に表現する言葉が必要だろう。おそらく、それが、イデア性なのだ。だから、イデア的知性(イデア知性)ないしイデア的理性(イデア理性)と言ってもいいのだろう。
 すると、新多神教とは、イデア理性的多元論、イデア的多元論となるだろう。理念的多元論である。これは、メディア的知性ではないだろう。メディア的知性とは、心身性であろう。

3p.s. イデア性、理念性という用語を、知性や理性と区別して用いた方がいいのではないか。知性と理性は、ほとんど、差異のない用語になってしまっている。理論と理念は異なる。カントは、理念まで、高めることができなかった。実践理性を創らなくてはならなかった。しかし、理念性を設ければ、実践理性は必要ないのである。プラトンイデアは、確かに、理念性のことである。プラトンイデアを単に、観念、形式、原型と見るのは皮相である。それは、思惟と延長を統一している高次概念である。スピノザの神は、理念であると思う。スピノザはほぼプラトンに達していた。しかし、まだ、一神教性を帯びているのが、欠点であろう。一元的理念ではなくて、多元的理念なのである。一者ではなくて、多者なのである。