「物質」や「心」とは、イデア界から見たらどういうものであろうか

後で、再検討するが、現象界において、「物質」と「心」の二元論が考えられる。しかし、メディア界では、両者の相補性が考えられる。これは、差異・ゼロ度を意味する。では、「物質」となるのは、何であり、「心」となるのは何か。イデア界では、差異1/差異2/・・・/差異nであり、差異と差異の間には境界があり、多元性が、いわば、即非状態で、「結晶」している。「鉱物」状態である。
 量子力学的には、差異が粒子であり、ゼロ度が波動であると考えられる。そして、粒子が「物質」となり、波動が「心」となるだろう。だから、「物質」と「心」は相補性の関係である。また、問題は、力である。境界がゼロ度となったときに、エネルギーが発生し、そこに力が生まれる。差異・ゼロ度全体がエネルギーである。E=mc^2である。mは質量であるが、これは、差異であり、c^2は、ゼロ度の「力」ではないだろうか。あるいは、「強度」ではないか。結局、このメディア界=エネルギーが、現象化して、「物質」と「心」を発動させると言えよう。
 ここでは、作業仮説として、mが「物質」に、c^2が「心」になるとしよう。「身体」と「精神」としてもいいだろう。つまり、心身とは、メディア界=エネルギーの発現であり、本来、不可分である。つまり、エネルギーがある側面では、「身体」ないし「物質」となり、ある側面では「心」ないし「精神」となるのではないのか。そして、現象界においては、これが、相対的に分離すると言えるのではないか。つまり、簡単に言えば、光を介して、「物質」と「物質」が連続化するのである。この光が時空間を構成するだろう。この光の時空間性が、「物質」と「心」を相対的に分離しているのではないだろうか。そう、正に、あらわれとしての「物質」と「心」であろう。結局、メディア界の差異・ゼロ度=エネルギーが直接の本体となる。しかし、イデア界においては、本来、差異と境界とが即非で「結晶」化していることを考えると、メディア界=エネルギーとは、差異・境界という不可分一体のイデア・理念の展開であると考えられるだろう。差異∞ 境界というイデア・理念が、原エネルギーであり、原「物質」・「心」であろう。つまり、ここでは、「物質」と「心」が高次に包摂されているということだろう。つまり、差異=境界であり、「物質」=「心」であろう。というか、超「物質」=超「心」としてのイデア・理念があると言えるのではないか。これは、境界化された差異、境界的差異ということであり、ここでは、無限速度で、差異=「物質」が存在しているのではないだろうか。無限速度の境界で差異が共立しているのではないか。この無限速度の境界の差異が、イデア・理念ということではないか。思うに、無限速度化された差異=「物質」が、イデア・理念ではないか。これが、プラトンの言う善の太陽、仏教の阿弥陀如来=無量光ではないのか。否、そうではなくて、差異=「物質」の無限速度化がイデア・理念であろう。
 ここで、整理しよう。メディア界において、差異・ゼロ度はゆらいでいる。粒子であったり、波動であったりする。これは、「物質」であったり、「心」であったりするということである。一種「分裂症」である。しかし、イデア界においては、このようなゆらぎ、相補性はなくなると考えられる。これは、イデア界の境界によって、差異が共立しているということだろう。境界的差異がイデア・理念ではないか。無限速度の差異がイデア・理念ではないか。差異はここでは、「物質」ととるのはミスリーディングではないだろうか。差異は原物質ないし超物質と取るべきだろう。アリストテレスの質料が、これに当たるのかもしれない。とまれ、無限速度の差異が理念・イデアとしてあり、これらが、イデア界全体の「太陽」を形成しているのではないだろうか。無限速度は超光である。ここは、超時空間である。超エネルギーであろう。原太陽・超太陽であろう。これが、大宇宙を形成するのだろう。原太陽・超太陽のメディア・現象的螺旋的展開が大宇宙であろう。イデア界の現象が大宇宙であり、銀河もアンドロメダ星雲も最遠の星雲もイデア界の原太陽の展開であろう。だから、思うに、一つの原太陽があると言っていいのではないだろうか。もっとも、これが、無数の不連続的差異の共立によるのである。
 今のところは、無限速度の差異が理念・イデアであるということで留めよう。当然、後で、再考したい。