検討問題と、母音と子音とは、言葉にとって、何なのか:母音と子音の

検討問題:06/01/08


1) 共観福音書ヨハネ福音書:前者が、改竄されたものであり、後者が、プラトングノーシス主義の叡知者イエスを伝えているだろう。初めにロゴスありき。ロゴス=イデア=ソフィア(叡知)である。

2) 田舎で、東の空にかかるオリオン座やその周辺の星を観る。なにか、宇宙は渦巻いているように思えた。cf. ゴッホの糸杉の絵。星月夜等。

3) 大宇宙はフラクタルの形態をしているのではないか。イデア界は、ケルト十字のようではないだろうか。ガウス平面上の回転・円運動。そして、メディア界で、渦巻が発生する。いわば、入れ子状に渦巻が発生するのではないか。イデア・メディア境界で、「渦巻」が発生する。これが大宇宙の「渦巻」で、これが、入れ子状に展開されるのではないか。大宇宙「渦巻」、星雲、銀河、太陽系、台風、渦潮(cf.アメノウズメノミコ)、つむじ、指紋等。

4) なぜ、創造神話において、何故、水と空気(霊)の結合が説かれるのか。cf.対極性。

5) 近代主義(近代的自我主義、近代的合理主義、唯物論)とは悪、大悪であった。これが、現代の日本の病巣である。父権部族主義的近代主義である。これが、日本の体制となり、日本人本来の多元論的美質を破壊しているのである。日本人の個を集団主義に洗脳しているのである。

6) ウェブログは、日本人の否定された「多神教」性を復活させるだろう。これは、日本の復活である。

7) 近代的学問体系の完全な崩壊が起きている。ポスト・モダンの創造的学問体系がうまれつつあるだろう。

8) 今や、世界は、ポスト西洋文明、ポスト一神教に転換しているのに対して、日本は、旧態依然として、西洋文明、一神教、国家ナショナリズムで動いている。致命的な認知ミスである。

9) 近代主義は、主客二元論の知識主義であり、これは、自己中心主義である。日本の知識人は、典型的である。

10) 近代的知識主義に取って代わる、ポスト・モダンの超越論的認識主義が必須である。これまでの近代的学問はすべて崩壊する。近代的学問・知識人の廃棄物が生じる。

11) 結局、ポスト・モダン、ポスト近代とは、単に、近代の後の時代という意味ではなくて、近代の超克・止揚揚棄である。これは、西洋文明の終焉ということである。

12) 西洋近代主義によって否定された、世界の先住民文化が復活するだろうし、そこに多元主義の発芽があるだろう。

13) ポスト西洋文明の人文系的先駆として、ブレイク、シュティルナーキルケゴールドストエフスキーがあげられ、決定的契機として、ニーチェD.H.ロレンスがあげられるだろう。フランス現代思想は、この系譜を、混沌としながら、継続したものと考えることができる。

14) 資本主義は、連続主義から、不連続的差異主義へと転換する。

15) 日本の復活は、個々が、自律することから生まれるだろう。ブログは、個のメディアである。

16) 結局、人類の復活は、個々の覚醒に拠るのである。イエスが本来説いたものは、個の覚醒であり、ブッダ・釈迦の叡知・覚智と等価である。万教帰一。

17) イスラム教とは何か。スピノザ哲学に似ていると言われる(今村仁司氏)。イスラム教は、後一歩で、多元主義になるだろう。不連続的差異論の先駆の一つにイスラム教をあげてもいいのではないか。

18) 教会というものは破壊されなくてはならないだろう。これは、集団的洗脳機構である。個々の教会関係者を否定するのではなくて、教会という機構の否定である。生臭坊主より、はるかに誠実な牧師さんはいるのである。

19) 太陽の意味、月の意味、宇宙の意味を考え直すこと。太陽や惑星は、思うに、イデア界の象徴であるように思える。つまり、ガウス平面=イデア界の1/4回転が、太陽や惑星の根源であるように思える。つまり、差異のゼロ化(空化)によって、差異が凝縮して、エネルギーが発生するように思えるのである。この差異の凝縮の核心が太陽・恒星ではないだろうか。つまり、(0,0,0)が、太陽・恒星の原点ではないか。惑星や衛星は、太陽・恒星の痕跡ではないのか。つまり、太陽・恒星とは、差異の1/4回転による原点化であるが、惑星や衛星は、原点化以前の差異に関係しているのではないか。換言すると、多元的不連続的差異の凝縮化が、太陽・恒星であるのに対して、諸惑星・衛星とは、根源的不連続的差異の5次元性のメディア界化ではないか。この5次元性が、プラトン立体と関係し、また、ケプラーの惑星論に通じるのではないだろうか。マイナス軸を考えると、10次元と1次元の11次元である。(思うに、+5次元と−5次元の両極化の1次元で、11次元となる。しかし、この総体次元があるように考えられるので、結局、12次元となるのではないだろうか。12という数は重要である。時間の数である。)思うに、このイデア界の次元数が、惑星や衛星と関係するのではないのか。イデア界の次元数が惑星・衛星を発生させるのではないか。結局、そうすると、太陽・恒星と惑星・衛星は、等価となるだろう。差異の連続・原点化が太陽・恒星であり、差異の次元数の連続化が、惑星・衛星ということになるのではないか。
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母音と子音とは、言葉にとって、何なのか:母音と子音の差異


専門領域に音声学があるが、それは、私見では、音声同一性ないし音声連続・同一性の構造によって、音声を体系化している。しかしながら、それは、種々の言語音声の差異を排出・隠蔽しているのではないだろうか。つまり、音声差異が現実として存在しているが、それを、音声同一性、音声連続・同一性によって構造化して、排出・隠蔽していると思われるのである。
 では、具体的に検討していこう。例えば、英語という言葉の音声は、子音と強弱のアクセントによって意味のフレームが形成されていると考えられる。簡単に言えば、子音と強いアクセントの音節の結合によって、意味形式、意味構造が構成されているということである。結局、子音・強音節、強子音・音節が、英語の音声の基礎構成要素(ユニット)と言えるだろう。つまり、これが、英語の音声言語としての音声の差異である。
 ここで、日本語の音声を考えてみると、それは、母音を基礎とした拍子と高低(ピッチ)、即ち、高低・母音拍子が基礎構成要素(ユニット)である。これが、日本語の音声言語としての音声の差異である。結局、

英語音声言語差異:強子音・音節構成要素
日本語音声言語差異:高低・母音拍子構成要素

ということになる。いわば、正反対の差異がある。では、両者の差異の質性を、不連続的差異論の視点から考察してみよう。言語、発話行為を、ある差異的主体から他の差異的主体への観念的志向性と考えることができる。この志向性を、不連続的差異(以下、差異)の志向性と見ることができるだろう。そして、差異とは、垂直/水平相補性力学をもっていると考えられる。これを音声構造に変換すると、垂直性(垂直極)が強弱アクセントと子音形式性との構造性に、水平性(水平極)が高低拍子と母音形式性との構造性になるだろう。(簡単に言えば、リズムとメロディーの対極相補構造性である。つまり、英語とはリズム言語であり、日本語はメロディー言語である。)
 この両極性であるが、主観性においては、垂直性は、能動・攻撃・自我性に通じ、水平性は、受動・共感・集合性に通じだろう。そして、この両極的主観性は、メディア界では相補的であるが、現象界では、二元論的に分離し、二項対立を形成する。垂直的言語と水平的言語である。単純化すると、リズム言語とメロディー言語である。「戦争」言語と「平和」言語である。ただし、これは、極論である。本来は、各言語において、両極・対極が存在しているのであり、その様態に多様性があるのであるが。
 さて、このように、音声言語の構造を見ると、音声構造が、主観性を形成するのが理解される。そして、音声構造は、以上のように差異があるから、垂直主義的言語は、水平主義性を排出・隠蔽するし、水平主義的言語は、垂直主義性を排出・隠蔽すると言えるだろう。つまり、ここで、それぞれの様態において、構造的盲点・闇黒が発生するのである。ここでは、言語は、二極化して、偏向したものになるのである。そして、主観性も偏向するのである。即ち、英語的主観性は、垂直主義的で、水平主義を理解できないし、日本語的主観性は、水平主義的で、垂直主義を理解できない。(ここでは、単純化して、考察していることを強調したい。)簡単に言えば、子音アクセント主観性(能動性)と母音拍子主観性(受動性)は、互いに排除的になる傾向があるということである。これが、音声の差異である。
 結局、ポスト音声学、ポスト音声構造主義という視点が必要となる。不連続的差異論的音声学、脱構造主義的音声学、即ち、不連続的差異的対極相補音声学ということになるだろう。この視点から、日本人にとって、英語音声言語を受容する視点・意識が生まれるだろうし、それは、日本語にとっても創造的であろう。また、英語音声言語も、完成品ではなくて、偏差があり、相対的であることが理解されるのであり、多元的な英語音声言語が創造されると見ることができるのである。生成過程の英語であり、日本語である。これは、他の言語においても同様である。