日本の「原風景」の危機とは何か:補足:日本の叡知とは、神道・仏教

日本の「原風景」の危機とは何か:補足:日本の叡知とは、神道・仏教が媒介していたのだ!


toxandria氏が、グローバリゼーションと日本の原風景に関して、考察されていることに、刺激を受けて、私なりに、少し愚考したい。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060107/p1
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060108/p1
 私の実家は、農村地帯にあり、区画整理事業にともない、曲がった野の道が、直線の舗装道路に改造された。車にとっては、便利になった。しかし、当然ながら、興趣がなくなった。子供の頃の思い出の風景が、無惨にも、奪われた。私が好きな奈良の山の辺の道には、昔の風景が残っているが、極めて稀少になったと思う。toxandria氏が書かれているように、欧州では、自然は大事にされていると思う。イギリスは、田舎に行くと、豊かな牧場や森林が守られている。イタリアでも、トスカーナの自然は豊かである(果物が美味である)。
 日本人は、本来、自然に神を感じてきた民族であるが、今日では、文明・都市化されたのである。一言で、言えば、近代化が元凶である。とりわけ、戦後である。アメリカ文明が日本にやってきて、皮相に模倣した。つまり、アメリカの一種植民地になったのである。(そう、ポストコロニアリズム、ポスト植民地主義の問題は、日本にとって、重大である。)戦後、アメリカの植民地となったことが、日本の原風景、里山の破壊をもたらしているのだと思う。しかし、アメリカ文明の基本である個の思想は、取り入れなかった。というか、隷属し、卑屈となったのだから、そのような個を基盤とする闘争・力の意志はないのである。政治・経済的にアメリカに屈したのであり、その帰結が、現内閣である。
 とまれ、文化問題を考えると、私見では、日本人は、一般に、根本的なものが欠落していると思う。それは、「血」だと思う。D.H.ロレンスは、近代的合理主義を否定して、「血」を信仰すると述べた。「血の意識」である。これだと思う。日本人から「血」が消えたのである。あるいは、灰色の血になったのである。血は、日・火・緋・霊であろう。このままでは、日本は、世界の劣等生である。フッサール的に言えば、「血」の生活世界をとりもどさないといけない。それは、太陽、宇宙・コスモスの生活世界であろう。私は、非合理主義にもどれと述べているのではなくて、個・特異性に基づく新しい合理主義を述べているのである。これが、不連続的差異論である。
 宇宙的な合理主義を取り戻すべきである。コスモス的な合理主義である。理念的合理主義を構築すべきである。そのためには、言葉が必要である。そう、「血」とは、実に言葉の問題である。ロゴスの問題である。「血」を表現する言葉があるのである。それが、消滅されているのである。マスコミ、マスメディアの悪魔的軽佻浮薄さが、日本の「血」・言葉・ロゴスを殺害しているのである。つまり、個人は別として、彼らは、自分の「血」を懸けないで、上辺だけの、「優等生」の、借り物のコトバを述べているのである。彼らには、「血」がないのである。彼らは、日本語の殺人者である。日本の「血」の破壊者である。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060109/p1
 今日、文学は、元気がない。文学とは何か。これは、本来、「血」の言葉の表現である。命の言葉の表現である。しかし、命の言葉を、文学は忘却したのである。イノチ。息の血であろう。イは、生命、魂、霊である。生命の太陽である。D.H.ロレンスは正しい。
 日本の風景、原風景を取り戻すには、命の太陽を体に取り戻さないといけない。

p.s. 日本人は、結局、冷淡になっているということであろう。農地が整備されて、「合理」化できて、いいと思っているのだろう。つまり、土地への愛情が希薄なのである。これは、美的感情の欠落と言ってもいいだろう。美的愛情である。美愛である。ここで、折口信夫が、戦後、日本人が、宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起する。宗教性とは、美的感情、美的愛情と通ずるだろう。
 この欠落はどこから生じたのだろうか。これは、叡知・ソフィアの欠落から来ていると思う。不連続的差異論から言えば、イデア界の叡知の喪失がある。日本の叡知の基盤は何であったろうか。それは、神道であり、仏教であったのではないだろうか。それが、明治維新で、国家神道に吸収され、戦後、破棄された。そして、アメリカ的近代合理主義が入る。その結果、叡知ではなくて、憎悪に根ざした近代的知性が発展し、その結果が、日本の原風景の破壊である。