父権的部族主義/近代/差異と不連続的ポストモダン改革

父権的部族主義/近代/差異と不連続的ポストモダン改革


近代日本は、半封建/半近代主義であったと考えられるし、戦後日本は、USAに対して、半独立国半植民地である。しかし、基本的な半封建/半近代主義はベースにあると考えられる。父権的部族主義を基底にもつ近代主義である。父権的共同体的近代主義である。ここで、近代主義を明確化すると、主客二元論による近代的自我主義・合理主義・科学主義のことである。それに対して、啓蒙思想、女性解放思想、自由主義、民主主義等は、近代主義ではなくて、差異主義であると考えられる。(資本主義も本来は、差異主義であると考えられる。)つまり、近代という時代は、少なくとも、近代主義と差異主義の二重構造をもっていた。
 だから、日本の近代主義は、当然、差異主義とは別のものである。勿論、差異主義も日本に入ってきたが、それは、教養主義的なものとなったと思われる。おそらく、日本の差異主義は、教養主義が維持してきたものと思われるのである。そして、これが、良識層を形成したのである。だから、近代日本とは、正確に言えば、封建/近代/差異(教養)的三元論性をもっていたと言えよう。しかしながら、権力においては、封建主義が支配的であったと言えよう。そして、これが、暴走して太平洋戦争へと突入して行った。
 戦後日本は、近代主義が強化されたが、しかし、基盤にある封建主義(父権的部族主義)は変わらなかった。つまり、封建/近代/差異という図式は変わらなかった。しかしながら、近代主義が強化されて、差異(教養)主義が、疎外されて行ったと言えよう。資本主義の強化である。つまり、差異(教養)主義を軽視ないし無視した、半封建/半近代主義的資本主義の発達である。そして、これを、自民党政府は形成してきたと言えよう。そして、これが、ケインズ財政赤字経済(国家社会主義)を構築したのである。これは、近代主義と父権的部族主義(共同体主義)に上に乗ったものである。
 そして、バブル発生とバブル崩壊、グローバリゼーション、そして、小泉「改革」である。自民党は、封建/近代/差異の三元性をもっているが、封建/近代性の基盤に資本集合型経済(公共事業主義経済・ケインズ主義)が発展したのである。そして、バブル崩壊後の超赤字財政の事態から、小泉「構造改革」・新自由主義路線が生まれる。これは、自民党の封建/近代主義を否定する立場に立つものである。広義において、ポストモダンと呼べるだろう。しかし、新自由主義は、資本主義的自由主義の系譜にあり、リバタリアニズムである。そして、これは、差異主義の一つでもある。
 しかしながら、ポストモダン、差異主義の問題があるのである。ODA ウォッチャーズ氏は、小泉路線構造主義路線と見ている。日本でこのような見方をしている人を、寡聞にして、他には知らない。しかし、構造主義という見方は、鋭敏であると思われる。構造主義という思想は、実は、本来的に、ポスト近代的なのである。構造主義ポストモダンと言っていいだろう。だから、フランス現代思想における「ポスト構造主義」とは、ポスト・ポストモダンということになるのである。しかしながら、問題を複雑にして、錯綜させるのは、構造主義と「ポスト構造主義」とは、相補性になっていると考えられることである。だから、用語としては、両者をポストモダンと呼ぶことができるのである。つまり、構造主義は、現象を生みだす超越論的構造を指摘しているのであるが、この超越論的構造とは、実は、極性のある領域で生成変化するのである。すなわち、不連続的差異論におけるメディア界なのである。だから、構造主義ポスト構造主義ポストモダンとしていいのである。
 ということで、小泉「構造改革」路線は、ポストモダンである。差異主義である。しかし、この路線の欠陥は、何度も繰り返すことになるが、大澤真幸ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対理論で見事に剔抉されるのである。ポストモダンは、共同体に転化してしまうのである。つまり、簡単に言えば、小泉「構造改革」は、自民党の守旧的な封建/近代主義的官僚体質に回帰してしまうのである。この力学については、先に述べたが、それは、ポストモダンは、メディア界的であるが、それが、連続主義に飲み込まれて、封建的なメディア界的集合性に一致するということと考えられるのである。これで、小泉首相靖国参拝や安倍官房長官への支持が発生すると考えられるのである。
 結局、今日、ポスト小泉としては、ポスト・ポストモダン主義が必要なのである。ポストモダンを真に進展させるには、そうならなくてはならないのである。私は、仮に、ウルトラ・ポストモダンと呼んでいるが。あるいは、不連続的ポストモダンと呼ぶことが出来るだろう。先に述べたことを繰り返すが、小泉構造改革ライブドアは、ポストモダン改革の第一波であり、それを乗り越えて、不連続的ポストモダン改革へと進展すべきなのである。