マルチチュードの問題:共通性/多様・多数性と差異共立性

現代思想』2003年2月号の「討議:帝国を越えて」でマイケル・ハート氏と長原豊氏が対話しているが、その中で、不連続的差異論に通じる考えを見つけた。ハート氏は、《さまざまなグループが、単独性、差異性を保ちつつも、一緒に行動した。私はこれを、同一性と差異という矛盾した対が、共通性commonalityと多様性ー多数性multiplicityという相補的な対に道を譲ったと考えています。以前はお互いに排除しあっていた同一性と差異性が、今では共通性と多様性においてもはやお互いを排除しあっていません。これこそマルチチュードをモデルとした運動の創造に見えるのです。》と述べている。
 それに対して長原氏は、次のように述べている。《『帝国』を読んだとき僕は、ブランショの〈Communnaute inavouable〉を思ってしまったのですが・・・。それはつまり、ある時、ある場所で、一緒に集まる人びとの間の、測りえないimmeasurable共軛(不)可能性(in)commensurabilityです。つまり、その場合、人びとの、あなたのいわゆる「共通性」は「ささやかな何でもquelconque」と定義できるのではないか、と。それは通約不能で無関係な人びとがある一つの出来事をかいして通約不能を許しながら生成させる共通性、無為の共同性、あるいはあなたが『帝国』で展開されている「計り得ない」関係あるいは「外部なき世界」の外部の問題でしょうか?》
 ハート氏と長原氏が述べていることは、ポストモダンの核心部分だと考えられる。これは、不連続的差異の共立の問題である。「多様性・多数性」は不連続的差異とは共立性に関係する。では、「共通性」とは、どう見ればいいだろうか。長原氏の言葉では、「ある一つの出来事」である。
 不連続的差異論では、「共通性」に拘らないだろう。思うに、多数・無数の不連続的差異があるのであり、その時その時の出来事、つまり、多数の出来事を介して、不連続的差異が共立するということではないかと思う。多数の出来事である。私としては、「連詩」だと思うのである。一つの不連続的差異に対して、別の不連続的差異が共立する行為をなすのである。ただ、「連詩」にはルールがある。これを「共通性」とは言えるだろう。
 もう少し精緻に考察すると、現在、小泉「改革」がある。あるいは、アメリカ発のグローバリゼーションの「力」の現実がある。これは、現在生きる不連続的差異である個たちにとり、「共通性」となるだろう。思うに、この「共通性」ないし「同一性」は、不連続的差異である各個にとって、何であろうか。これは、フッサールの言う志向性による「共通性」、「同一性」であろう。つまり、これは、主体・個である不連続的差異から、他者である不連続的差異への志向性によって帰結するものである。だから、「共通性」・「同一性」は、他者としての不連続的差異へと還元されるだろう。だから、《マルチチュード》とは、不連続的差異の共立に還元されるだろう。 
 考えてみれば、《イデア》的である不連続的差異とは、ある事象・出来事に対して、《イデア》的行為を発するのである。この不連続的差異の《イデア》的行為(言説・言語行為)が、単独行為が、波紋のように、連鎖・「連詩」・コラボレーション・「共闘」を喚ぶのである。この連鎖は、あくまでも、不連続的と捉えなくてはならない。確かに、波動性・共振・共鳴性があるだろう。しかし、これは、不正確である。ただ、不連続的差異の、他者に対する志向性があり、それが、極限的に連鎖・共振・共鳴となっているのである。本当はつながっていないのである。微分は不成立なのである。この問題は実に核心的であり、精緻な考察が必要とされる。思うに、相補二重性と見るべきかもしれない。波動(連続性)であり、粒子(非連続性)である。そうすると、非常に「分裂症」的状態である。しかし、本当にそうなのだろうか。
 私は以前、共感性の必要を述べた。しかし、共感性とは何だろうか。これは、ゼロ度において発生する共鳴性であろう。しかし、問題は、ゼロ度連結とは、シミュラクルであるということである。本当は、連結・連続化はしていないのである。疑似連結・連続化である。だから、共感性と言っても、他者への志向性の「極限値」としての共感性に過ぎないである。だから、差異1→差異2(→が志向性の記号)において、他者への共立志向性があるのであり、これが、共感性としていわば幻想されるのである。そう、この共立志向性とは、自己保存力(コナトゥス)の変容である。自己保存のために、他者である差異との共立を志向するのである。だから、利他主義ではなくて、互恵的個人主義である。あくまで、不連続的差異である個・特異性・単独性を基盤とした、共存・共生的他者志向性のことである。そして、この心性が共感性や「愛」として発現すると言えるだろう。結局、この不連続的差異的共存志向性である共感性とは、疑似的なものではなくて、やはり、ゼロ度の心性、無私的他者肯定性を意味するのではないだろうか。
 少し整理すると、不連続的差異の共立(マルチチュード)において生じる主観・主体性とは、やはり、二重構成であるのではないだろうか。基本としては、不連続的差異があり、それが、他者への志向性をもつ。しかし、これは、あくまでも、不連続な志向性に過ぎない。しかしながら、この志向性が、ゼロ度化によって共感性に変容すると言えるだろう。基盤・基層・根底・土台としての不連続的差異とその志向性がある(《イデア》性)。しかし、1/4回転によってゼロ度化が発生する(《メディア》)。このとき、不連続的差異の他者志向性が共感性に変容すると言えよう。つまり、極限値の肯定=微分の発生である。このゼロ度《メディア》・ゼロ度エネルギーが、不連続的差異の共立(マルチチュード)において、発生すると見ていいだろう。正に、《メディア》の量子力学的相補性の状態である。即ち、不連続性と連続性のメビウスの帯状態である。【∞の記号を使用する。《メディア》は、陰陽図でも記号化できるが、∞の記号でもいいだろう。思うに、シュメールの神話等に∞の記号がテラコッタの板に表現されるが、それは、《メディア》を意味しているだろう。また、ケルト文様の組み紐文もそうだろう。そして、中国神話の伏羲と女媧もそうだろう。ここで、『海舌』に掲載されていた連続性と非連続性との一致の考え方の正しさが証明されるだろう。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=313803#sequel
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page003.html

「伏羲(ふくぎ)と女渦(じょか)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%BE%B2%E6%B0%8F

この連続性と不連続性との相補性の《メディア》界において、《メディア》的意識・心性が発生すると考えることができる。《心》が客観化できないのは、この矛盾的同一性のためと言えるだろう。そう、ドゥルーズガタリの言う《離接》(分離しつつ、接している状態)に当たる。他者と同一化しつつ、同時に異なるという、「分裂症」状態なのである。だから、不連続的差異の共立である「マルチチュード」を考えると、常に、この事実を意識しないといけないだろう。確かに、ある種の連帯は発生するが、それは、同時に不連続なのである。不連続的連続性、連続的不連続性という状態なのである。ここで、鈴木大拙の《即非》という術語を想起してもいい。即ち、即=等号、且つ、非=不等号である。
 共感性ということも、結局、肯定されることとなった。とまれ、共感しつつ、非共感性の相補状態である。ここで、D.H.ロレンスの天才的奇書『無意識の幻想曲』を想起する。そこで、ロレンスは、共感性と自発性との極性を述べていたが、正に、それは、《メディア》心性である。
【参照:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=04812106
http://homepage3.nifty.com/thinkers/fukatxt2.htm
http://www.yas73.jp/newpage10h.htm
 ということで、不連続的差異の共立である《マルチチュード》とは、《メディア》、《離接》、《即非》、連続性∞不連続性の相補性、共感∞非共感の相補性、等をもつのである。しかし、不連続的差異論から見ると、この「精神分裂症」、「脱構築」は、実に不安定である。正に、不確実性である。確率の世界である。量子力学的ユラギの世界である。また、これは、大澤真幸ODA ウォチャーズ両氏の政治思想空間の「三幅対」論に拠れば、「アイロニカルな没入」という反動性をもっているのである。そう、これは換言すると、ドゥルーズガタリの脱領土/再領土化のメビウスの輪状態である。袋小路である。そう、ポストモダンの閉塞回路である。
 それ故に、この《メディア》で反動的ユラギ状態から脱出する必要があるのである。これに関しては、私は、先に、ポストモダンの能動化を説いた。即ち、ポストモダンの不連続化を説いたのである。それは、換言すると、ポストモダンの《イデア》化、《メディア》の《イデア》化である。これは、《メディア》の包摂的理念化であり、これにより、連続性・共感性は、反動化を免れるのである。反動化への《免疫》が生まれるのである。つまり、《イデア》化によって、連続性・共感性が知性・批判知性と結合するのである。これは、なにか不思議な認識であるが、連続性・共感性を包摂した知性・批判知性・コギトになるのである。換言すると、連続性・共感性が《イデア》・《理念》・《叡智》になるのである。これは、説明するのが難しい様相であるが、連続性・共感性が、デュナミス化されるように思うのである。つまり、これは、《メディア》界から、反転的に、1/4回転して、《イデア》に回帰することのように考えられるのである。言い換えると、《イデア》界への螺旋的回帰である。《頭脳》に連続性・共感性が回帰するのである。そう、再イデア化が生起するのである。 reidealizationである。これの意味することは、メタ連続性、メタ共感性であろう。しかし、これで、連続性が不連続性に、共感性が非共感性になったわけではない。そう、連続性が知に、共感性が知になったのである。連続性の叡智化、共感性の叡智化である。また、ここで、空海両界曼荼羅胎蔵界曼荼羅から金剛界曼荼羅への進展を想起してもいいだろう。感から智への転化があるのである。叡智となった連続性・共感性である。それは、不連続的知性、批判的知性と結びついているのである。思惟/延長、主観/客観、心/身体の包摂理念的統合がここにあると言えるだろう。連続性と不連続性との包摂理念統合がここにあるのである。【思うに、心理学者ユング錬金術的な両性具有の統合の神話を復活させたが、《火》と《水》との統合、無意識と意識との統合を目指したが(個性化、自己実現化)、それは、シンボルによるもので、《メディア》のままに留まり、不完全であると言えよう。対立物の一致とは、《イデア》化によって生起するのである。さらに、ヘーゲル弁証法を想起するが、それは、極めて、未熟な哲学である。それは、カントの超越論的形式を「精神」にして、統一を目指したと言えるだろう。それは、正に、国家権力的統一であり、国家イデオロギーそのもの、キリスト教イデオロギーそのものである。悪しき、危険なものである。】
 結局、《メディア》の《イデア》化とは、《イデア》の《コギト》化、又は、《コギト》の《イデア》化である。《現象》界の《無明》によって目眩しをされていた《ヴィジョン》・《視》が、根源の《イデア》の《ヴィジョン》・《視》を復活させたと言えるのではないだろうか。プラトンの想起説である。不連続的差異は、境界により、互いに隔てられている(不連続性)。しかし、無限速度の超光が《イデア》空間を即一的に発出している(連続性)。この《イデア》界の原事象が、《メディア》の《イデア》化によって復活するのだろう。それも、《現象》界においてである。つまり、これは、《イデア》⇔《メディア》⇔《現象》を意味するのではないだろうか。これは、原点の《イデア》を越えた認識・知であろう。なぜならば、原点の《イデア》界の《知》は、まだ、《メディア》界や《現象》界を知らないからである。ただ、デュナミスとして全知なだけである。しかし、《メディア》の《イデア》化とは、《現象》と《メディア》を包摂した《イデア》であり、現実的に包摂的なのである。親鸞で言えば、往相・還相の智慧である。そう、三層を往還・環流する《イデア》と言えるのではないだろうか。三層《イデア》である。三界《イデア》である。これを三位一体という呼びたい気もするが、一体ではないだろう。思うに、三幅対《イデア》ないし《イデア》三幅対とは言えるだろう。
 結局、不連続的差異の共立、「マルチチュード」は、再《イデア》化、《イデア》三幅対によって、実践化するだろう。


p.s. 再《イデア》化における要のポイントの指摘を忘失している。即ち、《メディア》の《イデア》化とは、《メディア》の「アイロニカルな没入」、反動化を、防ぐのである。《免疫》である。つまり、《現象》化を回避しているのである。だから、三幅対ではないのである。あくまで、《イデア》界への回帰と捉えないといけない。《メディア》ポストモダンから《イデアポストモダンへの飛翔である。