倫理、共感性、近代的自我:日本「資本主義」、欧米資本主義、《イデ

この問題は、ODA ウォッチャーズ氏が、述べていることと関係する。


《 これは、夢遊病患者が、まさに「現実」から「逃避する」と供に、「自分の想像上の『現実』」に「逃避する」という。二重の逃避を始めたことになる。》http://blog.kaisetsu.org/?eid=317032


即ち、近代的自我は、メディア界から1/4回転で捩れて、現象界化することによって形成されるのであるが、この捩れによって、排斥・隠蔽されるものが、倫理や共感性であると、これまで、私は考えてきた。
 しかし、いわば無意識として、倫理や共感性は《メディア》界に内在・潜在している。良心や良識の「元素」である。しかし、問題は、現象化した自我、近代的自我とは、利己主義であり、自己中心主義である。排他的である。悪魔的である。「狂気」である。仏教でいう色であり、無明である。(アポロンの神託の「汝自身を知れ」や仏教の解脱や神道の己を知るは、同一の教えである。万教帰一。)
 現象界の自我(近代的自我)とメディア界の良心との関係を見ないといけない。前者と後者は、パラドクシカルな関係にある。利己主義と倫理主義の二律背反性がある。近代的自我・近代的合理主義に徹すると、当然、《メディア》界に対する排斥・隠蔽が徹底化する。(これが、漱石の『こころ』や『行人』に描かれているものである。)
 問題は、近代的自我の傲慢化と独善化である。傲慢化は1/4回転ですぐ説明できる。独善化も1/4回転から発する。
 この点を細かく見よう。以前、連続・同一性化という言い方で、現象界の近代的自我を説明した。この観点は、メディア界から現象界への1/4回転によって、差異が排斥されて連続・同一性が自我を形成するということである。ここの力学は微妙である。メディア界において、不連続的差異と連続的差異が相補性を形成している。そして、連続的差異が不連続的差異を排斥・隠蔽するような形で、現象界化するのである。連続的差異は、ゼロ度共鳴によって形成されている。(ゼロ度共鳴とは共感性であると先に述べた。)このゼロ度共鳴=共感性=連続的差異が、1/4回転して、連続的差異に基づく連続・同一性という個体・近代的自我を形成するのだろう。この二回目の1/4回転で、不連続的差異が排斥・隠蔽されるのである。だから、近代的自我とは、個(個人主義)ではなくて、連続・同一性的個体である。それは、その個体のもつ観念と連続・同一性化しているのである。ここでは、共感性が自我と結合しているのである。この共感性と自我との結合が、ナルシシズム、自己中心主義、自己完結主義を生み、ODA ウォッチャーズ氏の説くような、現実から逃避して、想像上の現実へ没入する「夢遊病患者」を作るのだろう。
 ここで、排斥・隠蔽されているのは、不連続的差異=特異性=単独性であり、真の倫理である。先に述べた、メディア界におけるゼロ度共鳴=共感性は、現象界においては、反動となるのである。倫理にはならないのである。独善性となるのである。(この点について、すぐ後に検討する。)
この現象界における共感的連続・同一性的自我(近代的自我)が、近代主義の狂気・悪魔性をもっているのである。これが、ホッブズの説いた万人の万人に対する闘争を生むのである。そして、プロテスタンティズムとロックに始まる自由主義もここに発端があるだろう。そして、欧米による近代の暴力はここに拠ると言えるだろう。これは、自由主義とは利己主義の「自由」主義である。ここには、差異の「自由」主義はない。
 ここで、もう少し、細かく言おう。近代の問題は、デカルト哲学に典型的に現れていると考えられる。コギト主義である。コギトと近代的自我は、本来、別々のものである。コギトは、近代主義に排斥された不連続的差異・特異性・単独性を意味するのである。しかし、デカルトは、コギトと近代的合理主義・近代科学を結びつける。つまり、デカルトは、コギトと近代的自我を結びつけてしまったのである。ここに近代の混乱を生む原因があると言えよう。結局、自由主義は、近代的自我・利己主義に基づくのである。
 問題が複雑なのは、西欧近代が、イタリア・ルネサンスを半面としてもっていることである。イタリア・ルネサンスとは、一言で言えば、《メディア》の解放である。そして、当然、《イデア》界への接点が発生したのである。中世のフランスを中心とするルネサンスが、イタリアにおいて、大規模に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、中世のキリスト教ヒエラルキーに排斥された「異教」・多神教復権である。それは、《メディア》界の賦活であり、そのエネルギーの発動である。つまり、《メディア》の不連続的差異性と連続的差異性との相補性のエネルギーが発動したのである。つまり、一言で言えば、ルネサンスとは、《メディア》の開花である。
 西欧はこれを内在させつつ、プロテスタンティズムによって、排斥・隠蔽したのである。つまり、西欧近代とは、内在している《メディア》のエネルギーの賦活を、反動的に、《現象》化させて、排斥・隠蔽しているのである。このルネサンスプロテスタンティズム、《メディア》/《現象》との内部矛盾が近代西欧を形成したのである。そして、西欧の資本主義もそうなのである。(アメリカの資本主義も、広義においてそのようなものと考えられるが、しかし、当然ながら、プロテスタンティズム・《現象》性が支配的、優勢である。)換言すると、個/自我二重構造的資本主義である。一方では、《イデア》を志向しているが、他方では《現象》を志向しているのである。民主主義は、本来、前者であるのに、自由主義によって、後者的にされている。ここには、曲解・捩じ曲げ・すり替え・欺瞞が発生するのである。《イデア》を《現象》にすり替えるのである。民主主義は、自由主義に利用されてイデオロギーとなるのである。(また、自由主義も捩じ曲げられていると思う。後で、検討したいが、本来は、ルネサンス・《メディア》から発している不連続的差異・特異性・単独性に基づくと思うのである。)
 ということで、西欧近代、資本主義のもつ分裂的二重構造が明らかになったと言えよう。これを、ドゥルーズガタリが指摘したのであり、まったく乗り越えにはならないのである。だから、マルクスの『資本論』が、資本主義内部の分析であるのと同様である。
 さて、ここで、日本現代資本主義を見ると、この分裂的二重構造さえ、喪失している「資本主義」である。つまり、《現象》化が極度になされていて、本来の《メディア》が排斥・隠蔽され、埋没されているのである。欧米には、欺瞞性があるものの、良識派には、本来の《メディア》があり、《イデア》性をもっていると考えられる。とまれ、西洋資本主義の分裂二重構造を考えると、日本「資本主義」は、資本主義ではないことになる。それは、父権・封建的共同体的「資本主義」であり、似非資本主義である。国家資本主義即ち社会主義である。日本社会主義である。マルクス・レーニン主義は、日本で実現したのである。自民党共産党である。とまれ、現代日本の混迷はここにあると言えるだろう。グローバリゼーションは、資本主義のプロテスタンティズム純化である。自由主義純化である。しかし、ここには、やはり、個の発想が見なくてならないだろう。個としての自由主義である。企業を個とした自由主義である。この点で、やはり、グローバリゼーションは、《メディア》・《イデア》性をもっているのである。日本は、《メディア》・《イデア》が埋没して、《現象》的連続・同一性主義であり、資本主義の反動、社会主義になっているのである。 
 さて、問題は、グローバリゼーション、資本主義の自由主義純化である。やはり、基本は、分裂的二重構造なのである。不連続的差異論から見ると、これは不徹底なのである。グローバリゼーションは、《メディア》の個の自由主義を説くものの、《現象》化=交換価値中心性を帯びているのである。つまり、自我、利己的自我の自由主義となっているのである。これを問題視しなくてはならない。《メディア》(=貨幣・資本)を、《イデア》化することが、資本主義に対する正答であると考えられる。不連続的差異的共立共創性という《イデア》をもつ資本主義である。これを、ポスト・グローバリゼーション=ガイアナイゼーションと呼ぼう。これは、地民衆主義である。地民衆資本主義である。不連続的差異的資本主義である。
 さて、長くなったが、ここで、自由主義について簡単に触れると、これも、分裂的二重構造をもつのである。ルネサンスプロテスタンティズム、《メディア》/《現象》という分裂的二重構造をもつのである。不連続的差異論から見ると、《イデア》的自由主義が、統一的なのである。