言葉と心:知と心:現代日本における情操・教養教育、想像力の欠落:

言葉と心:知と心:現代日本における情操・教養教育、想像力の欠落:古典を読もう。


今ベストセラーの藤原正彦氏の『国家の品格』の中で、実際的には役に立たない教養が、構想力を生むようなことが書かれていた。これは、コロンブスの卵であった。現代日本の問題は、経済的合理性を求めるあまり、情操・教養・想像力という社会・文化の「土」が等閑にされていることと言えるだろう。
 今、たまたま、目にした文章に、ディケンズの『クリスマス・キャロル』において、三人のクリスマスの精霊によって、スクルージの心の氷が、融けて、その心が暖かくなり始めたということが書いてあった。そう、心の氷結が、金融資本主義によってもたらされると言えよう。現代日本人も、スクルージ守銭奴)と同じで、心が凍結して、想像力・共感力が涵養・陶冶されていないのだ。これは、心の強張りを生むのである。日本人の精神の強張りの説明がこれでつくだろう。とりわけ、東京人における心の強張りである。
 つまり、心=メディアが凍てつき、強張っていて、粗暴な合理性のみになっているのである。粗野・粗暴・乱暴・野蛮な現代日本である。このような心的状況において、ポストモダンは、当然、反動化するだろう。凍結した心は、現象界的に発動するのであり、時価総額云々へ向うのである。トリノ五輪が無惨なのも、ここに要因があるだろう。ポストモダンは本来、メディア=心・心身の解放であるが、日本の場合、それが、上述の原因で、反動化してしまったと言えよう(「アイロニカルな没入」)。
 結局、情操・教養・想像力を軽視・無視してきたツケが回ってきたと言えるだろう。『国家の品格』は正にぴたりのタイミングである。メディアである心を涵養することで、ポストモダンは、イデア性をもつようになるだろう。教養革命である。心の氷結・凍結を、想像力の太陽で解凍し、その強張りをなくすことで、落ち目の日本は復活するようになるだろう。また、自己中心主義・自己完結型人間が増加したのは、このような事情があったと言えよう。
 そう、思えば、心を無視し続けてきたのである。神経・精神病が多いのも、この狂気の社会のせいと言えよう。日本/ヤポネシアルネサンスである。古典を読もう。古典が日本の救世主である。

p.s. 心の経済学が必要である。私は差異共立共創主義を唱えるが、それは、確かに、共感性(心)と知性との結合した経済社会を意味する。心知性が必要であり、心知性的経済が必要なのである。それに対して、新自由主義は、その点をまったく考えていない。市場原理とは、恐い言葉だろう。自由市場は必要であるが、市場原理ということではないだろう。自由市場に対して、共立共創主義が必要である。心的経済が必要である。それは、民主主義的経済である。自由市場/心的共立経済である。私が差異というものは、あるいは、不連続的差異というものは、自由と心的共立共創性の統一したものである。だから、差異経済・差異自由共立経済と言えるだろう。このためには、差異政治・不連続的差異の政治・政策が必要である。新自由主義ではなくて、差異自由共立主義である。