古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポス

古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポスト一神教と新多神教


先に、『平家物語』を拾い読みして、その封建的主君家来との一体性の強さを感じた。いわば、血の結ばれである。しかし、現代では、そのような感情は排斥されて、ドライになっているし、自己完結的になっている。
 私が直観したのは、『平家物語』では、メディア的連続性が作用しているのであり、現代日本人においては、それが、捩れて、現象界的自我へと転化していることである。つまり、伝統的な日本人の心性は、メディア界が中心であり、現代は、現象界が中心であるということである。このメディア界的心性が伝統的な日本人の道徳を形成してきたのであろう。これは、また天皇制の心性でもあるだろう。そして、現代は、メディア界が捩れて、自我中心主義となっている。ここでは、独善性が支配的である。自我に没入しているのである。他者は排斥されている。通俗に言えば、「自己中」である。
 では、伝統的なメディア的心性は、どう考えるべきだろうか。他者との共感がある。これは、連続性が基盤となっている。しかし、この強度は、情熱的である。生命・本能的である。これは、メディアのエネルギーである。しかし、このメディアには、単に、連続性だけでなくて、不連続性が潜んでいるだろう。イデア性が潜んでいるだろう。神仏を志向する心性である。そう、多神教の心性とも言える。
 この伝統的なメディア心性と現代的な現象心性との相違はどういう意味をもつだろうか。つまり、前近代的日本人の心性と近代主義的心性とのパラドックスがあるのではないだろうか。つまり、メディアと現象との分裂性があると考えられる。ここに日本人のアイデンティティの形成の困難さがあるのではないだろうか。結局、近代的自我をもつために、伝統的メディア的心性を排斥したのではないだろうか。
 これは、少し先の考えとはずれてしまう。つまり、メディアから現象への転換によって、メディアが排斥されると私は考えているのであるから。これは正しいのである。近代主義は、正に、1/4回転で、メディアを排斥するのである。日本人は、現代の日本人は、近代的自我化したのである。問題は、この転換が、必然なのかということである。理論的には必然である。しかし、メディア/現象境界があるから、完全には、メディアを排斥はできないはずである。つまり、1/4回転は、先のものを潜在化するのである。最初の1/4回転は、イデアを潜在化させ、メディアを発生させる。次の1/4回転は、メディアを潜在化させて、現象を発生させるということだろう。だから、正しく言えば、1/4回転で、メディアを排斥・隠蔽するというのは、間違いである。潜在化させるのである。あるいは、無意識・潜在意識化するのである。これは、近代主義ではなくて、普通の現象化である。しかし、西欧近代主義は、絶対的に二元論化したのである。つまり、メディアを排斥・隠蔽したのである。ここには、異常なものがあるだろう。おそらく、キリスト教の絶対的善悪二元論がここに作用しているのではないか。ロゴスの伝統ではなくて、キリスト教の二元論が、このような極端さを生んだように考えられる。つまり、西欧近代主義とは、キリスト教的現象界主義ということである。そして、これが、近代日本に入ってくるのである。ここで、メディア的である伝統的日本人の心性は混乱するはずである。漱石の神経病がそうだろう。また、その他の作家の精神病性もそうだろう。(西欧では、この近代主義に対抗して、ロマン主義が生まれた。つまり、メディアの反逆である。)日本では、メディア的心性は、近代的天皇制に吸収されたと言えよう。そして、それが、太平洋戦争へと巻き込まれる。戦後、このメディア的心性が捨てられるのである。完全に西欧近代主義が、アメリカ文明として入ってくるのである。日本の完全な近代主義化である。この戦後日本の絶対的近代主義が、現代・今日の自己中心主義人間を形成したと言えよう。つまり、日本の伝統的なメディア的心性が完全に排斥されているのである。これを私は狂気と呼んでいるのである。「現実」への逃避があるのである。そして、これが、小泉改革と符号するのである。しかし、小泉首相は、パフォーマンス屋である。近代主義者ではない。近代主義者ならば、従来の自民党路線である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べているように構造主義者であると見るのが正しいようである。構造改革という発想が、確かに、構造主義的である。そして、メディア的である。結局、小泉首相には、メディアが存しているのである。これは、現象界からメディア界への回帰である。すると、ここには、伝統的な日本への志向が生まれるのである。これは、戦前や前近代への志向となるだろう。小泉氏の靖国参拝は、このメディア的一体感から発していると考えられよう。そして、これが、「アイロニカルな没入」である。そして、戦前的右翼的発想の安倍氏と結びつくのである。
 ポストモダンは、メディアの解放を意味して、第二のルネサンスである(20世紀前半もメディアの解放と見られるから、第三のルネサンスと言うべきかもしれない。)。そして、このメディアのもつ連続性から反動性に向ったのが、小泉改革であり、現代日本社会である。かなり、複雑である。若者の保守回帰も同様に考えられるだろう。
 少し整理すると、近代主義に相応するのは、旧来の自民党である。社会主義の日本である。しかし、ポスト近代主義に対応するのは、小泉首相や若い世代である。メディアの世代である。問題なのは、日本のポスト近代のあり方である。日本人のメディアのあり方である。ここで個の問題が出てくるのである。日本の伝統的なメディアの文化に、日本的個があったと思われる。しかし、これを戦後喪失しているのである。つまり、近代的自我主義があり、そして、ポスト近代主義が起ったのである。メディアが個となるのではなくて、近代的自我性を帯びるのである。あるいは、分裂症的になるのである。解放されたメディアと近代的合理主義との分裂があるのである。今日、精神的病気が多いのは後者が原因ではないだろうか。
 結局、個・特異性・単独性の問題になった。つまり、不連続性、不連続的差異性の問題である。結局、メディア/現象のメディアではなくて、イデア/メディアのメディアへと向う必要があるということである。そして、さらに、イデアへと進展すべきである。
 さて、そうなると、不思議なことに、「一神教」が回帰するのではないだろうか。偶像はメディアであるが、それを超えたイデアを志向するのであるから。だから、現代はイメージや映像や芸術の時代ではなくて、「一神教」の時代なのかもしれない。そうすると、キリスト教のようなイメージをもった宗教はダメである。イスラム教やユダヤ教が有力となるのではないだろうか。しかし、ユダヤ教は、私見では、メディア/現象の宗教であるから、イデア界的ではないのだ。すると、イスラム教が残る。ポスト・ユダヤキリスト教であり、イスラム教の時代ということかもしれない。しかし、本当に一神教なのか。私は新多神教を主唱してきた。つまり、イデアへの回帰とは、当然、多元的イデアへの回帰であり、ポスト一神教なのである。だから、ポスト・イスラム教でもあるだろう。D.H.ロレンスは、旧約聖書多神教の世界を見た。そして、新しい神々を生まれると考えていた。そう、イデア界への回帰とは、新しい神々=イデアをもたらすだろう。