『武士道』と多神教と不連続的差異論:源流としての日本多神教・神道

『武士道』と多神教と不連続的差異論:源流としての日本多神教神道


新渡戸稲造の『武士道』は、印象では、とてもなつかしいものである。また、確かに、自分の心性の一部に通じるものがあると感じた。当然、日本文化の底流と通じるのだろう。現代人にとり、武士道は、遺物のようなものかもしれないが、これは、日本人の心性の原基に通じているし、かなり、主要なものをもっていると思う。個々の内容については、以下の資料を参考にしていただこう。
 私が今、感じて、考えているのは、換言すれば、武士道を形成したエッセンスのことである。様式としても、もはや武士道はありえないが、武士道のエッセンスが、日本文化・社会の基層としてあるのではないかということである。そして、このエッセンスとは、日本多神教神道ではないのかという直感があるのである。神道が、仏教と習合して、封建時代において、武士道へと展開したのではないだろうか。どうも、そう思えてならないのである。切腹という様式は、きわめて宗教的だと思うのである。そう、アステカの人身儀礼を想起するほどである。アステカの儀礼は、太陽神殿で、生け贄のからだをナイフで裂き、血の滴る心臓を太陽神に捧げるものである。切腹は、はらわたをさらすことであるが、はらわたとは、肚であり、魂であるから、魂をささげる儀礼と見ることができるだろうから、アステカの凄惨な儀礼と通じると言えよう。ならば、切腹は環太平洋・アジア的原始儀礼であると言えるのではないだろうか。さらに推測すれば、天皇制も、それと関係しているのではないか思われるのである。つまり、これは、文化人類学者ジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』の世界である。古い王と新しい王との暴力的交替の原始共同体的儀礼である。こうなると、全世界的になるだろう。原始共同体、原始農耕的共同体の儀礼となるだろう。
 さて、そういう含みをもって、武士道の源流として神道があるとしよう。これで、私のテーゼが根拠づけられる。武士道の源流として、多神教があるということである。さらに言えば、この根源的多神教ないし根源的神道と、不連続的差異論が関係していると思うのである。私は差異共立共創性を唱えるが、それは、不連続的差異論の理論から発するが、それは、他者を志向する倫理をもち、《多神教》的であるのである。これは、きわめて興味深い・意義深いポイントである。《武士道》のエッセンスとして、日本多神教神道があり、また、不連続的差異論は、根源的に(イデア論的に)、差異共立共創性をもち、《多神教》的であるということである。すると、不連続的差異論とは、ポストモダン理論、「ポスト構造主義」から発しているものの、内在的には日本多神教神道を起源にしているということが言えるようになるのである。これは、ポスト西洋文明の思想と東アジア・日本の《思想》との結合・統一であると考えることができるのである。西洋と東洋の統一である。不連続的差異論は、新しい地球文明の理論・哲学・叡知であると言っても大げさではないと思われるのである。一言で言えば、新しいミクロコスモスの思想である。小宇宙の思想である。これは、モナドの思想とはまったく異なるのである。モナドは、近代主義的である。微分積分である。しかし、小宇宙=不連続的差異の思想は、ポスト近代主義であり、特異性の思想であり、微分不可能の思想である。(思えば、不連続的差異論の誕生以前に、根井康之氏の『東西思想の超克』(参照:http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20050804 )を読んで強く感銘を受けたのである。)
 考えると、神道の秘密は、イデア論なのかもしれない。日本多神教神道は、ギリシア神話とことなり、イメージ・映像化されていない。神々が擬人化されていない。基本的には不可視である。思うに、ギリシア神話とは、先行したギリシア宗教を物語化したものであり、このことを考えないといけないだろうが、ここでは、ギリシア神話多神教は、《メディア》的であるとすれば足りるのである。(参照:http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afgrsinwa.htm
それに対して、日本多神教は、《イデア》的であると言えるのではないだろうか。確かに、八百万の神(神々)と言うが、それは、決して、森羅万象そのものが神々ということではなくて、森羅万象を介して(メディア)、神々を直感するということだろう。深山幽谷はそういうものだろうし、また、雷(神鳴り)は正にそういうものだろう。メディアである現象を介して、《神》を感じるということだろう。だから、ヴィジョンではある。しかし、このヴィジョンは、地中海的ではないだろう。明晰なものではないだろう。深遠なものだろう。メディアではなくて、イデア的だと思うのである。
 先に、日本の古代ないし前古代に、《イデア》の文化・社会があったのではと、推測したが、ここでの推論から見れば、《イデア》=神道の文化・社会があったということになる。そして、これは、当然、《縄文》の問題、日本・ヤポネシアの問題に関わってくる。ここで、北方性と南方性の問題が生じているのである。シャーマニズムアニミズムである。この点は難問であるので、ここで、留めて、新たに検討したい。
 さて、これからの哲学・理論的課題は、ホワイトヘットの有機体の哲学、道元の『正法眼蔵』の禅宇宙論、ヌース理論、他とを比較検討することである。また、当然、数理論的に、発展させることである。
 
___________________________________

参考:
武士道
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

武士道(ぶしどう)とは、近世日本の武士 が従うべきとされた規範をさす。

通常の概念では、“君に忠 、親に孝 、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす”という態度であるとされることが多い。さらにこれに、常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して、日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある。

ただし上記のような典型的な武士道観念は、明治以降に近世の武士の倫理観・美意識を再編・再解釈されたものであるか、もしくは本来の武士道と明治期の再解釈があいまいなままに混同されているものを指す場合が多く、「作られた古典」の典型的な例である。

1900年 に新渡戸稲造 により流麗な英文で書かれた『武士道』(BUSHIDO:THE SOUL of JAPAN)は、はじめて諸外国に向けて日本人の「倫理観」を示した名著とされ、セオドア・ルーズベルトジョン・F・ケネディ 大統領など政治家のほか、ボーイスカウト 創立者のロバート・ベーデン・パウエル など、多くの人たちに影響を与えたといわれている。

大韓民国 では、「花郎道」と呼ばれる朝鮮半島の思想が武士道の発祥であるとの歴史認識が主流である。
目次
[非表示 ]

* 1 士道
* 2 参考書籍
* 3 関連先 
* 4 外部リンク

[編集 ]

士道

武士の発生以来、武士道の中核とされる主君に対する倫理的な忠誠意識は非常に低かった。これは中世期の主従関係が、主君と郎党とのあいだでの契約関係であり、「奉公」は「御恩」の対価であるとする観念が強かったためである。すくなくとも室町末期ごろまでは、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」といった考えかたは主流とはならなかった。

主君に心情的に一体化し、一族郎党のため命を捨てて武勇を示すことは軍記物語 などで賞賛されていたが、戦国乱世を経て江戸時代の平和な世の中となると、自らの名誉のためには命をも軽んじる価値観は天下の混乱を招くとして幕府による取り締まりの対象となった。

元和期以降になると、儒教朱子学 の道徳でこの価値観を説明せんとする山鹿素行 らによる士道が確立された。これにより、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範として強調されるようになった。



[編集 ]

参考書籍

* 『武士道の逆襲』 菅野覚明 講談社 現代新書 ISBN 4061497413
* 『武士の成立 武士像の創出』 郄橋昌明 東京大学出版会 ISBN 4130201220
* 『戦場の精神史 武士道という幻影』 佐伯真一 NHK出版  ISBN 4140019980
* 『BUSHIDO:THE SOUL of JAPAN』 新渡戸稲造
o 矢内原忠雄 訳『武士道』(1938年 )岩波文庫  ISBN 4003311817
o 奈良本辰也 訳『武士道』(1997年 )三笠書房  ISBN 4837917003
* "Bushido" , Nitobe Inazo 電子テキスト全文(Project Gutenberg)
* 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた―誰も知らないホントの姿』八幡和郎、臼井喜法 ベスト新書 92 ベストセラーズ ISBN 4584120927
* 『『葉隠』の武士道 誤解された「死狂い」の思想』山本博文 PHP新書 PHP研究所 ISBN 4569619401

[編集 ]

関連先 

* 切腹
* 葉隠

[編集 ]

外部リンク

* 菅野覚明『武士道の逆襲』
* 久米邦武「鎌倉時代の武士道」
* 郄橋昌明『武士の成立 武士像の創出』

執筆の途中です この「武士道」は、歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93 " より作成

カテゴリ : 歴史関連のスタブ項目 | 軍事史
______________________________


金枝篇
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

金枝篇(きんしへん、The Golden Bough)はイギリス の社会人類学ジェームズ・フレイザー によって著された未開社会 の神話 ・呪術 ・信仰 に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギ のことで、この書を書いた発端が、イタリア のネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。

完成までに40年以上、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。
『金枝』(J.M.W. Turner) アイネイアス神話の一場面。『金枝篇』の挿し絵として用いられた。
拡大
『金枝』(J.M.W. Turner) アイネイアス 神話の一場面。『金枝篇』の挿し絵として用いられた。

フレイザーは人類学 者エドワード・タイラー の著作に影響を受けて本格的に宗教学 や民俗学 ・神話学 を研究するようになり、その成果として1890年 に2巻本の『金枝篇』初版を刊行した。その後も増補が繰り返され、1900年 には3巻本の第二版、1911年 に決定版として第三版が11巻本としてまとめられた。しかしその後にも研究は続けられており、更に1914年 には索引・文献目録、1936年 には補遺が追加され、この2巻を合わせた全13巻の決定版が完成した。

この著書はあまりにも大部で浩瀚に過ぎるため、一般読者にも広く読まれることを望んだフレイザー自身によって、1922年 に理論面の記述を残して膨大な例証を省略した全1巻の簡約本が刊行されている。

日本においては、岩波文庫 の全5巻の翻訳『金枝篇』がよく知られているが、これは簡約本からの翻訳である。2004年 から、国書刊行会 で第三版の完訳版(全8巻+別巻)が刊行されている。他にちくま学芸文庫 版『金枝篇』(初版の翻訳)や、東京書籍 の『図説金枝篇』も出されている。

本書にはヨーロッパ のみならずアジア 、アフリカ 、アメリカ など世界各地で見られる様々な魔術 ・呪術 、タブー 、慣習など、フレイザーが史料や古典記録、あるいは口伝から収集した夥しい例が示されている。未開社会における精霊信仰 、宗教的権威を持つ王が弱体化すれば殺し新たな王を戴く「王殺し 」の風習 や「類感呪術」「感染呪術」などの信仰の神話的背景を探った民俗学・神話学・宗教学の基本書として高く評価される。

フレイザーの研究姿勢は書斎における文献調査による事例収集が中心であったため、実際に現地に入り混じって人類学などの研究に従事するフィールドワーク 研究者からは、「書斎の学問」「安楽椅子の人類学」として批判を浴びている。また、未開社会と文明 社会の間に序列を設けるような文化進化論 的思考法も時代的制約とはいえ批判の対象となっている。しかしながら、古代 信仰・呪術に関するこれだけの膨大な事例を広く蒐集・総合した例は他にほとんど絶無であり、それだけでも非常に高い資料的価値を持つ。
[編集 ]

金枝

イタリア のネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキア の木立とよばれる聖なる木立があり、 木立には聖なる樹(ヤドリギ )が生えていた。 この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた。

ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ )神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭祀がいた。 逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。 第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9E%9D%E7%AF%87 " より作成

カテゴリ : 神話 | 民俗学 | 人類学 | クトゥルフ神話