神道とイデア論/不連続的差異論:メディアとイデアとの関係、他

神道イデア論/不連続的差異論の関係を検討しよう。神道の《神》とは、メディアであるのか、イデアであるのかということである。これは、イデア界とメディア界の関係の問題でもある。ここで、平田篤胤折口信夫の宗教観を想起するのである。平田篤胤の宗教観はキリスト教の影響を受けていて、一神教性があるが、折口の宗教観は一神教多神教かは決定していない。しかし、彼らの宗教観は、三層構成であり、不連続的差異論と共通する。
 とまれ、神道の《神》は、メディアなのか、イデアなのかであるが、逆に言うと、メディアとしての神とは何か、イデアとしての神とは何かということになるだろう。この問題は、エッセンシャルな問題の一つであると考えられる。少し観点を変えると、メディアとは構造・原型・形相である。通俗に理解されている「イデア」である。しかし、正確に言えば、構造とはメディア/現象境界にあるだろう。カントの超越論的形式に相当するだろう。では、メディアとは何かと言えば、それは、対極相補性である。極性力である。陰陽である。量子である。また、多様体である。エネルギーである(ダークエネルギーを含めて)。また、カオスモスでもある。ここでは、形が生まれ、形が解体する。デリダ脱構築主義の世界である。大乗仏教の世界である。色即是空・空即是色。ドゥルーズガタリの内在平面である。おそらく、4+1の世界である。五芒星形の世界、ピュタゴラス派の世界である。(思うに、+5と−5で、10次元の世界、そして、それをまとめて、11次元の世界となるだろう。超ひも理論と関係しそうだ。そして、イデア界を含めて、12次元の世界、M理論の世界と関係するのではないだろうか。)
 そう考えると、いわば、多神教的世界とは言えるだろう。生成変化、生成消滅の世界である。多様性、生と死との世界である。ならば、神道の神は、メディアであるということになりそうである。しかし、問題は太陽神である。太陽信仰、太陽崇拝である。これが、神道の核心にある。これに大乗仏教が重なるのである。(参照:折口信夫の『死者の書』)問題は、太陽神はメディアであるのかということである。ここで、プラトンの善のイデアを想起する。それは、洞窟の外部の太陽に相当するのである。(ここで、また、宇宙論的に、太陽や恒星とは何かという問題とも関係する。)プラトンの言う洞窟内部のスクリーンが現象界(仮象界)であり、背後の人間が、言わば、メディアになるだろう。そして、洞窟外部の太陽がイデアになるだろう。
 そうなると、類比的に、太陽神は、メディアではなくて、イデアに相当すると直観できるだろう。すると、神道の神である太陽神は、イデアであるということになるのである。つまり、アマテラスは、イデアであるということになる。問題は、天皇制である。天皇とは、アマテラスの「霊」を内在する日御子である。しかし、天皇自身が、太陽神ではない。太陽神アマテラスの、いわば、化身としての天皇ではないのか。「天皇霊」とは、アマテラスの「霊」である。アマテラスのエッセンスであろう。(こう考えると、キリスト教の本質が見えてくるようだ。)つまり、イデアを体現する存在としての天皇である。「現人神」というのは、間違ってはいないのではないだろうか。(p.s. ここのところも、もっと慎重にならないといけない。)
 少し性急になったので、もう少し平静に考えよう。太陽神アマテラスのエッセンスを受けたものが天皇である(参照:真床御衾、大嘗祭)。これは、儀礼として存するのである。古代ギリシア等で言えば、秘儀・密儀に相当しよう。エレウシスの秘儀であり、東地中海では、イシスの秘儀である。そう、エジプト神話で言えば、イシスがアマテラスで、オシリス天皇である。(聖母マリアがアマテラス、イエス天皇に相当する。キリスト教の「父」とは、実は「母」でなくてはならない。D.H.ロレンスの宗教論を参考。)
 しかし、このように考えると、混乱するのではないだろうか。イシスとオシリスと考えるとペアの対の発想となり、メディア界の事象となるのである。思うに、イシスとオシリスを超えた根源としてハトホルを考えなくてはならないだろう。これは、聖母マリアを超えたものとして、聖アンナに通じるのではないだろうか(ケルトキリスト教は、イデア界をもっているのだろう。東方キリスト教もそうだろう。)。それは、処女神の問題、単性生殖の問題である。ここで、作業仮説を言えば、イデア界としての大女神があるだろう。これは、処女神である。アマテラスである。そして、これが1/4回転して、メディア界が発生するが、このとき、女男対の神々が発生する。それが、イシス/オシリスイザナミイザナギキュベレ/アッティス、ヴィーナス/アドニス聖母マリア/イエス、女媧/伏羲(ふくぎ)、等の神話となったのだろう。
 このように考えると、実に明快に整理されるだろう。だから、神道の問題は、アマテラス=太陽処女神=イデア界であり、天皇=メディア界=イザナミイザナミであろう。そして、アマテラスと天之御中主神とは一致し、そして、神産霊神と高皇産霊神が、イザナミイザナギと一致するのではないだろうか。そうならば、記紀神話は混乱しているのである。イデア界とメディア界の区別が不明確になっているのである。(p.s. 天皇とはイデア界の1/4回転を意味するだろう。つまり、ゼロ度連結のことである。ここでは、光が発生するのである。この光が天皇であろう。しかし、同時に、闇も発生するのである。光と闇との極性があるのである。ならば、光の天皇に対する闇の天皇がいるだろう。この点で後で検討。)
 とまれ、以上から、太陽神・太陽処女神がイデア界であることが推理でき、神道は、イデア界の宗教であることがわかった。これは何を意味するのだろうか。つまり、神道イデア界の視点から、各宗教を理解する地平が開けたということだろう。ゾロアスター教は、思うに、イデア界の宗教であるが、しかし、一神教である。これは、男性的意志が入るのである。つまり、メディア/現象境界が入っているということだろう。そして、メディア/現象境界が、アフリマン(闇の神)になるのだろう。では、重要なユダヤ教は何だろうか。私見では、ゾロアスター教の男性的要素がさらに展開しているのである。即ち、メディア界を排斥するように、現象界化しているのである。だから、メディア/現象境界の宗教と言えるだろう。そして、キリスト教は、排斥されたメディアを肯定である。しかし、不十分である。そして、イスラム教であるが、それは、メディアからイデアへの進展を意味するが、一神教という男性的要素が残っている。ゾロアスター教とちょうど極性が反対になると思う。とまれ、イスラム教は、イデア界を取り戻したと言えるだろう。仏教であるが、それは、微妙である。《空》と《無》とがあるが、《空》がメディア界で、《無》がイデア界であろう。だから、仏教もイデア界を取り戻していると言えよう。神道が仏教と習合したのは、当然だと言える。両者は、イデア界の宗教なのであるから。とりわけ、大乗仏教イデア界の宗教と言えるだろう。神道大乗仏教との結合(神仏習合)とは、宗教文化上の最高度の幸運であろう。これは、ケルト宗教とキリスト教との結合以上の幸運であろう。日本文化は、宗教的には、最高度のものをもったと言えよう。(排仏毀釈・神仏分離令脱亜入欧等という明治近代化は、この恵まれた日本文化を破壊したことになるのである。というか、排斥してしまったのである。そして、太平洋戦争という大愚行を犯して、アメリカの半植民地となったのである。伝統根源的な日本文化・社会の完全な喪失である。魂を抜かれたのである。)
 さて、問題はイデア界=太陽神・太陽処女神=善のイデアの問題である。そして、宇宙・太陽系の問題である。イデア界のどういう構造が、《太陽》性なのであろうか。不連続的差異の共立が《太陽》性なのであろう。これを数理的にはどう記述できるのか。+−を超える世界である。絶対値の世界である。超ゼロ度の世界である。そう、ガウス平面の世界である。ガウス平面上の円の世界ではないだろうか。この円が、《太陽》、原太陽なのではないか。不連続的差異を、例えば、素数の集合と考えればわかりやすいだろう。これが、円を形成する。そして、メディア界的には球体ないし球面となるのではないか。
 とまれ、ガウス平面の永遠の無限速度の円運動、これがイデア界の事象ではないか。(プラトンは円が根源的な形であると説いた。)そう、運動であり、且つ、静止である。形であり、力であり、π叡智である。形=力=智である。これが、イデア界ではないか。そして、そこには、不連続的差異であるイデアが共立・存立している。不調和の調和である。華厳宇宙である。両界曼荼羅である。
 問題は、境界の力である。これは、当然、無限大の力であろう。そして、これが、無量光(阿弥陀如来)=超光を意味するのではないだろうか。なぜ、超光になるのか。ゼロ度が光の発生である。それは、境界=無となるからではないだろうか。ゼロ度ではなくて、無である。境界という有=無である。不連続的差異は、他の不連続的差異(他者)と、共立的一致(共一と呼ぼうか)するのである。この共一性の力が超光なのではないだろうか。正に、華厳経宇宙や浄土教の世界であろう。不連続的差異・イデアの共立一致・共一した超光の充溢した世界である。超光は、超光子であろう。超光子のメディア化が光子であろう。

p.s. 神道一神教の問題であるが、神道は、男性的な意志が欠落しているから、衰退してしまっったのではないか。アマテラス=イデア界と理論化することで、神道に個的意志が入るであろう。やはり、日本・東アジアと(ポスト)西洋文明の統一としての新神道・新多神教論である。

p.p.s. 「現人神」の問題は別に考察したい。

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神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から


イデア界=太陽乙女神アマテラスとしよう。そして、それが、1/4回転して、イザナミイザナギの雌雄的ペアの神々が生まれる。イシス/オシリスの神話と同じである。だから、天皇イザナギであり、オシリスに当たる。イシス/オシリスの神話から見ると、イシスは殺害されたオシリスのばらばらの断片を集めて、復活させるのである。死から生への原理、復活・不死鳥の原理である。このイシスは、実は、イデア界に当たるのではないだろうか。生成消滅がメディア界の原理であって、復活の原理ではない。イシス/オシリス神話というものは、やはり、イデア界とメディア界を混同しているように思う。だから、先に述べたように、ハトホルをイデア界の女神とすべきように思うのである。だから、ハトホル/オシリスの神話である。
 では、極性のイシス/オシリス神話とは、何を意味するのか。また、このメディア界の神話と天皇はどう関係するのか。今、ふと思ったのであるが、太陽乙女神アマテラスとイザナミイザナギの双対神話とは、異質なものではないか、あるいは、別の時代や社会のものではないかとといういことである。沖縄の母権的な宗教が、太陽乙女神アマテラス宗教を伝えているのではないだろうか。ヤポネシア宗教である(ここで、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を想起する。)。しかし、男性神が出てくる、イザナミイザナギは別の宗教体系ではないのか。ヒミコ(日巫女、日見娘、日巳娘)は、太陽乙女神アマテラスに仕える巫女ではないのか。ならば、アマテラスの巫女としてのヒミコ(日巫女)である。これは、女性・母性・乙女(処女)の宗教的権威を想定させるのである。ここには、男性神は存しないと思う。純粋母権・乙女権的宗教である。
 そうならば、天皇とは何かということになる。おそらく、本来、アマテラスの《力》が付着するのは、巫女、女性祭司である。だから、前天皇とは女性であるはずである。では、どうして、巫女に相当するものが、女性から天皇に変わったのであろうか。日巫女から日御子(ひのみこ)への変化の問題である。これは複雑微妙な問題である。やはり、問題はイザナミイザナギ(イシス/オシリス)神話の意味にあると思う。これが、仲介となり、一種父権的な天皇制が生まれたと思うのである。【これは、また、『源氏物語』にも関係する問題である(光源氏が日御子に相当するだろう)。】(p.s. 後述したが、ここでの私の見解は間違っているので訂正する。父権的天皇制は、平安時代には生じていない。父権的天皇制の発想は、江戸時代の国学にあると考えられる。)
 今想像しているのは、ジョセフ・キャンベルの神話学である。そこでは、神話を4種類に分類している。

1)純粋母権・乙女神神話
2)イシス/オシリス型雌雄神話(夫に孕まされた女神から世界が生まれる)
3)父権神話(男神によって、女神の身体から世界が創られる)
4)純粋父権神話(男神単独で世界を創造する)

日本神話は、1と2の結合したものである。ただ、スサノオの八岐大蛇殺戮に3の要素がいくぶん、うかがえるようだが。問題は、2の神話の意味である。狩猟採集文化は、1であろう。農耕文化であるが、それが2ではないだろうか。思うに、前古代日本は、《縄文》文化(東アジア照葉樹林文化と言うべきか)において、1の宗教・神話をもっていただろうし、また、農耕文化性もあるから、2の要素もあったのであろう。すると、1と2の混淆した文化が、前古代日本文化ではなかったか。そして、そこへ、父権的文化が入ってくる。これが、天皇宗教文化をもたらしたのであろう。
 問題は、1と2は、母権神話であるが、日本国が、父権的な国になったことである。もっとも、天皇制は父権制なのであるのかという問題がある。天皇制は母権的だと思うのである。日本国が父権的になったのは、明治においてではないのか。封建制は確かに男女ヒエラルキーがあると思うが、しかし、そこには、母権的宗教が生きていたのではないか。排仏毀釈・神仏分離令は、この母権的宗教を解体して、父権的国家形成の基礎・基盤となったのではないか。すると、やはり、国学の問題がここにある。平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、神道一神教化したと言うことである。思うに、これによって、神道が父権化したのではないだろうか。そして、これがイデオロギーとなり、明治維新があるのではないか。本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分離するのがイデオロギーである。もともと、母権的宗教を核として、大陸の文化を吸収したのであるから、純粋な漢心はないはずである。これは、本居宣長のフィクションであると思う。この二項対立的発想は近代的であり、父権的である。やはり、国学に父権化の起源の一つがあるのではないだろうか。国学自体が「漢心」であろう。これは、母権的宗教の衰退があるのであろう。つまり、イデア/メディア的精神の衰退であり、メディア/現象的精神(父権的精神)の強化を意味するのだろう。これが、国学の意味ではないだろうか。この母権的精神の衰退と父権的精神の勃興が、江戸時代に生起して、明治維新の原動力となったのであろう。そして、明治天皇制は、父権制である。根源の母権的精神の衰退があるのである。ここで、折口が日本人は宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起するのである。
 思うに、明治維新前後は、古い母権的精神と新しい父権的精神の混淆状態であったように思われるのである。その「カオスモス」、メディア的エネルギーが、明治維新のエネルギーとなったのであろう。そして、極端化して、太平洋戦争となり、敗戦し、米国文明化した。しかし、問題は、古い母権的エネルギーを喪失して、父権的精神を残していることである。これが、現代、靖国問題となっているのだろう。結局、飛躍するが、日本の自立・復活は、母権的エネルギーを再生することである。これは、神道復活であろう。イデア論としての神道多神教の復活であろう。そう、平明に言えば、日本の女性が、太陽乙女神アマテラスの根源的力を取り戻すことが重要である。新アマテラス、新ヒミコとしての女性の復活である。それは、また、新天皇制ということだろう。新太陽乙女神アマテラス/新天皇をもつ新天皇制である。