イデア界の不連続的差異イデアのイメージのスケッチ

イデア界の不連続的差異イデアのイメージのスケッチ


今、ヌース理論が説かれている『光の箱舟』を読んでいる最中であるが、いろいろアイデアが浮かんでくる。ヌース理論では、イデアに4+1の5次元を想定している。それを借りて、不連続的差異論的に、素描したい。


ヌース理論のオフィシャル・ページ
http://www.noos.ne.jp/


イデア界を2次元平面ではなくて、直交三次元空間としよう。そして、イデア界を球体としよう。つまり、一つの不連続的差異=イデアは、直交三次元空間性をもつことになる。x,y,z軸を想定して、たとえば、不連続的差異(discrete or discontinuous difference:略してddとする)は、(x, y, z)の空間座標で表現される。そして、個々の不連続的差異は、dd1(x1, y1, z1)、dd2(x2, y2, z2)、・・・、ddn(xn, yn, zn)と表記できる。
 不連続的差異は、根源的志向性として、x軸±方向、y軸±方向、z軸±方向をもつだろう。これで、6通りの志向性をもつ。しかし、ここで、フッサール現象学を借りて、志向性にノエシスノエマが考えられるので、6×2=12通りの志向性の様相があるだろう。そして、これらを全体・総体とすると、プラス1で、13通りの志向性の様相となるのではないだろうか。(ヌース理論では、能動的な力としてnoos、受動的な受容力としてnosを想定している。そして、これらの対極として、noos★、nos★を考えて、4元性をみている。そして、総体として、4プラス1の5次元を見ている。) 
 さて、不連続的差異の1/4回転であるが、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnがx軸にあるとしよう。y成分、z成分はゼロとする。すなわち、
dd1(x1,0,0)、dd2(x2,0,0)、・・・ddn(xn、0,0)である。これが、1/4回転して、y軸へ移動する。これが、イデア/メディア境界であろう(y軸=イデア/メディア境界)。そして、これは、捩れて、z軸となる。即ち、(0,0,dn)となる。これが、メディア界であろう(z軸=メディア界)。
 さて、問題はここからである。z軸にある連続的差異(微分的差異)が、現象化するのであるが、このとき、積分が行なわれるのだろう。即ち、∫cdである(cdは、continuous differenceで、連続的差異、微分的差異である)。これは、さらなる1/4回転と見ていいのだろうか。つまり、z軸もゼロ度と見る場合を、そう見ていいのだろうか。理論的に、(0,0,0,α)ということが考えられるだろう。これは、4次元である。第4次元の軸をα軸としよう。そして、α軸を、x軸、y軸、z軸と直交しているとしよう。ここで、z軸の値をゼロにするには、原点(0,0,0)から見れば、可能だろう。原点をα軸にできるのだろうか。原点軸が可能だろうか。思うに、正に、ここに虚軸を考えたらどうだろうか。虚次元を考えるのである。α軸をもつ虚次元である。これは、x軸、y軸、z軸と直交する。そして、この虚次元を、現象次元とするのである。そして、これを時間軸にするのである。これで、時空四次元が成立するのだろう。この時間軸は、 ctで計測できるということだろう。相対性理論における光速度一定というのは、メディア界でのゼロ度連結の係数を意味するのではないだろうか。E= mc^2は、E=kmとなるだろう。そして、E = hνである。すると、k=hとすると、m=νである。質量=振動数である。これは、連続的差異の振動数ということなのだろう。
 連続的差異が円環を形成するとするならば、円環が波動となり、この波動の振動数が質量であろう。この円環は、思うに、連続的差異の等間隔が形成されているのではないだろうか。つまり、円環に正多角形が内接していて、それが、波動となり、振動数をもつということではないだろうか。連続的差異の個数が1個や2個のものは、今は、除外すると、正三角形の波動・振動数、正方形の波動・振動数、正五角形の波動・振動数等々、正n角形の波動・振動数となろう。そして、この正n角形の波動・振動数とは、光速度と結びついているのである。
 とまれ、このように、光速度一定の時空四次元現象界が構成されていると仮定しよう。そうすると、時間軸は虚次元であるから、空間三次元においては、時間軸はいわば透明化している。いわば、至るところに、時間軸があると言えるのではないだろうか。空間三次元に直交している時間軸は至るところにある。そして、これは、虚次元・軸としての超越論的次元・軸である。これは、z軸であるメディア界から原点(0,0,0)へ移動して、発生した虚視点である。これは、メディア界からの1/4回転と見ていいのだろう。
 だから、現象界とは、連続的差異で構成されるメディア界の《影》である。メディア界の《幻影》である。時間軸は、連続的差異のゼロ度である。つまり、不連続的差異のゼロ度のゼロ度である。思うに、このゼロ度のゼロ度が光速ではないだろうか。これまで、最初のゼロ度において、光速の発生を考えてきたのであるが、それは違うのではないだろうか。最初のゼロ度、最初の1/4回転とは、エネルギーの発生であり、原光速の発生ではないのか。超光速ではないのか。そして、これが、さらなる1/4回転で、現象界の光速になるのではないだろうか。ここで、ドゥルーズガタリが内在平面を無限速度で強度が貫くというようなことを述べていたことを想起する(『哲学とは何か』)。メディア界での原光速ないし超光速が、この無限速度なのではないか。内在平面をメディア界と取ることが妥当でもある。そう、最初の1/4回転、ゼロ度連結とは、無限速度のエネルギーを発生させるのではないだろうか。それが、超光速のエネルギーを発生させるのではないだろうか。もしそうなら、それは、原光、超光である。敷延すると、それは、ダークエネルギーではないだろうか。D.H.ロレンスの言ったダークゴッドdark godに当たるのではないだろうか。そして、それが、無量光(阿弥陀如来)ではないだろうか。「光あれ」といった旧約聖書の神とは、そうすると、ダークゴッドではないだろうか。
 ならば、これまで、考えてきたイデア界の《太陽》はどうなるだろうか。それについて考察する前に、簡単に整理しておこう。メディア界からの1/4回転で、現象界が発現する。メディア界とは構造であると言えるだろう。つまり、連続的差異という構造がメディア界であり、このゼロ度連結が現象ということである。通常、イデアと呼ばれているものは、この構造・メディア界を指していると考えられる。そして、これは、超越論的次元である。あるいは、内在(平面)的次元である。ここで、注意すべきは、この超越論的次元と時間軸との区別である。『光の箱舟』で相対性理論の時空四次元と、キュービズム等の四次元を区別しているが、それと同様に、ここでも区別されなくてはならないだろう。超越論的次元であるメディア界とは、空間三次元の現象界から見たら、いわば、第四次元であろうし、時間軸とは、根源的三次元直交空間から見たら、第四次元である。
 では、イデア界の《太陽》とは、どう考えたらいいのだろうか。ここで、光について、整理しよう。最初のゼロ度で、超光速が発生するとしよう。これは、不連続的差異のゼロ度連結である。このエネルギーは、E=mc^2で、記述していいのだろうか。超光速なのであるから、これはまずいだろう。なので、少し前に戻って考え直さないといけない。どうも、ドゥルーズガタリの内在平面の考えを入れて混乱したようなので、それを除いて考え直そう。ゼロ度のゼロ度が、光速ではないかと言った。ゼロ度のゼロ度とは、時間軸の形成である。それは、時空間の発現である。換言すると、カントの超越論的形式にほぼ相当するだろう。しかし、これは、相対性理論の時空間ではない。ガリレオニュートンの時空間である。ならば、ゼロ度のゼロ度とは、光速ではないだろう。やはり、最初のゼロ度が光速なのであろう。これで、元にもどったことになる。メディア界は光速が支配するのである。
 では、ドゥルーズガタリの内在平面の無限速度の強度とは何を意味するのだろうか。不連続的差異論は、ドゥルーズ哲学において、不連続的差異と連続的差異とが混同されていることを指摘し、その区別を理論的基礎、原理としている。だから、この場合も、その混同が考えられるのでないだろうか。即ち、内在平面とは、イデア界とメディア界との混同である。また、無限速度とは、光速との混同である。強度とは、エネルギーの混同である。つまり、ドゥルーズガタリは、イデア界の事象をもメディア界の事象にしていると考えられるのではないか。そうならば、イデア界において、無限速度があり、強度があることになるだろう。ということで、これまでの考え方に戻ったのである。ゼロ度のゼロ度を光速としたことで、混乱したのである。

 さて、ここで、近代主義の構造を問題にしたい。それは、現象界を前提にした世界観である。メディア界が、連続的差異の領域ならば、現象界は、連続的差異の連続化によって発現する連続的同一性の領域である。この連続的同一性が《物質》とされているのである。しかし、これは、上述のように、虚次元である時間軸によって発現(仮現・仮象)されたものであり、一種虚像である。メディア界の影としての現象界である。(そして、メディア界が構造である。)この現象界を実像として、表象して、形式的に数字化したのが、近代科学である。これは、影の科学である。本当の光とは、メディア界にある。現象界の光とは、メディア界の光の影に過ぎない。(ここで、D.H.ロレンスの黒い太陽dark sunを想起するが、それは、メディア界の太陽を指しているのだろう。)
 近代科学は、この影である現象を対象にしている。そして、本来の光を排除・隠蔽している。この潜在したメディア界の光を探求したのが、文学・芸術では、ロマン主義象徴主義、「モダニズム」、シュールリアリズム等であろう。思想・哲学では、構造主義である。深層心理学、神話学、言語学もそこに含まれる。自然科学では、相対性理論量子力学である。つまり、近代主義の現象界的主客二元論を否定したのである。(ここで、近代主義の二元論の発生を考えると、対象として連続的同一性である物体がある。それに対して、連続的同一性である自我主体がある。これら二つの連続的同一性である主体と客体が近代的二元論を構成していると言えよう。)
 では、構造主義ポストモダンないしポスト構造主義はどういう関係にあるのか。思うに、これは、簡単に言えば、メダルの両面の関係に過ぎないのではないだろうか。つまり、メディア界を形式と取った場合は、構造主義であり、メディア界を動態で考えたとき、ポストモダンないしポスト構造主義になるのではないだろうか。例えば、メディア界を対極性ないし相補性と見ることができる。これは、プラスとマイナスの交換可能な形式をもつ。これは、構造主義の発想である。しかし、メディア界を動態として見ると、変容するエネルギーとなる。ドゥルーズガタリが言った生成変化とはこのことであろう。また、デリダ脱構築主義は、連続的同一性の脱構築であり、それによって、不確定の事象が発現するのであり、それが、メディア界の動態である。(私は以前、ポスト構造主義に対して、脱構造主義という言葉を造語したが、言葉通りならば、脱構造主義とは、脱メディア界主義でなくてはならないだろう。それは、イデア界化である。)
 ここで、大澤真幸氏のアイロニカルな没入(ポストモダンとプレモダンの入れ替え可能性)を考えると、それは、構造主義の問題となるだろう。即ち、連続的差異の構造の問題である。連続的差異とは、連続性をもつのであり、この連続性が、全体主義を志向すると言えるだろう。そして、それが、原理主義軍国主義等を引き寄せるのである。ポストモダンポスト構造主義の時代とは、なんらかの全体主義を引き寄せるたいへん危険な時代であると言えよう。
 そこで、脱ポストモダン、脱ポスト構造主義が必要となるだろう。それは、イデア界への回帰である。もっとも、丁寧に言うならば、ポストモダンにおいては、反動路線と能動路線があるのである。二つのポストモダンである。なぜならば、メディア界とは、構造の世界であり、また、エネルギー的生成変容の世界であるだけでなく、特異性の世界でもあるからである。このことも、ドゥルーズは、キルケゴールニーチェの思想を受けて、説いていたのである。問題は複雑である。メディア界は、二つの二重性をもつのである。連続的差異における極性・相補性である。プラスとマイナスの極性構造である。これが一つである。もう一つは、不連続的差異性と連続的差異性の二重性である。そして、ポストモダンが反動ではなくて、進展するには、後者の二重性に注意して、不連続的差異を選択すべきである。しかし、これは、内在的には、特異性として現れるのである。これは、また、共感倫理性でもある。そして、この特異性、共感倫理性が、連続的差異ではなくて、不連続的差異であることを認識する必要があるのである。内在的特異性・共感倫理性を不連続的差異であると認識することで、メディア界の連続性から離脱して、イデア界へと進展できるのである。連続的ポストモダン、メディア的ポストモダンから不連続的ポストモダンイデアポストモダンへと前進すべきなのである。これを不連続的差異論は説いているのである。ポストモダンの超克としての不連続的差異論である。
 最後に気になることを付け加えると、モダンアートとは何であったのかである。それは、以上の考察から、メディア界のアートであると言えよう。それは、ポストモダンの不連続性/連続性の二重性から見ると、そのような二重性をもっていると言えるのだろう。私の直感では、ジャクソン・ポロックの絵画には、不連続的差異性があると思う。それは、共感倫理性なのである。また、マーク・ロスコの絵画にも、不連続的差異性がある強烈にあると思う。ジョージア・オキーフの絵画にもあるし、フリーダ・カーロの絵画にもあるだろう。結局、モダンアートとは、ポストモダン・アートであり、同時に、不連続的ポストモダンを指示しているのである。
 では、不連続的差異アートとは何だろうか。それは、差異共立共創アートであろう。

参考:抽象表現主義

http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/T/Twenty/AbExp.htm