死のエネルギーとイデア界

先に述べたことは齟齬を来しているようなので、ここで、練り直そう。即ち、死のエネルギーを、一方では、イデア界の侵入と言っておきながら、他方では、それをマイナスのメディア・エネルギーと言っているのである。これは、完全に齟齬、矛盾である。丁寧に見ていこう。
 これは、先に探究したメディア界の三元性に関係するのである。即ち、特異性/相補性/同一性、あるいは、潜在力/エネルギー/運動力である。この三元性がメディア界に存していることを決して忘れてはいけない。つまり、メディア界は正にメディアであり、仲介・中間界であるのである。両端において他の世界と接しているのである。
 イデア界の侵入としての死のエネルギーとは何であろうか。これは、イデア界の回転によって賦活された死のエネルギーと見ることができるだろう。始点は、あくまでも、イデア界である。イデア界における回転が、メディア・エネルギーを賦活するのである。この場合は、死のエネルギーである。即ち、イデア界の力の変化がメディア界に変動をもたらすのだから、死のエネルギーの発動をイデア界の侵入と呼んでもおかしくはない。イデア界の変化がメディア界を賦活することを、イデア界の侵入とやや大げさだが呼ぶことは誤りではない。これで、齟齬を解消しただろう。
 さて、次に、スピノザ哲学に触れて述べたことに関して、もう少し述べてみたい。先に、歓喜の情は、イデア界の共立性から生まれて、それと能動的観念とが結びついて、反動的な死のエネルギーを(破壊的)創造的エネルギーに変容すると述べたのである。これは、どういうことであろうか。つまり、イデア界は精神性、叡知性があるのであり、メディア界は動的、ダイナミックであるということであり、イデア界の《叡知》によって、メディア界の死のエネルギーが、破壊力をもちながらも、創造的エネルギーに変容するということだろう。つまり、イデア界の共立性による共感倫理という叡知によって、メディア界の死のエネルギーは、反動性ではなく、能動的積極的な創造的エネルギーに変容するということである。この変容のポイントが重要である。つまり、イデア界の差異共立性の共感歓喜の情である。これは、叡知的である。理性である。それに対して、メディア界のエネルギーは、力であり、反動にも能動にもなる。しかし、死のエネルギーの場合は、当然、攻撃・破壊的であるから、あるいは、解体的であるから、現象界的には、反動性を帯びやすいだろう。つまり、現象界の同一性を解体する志向をもつから、同一性の自我にとり、攻撃・破壊的である。死のエネルギーの解体主義は、攻撃・破壊主義である。これは、情動・欲動の領域である。それに対して、イデア界の共立共感歓喜倫理は、叡知・理性として作用するのである。これが、ポイントなのである。これが変容契機なのである。イデア界の共立共感歓喜倫理理性が生動化することで、死のエネルギーの野性が陶冶されるのである。教養ある、秩序形成的創造的エネルギーに変ずるのである。ここで、能動的観念をも忘れてはいけない。即ち、イデア界的共立共感性と能動的観念をもって、死のエネルギーを陶冶して、秩序構築的創造エネルギーに変化させるということである。つまり、コスモス的創造エネルギーにするということである。
 だから、先にも述べたように、ポイントはイデア界の共立共感的歓喜なのである。メディア界において、イデア界の《叡知》の花園がなければ、野性・野蛮な死のエネルギーが、他者を、社会を自己中心的に、利己主義的に、破壊するのである、例えば、ホリエモンのように。