死のエネルギーとルサンチマンの攻撃・破壊衝動の「差異」について

死のエネルギーとルサンチマンの攻撃・破壊衝動の「差異」について


ルサンチマンの攻撃・破壊衝動はよく解明できるのであるが、果たして、死のエネルギーの攻撃・破壊衝動は解明できているのだろうか。
 精緻に考えてみよう。死のエネルギーとはマイナスのエネルギーであり、プラスの連続・同一性のエネルギーとは正反対の性質をもつものであり、脱連続・脱同一性化のエネルギーであり、脱構築・解体・脱構造のエネルギーであり、《差異》化のエネルギーである。この生起・発生の力学構造はどうなっているのだろうか。これは、素粒子・量子発生の構造でもあるのだが。これまでの考察では、それは、イデア界における第3番目の回転に拠るものであるが、これは、同一性の現象界の力学が解体することを意味すると考えられる。差異1=差異2である同一性の現象界に、いわば、ひびが入るのである。あるいは、ゆらぎが発生するのである。これは、19世紀末から20世紀初期の西欧の諸芸術で生起した事象である。(ドイツ文学のホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」を想起する。もちろん、所謂モダンアート【ほんとうは、ポストモダン・アートと呼ぶのが適切である】が正にそうであるが。)また、哲学ではニーチェフッサール、自然科学では相対性理論量子力学である。
 脱同一性として、相補性・陰陽性が復活するのである。(これは前期ポストモダン、20世紀後期のポストモダンは後期ポストモダンと呼べるだろう。)同一性にひびが入り、そこに相補性のゆらぎが発生するのである。相対性の発生である。デリダ脱構築主義の先駆である(思うに、デリダ脱構築主義は、それほど独創的ではないのではないだろうか。それは、前期ポストモダンの焼き直しの面が強いと思う。)。
 問題は、このゆらぎの発生の意味するものは、ここでとどまらないことである。イデア界の根源力・1/4回転力・虚力(i力)は、相補性からさらに進展することを志向するのである。つまり、差異1☯差異2の相補性の事象(メディア界)から差異1/差異2であるイデア界へと再帰・回帰(反復)すると考えられるのである。相補性がゼロ化ならば、イデア界化は境界化である。つまり、不連続化、不連続的差異化である。差異1/差異2、差異1≠差異2の事象である。
 以上、簡単に死のエネルギーの力学構造を見たが、これを攻撃・破壊衝動と見てきたが、それでいいのだろうかという疑問が浮かぶのである。ここで、特異性=単独性(singularity)の問題を入れて考えよう。第3番目の1/4回転とは、脱同一性化、相補性の導入、再メディア界化であるが、問題は、それだけなのかということである。この第3番目の1/4回転、即ち3/4回転は、差異1☯差異2であるばかりでなく、当然、差異1/差異2の不連続的差異性=特異性=単独性を内包していると考えられるのである。差異のゼロ化、再ゼロ化であるが、このゼロ化(捩れ)とは、同時に、イデア界、不連続的差異=特異性=単独性の開示でもあるだろう。もっとも、全面的な開示ではなくて、いわば混淆的な、カオスモス的な、両義的な開示である。一方の極では、相補性があり、他方の極では、境界性・不連続性があるのである(ポスト構造主義、とりわけ、ドゥルーズガタリの哲学の領域である)。だから、第3番目の1/4回転、3/4回転とは、単に相補性だけではなくて、イデア界の不連続的差異の共立・直立である特異性=単独性を内在していると考えることができるのである。
 そのように考えると、死のエネルギーの攻撃・破壊衝動とは何であろうかということが大きな問題となるのである。現象界の同一性の力学に対して、確かに、死のエネルギーは攻撃・破壊衝動となるのは確かである。しかし、それは、ルサンチマンの攻撃・破壊衝動とは反対で、反動ではない。それは、能動的な攻撃・破壊衝動である。つまり、創造的破壊衝動なのである。つまり、ルサンチマンは反動的攻撃・破壊衝動であり、死のエネルギーは創造的攻撃・破壊衝動であるということである。否、正確に言えば、死のエネルギーはイデア界的共立・直立的特異性=単独性の創造的攻撃・破壊衝動をもっているということである。これは、イデア界的エネルゲイアであり、東方キリスト教が説く《神のエネルゲイア》に通じるものと考えられるが、もっとも、その場合、《神》とはイデア界と考えないといけない。(SF作家フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』、『聖なる侵入』等の異次元は、やはり、基本的には、イデア界と見るべきである。そう、グノーシス主義の至高神とは、イデア界と見ないといけない。)
 結局、本件の問題をまとめると、死のエネルギーの攻撃・破壊衝動とは、ルサンチマンのそれとはまったく様相が異なるもの、正反対の様相であるのである。即ち、能動と反動の「差異」があるのである。また、さらに言えば、この死のエネルギーは、強度の情動性を帯びているものであり、主体にとりたいへん危険なものである。つまり、そのままでは、主体を破壊する恐れが強い。ドゥルーズガタリが説いた「精神分裂症」になるのである。しかし、不連続的差異論の見地からすると、イデア界の不連続的差異という知をもつことで、死のエネルギーは理念的知性化されて、真に能動・創造的エネルギーに変容すると考えられるのである。つまり、死のエネルギーの《イデア》化である。死のエネルギーの理念的知性・合理化である。即ち、死のエネルギーの能動・創造的攻撃・破壊衝動は、不連続的差異的イデア化を介すことで、理念的知性・合理性化して、健全な新社会構築エネルギーに変容するのである。