ユダヤ/キリスト教西洋文明は地球の癌細胞であり、ガイアはイデアコ

ユダヤキリスト教西洋文明は地球の癌細胞であり、ガイアはイデアコスモス共立資本文化文明へ進化する


先の同一性に関する考察では、ヤハウェ=同一性構造(+の二回目の1/4回転)=アーリマン=ルシファー=ルサンチマン(=西欧近代的自我:この点は、言及しなかった)となったのであるが、つまり、ユダヤキリスト教の神は悪魔(ゾロアスター教で言う悪神アンラ・マンユグノーシス主義で言う邪悪な創造神デミウルゴスに相当するだろう)であることになったのである(イエス・キリストとは、イデア界と見ないといけない。だから、グノーシス主義のイエスが本来の像に近いと思う)。
 問題は、+の1/4回転の意味である。回転以前の領域、この場合は、メディア界であるが、このメディア界と+1/4回転の関係である。確かに、ここには、抑圧・排除・排斥・隠蔽等の暴力があるが、これは、外在的暴力=内在的暴力である。自己内他者である差異と自己外他者である差異への暴力的排除・排斥である。つまり、+1/4回転の暴力的メカニズムは、同一性による差異への排除・排斥的志向性(暴力・攻撃衝動)をもつ。これは、意志というよりは、衝動であり、言わば、止まらないものなのだろう(父権的暴力であるが、プロテスタンティズムアメリカ、ユダヤ教イスラエルは、いわば、国家暴力団である)。
 問題は、この二項対立(二値問題)が、基礎は一元論であるが、事象としては、二元論であることである。即ち、ヤハウェに対して異教・多神教偶像崇拝(「悪魔崇拝」)があるということである(これは、同一性構造による差異的自然の排除である)。つまり、異教・多神教偶像崇拝は歴然として存在しているのである。これは、一種倒錯的構造である。ヤハウェは、自己の同一性(アイデンティティ)のために、敵を必要とするのである。異教・多神教偶像崇拝の存在によって自己確認しているのである。つまり、自律的ではなくて、他律的な神なのである。換言すると、情けない神である。自立していないのである。敵にもたれかかっているのである。いわば、癌細胞である。
 結局、+1/4回転とは、絶対的には、他者である差異を排除していないのである(他者である差異への排除衝動があるのである)。正に、二項対立のヒエラルキー構造(hierarchical binary)ということである。父権制・封建構造である。もし、ここで、ヤハウェが精神ならば、敵は身体である。そして、これは、正に、ポストモダンが問題にしたものである。とりわけ、デリダが問題にしたものである。しかし、この+1/4回転の捩れによる二項対立は、単純に転倒すれば済む問題ではない。何故なら、排除・排斥される差異とは、単に身体性ではなくて、本来は、差異関係であるからである。この場合はメディア界である。差異1☯差異2というメディア界を排斥・隠蔽しているのである。つまり、+1/4回転は、同一性構造を形成するが、そのとき、差異を排斥する形となるが、しかし、正しく言えば、排斥されたのは、差異1☯差異2というメディア界である。だから、同一性である知性・精神に対して、差異を身体とするのは、短絡的である。差異は、メディア界である。つまり、心身界である。また、これは、量子・素粒子界である。
 ポストモダン理論は、メディア界を掬い上げたと言えよう。脱構築とは、同一性の解体である。また、ドゥルーズの差異哲学も、同一性の解体である。しかし、そこで停滞してしまい、袋小路となり、衰退したと言えよう。とまれ、脱同一性構造としてポストモダンポスト構造主義があり、差異としてのメディア界を肯定したことになるのである(しかし、身体論は短絡的である。心身論が正しい)。そして、これは、死のエネルギーの賦活である(ここで、先に述べた現代の精神・社会病理は、この賦活された死のエネルギーを同一性・二項対立構造が反動的に抑圧・排斥することから発生するとまとめることができる)。
 現代をポストモダン・エラないしポストモダン・エポックと呼ぼう。しかし、これまでのポストモダン理論(ポスト構造主義も含める)は、中途半端であった、あるいは混乱・混濁していたのである。とりわけ、ドゥルーズガタリの理論がそうである。なぜなら、メディア界には、イデア界が内在するからである。このイデア界とメディア界とを区別する必要があるのである。それが、これまで、不明確・不明晰・不分明であったのである。換言すると、メディア界の相補性の力学にイデア界が巻き込まれていたことになる。これは、ドゥルーズの差異哲学に顕著であると思われる。不連続的差異(特異性、単独性、絶対的差異 singularity)と連続的差異(微分=差異)の混同である。半田広宣氏は、不連続的差異の直立と表現されていたが、この直立性が問題にされないといけないのである。思うに、最初の1/4回転において、この直立がいわば排除されるのだろう。そして、ゼロ化による連続化が発生するのである。この直立とは、メディア界(メディア平面、内在平面)に直交するのではないだろうか。便宜的に、イデア界をX軸、メディア界をY軸、現象界をZ軸にすれば、確かに、イデア界はメディア界に直交しているのである(本当は、メディア界・メディア平面は、Y軸とZ軸が形成する平面だろう)。おそらく、イデア界において、理念である点としての無数の不連続的差異があり、それが、直立且つ共立しているのであり、それが、最初の1/4回転によって、ゼロ化して、連続化し、不連続的差異相互で、相補性を形成するということだろう。ドゥルーズ自身は、直立のことを知らないのではなかったが、それと連続的差異との区別を明確に理論化しなかった。そのために、内在平面は、イデア界とメディア界との混淆したものになっているのである。思うに、ドゥルーズガタリは、共立平面・存立平面のことを述べていたが、これと内在平面との分明があいまいなのである。共立平面・存立平面がイデア界で、内在平面をメディア界とすれば、明確・明快・明晰になると考えられるのである。彼らの最後のコラボレーションである『哲学とは何か』は、この混同が生じている。(ドゥルーズガタリのコラボレーションであるが、どうもドゥルーズ自身にとって、認識が混濁してしまった面があったのではないだろうか。ガタリニーチェ嫌いであったのである。どうも、ニーチェ的な特異性・単独性の面が、共作において、排斥されてしまったのかもしれない。)
 以上から、ポストモダンは、メディア界そしてイデア界を内在しているものであることがわかった。現在におけるポストモダン「革命」の問題は、メディア界からイデア界への前進・進展である。不連続的差異論はこれを説いているのである。ポスト・ポストモダンないしディー・ポストモダン・脱ポストモダン depostmodern、あるいは、ラディカル・ポストモダン、根源的ポストモダン、不連続的ポストモダン等と呼べるだろう。ポストモダン・エラ、ポストモダン・エポックの死のエネルギーは、イデア界を志向しているのである。特異性・単独性・不連続的差異の直立的共立を志向しているのである。再イデア界化、イデア界への回帰、永遠回帰である。そして、これは、ポスト西洋文明、ポスト・ユダヤキリスト教的西洋文明、即ち、新しいイデア・コスモス地球文明を意味する。
 現代、ユダヤキリスト教西洋文明の反動的死のエネルギーによる同一性構造が暴虐を振るっている。それに対して、能動的死のエネルギーによるイデア界への回帰志向が世界的に発動していると考えられるのである。このコスモス史的闘争が、《ハルマゲドン》というか《逆ハルマゲドン》である。逆黙示録的終末論があるのである。ヨハネ黙示録のキリストとは、ヤハウェであり、悪魔である。だから、アンチ・キリストとは、アンチ・ヤハウェ、アンチ・悪魔であり、《超人》である。不連続的差異人間である。コスモス人である。homo cosmicoである。資本主義は、コスモス的資本主義となるだろう。不連続的差異の直立・共立を志向するコスモス経済である。資本は、共立資本となるだろう。資本主義が同一性(交換価値)によって支配されているものなら、これは、不連続的差異の直立・共立によって志向される経済であるから、脱資本主義、ポスト資本主義である。コスモス共立資本経済である。


尚、以上は、以下の考察における追記p.s.を独立させたものです。


「同一性に関する諸問題:同一性構造とメディア界から、不連続的差異のイデア界へと参入する」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10010013089.html