同一性に関する諸問題:同一性構造=アーリマン=ルシファー=ルサン

同一性に関する諸問題:同一性構造=アーリマン=ルシファー=ルサンチマンヤハウェ


以下は、メモ書きしたもののだいたいの転写です。乱筆で、我ながら、判読できない箇所がありますが、修正を施しつつ、ほぼ読み取れるままに筆記します。
 尚、シュタイナー霊学の悪魔論、アーリマン、ルシファーに関しては、以下のサイトを参照:http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/18209276.html  ________________________________

問題はヤハウェの意味である。「我ありてあり余れるものなり」。「あり余れる」とは何か。これは、イデア界性だろう。だから、ヤハウェは、イデア界→メディア界→現象界の志向性であろう。つまり、メディア界から現象界への同一性構造の様相ではないのか。
 換言すると、メディア界のプラスの様相である。イデア界に接したメディア界の1/4回転様相ではないか。
 問題は、ヤハウェの「ルサンチマン」である。又、二回目の1/4回転の問題である。ヤハウェは異常に暴力的である。単純な二回目の1/4回転がそれほど暴力的になるだろうか。ゼロ化が両義的であることを考えれば、同一性構造は、ヤハウェのように暴力的ではないだろう。そう、同一性構造は、同一性の志向性と見るべきだ。だから、差異においてある同一性志向性であり、暴力的であっても、ヤハウェのよな暴虐性はない。 
 とまれ、二回目の1/4回転=ゼロ化の同一性志向性構造を「アーリマン」とすれば、ルサンチマンは「アーリマン」ではありえない、考えを訂正しないといけない。同一性志向構造=「アーリマン」とすれば、ルサンチマンが「ルシファー」に相当するのではないか。では、ルサンチマンとはヤハウェとは。ヤハウェ=「ルシファー」説である。ヤハウェは明らかに傲りの境位にある。単純な同一性構造自我性は、ヤハウェのような途方もない毒々しさ、禍々しさはない。「あり余れる」ヤハウェ、これは「力」を感じさせる。エネルゲイア。問題は、プラスの展開である。このとき、それ以前の様相は否定されるだろう。つまり、プラスの展開、プラスの志向性、前進的2つの1/4回転においては、(・・・)二項対立構造が生起するのではないのか。ヤハウェの場合、捩れて、二回目の1/4回転にあり、そのいわばプラスの捩じりにおいて「我あり余れる」になるのではないのか。非常にドライな、暴虐的な攻撃衝動となるだろう。この二回目の1/4回転において、メディア界を排除、隠蔽しているのだから、当然、共感性はない。
 そのように考えると、同一性構造である「アーリマン」と「ルシファー」(ルサンチマン)は等しくなるのではないか。二回目の1/4回転で同一性構造=「アーリマン」が形成されるが、同一性構造=「アーリマン」即「ルシファー」=ルサンチマンヤハウェではないのか。だから、二回目の1/4回転には、2つの様相があると言うべきであり、一つは、同一性構造=「アーリマン」であり、一つは、ルサンチマン=「ルシファー」=ヤハウェではないだろうか。簡単に言えば、「アーリマン」=「ルシファー」=ヤハウェだ。こう考えればすべて明瞭だ。
 さて、次は、マイナスの展開である3/4回転、4/4回転の問題である。ここで、死のエネルギーが出てくるのである。一回目、二回目の1/4回転では、ルサンチマンの破壊衝動を生む。しかし、三回目、4回目では、死のエネルギーの破壊衝動が生まれると考えられる。現代、ポストモダン・ピリオドにおいて、このマイナス・エネルギーが賦活されていると考えれる。ここにおいて、反動が大きな問題となる。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の問題も近代主義でプラスエネルギーである(この箇所は判読不明の部分あり)。しかし、ポストモダンではマイナス・エネルギー、解体エネルギーが発生している。だから、ポストモダン・ピリオドとは、過渡期として、「転形期」として、プラスとマイナスが入り混じるのである。問題はこの「カオスモス」である。ここには、混乱が生まれるだろう。正反対の志向が生起しているのだから。ここには、ルサンチマン+αがある。つまり、「形而上学」的志向である。つまり、自我絶対主義、自我の超越神化があるのである。これが、原理主義やカルトを生むのだろう。また、ここには、ホッブズの思想的事態がある。
 ここにおいて、ブレイクスルーのポイントは、当然、特異性の絶対性、即ち、不連続的差異性である。(以下判読できず:マイナス・エネルギーが解放されるとは、両義的となる、即ち、同一性が差異性となる。ドゥルーズは、この問題をクリアにしなかったが、)同一性と差異性の両極性が、マイナス・エネルギーの解放によって、生じる。この事態がポストモダン・ピリオドに生じているのである。この不確定、不安定な様相において、(以下、判読困難:短絡的ながら、同一性は・・・これは、ポストモダン・エイジである)。両極的、パラドクシカルな様相において、人は、判断するのに当惑するのは、結局、難解であるからである(?)。人は一般に、同一性を選択するのである。これは、ホリエモンがある意味で典型である。
 これは、ポスト構造主義の問題である。再領土化という同一性による反動である。脱領土化を進展させないといけない。ここで、不連続性が核心となるのである。つまり、差異の不連続化によって、同一性が・・・?脱して、イデア界へと志向するのである。差異共立へと志向するのである。(絶対的差異・・・?。)
 ところで、問題に反動がある。(・・・数行程度、判読できず。)問題は、・・・、二回目の1/4回転が終わり、三回目の1/4回転が始まるときである(?)。このとき、形而上学的志向が新たに発生する。あるいは、再宗教的衝動である。つまり、再メディア界化であり、このときに、イデア界が入ってくるのである。(以下、二十行程度続くが、冗長なので、要旨を書く。) 
 この再メディア界化において、両義的志向がある。即ち、イデア界への志向と同一性・現象界への志向である。しかし、マイナス・エネルギーは、イデア界を本来、志向しているのであり、同一性・現象界を志向するのは反動である。しかし、メディア界において、特異性はありながらも、それは、連続化と、言わば、混淆しているのであり、それを不連続性として、把握することは、困難である。ここでは、再同一性化への危険があるのである。「アイロニカルな没入」の危険があるのである。そして、ポスト構造主義は、この地点で、留まってしまったと考えられるのである。ドゥルーズ自身、イデア界的な発想をもちながらも、それを、真に独立的に取り出すことができなかったのである。真にイデア界に達するには、連続的差異ではなく、絶対的差異の発想が必要なのである。マイナス・エネルギー(死のエネルギー)は、イデア界を志向しているのであるから、この再メディア界化においては、絶対的差異、即ち、不連続的差異を認識しないと、メディア界の連続性の力学に囚われることになり、袋小路になるのであり、実際、ポスト構造主義はそうなったと考えられるのである。絶対的差異、不連続的差異を意識することで、再メディア界化から再イデア界化へと進展する方向が開けたと言えよう。
 では、具体的に、現象界において、あるいは、今日、ポストモダン・エイジにおいて、どうやって、特異性・単独性をもって、絶対的差異・不連続的差異、半田氏が説く不連続的的差異の直立を確認することができるのかが大きな問題である。平明に言えば、どこにとっかかりがあるのかということである。今日、コミュニケーションが強く説かれるのが、コミュニケーションは、いわば、メディア界の事象であるから、ここに支点を置くわけにはいかないだろう。つまり、コミュニケーションは、連続性ないし同一性を前提にしているから、ここでは、役に立たないのである。創造性が問題なのである。まだ見ぬ地平を探求するのであるから、それ以外のものでなくてはならない。
 この問題は、後で詳論するつもりであるが、一言言えば、意識を身体化することが必須ではないかと思うのである。知性を身体化することであり、また、逆に、身体を知性化することが原点となるのではないかと思うのである。つまり、心身の開発である。それにより、メディア界を賦活するのであり、その賦活された心身メディアが前提となって、絶対的差異・不連続的差異を理念として知的に確認できるのではないかと思うのである。この心身開発は、難しい問題がある。ここにおいては、しっかりとした、明確な、明晰な合理的知性が必要である。そうでないと、神秘主義化したり、神懸かりになるだろう。おそらく、禅の瞑想はすぐれた方法の一つなのだろう。私としては、身体的開発と同時に哲学書の読書を奨めたい。身体と知の両面がなくては、絶対的差異・不連続的差異に達することはできないだろう。思惟と延長を包摂した理念である絶対的差異・不連続的差異なのであるから。