同一性、ルサンチマン、近代的自我:同一性構造と差異的他者:特異性

同一性、ルサンチマン、近代的自我:同一性構造と差異的他者:特異性・不連続的差異進化へ向けて


メディア界からの1/4回転で、現象界が生じる。このとき、メディア界のもっていた相補性☯が隠蔽されて、同一性が生じるのである。それが、現象界の意味であり、近代的自我とはその究極的な形式だと考えられるのである。
 意識の問題をここでは考えないといけないが、メディア界において、差異1☯差異2ないし差異1⇔差異2というように双方向性がある。ヌース理論では、双対性と呼ばれるものである。この☯、⇔、双対性が排斥されて、現象界自我が生起するのである。図式化すれば、差異1=差異2である。この変換構造をどう形式化できるだろうか。これは、メディア/現象境界の構造の問題である。この境界、MP境界は、簡単に記号化すれば、☯/=である。メディア界の相補性の極性が、現象化する際、消失無化されるのである。換言すると、ゼロ化から無化である。メディア界においては、自己である差異1にとって、他者である差異2は、無くてはならないものであった。つまり、対極性・極性における他者・他極としての差異2であったから、その差異性が絶対に必須であったのである。しかし、さらに1/4回転したとき、無化が生じる。そのとき、極性が消失して、志向性は差異性ではなくて、同一性となると考えられよう。ゼロ化の志向性は極性ないし極性的差異性、相補性的差異性である。それが、無化の志向性となるのが、現象化である。極性がなくなり、差異性がなくなり、真の他者がなくなる。その替わりに、同一性化した他者が存するのである。あるいは、当為としての同一性の他者と言ってもいいだろう。これが、ドゥルーズが述べた構造としての他者であると考えられる。ここでは、ゆらぎが排除されている。完全なる二項対立、二元論の世界である。差異1=差異2である。半田広宣氏が、ラカン鏡像段階に言及して述べていた同一性がここで発生しているのであるが、私としては、鏡像段階という概念を使用せずに説明したいのである。自己である差異1が他者である差異2と等価になる。これまで、志向性は、差異的であったが、現象化においては、志向性は同一性的、同一化的である(id: identification, identity化である)。ここでは、イデア界にあった境界が完全に消失・無化されているのである。不連続的差異の完全な転倒である。ここでは、無という同一性が支配的である。そう、これは、本来、非存在なものであり、いわば、幽霊なのであるが、現存在していると見えるのである。(ここで、イギリスの詩人・版画家のウィリアム・ブレイクが、悟性機能を幽霊spectreと呼んでいたのを想起する。)
 とまれ、この無=同一性の発生によって、差異1は差異2となり、差異2も差異1となるように強いられるのである(正確に言えば、差異1は、同一性化された差異2となり、差異2は、同一性化された差異2になるように強いられるということである)。ここには、同一性の暴力があるのである。そして、意識が志向性であるならば、ここでは、志向性は無=同一性になっているのであるから、同一性の意識がここにある。これが、自我、とりわけ、近代的自我である。
 では、どうして、これが、二項対立、二元論となるのだろうか。ここは、旧約聖書ヤハウェを想起するといいだろう。ヤハウェは、イスラエルの民が、自分の命ずるところを聞かず、偶像崇拝を続けるので、復讐心に燃えて、異教を暴力的に排除しようとするのである。この異教排除が、二項対立、二元論と同型であると言えよう。超越一神であるヤハウェは、多神教を排除するのである。【ここで、興味深いのは、神はエローヒーム(複数形:つまり、神々である:D.H.ロレンスが、旧約聖書は、多神教の世界であると驚くべきことを『黙示録論』の補遺で述べていたことを想起する。)という名をもっていたことである。これは、思うに、ヤハウェの影である。つまり、メディア界における自分がそれであり、それを、いわば、異教へと投影して、攻撃していると考えられよう。】このヤハウェが同一性の起源であると言えるだろう。これは、異教=差異を排除しないではいないのである。ここで、実に興味深い、意義深いことは、同一性の力学・暴力は、当為でしかないことである。つまり、差異は、差異として、現象界に存在していることである。これは、最高度に喜ばしいことである。救い、「福音」である。
 ここで、もう一度、現象化の図式を考えよう。メディア/現象境界は、差異1☯差異2/差異1=差異2であり、現象化とは、差異1=差異2である。つまり、差異1・同一性・差異2である(・を無点としよう。)。即ち、見ての通り、差異が存在しているのであり、ただ、同一性が差異を同一性へと還元しようとする力学・暴力・当為をここに見なくてはならないということである。これが、二項対立、二元論なのである。そして、西洋近代において、これが、徹底したと言えるのである。いわゆる、近代的自我、近代的合理主義である。西洋の資本主義、植民地主義帝国主義オリエンタリズム、等々の権力・暴力・戦争主義の起源はここにあると言えるだろう。そう、ユダヤキリスト教的超越的同一性の帰結である。
 差異抑圧・排斥・排除・差別・隠蔽の力学は、西洋文明に内在しているのである。というか、ユダヤキリスト教的西洋文明に内在しているのである。アメリカ政府が世界に、身勝手に、おせっかいに、内政干渉的に、似非民主主義を押しつけるのも、この同一性暴力力学構造のためと言えよう。
 さて、結局、現象界、現象化においても、差異が存在していることがわかったのである。これはどういうことであろうか。それを検討する前に、本テーマのルサンチマンとの関係に触れよう。私はこれまで、ルサンチマンを、イデア界の共立共感性が否定された場合に発生すると考えたのである。しかし、以上の考察から、そうではなく、同一性構造からルサンチマンが発生すると考えた方が、合理論的である。同一性の意識が、差異である他者を意識したときに、生起するのが、ルサンチマン(嫉み、憾み、怨恨等)である。差異である他者が優れていればいるほど、同一性の自我はルサンチマンを感ずるのであり、その優れた差異である他者を排除あるいは横取りしようと暴力を振るうのである。(だから、西洋のオリエンタリズムも、優れた他者である日本文明やイスラム文明等を排除ないし横取りしようとするのだろう。日本人よ、心して読め!)ここで、文化人類学者ルネ・ジラールの模倣欲望を想起するが、それは、正しい学説である。他者を模倣し横取りするというのは、正に、同一性の自我意識の態度であるからである。また、ラカン鏡像段階の説であるが、これも同一性の構造の視点から説明できるだろう。
 さて、現象界においても差異が存在することの意味を考察しよう。この差異とは何であろうか。差異1・同一性・差異2の差異1と差異2である。これは、単純に見て、現象界において、差異と同一性とが並存しているということである。つまり、差異と同一性との分裂状態にあるのが、自我であると言えるだろう。これは、基本的には、誰もが感じるものである。他の誰でも無い「わたし」(差異)が存在し、また、同時に、他の人と同様に、働いて金を稼がなくてはならない「わたし」(同一性)が存在する。極く当たり前のことであるが、これが基本である。結局、資本主義においては、後者が主体になってしまう傾向があり、前者を抑圧し、忘失してしまうのである。それが、衆愚・愚民を産み出すのであるが。しかしながら、それは、近代的資本主義においてであった。今日、ポストモダン・エイジにあっては、前者の差異としての「わたし」の創造的発展が、資本主義に合致するようになっているのである。つまり、資本主義のポストモダン的転換があると見るべきである。(これは、私見では、ポスト資本主義である。差異共立共創資本経済である。)
 では、この差異は何であろうか。端的に言えば、私がこれまで述べてきた特異性であろう。私は、特異性が現象界においても存在していると、不連続的差異論の最初の時点から述べてきたのである。つまり、イデア界の不連続的差異=特異性が、現象界の差異として内在し、なんらか意識されているのである。換言すれば、現象界の差異とは特異性であり、特異性と同一性が現象界に存在しているということである。これが、現象界における差異の存在の意味である。結局、特異性(単独性)と同一性との闘いが現象界において発生するのである。これが、権力との闘いである。権力とは、同一性の原理にほかならない。
 ということで、解明されたとしよう。結局、ポストモダンとは、結局、特異性(単独性)を支点にした思想であることがわかるのである。いわゆる、相対主義は、付属する事柄に過ぎない。あるいは、イデア界的である特異性を志向する過程において生起する対極性・相補性であると言えよう。デリダ脱構築主義は、とりわけ、この相対主義、相補性に存すると言えるだろう。また、ドゥルーズ哲学の場合は、特異性をはっきり意識していたが、特異性(不連続的差異)と連続的差異との区別が為されず、混同していた面が強いと考えられるのである。この混同・混淆の原因は、メディア界自体ないしイデア/メディア境界にあると考えられる。つまり、ドゥルーズ自身、その領域で考えていたために、未分化となったと思われるのである。もっとも、ドゥルーズ自身、本来、三層性をもっていたのであるが、それが、充分に展開されなかった点もあるのである。やはり、ドゥルーズ自身、十分に、特異性の不連続性を理解していなかったのではないだろうか。自我において、個において、特異性とは、直接的には、直截には、心身領域、メディア界に存するのである。そこは、不連続性と連続性とが混淆・「習合」しているのである。だから、一般に特異性は、純粋に不連続化されずに、連続化作用を被ってしまうと考えられるのである。これが、ドゥルーズガタリの説く再領土化に相応するだろう。つまり、斬新で、創造的であったもの、脱領土化したものが、いわば、必然的に反動化するのである。それは、メディア/現象境界の同一性の構造に支配されるからだと考えられるのである。連続性を否定しない限り、差異は、メディア界から現象界へと変換して、同一性の構造に陥るのである。そう、思うに、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」、あるいは、大澤真幸ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論(プレモダン/モダン/ポストモダン、共同体/近代/ポストモダン原理主義/近代/リバタリアニズム)であるが、その理由として、今あげたことが考えられるだろう。つまり、この三幅対論は、差異連続主義のものであり、この連続性がある限り、両端は一致してしまうと言えるのである。この袋小路、アポリアから脱出するには、連続性の絶対的切断、絶対的不連続化が必要なのである、その理論を不連続的差異論は提起しているのである。そして、それの意味することは、イデア界の肯定である。つまり、プラトン主義、プラトニズムの勝利である。プラトンルネサンスである。近代は、ユダヤキリスト教的西洋文明は終焉したのである。ここで、新しいミクロコスモスの世界文明の時代が開けたと言えよう。