差異認識の形成方法:同一性→相補性→不連続的差異性

差異認識の形成方法:同一性→相補性→不連続的差異性


本件に入る前に、思惟と延長、精神と身体等の心身問題を整理しておこう。先に、現象界は、差異1・同一性・差異2(・は無の点)であり、同一性の意識が差異1と差異2を否定すると言った。即ち、差異1←同一性→差異2と表記できよう。否定される差異1、差異2とは、自己であり、他者である。そして、また、同一性は、内在的差異の排斥である。即ち、差異1☯差異2の排斥である。つまり、これまで述べてきたように、差異1☯差異2から差異1=差異2の変換が現象化であるから、差異の相補性が排斥されているのである。差異の相補性とは、心身性である。心身一体性である。量子・素粒子の世界である。☯が、言わば、光であり、差異1と差異2の連結が質料であろう。差異1☯差異2は、E=mc^2を意味しよう。そして、これが、現象化すると、差異1=差異2、差異1・同一性・差異2となる。この同一性自我が、《思惟》とすれば、同一化された差異が延長であり、身体である。つまり、ここでは、同一性によって、メディア界の差異相補性(ヌース理論で言えば、双対性)が排斥・隠蔽されている。
 さて、ここで、本論に入ると、差異認識とは、この心身性=差異相補性の認識にほかならない。身体的心=心的身体である。(スピノザの心身平行論であるが、心身論だと思う。)そして、この領域が、半田広宣氏が述べたように、西田哲学の場所の論理の生起する場所であり、プラトンのコーラに当たろう。また、『光の箱舟』で説明されるゲージ理論が適用される領域であろう。
 また、この領域の「精神」とは、これまで、私が述べてきた共感性に当たるのではないだろうか。差異1と差異2とが共感(共鳴)するのである。そして、差異1→差異2を極限値としてもつだろう。微分としての差異の発生である。差異=微分空間とも言えるだろう。
 さて、次が一番のポイントである。本件の核心である。このメディア界の差異相補性であるが、実は、連続であり、且つ、不連続であると言えよう。メディア界の「深層構造」において、そうなのである。即ち、イデア/メディア境界において、そのようなパラドクシカルな様相となるのである。つまり、特異性、単独性の問題である。差異相補性、メディア界において、確かに、共感性が生じる。しかし、差異1は差異1であり、差異2ではないのである。特異性、単独性としての差異1であり、差異2である。別々なのである。直立、独立、単立しているのである。つまり、差異相補性、メディア界は、特異性、単独性をも内包しているのである。この点が実に両義的なのである。ここにあるのは、先に述べた差異相補性の絶対矛盾的自己同一ではない。相補性、共感性であったり、特異性、単独性であったり、ゆらいでいる領域である。これは、正に、イデア/メディア境界の両義的領域である。イデア界であったり、メディア界であったりするのだ。あるは、イデア面であったり、メディア面であったりするのだ。そして、これは、ポスト構造主義の領域、ドゥルーズガタリの哲学領域である。存立(共立)平面と内在平面の両義性である。ここは、相補性というよりは、二元論(二項対立ではない)ではないだろうか。特異性であるか、相補性であるかのどちらかである。不連続性であるか、連続性であるかである。
 つまり、差異相補性のメディア界を肯定すると、特異性、単独性singularityが発生するのである。そして、ドゥルーズはこれを、キルケゴールニーチェを継承して、説いていたのである。ここにおける特異性は連続性を帯び、連続性は特異性を帯びるのである。この両義的二元論、これが、ポスト構造主義の行き着いた点であるが、袋小路になってしまったのである。
 さて、本件の問題に関係すると、差異認識の形成とは、第一歩は、差異相補性、心身性の肯定である。そして、第二歩は、特異性、単独性の肯定である。しかし、第三歩が絶対的に必要なのである。これで、絶対的差異に到達して、純粋な差異認識に達するのである。即ち、差異、特異性、単独性の不連続化である。相補性や共感性を断ち切るのである。それによって、純粋差異認識、純粋他者認識に達し、直立した差異の共立が可能になるのである。大事なのは、共感性を断ち切るということだろう。もっとも、共感性を無化するということではなくて、共感性の過剰性、主導性を無くすということだと考えられる。思うに、メディア界を内包・包摂したイデア界的認識となるのである。これは、当然、現象界の同一性の認識をも包摂しているから、イデア界(不連続的差異性)⊇メディア界(相補性)⊇現象界(同一性)という図式になる(尚、不連続的差異性は絶対的差異性とも言える)。これが、究極的な差異認識の方法である。
 結局、第一歩の差異相補性の認識が根本的に重要なのである。ポストモダン・エポックの現代、これを欠くと、明らかに精神病理を呈し、他者に凶猛的に暴力的になるのである。この差異相補性の形成であるが、これは、《詩》によって形成されるだろう。あるいは、すぐれた芸術によって。思うに、文学や芸術の意味はここら辺にあるだろう。この意味は、同一性言語自我が、一時的に、その同一性・二項対立の思惟を停止することで(比較:フッサールの判断停止・エポケー、現象学的還元)、文学や芸術を能動的に再現することで、自己差異、自己心身、想像力の世界を涵養するcultivateことができるということである。詩や文学や絵画や音楽は、余計のものと思われているが、しかし、自己差異認識の形成の第一歩として、必須なのである。