言語構造を不連続的差異論から分析する:試論:同一性自我・言語と差

言語構造を不連続的差異論から分析する:試論:同一性自我・言語と差異自我・言語


後で検討したいが、私の直観では、言語構造とは、メディア/現象境界である同一性構造に根差している。文型等要素を考えて、新しい言語構造論を立てたい。いわば、不連続的差異論的言語構造論である。あるいは、言語差異論である。


p.s. コメントに書いたが、言語には、同一性と差異とが混淆している。同一性の言語とは、現象界を意味する。差異の言語とは、メディア界、そして、イデア界を意味しよう。ということは、同一性自我は、同一性言語を使うのであり、差異言語を排除しようとするということだろう。差異言語とは、メディア界やイデア界的言語である。
 こう考えると、「コミュニケーション」の問題がよくわかるだろう。同一性自我・言語は、二項対立・二値的であり、差異自我・言語は、相補性・特異性・多元(多値)的である。ここには、2つの価値観があり、それらは、衝突するのである。近代とポスト・モダンは衝突するのである。というか、前者は、後者を排除しようとするが、後者は、差異を賦活し続け、脱同一性を言語行為するのである。
 この視点から小泉首相や政治の言語を考察すると興味・意義深いだろう。「改革」は、二項対立的であった。これは、同一性自我・言語である。偽メールも、真偽で、二項対立であった。問題が同一性の次元になっているのである。マスメディアも、二項対立的である。
 では、差異自我・言語である政治はあるのか。これこそ、真の民主主義の政治である。差異自我である政治家、差異言語を話す政治家が必要なのである。アメリカの政治も完全に二項対立である。同一性自我・言語は、戦争である。差異自我・言語が平和である。
 後で、さらに検討したい。これは、政治論として、斬新な視点ではないだろうか。
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■自我と他者の一致:二重の差異排除と言語構造

自我→他者
他者→自我

この二重同一性構造がある。
I am it.
It is me.
「である」という等価は、この同一性から発するだろう。では、「存在する」はどうだろうか。I am. I exist.
これは、同一性ではなくて、差異であろう。英語のbe動詞は、同一性と差異とが混淆しているだろう。
 では、一人称のIとは何か。それは、自我であり、本来、差異である。それが、同一性や差異として使用されるのだろう。
 では、I eat bread. とは何か。eatとは何か。動詞とは何か。名詞breadとは何か。「食べる」とは、差異としての心身が空腹を感じて、行なう行為である。だから、差異である。そして、パンであるが、それは、差異行為の対象であるから、おそらく、差異ではないだろうか。
 とまれ、後で、検討したい。