同一性構造自我とメディア界の関係:生成と消滅のサイクル;イデア界

同一性構造自我とメディア界の関係:生成と消滅のサイクル;イデア界の永遠回帰


同一性構造自我(二項対立的自我・近代主義的自我)は、唯一神的な自我優越・傲慢・尊大さのため、差異・他者を否定・無化せんとして、攻撃・暴力的である。
 ここで、私が問題にしたいのは、この同一性構造自我とメディア界のエネルギーの関係である。メディア界のプラスのエネルギーが、展開して、現象化を起こすと考えられる。プラスのエネルギーの極限化としての現象界の発生である。つまり、差異1→差異2において、この→を極限値の方向とすればいいのである。だから、差異2が極限値である。しかし、これは、同一性となった差異2である。もはや、差異ではないのである。ここには、プラス・エネルギーによるマイナス・エネルギーの排除があるはずである。即ち、

メディア界:−エネルギー/←排除・隠蔽/現象界:+エネルギー

である。この「←排除・隠蔽」が同一性構造・二項対立である。問題は、ここで、排除された−エネルギーが存するメディア界の意味である。メディア界は本来、差異相補性の世界であり、+と−がゆらぎ、均衡している世界である。この相補性を否定して、二項対立の現象界が形成されるのであるが、排除された−エネルギーと相補性のメディア界との関係はどうなるのだろうか。排除された−エネルギーは、いったい、メディア界に存するのだろうか。どうも、少し考え方が混乱しているのかもしれない。
 差異1⇔差異2が、メディア界の相補性である。即ち、差異1→差異2と差異2→差異1の双方向のエネルギーが均衡している世界である。そして、これが、現象化するというのは、差異1→差異2の極限値として差異2、差異2→差異1の極限値として差異1が、発生するということである。それも、同一性としての差異2であり、差異1である。即ち、同一性=差異2=差異1である。つまり、現象化において、排除されるのは、−エネルギーではなくて、エネルギー自体である。±エネルギー自体が排除されるということではないか。つまり、→を+エネルギーとし、←を−エネルギーとすれば、両者が排除されるということだ。あるいは、極性エネルギー(メディア・エネルギー)が排除されて、同一性エネルギー(現象・エネルギー)が発生すると言ってもいいのかもしれない。同一性エネルギーとは、もはや、エネルギーではなくて、力・物質力であろう。
 とまれ、このように考えると、現象化によって排除されるのは、メディア界のエネルギーということになる。そうすると、同一性構造自我によって排除されるものも、同様である。これまで、+エネルギーの展開によって、−エネルギーを排除すると考えたのであるが、そうではなくて、エネルギーが排除されて、同一性構造自我が形成されるということになる。そして、この同一性構造自我は、差異を否定・無化する暴力性をもつのである。典型がユダヤキリスト教であり、その帰結である西欧近代主義である。問題は、この差異排除であるが、エネルギーの極限化として現象化が発生するのであるが、この極限化自体は、能動的である。それは、積極的展開である。同一性への展開がなければ、自我は形成されない。メディア界のままでは、相補性の状態、差異1⇔差異2であり、自我と他者との区別が形成されないのである。ヌース理論で言う双対性がここには生起していて、未分化ないし不可分一体なのである。対極性・両極性、陰陽の世界である。それも、非対称な極性様相である。
 ということで、エネルギーの極限化としての現象化とは、同一性の自我の形成を意義があるのである。しかし、問題は、この同一性構造自我の様態である。あるいは、排除の問題である。つまり、現象化において、メディア界の差異相補性が排除されるが、それは、絶対的に排除されるのかということである。ここで、考えるべきは、エネルギーの極限化としての現象化であることであり、極限化ということは、微分積分の事象であるということであり、それは、極限値の問題であり、実相ではないということである。極限値として、現象があるのであり、プラトンの言う通り、仮象意外のなにものでもないことである。だから、現象界、同一性構造の現象界とは、内在的に、あるいは、超越論的に、メディア界を内包していると考えられるのである。つまり、排除と言っても、絶対的排除ではありえないのである。現象界において、同一性構造自我は、メディア界的相補性を内在させているのである。潜在的に内在させているのである。いわば、無意識・潜在意識としてそれは内在しているのである。メディア/現象境界は、相補性/同一性(差異相補性/差異同一)という図式は、内在・超越論的境界として理解すべきである。だから、同一性構造自我は、直感として、メディア界的相補性、差異相補性、差異性をもつのである。これが、本来的な現象界である。
 問題は、近代主義である。それは、内在するメディア界・差異相補性を、敵意をもって排除するのである。絶対的二項対立である。これは、これまで述べたように、ユダヤキリスト教的同一性構造の帰結であると考えられる。そして、現代、ポスト近代期において、メディア界のエネルギーが再賦活されている時代、近代的自我は、きわめて、反動性をもつようになると考えられる。言わば、狂気・精神病的同一性・二項対立主義となると考えられる。今日、近代的自我は、分裂症になるのである。一方では、絶対的二項対立があり、他方では、賦活された相補性があるからである。そして、後者を反動的に抑圧・排斥しようとするのである。これは、わかりやすい。重要な点は、近代的自我のもつ絶対的二項対立性である。本来の現象化は、相補性を隠蔽するに過ぎず、排除はしないのである。近代的自我のメカニズムは何か。同一性構造自我の徹底である。どうして、このような絶対化が生じたのか。デカルト哲学の問題でもある。コギトは、懐疑して、あいまいなものを排除する。このとき、メディア界的相補性、差異は排除される。あいまいさを否定する明晰さへの意志が、実は差異の否定になるのだ。デカルト哲学は、矛盾した哲学である。差異・特異性の哲学であると同時に、同一性中心主義の哲学である。
 問題は、相補性を排除する意志とは何かである。ユダヤキリスト教的同一性主義によるとは言えるが、その意味は何か。そう、敵対的同一性主義とは何か。それは、意識化の問題に関係するだろう。無意識を排除することである。確かに、同一性構造には、その排除性をもつが、現象界自我は、メディア界を内在しているのである。つまり、敵対的同一性主義とは、同一性構造主義であり、徹底した現象界主義である。メディア/現象境界自体は、本来、両義的であり、排除はない。そうすると、現象化において、二種類考えなくてはならないということになるのだろうか。
 確かに、現象化において、同一性構造が生まれ、その徹底化として、敵対的な同一性が生まれると考えられるかもしれない。思うに、各領域において、サイクルがあるのではないだろうか。イデア界、メディア界、現象界自体、それぞれのサイクルがないのか。イデア界の一回転、メディア界の一回転、現象界の一回転。あるいは、現象界の終点を考えるべきだろう。つまり、現象界は、メディア/現象境界を始点として、現象界の縁で終点となるのではないのか。図式化する。

Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F

AとBがイデア界の始点と終点、CとDがメディア界の始点と終点、EとFが現象界の始点と終点としよう。もっとも、終点とは折り返し点でもある。
こう考えると、最初の1/4回転において、実は、さらに1/4回転が発生すると言えるのではないか。つまり、ガウス平面に直交するZ軸の生起である。これが、ほぼ、Dとなるだろう。つまり、メディア界の始点はCであり、終点はDである。もっとも、BとCは、矛盾同一となる。そして、さらに1/4回転すると、現象界が発生する。それが、Fである。すると、3回の1/4回転があることになる。だから、3回目の1/4回転で、同一性構造の現象界が発生すると言うべきではないのか。差異を排除する同一性構造自我は、ここで発生すると言えるのではないのか。
 もし以上の考えが正しいならば、現象化は、3回目の1/4回転で発生し、それは、メディア界、差異を排除していると言える。そして、これが、とりわけ、西欧近代で発生したことになる。結局、《力》は常に生成変化しているのだから、反転する時が来るのである。近代主義が、Fならば、ポスト近代とは、F→Eとなるだろう。そして、D/Fのメディア/現象境界に達したと言えるだろう。この位置の典型的表現がデリダ脱構築主義だろう。それは、相補性であると同時に同一性であるという理論である。そして、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とは、さらに、D→C、そして、B/Cへと志向した理論であると言えるのではないだろうか。そして、不連続的差異論は、さらに、B→Aへと永遠回帰した理論と言えるだろう。
 さて、そうならば、ポスト近代とは、少なくとも、D/Eのメディア/現象境界の様相を意味するだろう。そして、何度も言及した大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」もこの境界の力学と言えるだろう。(ドゥルーズガタリの再領土化も同じことだろう。)しかし、今や、この領域に留まることはできない。何故なら、根元的な力、イデア界の力が、反転して、回帰へ向かっているからではないだろうか。つまり、A→Bがメディア界と現象界への志向ならば、今や、A←B の反転が起こったからではないだろうか。それは、−iの力ではないだろうか。最初は、+iの力で1/4回転したが、今や、それが反転して、−1/4回転したのではないだろうか。これこそ、イデア界への回帰だろう。そして、これが、また、これまで、死のエネルギーと呼んできたものの根源ではないだろうか。つまり、現代は、ポスト近代期である現代は、イデア界への回帰の力が作動・作用していると思われるのである。つまり、イデア界の−1/4回転(イデア界の反転・回帰)が発生して、メディア界、現象界それぞれ、反転・回帰期に入ったように考えられるのである。だから、ポスト近代期は、ポストモダンポスト構造主義のように、メディア/現象界やメディア界やイデア/メディア境界に留まることができないのである。純粋なイデア界への回帰を考えなくてはならないのである。それ以外は反動となるのである。ここで、これまで、+エネルギー、−エネルギーと言ってきたものを整理すると、前者は+1/4回転、後者は−1/4回転のことと言えると思う。
 以上、試行錯誤したが、後、問題は、イデア界の回転は、1/4回転しかないのかというようなことである。+1/4回転があるなら、+2/4回転はないのかということになる。直観ではあるように思うのである。だから、A←Bの反転であるが、それは、3/4回転、4/4回転を意味するのではないかという疑問がある。ならば、−1/4回転とは、本来、+4/4回転となる。+1/4回転で、量子が発生し、+2/4回転で、量子が消滅し、そして、+3/4回転で、量子が再発生し、そして、+4/4回転で、量子が再消滅するということかもしれない。だから、二種類の量子があるだろう。+iの量子と−iの量子である。2/4回転の相違があり、対称性をもつ。(もっとも正確に言うと、ズレがあるだろう。)
 私としては、−の回転をさせるよりは、1/4回転を倍数化して行く方が、整合的であるように思う。
 だいぶ、右往左往したので、後で整理したい。



p.s. 図式を補足すると、


Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F


第1の1/4回転: Aイデア界B
第2の1/4回転:Cメディア界D
第3の1/4回転:E現象界F


Aは、不連続的差異1/不連続的差異2/・・・/不連続的差異n


Bは、Aの極限として、不連続的差異1/不連続的差異2/・・・/不連続的差異n


Cは、不連続的差異1☯不連続的差異2☯・・・☯不連続的差異n


Dは、Cの極限として、不連続的差異1☯不連続的差異2☯・・・☯不連続的差異n


Eは、不連続的差異1・同一性・不連続的差異2・同一性・・・・・同一性・不連続的差異n


Fは、Eの極限としての不連続的差異1=不連続的差異2=・・・=不連続的差異n


このように図式化したとき、問題は、Eの同一性の意味である。これは、不連続的差異を同一化する志向性ということである。例えば、旧約聖書ヤハウェの様相と考えられる。それに対して、Fは、西欧近代、近代的自我を意味するだろう。デカルトのコギトの一側面の近代合理主義である。


p.p.s. 現代の同一性構造の「狂気」であるが、それは、以上の図式から見ると、わかりやすい。それは、E→Fという現象化の志向性をもち、差異を、 CやDを病的に排除するのである。C やDが賦活されているが、E→Fという同一性構造自我のために、CやDを排除してしまうのである。そのため、反動的に差異に対して、病的に敵意をもち、攻撃的に排除するのである。賦活されて内在しているメディア界を見ないように、メディア界や差異を病的に攻撃的に否定・無化・排除・排斥・隠蔽するのである。これは、先にも述べたが、パラノイア/分裂症的病理である。
 ところで、賦活されたメディア界、差異とはどういうことなのか。賦活させる原因は何か。それは、根源の力は留まらないのであり、回帰するということに求められるだろう。先に述べた、イデア界の回転である。永遠回帰である。ヘラクレイトスが述べたように、万物は流転する(パンタ・レイ)のであり、これは、様々な様相・事象にもあてはまるのだろう。常に生成消滅しているのである(祇園精舎の鐘の音)。これは、イデア界の回転、メディア界の回転、そして、現象界の回転に求められるだろう。サイクルがあるのである。だから、現象界の同一性で固定化することは、本来なく、固定化するのは、病的・病理である。(しかし、なんと、今日、近代的自我に固定した人が多いことか。)思うに、この永遠生成消滅のエネルギーに対して、自我形成するのが、人間の心身的成長であろう。これが、本来の叡知の一つである。かつては、古典教養や修行や経験がこれを担っていたが、今やそれらはなくてなってしまったから、生成消滅するエネルギーのダイナミクスに対して対応できずに、精神病となるのではないだろうか。近代的合理主義、近代的自我の敗北・悲劇である。
 差異の叡知、メディア界並びにイデア界の叡知を探究させるべき学問がなくなってしまったのだ。本来、哲学や神秘学や宗教等がそれらを担ってきたが、近代主義によって、それらが軽視・無視されてきたと言えるだろう。近代主義の傲りがあるのである。これである。近代主義の、他の知、叡知に対する傲りがあるのである。この傲りのために、近代主義は盲目となっているのだ。そして、自己喪失して、精神病理に陥っているのである。とりわけ、現代日本、70年代、80年代以降である。近代主義の傲りが、日本人の精神を占めたのだ。これは、結局、戦後近代主義教育の帰結であろう。唯物科学の帰結である。「魂」、「精神」である心身的意識を排除してきたのだ。人文科学の軽視・無視である(人文の主要な場であった都立大に対する、都知事による破壊・ヴァンダリズムを見よ!)。唯物科学とは悪魔の科学である。それを認識しないといけない。この唯物悪魔科学が主流になっているために、賦活された差異、メディア界、さらにイデア界を知覚・意識・認識することができないのである。小泉全体主義体制を作っているのも、この唯物悪魔科学である。「魂」が欠けているから、すぐ見ればパフォーマンス屋だとわかる者を信用するという超大愚を犯すのである。軽薄に生きているから、虚偽と誠実の区別ができないのである。生きている価値のないカス、クズ、ゴミどもだ。サブ・ヒューマンである。亜人間である。
 闇は深い。途轍も無く深い。叡知学が必要なのである。心身を涵養する叡知学が必要なのである。今日、明らかに、メディア・エネルギーが賦活されているのである。それも、−の方向、イデア界の方向の、いわば、死のエネルギーが賦活されているのである。これに対して、近代主義はまったく無力であり、狂気の元凶である。イデア界的ポスト近代主義が必要なのであり、それは、差異の不連続化以外にありえないのである。
 今日、叡知学としての哲学が必要である。もともと、哲学とは叡知学なのである。philosophyを哲学と訳した西周に呪いあれ! 叡知愛、叡知好がもともとの意味である。とまれ、現代日本の狂気の根因は、戦後近代主義にあると思われる。ポスト戦後近代主義である。これによって、日本は復活するだろう。


Let us overcome japan's postwar modernism.
Let us liberate ourselves from the prison or cage of materialistic modernism.
Let us be independent from irrational power.
Let us be new sophiopracical microcosmoses.
Cosmos of supreme idea is just emerging inside us to break up japan's ancient regime.