反感・否定について:反動的メディア界から能動的イデア界へ

反感・否定について:反動的メディア界から能動的イデア界へ


同一性構造自我ないし同一性自我構造は、他者差異を否定する。問題は、共感差異(メディア界)を形成しても、当然、そのメディア界的自我は、他者からの言動に対して、反動的反応をもちうる。つまり、共感性に対して、他者は、反感を呼ぶ態度を取るとしよう。すると、メディア界的自我は、反応として、反感的になるだろう。これは、苦痛である。嫌悪である。反感に対して、反感となる。だから、この反応は、やはり、反動的で、同一性的である。
 メディア界的自我のこの同一性的反応、現象界的反応は何であろうか。メディア界的共感的精神に対して、他者は、不躾な、不作法な態度をとる。ここで前者は、自身が傷つけられ、苦痛を感じて、その他者に反感を感じる。これは、ある意味では、当然である。しかし、問題は、その他者を憎むようになると、それはルサンチマン(怨恨)になるということである。あるいは、反動的態度を形成するようになることである。思うに、これが、凡人のあり方である。暴力には、暴力を。眼には眼を、である。ここで、イエス・キリストの教えが考慮されなくてはならない。罪の赦しである。しかし、これは、知性が欠落しているから、本当の教えになっていないと思う。つまり、罪を犯す他者は、傲りのある人間であることを認知する必要があるのである。これが、罪の赦しの教義では落ちてしまうのである。
 この問題に関しては、今は、簡単に、スピノザ哲学、『エチカ』を読めと言いたい。これは、キリスト教の教えをはるかに超えた叡知であると私は考えている。すなわち、スピノザの能動的観念である。これにより、ポジティブな観念が形成されるのである。積極的知性と言ってもいいだろう。少し整理すると、メディア界的自我は、現象界的自我である他者によって、反動化し、現象界的自我にもどる。これは、ドゥルーズガタリの脱領土化&再領土化の観念に通じるだろう。おそらく、現代の問題もここにあると考えられる。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」も、これと重なるだろう。そう、ポストモダンの問題である。
 ここで、問題になっているのは何なのだろうか。メディア界の問題である。これは、両義的で、イデア界と現象界の両面をもつ。しかし、今述べたように、これは、反動化して、現象界へと戻ってしまうのだ。それは、スピノザ哲学が欠落しているからと言えるだろう。では、スピノザ哲学とは何か。それは、メディア界=心身性を、能動・積極・肯定化するものである。つまり、メディア界を、現象界化へと反動化するのを抑制する哲学・叡知学であることである。つまり、スピノザ哲学とは、メディア界の共感的差異性を主体・能動・積極的に保持する哲学であり、その結果、差異を共感的差異から、特異性差異へと転換する働きをもつように思えるのである。つまり、共感的差異を保持するということは、共感性を生んでいるイデア/メディア境界の様相を保持することを意味すると考えられよう。つまり、スピノザ哲学は、メディア界的自我からイデア界的自我への移行への方法論をもっていると考えられる。スピノザの共通概念とは、思うに、メディア界的形相(エネルゲイア)に当たるだろう。そして、第三種の概念とは、理念・イデアに当たるのではないだろうか。スピノザ哲学は、イデア界へのコギト/スム哲学からの到達方法を表現しているのである。私は、これまで、スピノザ哲学は、連続性か不連続性かはっきりしないと述べたが、今の考察から、それは、基本的には、不連続性の哲学と見るべきであり、不連続的差異論の先駆者であると見ることができる。
 さて、以上から、真のポスト近代の理論が示せたと考えられる。言わば、初期ポストモダン理論は、反動化して、近代主義へと反動回帰するのである。しかし、スピノザ哲学(、あるいは、フッサール哲学)を内包した後期ポストモダン理論(不連続的差異論)によって、差異は、不連続化・絶対化され、近代的同一性構造自我を超克して、不連続的差異・絶対的差異であるイデアとなるのである。
 さて、最後に付加すれば、キリスト教の教えは、ルサンチマンになるではないかと思うのである。なぜなら、罪の赦しは、反知性的であるからである。知性を含む自我は、罪の赦しの非合理性に反発するのである。その知性の反発が、ルサンチマンになると考えられるのである。キリスト教は、必然的に、ルサンチマンを積もらせ、暴力的になるのである。ニーチェは全く正鵠を射ていたのである。精神主義は、反動化して、暴力的になる。ただ、能動的観念が、事象を積極・能動化して、イデア界への志向を保持するのである。